翌朝、僕はいつもより、かなり早く起きた。目覚めは最悪だった。
のろのろとベッドから出て部屋のカーテンを開ける。昨日の雨が嘘のように、晴れ渡った青空が広がっていた。
晴天をなんとなく恨めしく思いながらシャワーを浴びてくると、それでも僕の気分はかなりマシになった。
なによりも昨晩の決意が、まだ僕の心にしっかりと残っていた。
先に
彼女に電話をするのは、いつがいいだろう。あまり早くても悪い。しかし遅くなると
僕は時計の短針が8を指すまで待って、一件目の電話番号をスマートフォンにタップした。
もし違っていたら、素直にあやまろう。
残念ながら、一件目は違った。僕は電話口で頭を下げながら電話を切る。
二件目。
『はい、
僕は感謝した。この声は間違いなく国木田
「国木田花丸さんですか?」
『はい、そうですけど』
「あの、突然すみません。
『中井さん……』
彼女は言葉を切った。
もしかして忘れられてしまったのだろうか。あの本屋での出会いは、きっと彼女の記憶に残っている。そう思っていたのだけれど。
『おひさしぶりです』
心配する僕に、彼女は穏やかな声でそういった。よかった。僕はほっとして続ける。
「突然、ごめんなさい。いま、すこし話しても大丈夫ですか」
『Aqoursの練習に行かなきゃですけど、すこしなら』
「あの……津島さんのことなんです」
『中井さん』
国木田さんはもう一度、僕の名前を呼んだ。
彼女はそれきり、また黙ってしまう。
「国木田さん?」
『……ありがとう』
彼女の口から出てきたのは、僕には意外な言葉だった。
えっ、と驚く僕に彼女は続ける。
『その話をするには、ちょっと時間が足りないみたいです』
どういうことだ? それも、僕がなにかを聞く前に。
「それなら、あとでかけ直します」
『はい、そうしてもらえると、嬉しいずら』
もしかして彼女のほうにも、僕に話したいことが?
「あの、直接、会えませんか。国木田さんさえ、よかったら」
長くなりそうだし、そのほうがいい。通話では伝わらないこともある。
『マルは、かまいません』
「それじゃ……」
急ぐべきだろう。可能なら、すぐにでも会いたかった。
「練習は、今日は何時までですか?」
『今日は午前中で終わりです』
「午後、
国木田さんは意外そうに、はっと息をのむ。でもすぐにいってくれる。
『もちろんです』
お寺の場所を聞いて、時間を決めた。国木田さんから乗るべきバスと料金も教えてもらう。
またスマートフォンの電話番号も交換した。
「すみません。急に会いたい、なんていってしまって」
『ううん、マルも嬉しいです。それでは、お待ちしています』
また国木田さんは感謝の言葉を述べた。国木田さんがなにを話すのか。僕は気になって仕方がなかった。
・
夏休みの午前。
いつもならだらだらとすごすのに、気ばかりあせって今日はそんな気になれなかった。仕方なく僕は「マー」を読んだり、ネットを見たりして、なんとか時間をつぶした。結果的にはいつもと同じだったことに、自分でもすこし笑った。
宮坂からの連絡は来なかった。
たっぷりの余裕を見て、僕は家を出る。その途端、むっとした夏らしい熱気が僕を包んだ。
内浦に行くのは初めてだった。
僕が乗ったバスはのんびりと走った。市街地を出ると右手にときどき、海が見えるようになる。僕はこの先に待つことをなるべく忘れて、ぼんやりとそれを眺めた。
ただひとつの例外として、対向車にバスが来たときだけは目をこらした。しかし善子さんの姿は、僕にはとらえられなかった。すれ違うバスのなかの乗客が、ひとりずつ確認できるわけがないのだけれど、それでも僕の気分は沈んだ。
国木田さんに教えられたバス停で降りる。そこは海沿いで、潮の香りが僕の鼻をくすぐった。冷房の効いた車内から出て、すぐに汗が吹きだしてきたけれど、気温は沼津市街よりもいくぶん涼しく感じた。
海と山のあいだの狭い住宅街を通り抜けると参道の前に出た。国木田さんのお寺は住宅街よりもすこし高い、山のふもとにあるらしい。
階段と平らな部分が交互に続くコンクリートで舗装された参道を、僕は歩いた。
