夏休みまであとすこしの、ある日の夜。
僕のスマートフォンに
僕は不思議に思いながらメールを開いた。
そこには短い文章で、明日、塾で会いたいこと、大事な話があることが書かれていた。
僕は「大事な話」という言葉を目にして、どうしても考えてしまった。もしかして告白というものではないだろうか、と。
いや、ひょっとしたら期末テストの結果が散々で、助けを求めたいのかも。
ただ、善子さんはもともと、かなり頭がいいようだった。塾に
もしかしたら、塾はもうやめる、ということかも知れなかった。
だから僕はその日、期待半分不安半分で、いそいそと塾へ向かった。
授業の前に話すのはふさわしくないと善子さんは考えたのだろう。会ったときには彼女は、いつものように挨拶しただけだった。
でも付き合いの長くなった僕にはわかった。彼女は間違いなく、どこか嬉しそうだった。
授業が終わり、僕はどうしても気になって僕から先に話しかけた。
「善子さん、大事な話って、なにかな?」
「ああ、それね」
善子さんは目をそらした。
「ここだとなんだから、帰り道、話しましょ」
僕はうなずいた。
エレベータの「開」ボタンを押す僕に、彼女はいつものように微笑んでくれた。
エントランスから外に出ると、思ったよりも冷たい、やや強い風が吹いてきた。空は雲に
天気予報では梅雨明け間近の不安定な天気、雷雨に注意、ということだったので、僕は折り畳み傘を用意してきたけれど――。
「善子さん、傘、持ってる?」
「ええ、大丈夫よ」
彼女もわりとそのあたりの準備はいいようだ。ただ、肝心の傘が壊れていて開かなかったりといった不運には、よく見舞われるらしい。
彼女はすこしスカートを気にしながら歩いた。見てはいけないと思いながら、僕はどうしても気になって仕方がなかった。視線はなるべく、そちらに向けないようにした。
「でも、急にメールが来てびっくりしたよ」
「ごめんなさい。でも、
「そうなんだ。なんだかわからないけど、嬉しいね」
善子さんはにこりと微笑み、僕の期待は大きくなった。もうすこし彼女の言葉に注意していれば、不安のほうが大きくなったはずなのに。
緑道へと曲がった。
ところどころの広葉樹が白くて小さな花を、まるで葉っぱ全体にまき散らしたようにいくつも咲かせていた。
「それで、話って?」
気になって仕方なくてすこし早口になってしまった。
「実はね……」
善子さんは、ぽっと頬を染めた。それは僕の期待をさらにふくらませた。
でも、その期待は、次の彼女の言葉で吹き飛んでいった。
「あのね、か、
彼氏? それは僕のこと?
そう聞きたくてたまらなかった。
でも、僕ではない。
そんなことはわかっていた。
木々の
彼女は僕の反応を待っていた。
それでも僕は
「彼氏って、誰?」
「それは、さすがに秘密よ」
善子さんは頬を染めたままぽつりといって、顔をそむけた。
美しい横顔。そこにはなにか、いままでと違うものがないだろうか。恋する乙女の、それが。
「でも、会って
「どこで、出会ったの?」
聞きたくない。聞きたくないのに、聞かずにはいられなかった。
「ほら、商店街にあるでしょ。スピリチュアル・グッズのお店」
「うん、知ってる」
「そこで出会ったのよ。話しかけられて、私、思わずいつもの調子で……その、答えちゃったんだけど、彼はすこしも笑わずに聞いてくれたわ」
彼女は
「私、自分のこと……すこし嫌いになってた。でも、
彼女はじっと僕の目を見つめた。僕はかろうじて目をそらさずにうなずいた。
「……別に完全に否定しなくってもいいんだって。それは、堕天使とかサタンとか、ありえないことかも知れないけど。それをわかってさえいれば、別に悪いことじゃないんだって」
「うん、そうだね」
「隠さなくてもいいんだって。だから、彼に出会えたのは、あなたのおかげね。ありがとう」
僕は足を止めた。すぐに善子さんも立ち止まり、不思議そうに僕のほうを向いた。
ごおっと音を立てて、風が強く吹いた。
「……それで、彼は……魔法とか魔術について、どう思ってるのかな?」
「いろいろ詳しいわよ。なにしろ初めて、私の話を理解してくれた人なんだから」
「そうじゃなくて」
思ったよりも語気が強くなってしまい、善子さんはびくりとした。僕は無理矢理、笑顔を浮かべて続けた。
「……実在については、信じてるのかな」
善子さんは今日初めて、不安そうに眉をひそめた。
「それは……わからないわ。わからないけど……だから、どうだっていうの。話が通じるっていうのは、それだけで素晴らしいことなんだから」
「それはそうだけど。でも……」
でも……なんだ?
