強がりの堕天使に祝福を   作:Kohya S.

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8. 嵐

 気づいてしまうと、すぐにでも塾に行きたくなった。

 

 適当なところで、僕は宿題をやり残していたと宮坂(みやさか)に話し、五百円玉を置いて席を立つ。

 

「釣りは?」

「いいよ。取っておいてくれ」

 

 どうせたいした額ではない。宮坂はうなずいて、また本に目を戻した。

 

 アーケードの外に出ると、西から黒い雲がもくもくとわいてきていた。今日は一日中、晴れの予報だったのに。僕は急ぎ足で塾へ向かう。

 雲が夕日を隠すと急にあたりは暗くなり、冷たい風が吹いてきた。

 

 あわてても仕方ないのに、乗り込んだビルのエレベータの遅さが気になって仕方なかった。階段で(のぼ)ればよかった、と気づいたのは三階に着いてからだった。

 前の授業は終わっていなくて、僕は仕方なく自習室で待った。

 チャイムとともに教室へ行き、前の生徒と入れ替わるようにして席につく。

 

 授業が始まっても、善子(よしこ)さんはあらわれなかった。

 

 今日もサボりか。

 なにも考えられなくなった僕の頭を、先生の言葉が通過していく。

 

「遅れてすみません」

 

 ――それは、僕にはまさしく、天使の声だった。

 

 はあはあと息を切らせて、善子さんが駆けこんできた。

 思わず見つめる僕に、善子さんはきまり悪そうに微笑む。

 

 とても可愛らしい彼女の――私服姿。僕と同じ。僕は今日、部活を休んだ。

 

 黒く光沢のある生地で(えり)ぐりの深いトップス。黒と白をレイヤードにした、フリルの入ったスカート。

 そして首には、チョーカー。僕の想像とは違って、黒ではなくて茶色の革製だった。銀の留め具が、きらりと輝く。

 

 僕はもう、それ以上、見ていられなかった。

 

 落ち着かない授業時間はじりじりとすぎていった。

 

 なにか彼女にいわなくてはならない。そう思った。

 

 窓の外では、みるみる雲が厚さを増していった。授業が終わるころには雨粒が激しく音を立てて、板ガラスを叩いていた。

 また、雨だった。

 

 チャイムが鳴り、先生が「今日はここまでにします」といって()めた。

 僕は素早く勉強道具を片付けて立ち上がり、善子さんに話しかける。

 

「善子さん」

「なあに?」

「このあと、すこし話せるかな」

「もちろんいいわよ」

 

 なにもかわったところなどない、というように、ツンとすまして彼女はうなずいた。

 

 外は雨。僕は自習室に彼女を誘う。それが意外だったのか彼女は眉を上げたけれど、なにもいわずに僕についてきた。

 

 自習室は空席が目立った。

 一番端の席に僕は座る。善子さんは隣の席から椅子をすこし動かして、微妙な距離に腰を下ろした。

 

「なあに、わざわざ?」

 

 善子さんは小声で話した。仕切りもあるのでほかの生徒に話を聞かれる心配はないだろう。

 

「似合うね、その服」

「あ、ありがと」

 

 僕の言葉は予想外すぎたのだろう、彼女はびっくりして、でも嬉しそうに微笑んだ。

 

「彼が選んでくれたのよ」

 

 僕の心の傷口に塩をすりこむ言葉だった。

 

「そうなんだ」

 

 あまり趣味はいいとはいえないね。そう口元まで出かかって、なんとか飲みこむ。

 

「彼、やっぱり『マー』とか読むの?」

 

 僕は石田のことを念頭に置いて聞く。善子さんは首を振った。

 

「最近は読んでいないみたい。あんな子供っぽいものって」

「子供っぽい、か」

 

 僕は繰り返して、その言葉をかみしめた。彼女はどう思っているのだろう。いつもの表情に戻った彼女からは、なにもわからなかった。

 

 僕はいよいよ本題に入る。

 

「今日はAqours(アクア)の練習は、どうしたの」

「や、休みよ。休み。それにほら、雨だし」

 

 あわてていう善子さん。彼女はとてもわかりやすかった。

 僕はそんな彼女にすまないと思いながら言葉を()ぐ。

 

「この前、善子さんを見かけたよ」

「えっ?」

「塾が、休講になった日」

「あれは……」

 

 彼女はしばらく無言だった。

 雨の音が聞こえて、そこに遠くの雷の音が混ざる。

 

 彼女は僕の視線をさけるように顔をそむけた。

 

「ええ、そうよ。彼に誘われて、デートに行ったの」

 