女の子の家に行くなんて、普段なら緊張するだろう。でも、行き先がお寺のせいだろうか。僕はまったくそれを感じなかった。
どこにいこうか悩み、住宅のほうへ向かう。
引き戸の玄関。その横にあるこれまた昭和の香りがする呼び鈴のボタンを押すと、どこかでチャイムが鳴った。
やがてぱたぱたと足音が近づいて、ガラッと扉が開いた。
「いらっしゃいませ、中井さん」
僕の顔を見て国木田さんがにこりと微笑んだ。白いTシャツにイエローのハーフパンツは、Aqoursのブログで見たことがあった。
「すみません、急に」
「いえ、ぜんぜん大丈夫ですよ。……上がっていきますか?」
どうしよう。そこまですることはないと思うけれど。
僕が悩んでいると、国木田さんはうなずき、いう。
「それじゃすこし、待っててくださいね」
彼女は僕を残したまま、またぱたぱたと、家のなかに消えた。
やがて彼女は二枚の座布団を手に戻ってきて、僕にそれを手渡した。
「悪いけど、ちょっと持っててもらえますか」
僕が受け取ると彼女はもう一度、家のなかにいき、今度はお盆を持ってあらわれた。お盆のうえにはグラスがふたつ、載っている。
「本堂のほうに行きましょう」
彼女は先に立って、僕を案内する。
本堂のなかではなくて
「ここ、とっても涼しいんです」
彼女がお盆を縁側に置く。僕がその両側に座布団を敷くと、彼女はぺこっと頭を下げた。
彼女の身振りにしたがって、僕は座布団に腰を下ろす。
彼女のいう通りだった。日差しは軒先と付近の木でさえぎられ、山からは涼しい風がかすかに吹いていた。僕は汗が引いていくのを感じた。
あちこちから聞こえる蝉の鳴き声も、BGMのようでむしろ心地よかった。
「どうぞ」
彼女の声で我に返る。
いただきます、といって僕は盛大に汗をかいたグラスを口にする。冷たい麦茶だった。
グラスを置いて僕はさっそく、気になっていたことを聞く。
「今日、津島さんは練習には……」
「はい、来てました」
うなずく国木田さん。
その
「津島さん、最近、練習を休んでたりしてませんか」
「そうなんです。中井さん、もしかして、それを心配して?」
「はい。Aqoursの練習に、支障が出てるんじゃないかなって」
国木田さんは微笑んだ。
「やっぱり。それならいまのところ、大丈夫ずら」
「そうですか」
「急いで来てもらって、申し訳ありません」
意外だった。もしかして心配するまでもなかったのだろうか。
僕は一口、麦茶をいただく。
国木田さんも同じようにして、ふうっと息を吐いた。僕に笑顔を見せながら続ける。
「善子ちゃん、塾のほうでは、がんばっているんですね」
その質問、というか確認は、僕には意外すぎて言葉に詰まる。
あれががんばっていると、いえるのだろうか。
「……それって、どういうことですか?」
そう聞き返してから、気づいた。もしかして。
僕は背筋が寒くなる。国木田さんにもそれは伝染したらしい。可愛らしい唇が、きゅっと引き結ばれる。
「だって、善子ちゃん。いつも塾にいくから休むって……。違うずら?」
善子さんは塾のコマ数を増やしていない。もしそうなら、さすがに僕には教えてくれたと思う。
「僕の知るかぎりですが……善子さんは、塾には週二日のはずです。そしてさらに、それもときどき、休んでます」
「えっ。善子ちゃんが……」
今度は国木田さんが絶句した。
わかってくる。善子さんは、僕を含めたみんなに――嘘をついて、実際には彼に会いにいっていたんだ。
「国木田さん」
「ずらっ?」
「善子さんが、その、男子と付き合ってること、知ってますか?」
「はい、最初に……お付き合いを始めたころ、いろいろとお話し、してくれました。『ヨハネと話があうのよ』って」
そのようすはありありと想像できた。
「でも、いつのまにか、彼のことはあまり話さなくなって……てっきり別れたのかなって、思っていたずら」
「それは、違います」
「中井さんは、知ってるんですね。善子ちゃんが、彼と会っていることを」
僕はうなずく。
たぶん、彼女に伝えなくてはならないことは、すべて伝えただろう。
ふうっと、明らかな
「善子ちゃんがそんなふうに、なっていたなんて。昨日は、善子ちゃんは塾に行ったんですよね?」
