「おい、どうするんだ、お前。写真、ばらまかれてもいいのかよ」
僕はようやく、
彼女の、裸の写真。
善子さんは顔面を蒼白にして、口元に手を当てて、いやいやをするように僕に首を振る。
もしかして。
僕は、もちろん、彼女を信じる。
僕は大きく息を吸った。胸の
「いいよ。好きにしてくれれば。ネットにでもなんでも、公開してくれ」
僕は自信満々でいい放った。
石田は
「は、裸の写真だぞ」
「それなら、僕にも考えがあるよ。君が飲酒をしている写真と、タバコを吸っている写真。それを君の高校に届ける」
僕は優しく、天使のように微笑む。
「いくらゆるい君の高校でも、さすがに顔がばっちりわかる写真だと、どうだろうね。停学か、退学か、わからないけど」
石田の顔が、今度こそ青ざめるのがわかった。
僕の
僕は威厳のある声になっていることを祈る。それこそ、天使長のように。
「……取引しよう。そうだな、君がその裸の写真と、SNSに投稿した善子さんの写真を消してくれたなら、僕も写真を消す」
しばらく誰も、なにもいわなかった。遠くの雷の音が、電車の音に混ざって聞こえた。
善子さんと
「わかったよ」
石田は小声でいった。
「そのかわり、お前も約束しろ。必ず消すってな」
「わかった」
僕はうなずき、続ける。
「それじゃ、スマホを出してくれ。まず、SNSから消してほしい」
別にどちらが先に消すか決まってはいない。でも、僕は勢いで押した。ありがたいことに、石田は素直にしたがった。
「ほら、消したぜ」
僕は投稿が消えていることを確認して、安堵の吐息をもらした。
善子さんにちらりと目配せしてから、石田にいう。
「次は、写真だ」
「……ねーよ」
「ん?」
「ねえっていってるんだよ、そんな写真は!」
石田は大声で叫んだ。
僕のにらんだ通りだった。きっとそうだろう、と思ってはいたけれど、善子さんの写真――まさに悪夢だ――が存在しなかったことに、僕は感謝した。
視界の端で善子さんがわずかに緊張を解く。
「くそっ、なんなんだよ、お前。それより、俺の写真、消せよな。約束しただろ!」
「ごめん」
僕はぺこりと頭を下げた。
実は、そんなものを見た覚えはなかった。でも、彼ならやりかねないと思った。それは、大当たりだった。
「僕も同じさ。そんな写真は、ない」
「お前、だましたな!」
彼は僕に詰め寄る。吐く息を感じられる距離だ。彼の右手が固く握られていた。
善子さんが、はっと息を飲むのが見える。
僕はこれが最後だと気合いを入れて、ぐっと胸を張り、にやりと笑ってみせる。
「その必要はなかったから。SNSで君の友人が公開してるよ。その写真を。さすがに僕はそれが誰か、教えてあげられないけどね」
もちろん、はったりだ。
「教えろ、誰なのか」
「ごめん、忘れた。よくわからないハンドルネームだらけ、だったから。ハッカーの友人に頼んで、探してもらおうか?」
石田がだらりと両手をたらした。
僕はぽつりと冷たいものが、体のどこかに落ちたのを感じる。
「あまりお友達を、待たせないほうがいいんじゃないかな」
「……くそっ!」
彼はいい放ち、走り去った。
・
ごろごろと雷が鳴った。ひとつ、またひとつと雨粒が路面を濡らす。
僕は大きく、息を吐いた。いまになって足が、がくがくと震えてくる。
「終わった……の?」
善子さんがささやくのが聞こえた。
そう、終わったんだ。この、
あっという間だった。
へたり、と善子さんが座り込んで、僕はあわてて駆け寄った。鞄から折り畳み傘を取り出して開く。
善子さんがしゃくりあげるのが聞こえる。
僕が善子さんに傘を差しかけようとすると、国木田さんが僕の手から傘を持っていった。
そして国木田さんは僕に、こくりとうなずく。
僕は彼女の意図を察する。
いいんだろうか、僕が。
でも、迷っていたのは一瞬だった。
僕は善子さんの目の前に座る。
そして彼女の上半身を、ぎゅっと抱きしめた。
