心地の良い風だった。爽やかで薫るような風は、夏の始まりを告げる蒸し暑さをも感じさせない。高度を、また速度を上げるほどにその傾向は強まり、もっともっと、さらに高く速く飛んでみたいと思わせるほどだった。が、残念ながら目的地は目と鼻の先だ。
視界が森の出口を捉えると同時に、上方へと向けられていた舳先を翻し、重力に吸い込まれるように急降下を開始する。高所からの急降下に伴い、恐怖心を紛らわせる脳内麻薬が分泌、一時の間、絶頂にも似た快感を得られる。地面が加速度的に近づいてくるにつれ、本能的な恐怖心が上回り、遮二無二制動を掛けた。慌ただしい速度変化に箒は悲鳴を上げながらも、事故を起こすことなく目的地に辿りつく。
着地の衝撃により衣服に付着した土埃を手で軽く払うと、あらためて周囲を見渡した。森に呑まれつつある人里に通ずる道脇に寂れた風情の平屋造りがあった。久しく訪れていなかったが、その様子には何も変わりが無い。そこかしこに溢れている雑多な品物は、相も変わらず見ただけでは用途の分からないものばかり。初めて見かけるものも多かったが、外の世界では小型化ブームでも過ぎ去ったのか、こじんまりとしたものが大多数であり、日に日に拡大していく展示場も広がりを見せていなかった。以前まで置かれていたものの数々もそのまま残っており、店内からも人気が感じられないことからも閑古鳥が鳴いていると想像するのは容易だった。加えて言えば、まだ霊夢は来ていないらしかった。
「おーい香霖。いないのか?」
戸を開けると同時にドアベルが蝉の鳴き声にも似た美しい音を奏でる。けれどもその音色は今にも消え入りそうなほど寂しくもあり、そのせいか洒落た音にも関わらず返る言葉は無かった。続けて発した私の声も、どうやら件の人物の耳には届いていないらしかった。
商いに関わる人物であれば、客が来れば「いらっしゃいませ」と発するのが原則であるはずだ。それなのに、たった一言を躊躇うのは仮にも霧雨店で修業を積んだ身としてどうなのだろうか。
まあ、来訪者が勝手に騒がしくし始めることや、その大多数が客で無いことも考えればそうなっても当然かもしれない。もちろん、私は客ではないのだが。
「本当にいないのか?」
けれども返事が無いと無性に不安になる。集合時刻よりも早く来すぎたためか、もしかしたらまだ戻っていないのかもしれない。そう考えつつも店内を見渡すと、探し人はいつもの場所に座って本を読んでいた。
「なんだ、いるじゃないか」
本のタイトルは、英語だ。Hereditary Genius。日本語だと・・・遺伝的な天才か? 香霖の本の趣向でも変わったのか、普段興味を示しそうな本とはベクトルが違いそうだ。内容が想像できないそれに脇目も降らずに読み耽っている様子を見るに、私の声と鈴の音が聞こえていなかったのだろう。
「何を読んでるんだ? 香霖」
「来るのが早いな。魔理沙」
後ろに回り込んで本の内容を盗み見た。どうやら天才と凡人について書かれた書物らしいが、一瞬では内容も頭に入らない。香霖は私の声に反応したらしく、読んでいた本を勢いよく閉じると、後ろへと振り返り言葉を発した。
「さっきの本、まるで内容が分からなかったな。簡単に内容をまとめてくれ」
先の仕草に一抹の懐疑があった。普段であればあの程度で本を閉じたりはしない。それも音を立てるほど素早く閉じるなんて何かがあるはずだ。もしくは、私には見せたくない本だったのか。
「まだ読んでいる途中だ。それに、魔理沙が興味を持ちそうな内容じゃないよ。それに英語は得意じゃないだろう? いつから後ろにいたのか分からんが、まだ早いよ」
はぐらかされた。それがかえって怪しいことに本人は気づいているのだろうか。香霖の目を盗んで読み始めよう。その作戦を立案していた最中、新たな客の来訪を告げる鈴の音が店内に響き渡った。来訪者が誰であるか、その声を聴くまでも、そして扉の方を向く必要も無い。こんな辺鄙な場所に立地する古道具屋を訪れる者など片手で数える程度だし、彼女の性格を考えればそろそろ来る頃だとは思っていた。
「霖之助さん。来たわよ」
やはり、というべきか霊夢だった。普通の感性であれば入り口で発する言葉だと思うが、霊夢は既に私の隣で立っていた。いつ移動したのか、そんなことを考える方が馬鹿馬鹿しい。常識は通用しないし常識も無いのだ。客で無いにしても最低限の礼節は守るべきだと思うのだが、口にしたところで豚の耳に念仏を唱えるようなものだ。