国木田さんの確認に僕は本当のことを答える。
「塾に来たのは、夕方からです。昼間は……」
なんの偶然かピタリと蝉の声が
国木田さんは地面を見て、ちいさく話す。
「マル、中井さんを心配させたくなくて、いいました。善子ちゃんが大丈夫だって」
うなずく僕。戻ってきた蝉のBGMにぎりぎり負けないくらいの声で、国木田さんは続ける。
「善子ちゃん、もともとすごくセンスがよくて、いまはAqoursの練習をお休みしてもみんなについていけてます。でも、このまま休み続けたら……」
その先は聞かなくてもわかった。
昨日の夢が不意に思い出された。
国木田さんは僕を見つめる。
「マル、今日、中井さんにお願いをするつもりでいました」
「僕に?」
「はい。善子ちゃんが塾で、どんな感じなのか聞きたいなって。塾ってそんなにたいへんなのかなって。そして、ちょびっとでいいので、善子ちゃんに塾を減らしてもらうように、頼んでもらえないかなって。でも……」
言葉を切る国木田さん。僕はそのまま待つ。
「お願いの内容を、かえなくてはいけないみたいずら。マル、人の恋路は邪魔したくないけど……。お友達に嘘をつかなきゃいけない恋が、善子ちゃんのためになるとは、とても思えないから」
そして彼女は、悲しそうに微笑んだ。
彼女の想いが、善子さんへの懸念が、伝わってくる気がした。
「国木田さんは、その……善子さんの彼氏に会いましたか?」
「いいえ」
僕が聞くと彼女は首を振った。
「でも、写真は、見せてもらいました」
「写真を……」
「マル、そのとき、驚いてしまって。てっきりお相手は中井さんだと思ってたから。マルの勘も鈍くなったなって」
それは嬉しい言葉だけれど、残念ながらなんの役にも立たなかった。
「中井さんは、会いましたか」
「直接は、会ってないです。でも、街中で見かけました」
「善子ちゃんは、幸せそうでしたか?」
僕は
「……たぶん、彼女は、彼女なりに」
こくり、と国木田さんはうなずく。
山からさっと風が吹いて彼女の髪を揺らし、彼女は髪をかきあげた。
「マルは、善子ちゃんにもう一度、考えてもらいたいと思います。彼のことを。マルたちのことを。そして、マルたちに嘘をつかなくてもいい恋を、してほしいなって」
僕も同感だ。
「中井さんは、これからどうするつもりですか?」
「僕は……もし、彼が、善子さんのことを想っていないなら、それを彼女に伝えるつもりです」
「彼が、善子ちゃんのことを想っていない」
国木田さんは繰り返した。
「中井さんは、そうお考えなんですね」
「はい。まだ詳しくはわかりませんが……。なんとなく、そんな気がするんです」
「もしかしたら……」
国木田さんはほんのすこし元気を取り戻して微笑んだ。
「善子ちゃんも、それに気づいているのかも。だから、マルたちに、嘘をついたりして」
そうならいいのだけれど。
「マルのお願いは、それと同じです。ぜひ、本当のことを、善子ちゃんに教えてあげてください。そうしたら、きっと、善子ちゃんは……」
考え直してくれるだろうか。
でも、真実に気づいてもらいたい。その願いは僕も国木田さんも同じだった。
「わかりました。僕からもお願いなんですが」
「なんでしょうか」
「僕が、善子さんに……その、本当のことを話すとき、同席してもらえますか」
「はい、もちろんです」
心強い答えだった。
僕は麦茶を飲みほした。
会ってくれたことと麦茶へのお礼をいうと、彼女はにこにこと笑った。
国木田さんは山門まで送ってくれた。
「今日は本当にありがとうございました」
「マルのほうこそ、わざわざ内浦まで、すみませんでした」
国木田さんは両手をそろえてお辞儀をした。僕も会釈を返して参道へ向きを変える。
歩き出そうとしたところで、国木田さんがいう。
「中井さん」
「はい」
「もし、彼が、善子ちゃんを……本当に好きだったら?」
僕の答えは、とっくに決まっていた。
「……そのときは、そのときです」
国木田さんはうなずいた。僕は背中を、押されたような気がした。
・
内浦から沼津へのバスに乗った。
しばらくして、スマートフォンが鳴り出す。宮坂からの着信だった。