数日後、僕は
僕は窓へ向けていた視線を通路側に戻す。
隣には、
「なによ?」
「いや、別に」
深い紫色、ドレス風のワンピースを着た善子さん。肩回りとスカートの
リボンやフリルは若干装飾過多な気もしたけれど、とても可愛らしかった。
夏休み、内浦に向かうバスはさすがに混んでいて、僕たちは隣り合わせに座ったのだけれど、彼女との距離が近くて僕は落ち着かなかった。
なにしろ体温まで感じられるのだから。
冷房が効いた車内で、僕の体はずっと
僕はもう一度、車窓を眺めた。そして今朝、家を出る前にかかってきた電話を思い出す。
『今回のことで、マル、どうしてもお礼をいいたかったんです。ありがとうございました、
国木田さんは挨拶を終えてそう話した。
「そんな……お礼をいわなきゃいけないのは、僕のほうです」
『でも、中井さんがいなかったら、マル、どうしていいか、わからなかったと思います』
「そんなことは……」
たぶん国木田さんなら、いつか必ず、善子さんを彼の手から救い出していただろうと思う。でも、それは取り返しのつかないくらい、遅れていた可能性は否定できない。その点で僕は、誇ってもいいのかもしれなかった。
逆に、国木田さんがいなければ、善子さんの説得に失敗していたかもしれない。その場合のことも、考えたくなかった。
「僕ひとりだと、もっと悪い結果になっていたかもしれません。だから、国木田さんのおかげです。ありがとうございました」
『そういってもらえると嬉しいです。でも、マルはやっぱり、
国木田さんはくすくすと笑った。
彼女は僕が今日、善子さんと、内浦で会うことを知っていたのだろうか。
カーブでバスが傾いて、僕はあわてて善子さんに肩が触れないように、体を支えた。
・
僕たちの会話は最初、ぎこちなかった。でも、ここ最近のこと――彼女と話す機会のなかったこと、たとえば最新刊の「マー」について――を話すうちに、それも自然に消えていった。
内浦に入って、僕たちはバスを降りる。
天気は快晴だった。
善子さんの案内で、僕たちは内浦をまわった。
こじんまりとした海水浴場。
「最初に
彼女はAqoursメンバーとのちょっとしたエピソードを
彼女の言葉の
彼女のかよう
Aqoursの
そして伊豆・
内浦は、いいところだった。
僕は善子さんとのデート――そう、デートだ――を
すこし足をのばせば
最後に僕たちは「
「私は普通にショートケーキが好きだけど、おすすめは『みかんどら焼き』みたい」
そういう彼女に僕はショートケーキとアイスコーヒーをふたつずつ頼んだ。
「実はね、今日のプラン、
席について、善子さんはすこし恥ずかしそうに話した。
「そうなんだ」
なるほど、と思う。だから国木田さんは僕に電話をかけてくれたんだ。
「彼女に、感謝しなくちゃだね」
もちろん国木田さんに話した通り、善子さんが――
「今日はとても、楽しかったから」
「そ、そう。それはよかったわ」
善子さんは頬を染めてぷいっと脇を向いた。そのようすが可愛くて、あらためて僕の胸はときめく。
僕はそれをごまかすためにコーヒーを飲む。つられるように善子さんもストローを口に含んだ。
「にがっ!」
僕はくすりと笑う。
「ミルク、入れればいいのに」
「ふっ、黒は堕天使のアイデンティティー」
「……そうだったね」
かわらない彼女に、僕は嬉しくなった。
それから僕たちはまた、色々な話をした。
もちろん、僕たちはもう、あの日の話はしなかった。
・
適当なところで僕たちは切り上げた。
内浦から沼津への終バスはかなり早いらしい。
帰りのバスは行きよりもずっと
バスは
途中、僕のスマートフォンにメールが届いた。
善子さんに断って開くと、国木田さんからのメールだった。
『今日はありがとうございました。善子ちゃんをよろしくお願いします』
そこにはそう書かれていた。すっかりお見通しらしい。
もちろん、善子さんを放っておくつもりなんて、さらさらなかった。
沼津市内で僕たちはバスから降りる。
このまま彼女と別れたくなかった。
善子さんに出会えた奇跡を、終わらせたくなかった。
彼女があの塾を選んだこと。あの日、彼女があそこにいたこと。たまたま「マー」の発売日だったこと。「世界は不思議に満ちあふれている」――まさにその通りだ。
「ねえ、善子さん。すこし遠回りになるけど、緑道から帰ろうか」
「私は、いいわよ」
遠回りになる、なんてものじゃなかった。むしろ逆方向だ。でも、善子さんは同意してくれた。
緑道に入ると、先日とはまた違う、ピンク色の大輪の花が出迎えてくれた。
僕たちはゆっくりと歩く。
西の空の最後の残照が消えて、かわりに月光が優しくあたりに満ちていった。