ひっく、と彼女が息をすった。ぽつり、と僕の肩に温かいなにかが、こぼれた。
「う、ううぅ……」
彼女が声にならないうめきをもらした。僕はさらに力をこめる。
柔らかい、彼女のからだ。小刻みに震えている。
初めて彼女に会ったときに感じた、不思議な香り。それがいま、僕を包んでいた。
彼女は大きな声で、泣いた。
彼女が僕の体に、腕を回すのがわかった。
僕の失恋よりも、何倍も、何十倍も、
ぱらぱらと音を立てて、国木田さんの持つふたつの傘に、雨粒が降り注ぐ。
はっと気づいて、僕は彼女の首に手をやる。彼女は抵抗しなかった。
何度か失敗してから、留め金をはずした。
茶色の、革のチョーカー。
僕はそれを、片手をできる限り大きく振りかぶって、投げる。
それから僕は、彼女をもう一度、抱きしめた。
ずっと、抱きしめた。
彼女が泣き
雨が止むまで。
◆
雨が降っていたのは、たぶん
傘に当たる雨音がだんだんと
僕はそろそろと腕を解いた。
善子さんは僕を見て、いう。
「あなた、ひどい顔、してるわ」
僕もいつの間にか泣いていた。
「善子さんもね」
化粧が流れていくつもの筋を残していた。
「やだ、もう」
善子さんは顔をそらした。僕はゆっくりと立ち上がる。
国木田さんが彼女にハンカチを手渡した。
善子さんが落ち着いたところで僕は手を貸す。
「ありがと、
善子さんは僕に、微笑んだ。
それから僕と国木田さんは、善子さんを自宅まで送っていった。
彼女はずっと、なにもいわなかった。
彼女の自宅マンションのエントランスで、部屋まで送るという国木田さんにお礼をいい、僕はふたりと別れた。
僕はそこから
東の空に大きな虹が、かかっていた。
・
翌日、善子さんは
翌々日は練習に復帰したと、また連絡があり、僕はほっと一安心した。
また、僕はある日、例の喫茶店で
細かいことはもちろん、省略した。
「そういえば石田の裏アカ、消えてたな」
宮坂はそういった。僕はあれ以来、彼のアカウントは一度も確認していなかった。でもそうなるのは自然な気がした。
なにかお礼がしたいという僕に宮坂は、あとで食事でもおごってくれ、と話した。
それくらいなら大歓迎だった。
次の塾の日に、善子さんは来なかった。座席表にも名前はなかったから、事前に連絡して休んだようだった。
善子さんから僕への連絡は、なかった。
・
翌週。
僕は緑道を歩いて塾へ向かう。
西の空はきれいなオレンジ色に染まっていた。日中の熱気はまだまだ残っていたけれど、風にはかすかに涼しさを感じた。
塾の座席表を確認して、僕は胸をぎゅっと締めつけられる。そこに善子さんの名前があったから。
僕は窓際の席に座る。
裏通りの街灯がともった。
足音がして僕は通路へ振り返る。
「ひさしぶり、聡」
「うん、ひさしぶりだね、善子さん」
彼女の首元には、なにもついていなかった。
いったん帰宅してから来たのだろう、彼女は紺のセーラー服風の半袖ブラウス――
僕たちはしばらく、無言で見つめあった。
チャイムが鳴り、ほかの生徒と先生が相次いでやってきて、善子さんは席に座る。
授業中、善子さんの席から気になる話が聞こえた。これからの予定のこと。どうやら善子さんは塾をやめるらしい。
窓の外ではみるみるうちに空が青みを増して、そして黒へと色を失っていった。
チャイムが鳴って、善子さんは立ち上がると、丁寧に先生に挨拶した。
「いままでありがとうございました、先生」
「はい、津島さん。がんばってください」
先生が去って、僕は善子さんに話しかける。
「善子さん、一緒に帰ろうか」
「いいわよ」
善子さんはうなずき、付け加える。
「私も、そのつもりだったから」
僕たちはエレベータに乗る。このエレベータにふたりで乗るのも最後だと思うと、不思議な気持ちだった。
古いエレベータは最後にガクンと揺れたけれど、善子さんはもう、驚かなかった。
エントランスの扉は、僕が開けた。
