空には仄暗い闇が視界いっぱいに広がり、天に穿たれた破孔のように青々と地球の姿だけが浮き上がって見える。眼前に佇立する敵─純狐と名乗る漢服を着た嫣然な美女─はそれを懐かしい光景だと口外に漏らしていた。
私はそれを美しい光景だと思う。けれども自分の視界に映るものが地球であるならば、今まさに世界の全てを見ているに等しいはずなのに、どうしても異質な球体以上のものとして捉えることができなかった。あの小さな星に70億を超える人間が詰め込められていると思うと、地底よりも末恐ろしい地獄絵図のようにも、とどのつまり他人事に感じられて仕方が無かった。私にとっての世界とは幻想郷に他ならず、それを内包する地球は別物だと無意識に切り分けて考えているからだろうか。
上方から下方へと視線をずらせば、そこにもう一つの地球を見ることができる。水面に生えるそれは、波が立つたびにその姿を揺蕩っており、魔法の鏡に凋落を告げられた童話の女王に重なって見えた。なら灰被り姫は天頂に輝く本物の地球だろうか。自身の認識と思い浮かんだ単語が奇妙なほどに合致していて小さくほくそ笑んだ。
幻想郷では見ることの叶わない、見渡す限りに続く青く澄み渡った海は、しかし生物の萌芽を一切合切感じさせない。茸に限らず、自然界に存在する美しいものには毒があるものだ。それと同じくこの海にも何かの毒物が盛られているのではないかと考えが浮かんだが、血生臭ささえ漂ってこないそれを相手に試してみる気にもならない。
洗練され過ぎていて、なんだか哀愁の意さえも漂っているようだった。玉依姫の言葉通り、静かな海に生き物は棲んでいないらしい。もっとも、棲んでいたなら今頃は火事場にも似た狂騒が繰り広げられていることだろうが。
押し寄せる殺気に絶望し、意識を切り離そうと努めた。物量で圧潰させる腹積りらしい純狐の戦術は、単純であるために完成されており、一分の隙も見当たらない。どれだけ感知野に意識を集中させたところで、逃げ場は無いと理解してしまった。いざ目の前まで迫ってみれば、息を呑むほどの迫力であり、格の違いを見せつけられたようで、ただただ圧倒されていた。
その結果、周辺視が捉えた光景は私の心境と同じく鬱屈としたものであり、中心窩が捉えて離さない弾幕地獄はより熾烈を極めたように思われた。本当に気持ちの落胆が見せた幻なのだろうか? 現実を受け入れたくないという意味も込められた自問は、気のせいではないという自答となって背筋を駆け抜けた。
美しさを欠いた殺意だけの弾幕。それ故に美しくもあったが、圧倒的な物量を目の当たりにして生温い評価は下せるものではない。天蓋の化物特有の発狂弾幕だが、今回のそれは他と比較しても比べ物にならない難しさだ。ここまでの道中も過酷極まる弾幕の数々を潜り抜け、その度にあの薬を受け取っていれば、と後悔したが、以前にも増してその翼求が強まった。
だが、あれを飲んではいけないと本能が囁いていた。服用すれば人間ではなくなってしまう、私はまだ化け物に成り下がってはいけないと。そして、明確に否定する根拠があるわけでもないのに、自分でも理解しえない感情論で否定したのだった。
無いもの強請りしたところで事態が好転するわけでもない。被弾は死穢の匂いを漂わせてしまったが最後、負けを認めたはずの相手に容赦なく殺されかねない状況。生き残るためにはこの弾幕地獄を避け切るしかないと再確認した途端、全身が総毛立つ感覚に襲われた。粟立つ手が小鹿のように震える。
頭を振り、溢れかえる光弾に吸い寄せられた目を無理にでも動かした。そうして少しでも有利な射点を求めて機動するが、壁のように迫り来る弾幕の前にはそんなものは無いにも等しかった。事態は好転する兆しさえも見せてくれない。
集中砲火の直中に飛び込むや、でたらめに逃げ回り軌道変更を繰り返す。止まない光弾の嵐を飛び交う感覚は、獣の顎に噛みしだかれ力任せに振り回されているそれに似ている。振り解こうにも非力な腕では叶わず、ただ事態を甘受するしかない現状を、幼少期の苦痛とともに想起させられ、今頃苦悶の表情が浮かんでいるのではないだろうか。
