「わたしは、だれ?」
自分しかいない虚空に声が流れる。この声が自分のものなのか、全く別人のものなのかは釈然としない。それに返る言葉も無い。自らが発した声だったのか、自分の内側に宿る思惟の声か、あるいは幻聴だったのか。それさえも定かではない。ただ分かるのは、時とともに希薄になりつつある耳朶を打った感覚だけだ。
そう、ここには何もないのだ。広大無辺でありながらも、その実、中身が伴っていない。人と解釈することはもちろんのこと、他に出会える生き物は見当たらない。どこまでも無形の闇だけが続いている。赤、青、紫、緑、黄。私の色さえも呑み込まれて、まるで私自身もこの世界に取り込まれてしまったように。私は、独りだ。
「私、扉を潜った時に変わっちゃったの?」
その声に促されるまま、夜の間に私は私ではなくなってしまったのだろうかと思索した。いいや、そんなことは在り得ない。
けれどもその思考さえも間違っているのかもしれない。穴に落ちてからと言うもの、私の常識は何一つ通用しない。だから、もしかしたら今の私は私ではないのかもしれない。
母さんが教えてくれなかったことは、何もわからない。答えを求め続けても、独りでは何も分からない。
「起きた時は同じだったかしら?」
いったいいつから私は変わってしまったのだろう。それとも、本当は何も変わっていなくて、私以外の全てが変節してしまったのだろうか。
何も分からない。誰も否定も肯定もしてくれない。ウサギも、芋虫も、チェシャ猫も、帽子屋も、いない。私を疎ましく思う者さえもいない。どこにも居場所が無いことが、ただただ怖くて仕方がない。
潜って来たはずの扉も無い。帰れない。あの光も見えない。
「大人になるというのは、こういうことなのかしら」
声は、震えていた。大人になることは、皆が大事なことだと言ってくれた。だから私は扉を開いたというのに。ならば、私の探し求めていたものの正体は、夜よりも暗い闇だったのだろうか?
いや、これは闇ですらない。これは無だ。虚無だ。何もない空白だ。光は無い。そして闇も無い。自分だけが存在する空虚。重ね合わせる者、触れ合う者、何一つ内包しない空虚な世界だ。
だが、ここには何もないと断ずるには、この世界は広すぎる。けど、灯りが無い。夜道にさえ、旅人の行く末を照らす篝火があると言うのに。
果てたことのない興味を満たす対象も無い。現実を、ただ現実と認めてしまっては、「わたしは、だれ?」と疑問形足らしめている根っこを失い、私は本当に私で無くなってしまう。
「そんなの、嫌」
無に反響して、嬌声が幾重にも重なり耳朶を打ち付ける。
なんでもよかった。この世界に絶望しないため、狭隘な思考に陥らないための何かが必要だった。恐慌寸前の頭で、世界の規定化、固定観念の創造を辛うじて防いだ。
それが怖くて仕方がない。私は変えたくない、変わりたくない。だから私は、飛んだ。ただただ前へと向かって。本当に真っすぐ進んでいるのかさえ覚束ないまま、振り返ることなくどこまでも飛んで行った。一縷の望みを抱えて、誘蛾灯を求める羽虫のように。
どこまで行っても、この虚空には標となりそうなものは見当たらない。ただ出口へと翔破するため、遮二無二飛び続けた。どこへ、と考える頭は働かず、目を閉じて息を吐き出した。火照っているはずのそれからは、何の熱さえも感じられない。既に手足の感覚さえ朧気だ。体内時計も機能しなくなって久しい。留まっていても次の事態は生まれないが、動いていれば本当に何かが変わるのだろうか。
諦念が立ち込め始めた頃、不意に浮かんだのは母の姿。魔法の一言で世界を描いた神様のことを。
胸中の母は、私に何かを伝えようとしていた。突如として足元から吹き上げた風が頭蓋を揺らし、風が声となって、光となって額を突き抜けていく。優しい声だった。遠い昔に聞いたと思える母の声。語り掛けてきた声が再び全身を貫き、光となって爆ぜた。
それは漠然とした心象に過ぎなかったが、私の心は言い知れぬ母からの言葉を受け取ったらしく、その理解が強張った体を解し、ささくれた心を落ち着かせるのを感じた。そして、顔を上方へと向け、小さく呟いた。
「光あれ」
知っている。知らないのに知っている。頭の中に埋め込まれた本能とでもいうべき情動に突き動かされるまま、私は手を伸ばした。