外に出ると、授業を受けるわずかなあいだに空気はずいぶん涼しくなっていた。
僕たちは無言で緑道へ向かった。
・
緑道へ入っても僕たちは会話しなかった。
風がさやさやと吹き、枝の先に
街灯が善子さんを照らして、僕は最初に、この緑道を一緒に歩いたときのことを思い出す。
善子さんはそのときと同じく、美しかった。
でも僕は、そのときにはなかった別のなにかを、善子さんの顔に見出してしまう。
単なる美少女ではない。ちょっとかわった趣味の、恋をして、迷い、悩み、決断する、ひとりの生身の女の子としての善子さんを。
でもそれは、僕のほうがかわっただけなのかもしれなかった。
そしていま彼女の顔にあらわれているのは――なんだろう。僕にはわからなかった。
悲しいような嬉しいような、困ったような恥ずかしいような、複雑な表情の善子さん。
彼女は僕の視線に気づく。
「なによ?」
「いや、別に」
とても可愛いよ、と付け加えたくなった。でもそれはきっと、彼女の記憶を掘り起こしてしまうだろう。すくなくとも、いまはまだ。
「ねえ、聡」
「ん?」
彼女は両手を体のうしろで組んで、ぽつぽつと話す。
「その、この前は、どうもありがとう」
「ああ、うん。たいへんだったね」
「そうね。そういうしか、ないわね」
彼女は唇を歪めて微笑んだ。
「あの日、聡がいてくれなかったら、私……」
どうなっていたのだろう。想像したくもなかった。きっとそれは彼女も同じだと思う。
だから僕は彼女の言葉をさえぎる。
「僕はあの日、あそこにいた。それでいいじゃない」
「それは、そうだけど。私、あなたに……悪いことをしたわ。すこし考えれば、わかることだったのに」
善子さんに迷惑をかけられたなんて、僕はすこしも思っていなかった。
「僕はいま、善子さんがここにいてくれるだけで嬉しいよ」
僕の前から消えてしまったり、しないで。
「……ありがと」
彼女は僕を見つめて、そういった。
視線を前に戻して善子さんは続ける。
「聞いてたかもしれないけど、私、塾はやめることにしたわ」
「うん、そうみたいだね。学校の授業のほうは、もう大丈夫なんだ」
「ええ。だからいろいろ考えたの。これからどうしようって」
「Aqoursに集中したい、とか」
「それもあるわ」
今度は前より、いくぶんすっきりとした表情で、善子さんはまた微笑んだ。
「今度、ラブライブの予備予選があるの。そのあとは地区予選。だから忙しくなるわね」
「うん、僕も楽しみにしてる」
「どうして聡が楽しみにするのよ?」
首をかしげる善子さん。僕も微笑んで答えた。
「だって僕は、Aqoursの、善子さんのファンだから。最初っから」
「もう。なによ。調子狂うわ」
善子さんは頬を赤らめて顔をそらした。
交差する道路を自動車が通過するのを待って、渡る。
県道まで、ちょうど半分だ。
緑道の舗装が石畳にかわった。
かつかつと善子さんの足音が響く。
そこに、彼女の声が重なる。
「……ねえ、これからも、連絡していいかしら」
善子さんの言葉が、僕の胸にゆっくりと染み込んでいった。
僕の胸の
「うん、そうしてくれると嬉しいな」
善子さんはうなずく。
「僕からも、連絡していいかな」
「もちろんよ」
彼女はおずおずと微笑んだ。
車の音が大きくなってきた。
県道に出る直前の銀色の車止め。
僕は鞄を肩にかけて足を速める。そのまま駆け足になって、車止めに両手をついて、飛び箱のように飛んだ。
運動神経のまったくない僕だけれど、着地はきれいに決まった。
くるっと僕が振り向くと、善子さんがにこっと笑う。ぽんっと善子さんが鞄を僕に放り、僕はキャッチした。
善子さんはたたっと駆け出して、同じように、車止めを飛んだ。僕よりも、ずっと美しく、飛んだ。
ふわり、とスカートが舞う。
なんてきれいなんだ、と僕は思う。
大きな襟が広がっただけだろうか。いや、たしかに僕は見た。
善子さんがまとう、白い、天使の羽を。
次話、エピローグにて完結予定です。