 そこまでいって彼女はきっと目を見開き、僕を見つめた。声を大きくしていう。

 

「なあに、悪いっていうの? デートに行くのが」

「そうじゃない。そうじゃないけど」

 

 塾をサボってまで? ――いや、愚問(ぐもん)だ。そう思ったからこそ、彼女は塾を休んだんだ。

 

 今度は僕が、黙る番だった。

 その沈黙を非難だと感じたのだろう。善子さんは目をふせて、小声に戻る。

 

「だって、仕方ないじゃない。私の魔力が彼に必要だって、いうんだから。私がいないと力が出ない、っていうんだから」

「……それは、今日も?」

「そうよ。月の位置が悪いからって。そんなこといわれたら、断れないじゃない」

「Aqoursの練習を、休んでも?」

 

 こくっと彼女はうなずく。

 

「でも、塾には来たんだね」

 

 まるで尋問(じんもん)をするようだ、と僕は自己嫌悪する。でも聞かずにはいられなかった。

 善子さんは硬い笑顔を僕に見せる。

 

「さすがに連続だとまずいから。それに、彼の友達に会うっていうから、私、ちょっと苦手で、逃げて……」

 

 彼女ははっと口をつぐんだ。僕はなにも聞かなかったふりをする。

 

「先に帰ってきたのよ」

「……そうなんだ」

 

 また沈黙が訪れる。

 白い光が一瞬、部屋を明るくして、続いてさっきよりもずっと近くで雷鳴がした。

 

 僕は首を振ってから、わざと明るい口調で話す。

 

「花火大会、とても素敵だったよ」

「なあに、いまさら。この前も聞いたわよ」

 

 口調とは裏腹(うらはら)に、ほっとしたようすで微笑む善子さん。

 

「うん、あらためて動画、見直したんだ。ほら、僕、現地ではずいぶん遠くだったから」

「ふうん、そういうこと」

「やっぱりすごいよね、Aqours」

「それはそうよ。新しく加入したダイヤさんだって、鞠莉(まり)さんだって、果南(かなん)さんだって、すごく素敵なんだから」

「僕も、期待してる。でも……」

「でも?」

 

 善子さんは首をかしげた。

 

「一番素敵なのは善子さんだって、僕は思うよ」

「……ありがと」

 

 彼女は可愛らしく頬を染めた。まるで一か月前の、スクールアイドルを始めたと話してくれたときの、彼女のように。

 いつまでもそんな彼女を見ていたかった。

 

 でも。

 

 僕は自己嫌悪を通り越して罪悪感におそわれながら、あえて続ける。

 

「彼は、スクールアイドルのこと、どう思ってるの?」

 

 彼女は身じろぎした。もしかして席を立つのかと思ったけれど、しばらくして彼女はぽつりと答える。

 

「直接はいわないけど、あまりよくは、思ってないみたい」

 

 やはり、そうだ。

 

「……ねえ、善子さん。彼のことだけど」

「やめてよ」

 

 彼女は僕と目を合わせずに短くいった。

 

「僕は善子さんのことが心配で……」

「やめてっていってるでしょ!」

 

 彼女の鋭いまなざしが、僕を()すくめる。

 

「だいたい、あなたでしょう! 可能性がある、っていったのは」

 

 それは、そういう意味じゃないんだ。

 

 でもそれは、言葉にならなかった。

 

 善子さんはガタッと大きな音を立てて立ち上がった。

 

「あなたには、関係ないわ。放っておいてちょうだい!」

 

 くるっと向きをかえると大股で部屋を出ていく。

 

 彼女に全面的に拒絶されて、僕は一瞬、躊躇(ちゅうちょ)する。でも、急いであとを追った。

 

 エレベータか階段か悩んで、階段を駆け下りる。

 

 一階のホールに着くと、ちょうどエレベータの扉が閉まるところだった。善子さんはこの先にいる。

 

 エントランスの扉のすぐ内側で、善子さんは外を見つめていた。

 よかった。

 僕は一度深呼吸して、あえて足音高く善子さんのすぐうしろへ近づく。

 

「傘、持ってるの?」

「……ええ、大丈夫」

 

 無視されるかな、と思ったけれど、善子さんはこちらを向いた。その目にはまったく、生気がなかった。

 

(さとし)は?」

「僕は……持ってないから、しばらく待つよ」

「そう」

 

 善子さんは無表情のまま鞄から傘を取り出す。

 そのとき、彼女の鞄から怪しげな曲が流れ始める。こんなときでなかったら、僕は笑ってしまっただろう。

 