当然足を止めることはできない。推進装置の全開と逆噴射を交互に繰り返すという、残量を厭わぬ大出力魔法に頼り切った無茶な軌道を描いていたが、自身の魔法特性を最大限に生かした巧みな操縦と言えなくもなかった。皮一枚での回避が続くが、こちらは攻撃に転じることもできず、そればかりか相手の姿さえも見失ってしまう体たらくだった。
お遊びと言うことを勘違いしているような隙の無さからは、これまでに経験したことの無い殺意が込められていた。顔見知り同士が、あるいは見知らぬ相手でも楽しめる無駄なゲームとは違う。顔も知らない敵、読めない状況、読み違いが死につながる極限の緊張感。這い上がってきた高揚感に全身の血が沸騰する感覚を味わった。
こちらも出し惜しみしてはいられない。三角棒を脱ぎ、熱の籠った頭を外気に晒すことで冷やすと同時に、臨界状態にある砲煩兵器、ミニ八卦炉を取り出し右手で構えた。可視化できるほどに濃縮された魔力は荒れ狂う嵐のようでもあった。そこにさらなる魔力、連戦に次ぐ連戦の中、小出しにしてきた魔力を全て注ぎ込み、暴走に指向性を持たせて黒い空に閃光の花を咲かせた。
空が鳴動した。突然目の前が真っ白に染まり、閃光が視界を塗り込んでいく。光は物理的な力を持ち、それが爆風となって空を掻き回すように吹き荒れる。風が齎した轟音は海をも鳴動させ、洪水神話を彷彿とさせるような大津波を生み出した。それが熱波により蒸発し、辺りに水蒸気を立ち込めさる。
八卦炉から発されたビームは手の震えに合わせて僅かに振れた。それだけで熱波が鳴動し、輻射熱に炙られた空気が頬を焼く。吹きかかる熱波が耳たぶを熱くし、髪の焼けるにおいが鼻につく。
これほどの大出力をもってしても相殺できない光弾を前にして、さらに出力を上げた。今までにも増して顔に近づいたビームの熱波が頭髪を騒めかせる。
勝負を最後に分かつのは個人の気魄である。諦めの悪さに救われてきた過去を振り返り根負けしそうになる自分を叱咤した。眼前に広がる無数の光弾は、この手から零れ出る一縷の光に吸い込まれるように消えていく。少しずつ、けれども着実に押し返しつつある光は、私の魔力だけでは飽き足らず、血肉、神経までも貪り食っていく。
八卦炉を押さえる右腕から血の筋を引き、止め処なく噴き零れている。心臓は中枢神経が破壊されたように際限なく早鐘を打ち、轟音の中でもなお、掻き消されることなくに耳朶を打っている。
血の気が失せたためか、意識も遠のいていく。八卦炉の火力に任せ、焼灼止血法の要領で外傷に応急処置を施したが、その痛みは全身を突き通り、頭頂から足先に至るまで、全身を余すことなく突き抜けていった。
全身から激痛が収まらない。脈動する痛みが刻々と広がり、息をするのも儘ならない気怠さが全身を覆っていく。痛みの信号が脳髄から脊髄に伝播し、八卦炉を握る指先まで脈動させる。
それでも、負けたくない、そして死にたくないという意地に突き動かされるまま右腕を弾幕の禍根へと向け続けた。悪化し続ける体調に反して輝きを増す光条は、私の命の煌めきか。ならば、犯しつくせ。焚き物が尽きるその時まで炊き続けろ。まだ、足りない。距離を経るごとに拡散、減衰する傾向を示す以上、これではまだ届かない。もっと、もっと。
八卦炉は私の過去、現在、未来を一身に受け、灼熱と化した光の奔流が虚空を割く。視界に映るのは白だけとなり、届いたのかそれとも届かなかったのか、あるいは中らなかったのか、それさえも定かではない。
だが、熱が生み出す白の先に純狐の赤い瞳が揺らめいて見えた。暗い淵のような瞳に、何か大切なものを見出したかのように光が灯るのを見た。理屈では説明できない知覚は、熱が生み出した蜃気楼なのだろうか。いずれにせよ、それが知覚された最後の光景となり、私の意識は灼熱の奔流に呑み下されていった。
柔らかな手のひらの感触が額へと降りてくる。そこから伝わる熱は、ただただ温かかった。柔らかな匂いを漂わせながら、その手は何度も何度も私の額を擦っている。