ちらり、と僕は善子さんを眺める。美しい横顔とすらりとした手が、白く、
涼しい風が、虫の声とともに僕たちのまわりを流れる。
僕は前を向いたまま、彼女の手を握った。
彼女の手がぴくりと動いて、ぎゅっと握り返してくれた。
そこから伝わる熱で僕の胸が温かく――いや、熱くなった。
ベンチが置かれた、すこしだけ歩道が広くなったところで僕は立ち止まる。
「善子さん」
「なあに?」
「笑わないで聞いてほしい」
「なによ、あらたまって」
善子さんはあきれたように
瞳に街灯の明かりが反射して、まるで星のようにきらめく。
その瞳に吸い込まれそうになって、僕は急いで続ける。
「急にこんなことをいうのを、許してほしい。君のことを考えたら、いまじゃないほうが、いいのかもしれない」
「へんなこと、いうのね」
善子さんのまつげがかすかに震えているようなのは、気のせいだろうか。
「でも、僕のわがままを許してほしい」
「それで、なんなの?」
僕は大きく息を吸い込んだ。
「僕と、付き合ってくれないかな。善子さんのことが、好きなんだ」
「わたしの……こと、が?」
善子さんは信じられないというように口元に手をあてた。
「うん、君のことが」
僕は迷いなく、即答した。
「こんな……堕天使で、ちょっとへんなところのある、私が?」
「うん、そこをふくめて、善子さんのすべてが」
胸の
雲が月にかかって、緑道の闇が濃くなる。
しかし、彼女は、うなずいてはくれなかった。
半歩あとずさって、善子さんはちいさな声で、ささやくようにいう。
「……けがれてしまった、私を?」
善子さんの言葉は僕をしたたかに殴りつけた。僕はよろけそうになって、ぐっと脚に力をこめる。
彼女と石田がどんな関係だったかは、わからない。
でも、だから、なんだっていうんだ。
「けがれてしまったなんて、思わない」
僕は善子さんに近づいて、両手で彼女の手を取る。彼女の手は冷たかった。
「善子さんは僕にとって、いつも、堕天使じゃなくて、天使だったから」
「堕天使じゃなくて、天使……」
僕はうなずいた。その手を、心を、温めてあげたいと思う。
黒い、夜空のような髪を背景に、善子さんは僕を見つめ、唇をかみしめて――首を振る。
「ダメよ。私……彼と契約をしてしまったから」
彼女は髪で隠すように顔をそらして、鼻をすすった。
「契りを、結んでしまったから。天界の、契約を」
僕の体は、僕の意に反して、びくりと
それは――僕の想像通りの意味なのだろうか。たしかめるのが、怖かった。でも、たしかめずにはいられなかった。
「契約?」
僕は思わず、聞いてしまう。
もしそうだったとして、僕は善子さんのことを――。
答えは、明らかだった。
いま、目の前にいる女の子。肩を震わせている僕の天使。彼女が、いまここにいる。
僕は、それだけでよかった。
聞いてしまったことを、僕は後悔した。
でも、取り消すことはできなかった。
善子さんは――こくりとうなずく。
僕の背中から風が吹いて、ざざあっと
「そうよ。私、彼と……キスをしてしまったもの。誓いの、キスを」
僕は善子さんをぎゅっと抱きしめる。
「きゃっ!」と彼女が、可愛らしい声を出した。
一瞬、善子さんはからだを硬くしたけれど、すぐに力を抜いて僕に身をあずけてくれる。
細くて柔らかい彼女のからだ。その感触が僕の腕にしっかりと伝わった。
「だから、私、ごめんなさい」
さらにいおうとする彼女に、僕は耳元でささやく。
「堕天使ヨハネは契約を結んだのかもしれない。でも、善子さんは?」
「えっ……」
「僕は、善子さんが好きだ。もちろん、ヨハネだって大好きだけれど。善子さんに、ヨハネを忘れてほしい、とはいえない」
「それはそうよ。私はヨハネだもの」
すねるような口調。彼女の香りに酔いながら僕は話す。
「そうだよね。それなら、僕が善子さんと契約をしたなら、ヨハネの契約は
「上書き?」
「うん。だって、ヨハネは善子さんの一部だから」
善子さんは両手で僕の体を押した。すこし距離があいて、彼女は僕を、まっすぐに見つめる。
「……お、面白いこと、いうのね、
ふたたびあわられた月の光に、彼女の肌が白く輝いた。
僕はヨハネではなくて、善子さんにいう。
「善子さん……君のすべてが好きだ」
善子さんが両手を、僕の体の後ろにまわす。
僕はもう一度、彼女を抱き寄せる。距離が、縮まる。
「だまされても、いいわ」
善子さんは目を閉じて、わずかに顎を上げた。僕も目を閉じる。
そして、僕は彼女と、唇を重ねた。
契約を上書きするために。
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