すると小さく逼塞された世界に、突如として光が灯った。ぼうっと仄かな光が滲み出て、無に慣れてしまっていた網膜を刺激した。燃える様に輝く金色の光。それは床、天井と言った空間の広さの規定を物ともせず、どこまでも続く虚空に広がりを見せていた。
母は「光あれ」と言った。そう、言葉が光を生むのだ。言葉こそが、茫漠とあるだけの空間を世界と認識し得る。思考が現象を認知し、私を悩ませ続けていた大人になると言うことの意味がようやく分かったような気がする。
「光あれ」
この椿事に浮き立っている胸の鼓動は、自分でも驚くほどの声量を持たせ、その声は鮮烈な光の筋となって世界に響き渡り、そして蠕動させた。あちこちで光が差し込め、そのいくつかが輝きを増し、そこから伸びた光軸が魔法陣を描くかのごとく交互に結びつき始めた。
その様子は生命の誕生を内側から見上げているようでもあった。それぞれに光軸が結ばれ、星座に似た模様を描き出した光は、その内側で輝きを強めた。
糸のように細く降り注ぐ光の雨は弧を描き、無数の光軸は魔法陣に吸い込まれるように消えていく。こうして一つの光珠が、光無き世界の中から産声を上げた。
陽光に照らし出された私の腕はほんの僅かに伸びているような気がした。その手を光に向かって目一杯伸ばした。眩い光が大きくなり、やがて私自身も呑み込んだが、それだけでは飽き足らず、無限に拡散を続けていく。
「大人になるということは、自分だけの世界を創り上げることだったのね」
あの扉は、自分だけの無地のキャンパスだったんだ。だから、大人になった私はここに辿りつけた。それならこれからするべきは、私の望み通りの世界を描いていくことだ。これで私も母さんになれるということだろう。夢にまで見た存在に近づけたことを喜ぶ傍らで、どんな世界を作り出そうかと妄想を弾ませていく。
「大人になったんだから、まず創るのは、子供。だよね?」
眼前で瞬いた光が二重螺旋を巻き、少しずつ人の形を形成していく。そうして出来上がった人の形が、伸ばした手のひらを握り返した。人肌の温もりが手から伝播し、やがて心身まで満たした。
子供はどうやったらできるのか、そう母に尋ねた時、大人になったら自ずと分かると言ってくれた。やっとその意味が分かった気がする。自分でもやり方を理解しているわけでも、理屈があるわけでもない。ただ何となくやれば人を創れたのだ。
「やっぱり、私は大人になれたのね」
私の双貌をじっと真っすぐに見つめ返してくる私の子供は、私そっくりの姿をしていた。自分を形どって作ったのだから似ていて当然だったが、握りしめられたその手は私のものよりもほんの一回り小さく見えた。
「さあ、行きなさい」
その言葉を受けると、こちらを振り返ることなく、小さな足を光球へと向けて一直線に歩き始めた。拙い足取りながら、無事辿りついたのを見届けると、今度は思うがままに生命を創っていく。光と子供だけでは寂しすぎるから、最低でも母さんの世界よりも楽しくて不思議で素敵な世界を創り上げなければ。
「次は何を創ろうかしら」
膨らみ続ける妄想に形を持たせ、母の世界を元に面白おかしさも交えて創り込んでいく。次は、そう色だ。まだこの世界には色が無い。母さんが私にくれた五色だけでもいいのだけれど、折角ならもっと増やすべきだ。その五色に白と黒を加えよう。そこまで思案したところで、私は新たに言葉を紡いだ。
「色よ、着け」
光球の中で七色が混じり合い、決して交わり合うことなく混沌模様を形成していく。まるで出来損ないの世界だと実感したが、まさしくその通りだ。これから創り込んでいくんだ。私だけの世界を。手始めに、私はこの世界を不思議の国と呼称することにした。
望んだままの世界が出来上がった。けれどもそこにあるのは一抹の侘しさだった。全てを創り上げ、私抜きでも世界が廻るようになった。だが、決定的に何かが足りていない。
そう、私の世界のはずなのに私がいないのだ。
「最期に創るものは決まったわね」
その言葉を最後に、私の視界は暗転し、再びあの虚無を映した。俯瞰する立場から、同じ地平をともに歩く存在へと自らの身体を組み替えていく。大人になったのだから、変わらなかった身長も伸ばす必要がある。今まで作り上げたどの作品よりも丹念込めて作り上げられた私は、既にアリスではない。そう、私は・・・。
アリス・マーガトロイド。七色の魔法使いよ。