後頭部も温かく柔らかいものに包まれており、頭の上下から伝わった熱は心身へと染み渡る。私はこの感覚を知っている。その正体が何であるのか、全く分からない。けれども、私の偏桃体は確かにこの感触を覚えているらしい。
今はただ、この温かさに甘えていたい。温かで、優しさに満ちた聖域。残酷な幻想郷から分け隔てられた、私の他には誰もいない、私の、私だけの小さな世界。
それは手放し難くて、マーキングでもするように柔らかな感触に頭を擦り付けた。すると、痛いほどの静寂を切り裂いて声が聞こえた。
「●●●」
昏々とした中、聴き知った声が耳朶を打った。その声色にも、優しさの芳香が漂っており、聞いているだけでも凝り固まっていた心の澱が解れ溶けていく。
夢現といった目を擦りながら、ゆっくりと瞼を開くと、大きな人の輪郭が飛び込んできた。昏々とした視界では判断も覚束ないが、恐らく長髪の女性だろうか。豊かな金髪と、真摯に私を映す目。そして何より、この匂いだ。首筋からだろうか、漂ってくるそれは酷く懐かしい。
「あら。●●●、もう起きたの?」
「おはよう。・・・母さん?」
言葉が口外へと零れ出た。意識した訳ではない。無意識のうちに脊髄が中枢となり、末梢神経に当たる口を動かした。寝起き特有の乾いた喉から発されたそれは、砂利のように掠れていたが、その響きは耳の中へと真っすぐに入り込み、そこで寄せては返す波のように幾度も反響した。
その言葉を受けて、目の前の女性は困ったようでいて、それ以上に喜んでいるようでもあった。青い逆光を浴びて微笑む。小さく柔らかい、それでいて大きく逞しい指に頬を撫でられ、一抹の疑心は消え去り、私の思惟は件の人物を母親だと認識したらしい。漏れ出た言葉が疑問形であったことなど、その時の私は気にも留めずに。
そうだ。すっかり忘れていた。この感覚は、母の中か。柔らかさは、女体だからと言うだけでは説明がつかない。母となる資質を持たされた人物特有のものなのだろう。
いつ以来か分からない母の熱。二度と味わうことも無いと諦めていた膝枕。そのピースの残滓が、全身の至る所から少しずつ集まり、繋ぎ合わされて、遠い日の記憶を再度形成する。
そして、思い出した。私の母は既に他界していることを。なら、この女性はいったい誰だ?
目の焦点も次第に定まり、網膜が捉えたのは。先ほどまで敵対していたはずの女性の姿だった。だが、弾幕ごっこ中に垣間見えた憤懣の形相は覆滅していた。その表情は怒りの彼岸、優しさに満ちていて、その遊離具合が返って恐ろしくもあった。
限界まで撓りを上げた弓のように上体を起こし、純狐と向かい合った。
「おはよう。もう身体の具合はいいの?」
「なんともない。って敵に心配されるのは何かムカつく」
体調を糊塗したものの、全快とは程遠いことは自分自身が一番よく分かっていた。けれども、敵に弱みを見せられる道理は無い。ましてや赤子の手を捻る様に命を刈り取ることができるという、死神以上に死神らしい能力の持ち主に対しては。
「だいたい最初から負けを認めていたよな。結局私が勝ったってことでいいんだよな」
「ええ。勝負は両方とも私の負け。完敗と言ってもいい。まだ切り札は残っているけれども、あんなものを見せられた以上、私には既に戦意は無い」
あんなもの。そう言われて浮かぶのは破れかぶれに放ったスペルカード。けれども復讐の化身らしい純狐に諦めさせるほどの力が、命を賭した一撃に本当に秘めていたのだろうか。奴が言うところの「地上人の可能性」とやらは見せられたということなのだろうが、力負けしていたことは他ならぬ自分自身が一番分かっていた。
あれでは、届かない。こいつに届いたとしても、あいつにはまだ届かない。どれだけ出力を上げたところで、所詮は一縷の線に過ぎない。そして弾幕地獄を翔破したそれを避けようとさえせず、その一身で受け止めていた。そんなものに勝手に感動されても困る。
「ふざけるな。なぜこうも容易く諦められる。不倶戴天の敵への復讐の覚悟は、その程度のものだったのか。その上、まだ切り札を切っていないだと。私は切り札を切るにも値しない存在だったのか。ああ分かっているさ。所詮は脇役、歓迎されない乱入者だ。それでもな、私に──」
