かちゃり。
幽世は、まるで世界そのものが静止してしまったような静謐さを讃えている。池のように滞留した空気は澱むこともなく、不気味なまでに澄み切っており、変化することを拒んでいるようでさえあった。先の鍔鳴りだけが空気を掻き回す。
けれどもそれだけだ。一度限りのそれが終わってしまえば、後は耳が痛くなるような静けさに取り残されてしまう。それが今は、何よりも辛い。
せめて鳥のさえずり声なりが散漫にでも空気を掻き乱してくれれば、それだけでも気分が軽くなるというのに、この場所には私と敵しかいない。
敵が構えているのは何の変哲もないただの木の棒。目測で四尺ばかりと言ったところか。
対してこちらの獲物は二刀。鈍らという訳でも、ましてや木刀という訳でも無い業物だ。
舐められているとは思わなかった。ただの棒に過ぎないはずのそれも、刀の姿に視えていたからだ。
構えは正眼。基本にして最強と謳われており、事実、過去に相対した剣士の多くはこの構えを用いていた。しかし、今までの種々雑多なそれとは比べ物にならない。一部の隙さえも見せず、ただこの地と同化したように静かに佇むのみ。
目線が合ったまま一時たりとて外させてくれない赤い瞳は、例の巫女とはまた違った意味で吸引力を伴っている。何処までも続く洞窟のように底知れず。、気を緩めれば途端に呑まれてしまい兼ねない薄気味悪くさえ感じる。
時の流れさえも狂ってしまったようだ。永遠とも一瞬とも感じられる責苦が続くおかしな時間。緊迫感は増し続け、額を伝う脂汗が不快感をより強めていく。それに耐え切れなくなった私は、動いた。動いてしまった。
声にならない雄叫びを上げ、獣のように殺し合うためだけの肉体へと変貌を遂げた肉体は極限まで振り絞られた矢よろしく、ただ真っ直ぐに駆け抜けた。
汗は身体に置去りにされ有り所を失い、渇いた地面へと吸い込まれて行く。
天狗でさえ寄せ付けない閃光とさえ錯覚させるほどの速度。僅か一歩、されどその一歩で間合いを際限なく詰め寄る。
踏み込んだ一歩はこの一太刀のためだけに在る。両目を見開き、ありったけの力を腕に込め、腰に携えた刀を引き抜く。そして横一文字に凪ぎ切る。
これまでに無い最高の一撃。纏わり付くような不快感を伴った時の流れごと、敵の胴を両断した。そのはずだった。
だが、その速度を持ってしても、遅すぎだと言わんばかりに切り払われた。
条件反射が私を後方へと跳び退かせた。遅れて聴こえてきたのは鋭い金属音。全身全霊の疾走でさえ、遅すぎたと言わんばかりに敵が相も変わらず佇んでいる様子を直視し、渾身の一撃が届かなかったことを知覚した。
夙くなったつもりだった。強くなったつもりだった。けれど、それだけではまだ届かない。敵は天蓋の存在だ。今の私では勝てない。
なら、諦めるのか?
私は私に囁いた。応える言葉はない。当然だ。
私は、負けず嫌いなのだから。
添えていた左手を、もう一本の刀の柄へと伸ばし勢いよく引き抜く。
自分の命だけでは質として成立しない。私にとって最も大切なものを賭けてこそ、覚悟という言葉は初めて機能する。
切り捨てたはずの呼吸するという機能を今一度呼び起こし、一度限りの深呼吸を済ませ、白楼剣を胸に突き立てた。
脈動する脳髄の熱が全身を押し広げる。斬りたいという衝動が腹の奥深くで膨れ上がり、神経はただ刀を振るうためだけの伝達回路へと成り替わる。
構えるは二天一流。
左手はただ、魂を賭した一撃を入れるためだけに。
右手には私が、先代が、魂魄家の歴史が、過去に積み重ねてきた記憶、その全てを乗せて。
今なら、誰を敵に回しても負ける気がしない。
私は一陣の風となった
キンキンキン。
寄せては返す漣のように、殺意の篭った金属音が鳴り響き、耳朶を激しく打ち付ける。
如何なる剣を使おうと、敵はその棒一つで軽く遇われてしまう。木の棒は時に槍となり、薙刀となり、刀となるのが視えた。千変万化と呼ぶに相応しく、自身の身体の延長のように木の棒を巧みに操る姿に、一つの武術の極地を見た。
長尺さ故に小回りが利かないはずだ。だからこそ攻守に致命的とも言える欠陥が生じてしまう。だからこそ、懐にさえ飛び込めれば一気につき崩せるはずなのだ。だがその一歩を踏み出させてくれない。
切り結ぶほどに、その距離が遠退いていく。まだまだ半人前に過ぎないという事実を突きつけられる。
受け継ぎし力を存分に震えていない。これでは魂魄の名が泣いている。
これが限界。ちら付いた言葉を頭から追い出し、攻め寄せる敵に思惟を凝らす。
右半身に隙が見えた。右手を振るう。一撃が放たれる。遅い、間に合わない。左手で受ける。痺れた。右手を伸ばす。打ち払われる。
脳が蠕動する。私という存在を燃料とし、ただ我武者羅に、刀を振り続ける。止めてしまったら、この化け物と相対することができなくなるから。
だが次の瞬間、ざわりと悪寒が走る。泡立つ肌が震える。直感に任せ遮二無二真横に飛んだ。そうして目前に血が舞い上がるのを見た。
誰のものだ?
その答えは、焼け火箸で叩かれたような皮膚を切り裂く痛みが教えてくれた。
右腕を斬られたらしい。千切れてしまったのではないかと思うほどの焼け付く痛みが脳髄を貫き、弾けた。
血流に乗せられ全身を伝播していく。同時に一撃を貰ってしまったという旋律もまた駆け抜けていく。
痛い。でも、まだ戦える。
倒れ込みそうになる両足を踏ん張り、力の入らなくなった右腕を、それでもなお敵に向け続ける。
息一つ乱さ、優雅にそれでいて厳かにただそこに在る敵。
苦しそうに肩で息をし、立っているのもやっとな自分。
勝敗は、明らかだった。
でも、まだ、終われない。
「それまで」
凛とした声が響き渡る。 聞き知った声。その声を引き金として、私の意識は霧がかかったように霞んでいく。
どうやら体はとうに限界を迎えていたらしい。羽を失った鳥のように深く深く沈んでいく。真っ逆さまに。
薄れ行く意識の中、私と同年代の少年を見かけたような気がした。