善子さんがどんな選択をしても――
押し黙った僕に彼女は挑発するようにいった。
「科学的とかどうとか、関係ないわ」
僕の胸に、その言葉は深く突き刺さった。
僕が呼吸もできずにいると、突然、空が光った。彼女の顔が白く浮かび上がる。そこにあるのは――後悔、だろうか。
また闇が戻ってきて、一瞬ののち、雷鳴がとどろいた。
「きゃっ!」
彼女の小さな叫び声が僕を現実に引き戻した。
「大丈夫?」
「え、ええ。大丈夫よ。ちょっと驚いただけ」
雷にくらべるとずっと頼りない街灯の光のなか、善子さんはうなずいた。
ぽつぽつと大粒の水滴が落ちてくる。雨の降り始めの、あの独特の匂いがした。
「とにかく、おめでとう、善子さん」
僕は薄暗い街灯と降り出した雨が、細かい表情を消し去ってくれることを期待して、いった。
「ありがと。あなたなら祝福してくれると、思ってたわ」
彼女の声には、ほっとしたような気配がにじんでいた。
・
そのあと、彼女と僕はふたりとも傘を開き、それ以上、言葉を交わさなかった。
雨はすぐに叩きつけるような本降りになった。小さな折り畳み傘ではとても間に合わず、足元はどんどん濡れていった。
それは善子さんも同じだった。でも僕はどうしても、彼女を
県道まで出て、ようやく僕は彼女と目をあわせた。
「それじゃ、善子さん。またね」
「ええ。さよなら」
善子さんは短くいって僕に背を向けた。
『雨、ひどいけど、家まで大丈夫?』
その
そんな自分の
僕は県道の歩道を大股で歩いた。
雨はいっこうに弱くならず、ときどき車道から水しぶきも飛んできた。濡れた制服のスラックスとシャツが体に張りついて、気持ち悪かった。
善子さんに彼氏ができた。僕ではなくて。ほかの誰かと彼女が、付き合うってことだ。
なにが悪かったんだ。彼女の言葉に――魔術とか魔法とかに、共感してあげなかったから? そうかも知れない。でも、そんなことをして彼女は喜ぶのか? 僕はそうは思えなかった。
しかし、現実は違った。
例の彼がどんな人かはわからない。でも、実際に彼女は彼を選んだんだ。
なにが違ったんだ。彼と僕と。現実との折り合いの付け方か? それとも単に彼女のことを、彼女の身になって考えられなかっただけか? 彼女はそれが嬉しいのか?
僕には、わからなかった。
気がついたときには、僕は自宅マンションのドアの前にいた。なんの役にも立たない傘を、右手に差したまま。
鍵。鍵を出さないと。
どこにしまったか、思い出せなかった。
鞄のなかをゆっくりと探し、結局、ポケットにあった鍵で僕はドアを開けた。親が帰ってきていないのがありがたかった。
親に怒られるな、と思いながら制服を脱いで、熱いシャワーを浴びた。
蛇口をひねってシャワーを止めて、僕はようやく、水の音から解放された。いつのまにか雨が
部屋着に着替えて自室へ入った。
本棚に並んだ、赤い背表紙。大量の「マー」。僕にはそれが、今日に限って、血の色に見えて仕方なかった。
・
教室で善子さんを見たときには、キリキリと胸が痛んだ。僕はそれを押し殺して、彼女に微笑んだ。彼女もにこっと笑った。
帰り道。善子さんと一緒の帰り道。ひとりで帰る、という選択は、僕には取れなかった。
彼女は僕にいままで通り接してくれた。嬉しくもあり、悲しくもあった。
超常現象や魔法のことを話して、僕は一瞬、前回のことを忘れかけた。
でも、それがいけなかったのだろう。彼女は、彼女にとっては自然に、彼のことを思い出したのだ。
「そういえば、今度、PVに使おうかと思っていた台詞。格好いいって、彼にほめられちゃったわ。聞きたい?」
「……うん、ぜひ」
彼女は微笑んでうなずき、こほんと可愛らしく咳払いをしてから、一段低い声で話し始めた。
「感じます。精霊結界の損壊により、魔力構造が変化していくのが。世界の
僕には、その良し悪しはわからなかった。でも、世界の趨勢がそんな簡単に決まるなら苦労はしないな、そう思ってしまった。
だから善子さんは、文章と文脈を理解してくれる彼ができて、幸せなのだろう。そう思った。そう、思おうとした。
・
夏休み直前、Aqoursは九人になっていた。Aqoursがゲストとして呼ばれた
新しく加入した三人の三年生もすごい子ばかりで、Aqoursの魅力は
夏休み、塾のコマ数を増やすこともできたけれど、僕はそのままにした。部活もあるしそこまでの必要性は感じなかった。
それは善子さんも同じだったらしい。
彼女は会うたびに、彼の話題を無邪気に僕にふった。でも、僕はようやく笑顔のままでこたえられるようになっていた。
ただ、善子さんはときどき、塾を休むようになった。僕はきっと、Aqoursの練習で忙しいのだと思っていた。
◆
善子さんのいない、塾の教室。
僕は問題を解き終えて、また外を眺める。
外はずいぶん暗くなって、すこし前に降り出した冷たい雨は
僕が見ているうちに街灯がひとつ、またひとつと、ともる。
僕は、街灯の光の傘のなか、小さくなっていく善子さんの背中を思い出した。
そして僕は、善子さんがそのまま、二度と帰ってこない気がして――あわてて頭を振り、イメージを追い払った。
そろそろ授業も終わる。緑道から帰ろうか――いや、今日は別の道にしよう。
ひとりで歩く緑道は、寂しかった。特にこんな雨の日には。