気づいてしまうと、すぐにでも塾に行きたくなった。
適当なところで、僕は宿題をやり残していたと
「釣りは?」
「いいよ。取っておいてくれ」
どうせたいした額ではない。宮坂はうなずいて、また本に目を戻した。
アーケードの外に出ると、西から黒い雲がもくもくとわいてきていた。今日は一日中、晴れの予報だったのに。僕は急ぎ足で塾へ向かう。
雲が夕日を隠すと急にあたりは暗くなり、冷たい風が吹いてきた。
あわてても仕方ないのに、乗り込んだビルのエレベータの遅さが気になって仕方なかった。階段で
前の授業は終わっていなくて、僕は仕方なく自習室で待った。
チャイムとともに教室へ行き、前の生徒と入れ替わるようにして席につく。
授業が始まっても、
今日もサボりか。
なにも考えられなくなった僕の頭を、先生の言葉が通過していく。
「遅れてすみません」
――それは、僕にはまさしく、天使の声だった。
はあはあと息を切らせて、善子さんが駆けこんできた。
思わず見つめる僕に、善子さんはきまり悪そうに微笑む。
とても可愛らしい彼女の――私服姿。僕と同じ。僕は今日、部活を休んだ。
黒く光沢のある生地で
そして首には、チョーカー。僕の想像とは違って、黒ではなくて茶色の革製だった。銀の留め具が、きらりと輝く。
僕はもう、それ以上、見ていられなかった。
落ち着かない授業時間はじりじりとすぎていった。
なにか彼女にいわなくてはならない。そう思った。
窓の外では、みるみる雲が厚さを増していった。授業が終わるころには雨粒が激しく音を立てて、板ガラスを叩いていた。
また、雨だった。
チャイムが鳴り、先生が「今日はここまでにします」といって
僕は素早く勉強道具を片付けて立ち上がり、善子さんに話しかける。
「善子さん」
「なあに?」
「このあと、すこし話せるかな」
「もちろんいいわよ」
なにもかわったところなどない、というように、ツンとすまして彼女はうなずいた。
外は雨。僕は自習室に彼女を誘う。それが意外だったのか彼女は眉を上げたけれど、なにもいわずに僕についてきた。
自習室は空席が目立った。
一番端の席に僕は座る。善子さんは隣の席から椅子をすこし動かして、微妙な距離に腰を下ろした。
「なあに、わざわざ?」
善子さんは小声で話した。仕切りもあるのでほかの生徒に話を聞かれる心配はないだろう。
「似合うね、その服」
「あ、ありがと」
僕の言葉は予想外すぎたのだろう、彼女はびっくりして、でも嬉しそうに微笑んだ。
「彼が選んでくれたのよ」
僕の心の傷口に塩をすりこむ言葉だった。
「そうなんだ」
あまり趣味はいいとはいえないね。そう口元まで出かかって、なんとか飲みこむ。
「彼、やっぱり『マー』とか読むの?」
僕は石田のことを念頭に置いて聞く。善子さんは首を振った。
「最近は読んでいないみたい。あんな子供っぽいものって」
「子供っぽい、か」
僕は繰り返して、その言葉をかみしめた。彼女はどう思っているのだろう。いつもの表情に戻った彼女からは、なにもわからなかった。
僕はいよいよ本題に入る。
「今日は
「や、休みよ。休み。それにほら、雨だし」
あわてていう善子さん。彼女はとてもわかりやすかった。
僕はそんな彼女にすまないと思いながら言葉を
「この前、善子さんを見かけたよ」
「えっ?」
「塾が、休講になった日」
「あれは……」
彼女はしばらく無言だった。
雨の音が聞こえて、そこに遠くの雷の音が混ざる。
彼女は僕の視線をさけるように顔をそむけた。
「ええ、そうよ。彼に誘われて、デートに行ったの」
そこまでいって彼女はきっと目を見開き、僕を見つめた。声を大きくしていう。
「なあに、悪いっていうの? デートに行くのが」
「そうじゃない。そうじゃないけど」
塾をサボってまで? ――いや、
今度は僕が、黙る番だった。
その沈黙を非難だと感じたのだろう。善子さんは目をふせて、小声に戻る。
「だって、仕方ないじゃない。私の魔力が彼に必要だって、いうんだから。私がいないと力が出ない、っていうんだから」
「……それは、今日も?」
「そうよ。月の位置が悪いからって。そんなこといわれたら、断れないじゃない」
「Aqoursの練習を、休んでも?」
こくっと彼女はうなずく。
「でも、塾には来たんだね」
まるで
善子さんは硬い笑顔を僕に見せる。
「さすがに連続だとまずいから。それに、彼の友達に会うっていうから、私、ちょっと苦手で、逃げて……」
彼女ははっと口をつぐんだ。僕はなにも聞かなかったふりをする。
「先に帰ってきたのよ」
「……そうなんだ」
また沈黙が訪れる。
白い光が一瞬、部屋を明るくして、続いてさっきよりもずっと近くで雷鳴がした。
僕は首を振ってから、わざと明るい口調で話す。
「花火大会、とても素敵だったよ」
「なあに、いまさら。この前も聞いたわよ」
口調とは
「うん、あらためて動画、見直したんだ。ほら、僕、現地ではずいぶん遠くだったから」
「ふうん、そういうこと」
「やっぱりすごいよね、Aqours」
「それはそうよ。新しく加入したダイヤさんだって、
「僕も、期待してる。でも……」
「でも?」
善子さんは首をかしげた。
「一番素敵なのは善子さんだって、僕は思うよ」
「……ありがと」
彼女は可愛らしく頬を染めた。まるで一か月前の、スクールアイドルを始めたと話してくれたときの、彼女のように。