 彼女は傘をストラップで手にかけるとスマートフォンを取り出し、画面を見て――にこりと微笑んだ。

 

 ぐらり、と視界が大きく揺れる。

 激しい動悸(どうき)におそわれる僕を尻目に、彼女は電話の相手と会話を始めた。

 

「ええ。終わったわ。……いまから? もう遅いわよ」

 

 外を気にする善子さん。

 

「それに、嫌よ、私。……え、もう帰った? ……うん。……仕方ないわね、すこし待っててくれる」

 

 ふうっと息を吐く善子さん。

 

「……行くんだ」

 

 質問するでもなく、単なる事実を述べるように僕はいう。

 

「ええ」

 

 彼女は挑発的に僕を見つめる。キリキリと痛む胸を無視して、僕は精一杯の笑顔をみせる。

 

「それじゃ、雨が強いから、気をつけてね」

「わかったわ」

 

 善子さんは毒気を抜かれたようにうなずいた。

 

 僕はエントランスの扉を開ける。

 彼女が僕に続いてエントランスの外の軒下(のきした)に出たのを確認して、僕はいう。

 

「さよなら、善子さん」

 

 そして僕は、雨のなかに走り出す。

 

「聡、待ちなさいよ! 傘、借りればいいじゃない」

 

 彼女の声が小さくなっていった。

 

 僕は緑道に曲がって、それでも走り続けた。

 

 善子さんは行く。彼のところへ。

 

 さっきの微笑みを彼に見せるのだろう。美しい指で彼の手を握るのだろう。

 そして天使のような声で愛の言葉をささやく。

 

 食事に行くのかもしれない。さすがにお酒は飲まないと思うけれど。

 帰り道、いい雰囲気になって、彼女は、彼の腕のなかで胸をときめかせるのかもしれない。

 彼をあの瞳でじっと見つめるのかもしれない。

 

 善子さんの、あの赤い唇。ふたりは唇を重ねるのかもしれない。

 

 雨に打たれて大きく垂れ下がった枝に、僕はバサッと頭から突っ込んだ。

 ずぶ濡れの体が、さらに濡れる。この前と、同じように。この前よりも、ずっと。

 

 僕は誰もいない緑道を、ひとり、走り続ける。

 胸から熱いものがこみあげてきて、雨と混じりあう。

 

 彼がどんな人なのか、わからない。単にすこしだけ独占欲があって――彼女の姿をほかの人に見られたくないのかもしれない。

 特に彼女が、あんなにも可愛いなら。その気持ちはよくわかった。

 

 それでも善子さんがあれだけ真剣になっていることを、いわば彼女から取り上げて、それでいいのだろうか。

 それが、愛のかたちなのだろうか。

 彼は本当に、彼女を愛しているのだろうか。

 

 そして彼女は本当に、納得しているのか。彼の言葉を受け入れて――それが、彼女が心から、望んだことなのか?

 

 僕には、どうしても、そうは思えなかった。

 

 ドカンと大きな音がして、耳がキーンと響いた。オゾンの匂いが鼻をつく。

 僕はかまわず走り続ける。

 

 もし、彼が彼女のことを愛していないなら。

 もし、彼女が真実に気づいていないなら――。

 

 そこまで考えて、僕は思わず笑ってしまう。「人々は真実に気づいていない」。それは「マー」によく出てくる、決まり文句だったから。

 

 僕だって、真実は知らない。だから彼のことを、もっと知る必要があった。

 そして、もしそこに僕にとって許せないことがあったなら、彼女にそれを伝えよう。

 

 それでも、彼女がAqoursより、彼を取るというならそれもかまわない。

 でも。

 

 ふと漏らした一言(ひとこと)。彼女の躊躇(ためら)い。今日、彼女に会えたこと。

 

 彼女は自分の心に、自分の真実に、気づいていないんじゃないか。そんな気がする。

 

 彼女を、救いたい。ただのお節介(せっかい)かもしれないけれど、彼女に、笑っていて欲しい。

 

 賭けよう。「マー」に。真実の力に。全力でぶつかってみよう。

 

 だって彼女は、簡単に(あきら)めるにはあまりにも大きな存在だから。宇宙的存在からのプレゼントだ。天界から地上に()とされた本物の天使だ。

 

 そして僕が、初めて好きになった人だ。

 

 夏の雨は、意外に悪くなかった。シャワーを浴びてるみたいだった。傘すら差さずに、前回よりもずっとずっと、僕はひどい状況にいるのに、今度の雨は、悪くなかった。

 

 県道に出ても、僕は走り続けた。

 

 泣きながら、笑いながら、走り続けた。

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