「勝手に居間まで上がってくるな。と言っても無駄だろうね。二人が集まったことだし、はい、これ」
そう言って差し出したのは五色の短冊だった。用意されていたのは青、赤、黄、白、黒の五色。どれも一枚ずつだ。
その中で、黒色は文字を書くことに適していないことは自明だ。書きやすさで考えれば白が最も適しているが、私はあえて黒色を選んだ。理由は大したものでない。香霖が何を思って用意したのかは分からないが、五色の中で一番面白そうだったから選んだに過ぎない。
霊夢はどうやら青色を選んだらしい。意外な選択に驚いたが、そんな私を他所に香霖はやはりそうなったか、とでも言いたげな表情をしていた。霊夢は青色が好みだったか? 自問したが結局答えは出ない。なぜ香霖は選ぶ色を分かっているようだったのか、そのからくりが分からず胸の中でもやもやとしたものが鬱積した。
私たちに短冊を渡し終えると、香霖は足早に店の外へと出て行った。それを見送るでもなく、筆を手にした霊夢に願い事の内容を尋ねることとした。どうせ霊夢はこういうことを本気にはしまい。だからこそ、何を書くのか興味があった。
「霊夢は何を書くんだ?」
「平和な夏を過ごせますように。最近は大きな異変が続いて忙しかったから、今年こそはゆっくりと夏を謳歌したいわ」
「そうか。私は忙しい方が楽しいけどな」
思い返してみれば、ここ数年の夏は慌ただしかった。昔は平和な夏が続いていたはずだが、忙しくなったのはいったいいつ以来だろうか。昔のことを思い出そうとしたが、次の瞬間ずきりとした痛みが脳髄を駆け巡った。思い出さない方がいい記憶なのだろうか、もうそれ以上考えることをやめ、何を書くかを考えた。
が、考えるまでも無かった。黒地のそれに、墨汁を染み込ませた筆で願い事を認めていく。神様に願うだけなら誰でもできる。だから、短冊に願いを書くということはある種の契約なのだ。短冊に願いを書いたなら、それに向かって自分も頑張る。その頑張る姿を神様も見てくれて応援してくれる。願いや祈りはそういうものだ。
だから霊夢のような願望ではなく、自己目標を書くべき場なのだ。迷わずに書いたそれは、幸い自分でも読むことができないほど地の色と一体化しており、霊夢に見られる心配も無いらしかった。
「書いたら外に持ってきてくれ」
タイミングよく発された声に生返事を返しながら、二人で外に出ると、短冊を吊るすための竹が軒先に取り付けられていた。切断された竹の先端は、力強い生命力を感じさせる真っすぐ伸びた稈と比べると弱々しく感じてしまう。風にそよぐ葉の音が神様を招くとのことだったが、上空の強風と比較すれば地上は無風と言っていいほどである。つまるところ、神様には期待できそうになかった。つまり私の書き方で間違いが無いらしい。
紐で笹の葉に短冊を括り付けた。人里のそれは稚児達がこぞって参加したためか遠目に見ても豪勢だった。それと競り合いにさえならない侘しいものだった。なにせ短冊二つが吊るされているだけで他には何もない。けれども私はこっちの方が好きだった。
「なるほど」
霊夢と私の短冊を一瞥した後、香霖は何かを納得したらしい。香霖は独りごちた挙句説明しないことがあるが、それは偏に何も理解できていないからではないだろうか。それとも、何かを理解したけれどもそれを誰とも共有したくないのだろうか。幼い頃からの付き合いであるが、香霖のことを掴み兼ねていることに今更ながら気が付いた。
「まだ天体観測には早いし中でお茶でもしましょ」
「だから霊夢、勝手に行くな」
そういってそそくさと屋内に戻った霊夢と、それを追いかける香霖。二人の様子を周辺視で捉えながらも、私の中心窩は自分の短冊に向けられていた。じっと目を凝らして見れば、微かに願い事の内容が読めた。
「まさか、霊夢には読まれていないよな?」
誰に向けたわけでも無い声は宙を掻いた。霊夢は興味なさげに打ち見しただけだったから読まれていないだろうが、もしかして香霖には読まれた?
その答えは結局出ず、霊夢からお茶が入ったと言われるまで、じっと自分の短冊と向かい合っていた。我に返ったとき、屋内へと駆けながら、私の目標のことを考えていた。神様が見てくれているとも思えないが、そんなことは関係ない。大切なのは心の持ちようなのだ。どれだけ道が険しくても、遠くても、いつもの毎日を続けていくだけだ。幸いにも時間はまだまだある。いつの日か、きっと。織姫と彦星が、日々の努力の末、年に一度は出会えるように。いつか、きっと。