いつまでもそんな彼女を見ていたかった。
でも。
僕は自己嫌悪を通り越して罪悪感におそわれながら、あえて続ける。
「彼は、スクールアイドルのこと、どう思ってるの?」
彼女は身じろぎした。もしかして席を立つのかと思ったけれど、しばらくして彼女はぽつりと答える。
「直接はいわないけど、あまりよくは、思ってないみたい」
やはり、そうだ。
「……ねえ、善子さん。彼のことだけど」
「やめてよ」
彼女は僕と目を合わせずに短くいった。
「僕は善子さんのことが心配で……」
「やめてっていってるでしょ!」
彼女の鋭いまなざしが、僕を
「だいたい、あなたでしょう! 可能性がある、っていったのは」
それは、そういう意味じゃないんだ。
でもそれは、言葉にならなかった。
善子さんはガタッと大きな音を立てて立ち上がった。
「あなたには、関係ないわ。放っておいてちょうだい!」
くるっと向きをかえると大股で部屋を出ていく。
彼女に全面的に拒絶されて、僕は一瞬、
エレベータか階段か悩んで、階段を駆け下りる。
一階のホールに着くと、ちょうどエレベータの扉が閉まるところだった。善子さんはこの先にいる。
エントランスの扉のすぐ内側で、善子さんは外を見つめていた。
よかった。
僕は一度深呼吸して、あえて足音高く善子さんのすぐうしろへ近づく。
「傘、持ってるの?」
「……ええ、大丈夫」
無視されるかな、と思ったけれど、善子さんはこちらを向いた。その目にはまったく、生気がなかった。
「
「僕は……持ってないから、しばらく待つよ」
「そう」
善子さんは無表情のまま鞄から傘を取り出す。
そのとき、彼女の鞄から怪しげな曲が流れ始める。こんなときでなかったら、僕は笑ってしまっただろう。
彼女は傘をストラップで手にかけるとスマートフォンを取り出し、画面を見て――にこりと微笑んだ。
ぐらり、と視界が大きく揺れる。
激しい
「ええ。終わったわ。……いまから? もう遅いわよ」
外を気にする善子さん。
「それに、嫌よ、私。……え、もう帰った? ……うん。……仕方ないわね、すこし待っててくれる」
ふうっと息を吐く善子さん。
「……行くんだ」
質問するでもなく、単なる事実を述べるように僕はいう。
「ええ」
彼女は挑発的に僕を見つめる。キリキリと痛む胸を無視して、僕は精一杯の笑顔をみせる。
「それじゃ、雨が強いから、気をつけてね」
「わかったわ」
善子さんは毒気を抜かれたようにうなずいた。
僕はエントランスの扉を開ける。
彼女が僕に続いてエントランスの外の
「さよなら、善子さん」
そして僕は、雨のなかに走り出す。
「聡、待ちなさいよ! 傘、借りればいいじゃない」
彼女の声が小さくなっていった。
僕は緑道に曲がって、それでも走り続けた。
善子さんは行く。彼のところへ。
さっきの微笑みを彼に見せるのだろう。美しい指で彼の手を握るのだろう。
そして天使のような声で愛の言葉をささやく。
食事に行くのかもしれない。さすがにお酒は飲まないと思うけれど。
帰り道、いい雰囲気になって、彼女は、彼の腕のなかで胸をときめかせるのかもしれない。
彼をあの瞳でじっと見つめるのかもしれない。
善子さんの、あの赤い唇。ふたりは唇を重ねるのかもしれない。
雨に打たれて大きく垂れ下がった枝に、僕はバサッと頭から突っ込んだ。
ずぶ濡れの体が、さらに濡れる。この前と、同じように。この前よりも、ずっと。
僕は誰もいない緑道を、ひとり、走り続ける。
胸から熱いものがこみあげてきて、雨と混じりあう。
彼がどんな人なのか、わからない。単にすこしだけ独占欲があって――彼女の姿をほかの人に見られたくないのかもしれない。
特に彼女が、あんなにも可愛いなら。その気持ちはよくわかった。
それでも善子さんがあれだけ真剣になっていることを、いわば彼女から取り上げて、それでいいのだろうか。
それが、愛のかたちなのだろうか。
彼は本当に、彼女を愛しているのだろうか。
そして彼女は本当に、納得しているのか。彼の言葉を受け入れて――それが、彼女が心から、望んだことなのか?
僕には、どうしても、そうは思えなかった。
ドカンと大きな音がして、耳がキーンと響いた。オゾンの匂いが鼻をつく。
僕はかまわず走り続ける。
もし、彼が彼女のことを愛していないなら。
もし、彼女が真実に気づいていないなら――。
そこまで考えて、僕は思わず笑ってしまう。「人々は真実に気づいていない」。それは「マー」によく出てくる、決まり文句だったから。
僕だって、真実は知らない。だから彼のことを、もっと知る必要があった。
そして、もしそこに僕にとって許せないことがあったなら、彼女にそれを伝えよう。
それでも、彼女がAqoursより、彼を取るというならそれもかまわない。
でも。
ふと漏らした
彼女は自分の心に、自分の真実に、気づいていないんじゃないか。そんな気がする。
彼女を、救いたい。ただのお
賭けよう。「マー」に。真実の力に。全力でぶつかってみよう。
だって彼女は、簡単に
そして僕が、初めて好きになった人だ。
夏の雨は、意外に悪くなかった。シャワーを浴びてるみたいだった。傘すら差さずに、前回よりもずっとずっと、僕はひどい状況にいるのに、今度の雨は、悪くなかった。
県道に出ても、僕は走り続けた。
泣きながら、笑いながら、走り続けた。