「──その程度?」
肌は弾幕地獄を思い返したかのように粟立った。ざわりとした悪寒が体幹を駆け巡り、とっさに身を引いた。どうやら私としたことが粗忽なことを口走ってしまったらしい。穏やかだった雰囲気は瞬時に霧散し、どこともつかない虚空に向けて鋭い眼光を放っていた。すっかり鳴りを潜め、漫然と空中に溶け込んでいた圧迫は、彼女の瞳の一点に収斂し、鋭い殺気を放ち始める。その目からは人外の魔性と、同時に人間らしい憎しみを感じ取った。
「生娘が、知った風な口を叩くか」
その吐き捨てるような声色は、先ほどまでとはまるで別人だった。けれども、それもまた母性なのだと、思う。子供を守ろうと死に物狂いで抵抗する獣とこいつを重ね合わせ、改めて母親とは何なのだろうかとぼんやりと考えた。結局私にはまだ分からないことだと結論付け、捲くし立てるように紡がれる言葉の数々の重みから、その片鱗だけでも感じようと努めた。
「あなたに息子を持った人間の気持ちが分かる? 私の命どころか、世界を対価としても釣り合わない、この世でたった一つの宝物。私に生まれてきた意味、生きてきた意味を教えてくれた宝物。それが嬲り殺された人間の気持ちが、あなたに分かるかしら?」
拭っても拭い切れないほどの怨恨が込められているらしい呪言は、言霊へと昇華されて耳へと届く。その言葉は背後に輝く地球の大質量と相乗し、底知れない質量を伴っているように感じられた。
当時の恨みを根腐りさせ、大切な何かを取り零したまま、滔々と歳月を重ねてきた果てなのだろう。
怒気を孕んだ呪言は私に向けられているようで、その実、虚空へと向けられている。この様子では、私が「恨みは何も生まない」と心にもない正論をぶつけても聞く耳さえも持たないだろう。それどころか、私からの返答を求めていないとも分かる。
だが、天蓋の存在特有の人外さはそこにない。むしろ人間臭い奴だと思えた。正気の沙汰とは思えない妄執と呼ぶべきものだけれども、不思議とそこに親しみを持ちつつあった。
「悪かったな。せっかくの復讐の機会を不意にさせて」
「良いのよ。悲願成就の機会は無限に存在するもの。だからかしら。刹那に生きる貴女の姿に魅せられて、摩耗し尽くしたはずの遠い記憶を少しだけ思い出せたから」
会話に脈絡が無い。それとも、何か致命的な見落としがあるのか。
月を包囲していた妖精達も撤退していくだろうし、それに準じて月の民も幻想郷から手を引くことだろう。これ以上関わる必要も無いのだが、少し気になることがあった。
「結局、純狐は何がしたかったんだ?」
そう、目的だ。妖精を手持無沙汰にさせるくらいなら、月の都に侵入させれば良かったはずだ。まだ切り札を残しているとも言っていたが、なら、どうして使おうとしなかった?
復讐の邪魔をしに来た私に対しても、態度が温厚的過ぎる。弾幕の激しさとは裏腹に遊ばれているという感覚も付きまとっていた。遊びには違いないのだが、いつもとは何かが違っていた。
「貴女は聡い娘です。既に気が付いているのではないですか?」
どうやら私を過大評価しているきらいがあるらしい。促されるように純狐という人物について思い当たることは無いかと知識を洗い直してみたが、何も浮かんでは来ない。
特徴的な大拉翅と名前から察するに大陸の人間なのだろうが、東洋知識に疎い事も合わさってか名前さえも聞き覚えが無く、彼女の期待に応えることはできそうに無かった。そもそも金髪の東洋人は存在するのか? その自問は、ふと視界に揺れた自分の金髪を見てどうやら存在するらしいと自答するに至った。
「さっぱりだ。ヒントをくれ」
「玄妻。こちらを名乗った方が通りも良かったかしら」
「なるほど。さっぱりだ」
その言葉を受けて、純狐の口元が小さく緩んだ。怒りを露にしているわけでも、期待を裏切られて失望しているわけでもない。何を考えているのかよく分からないが、少なくとも負の感情ではないらしい。
「ある男は肥えた肉を蒸して天帝に献上した。けれども天帝はそれを受け入れなかった。なぜかしら?」
問いかけだった。肝心なところが抜け落ちていて、問として機能していない。けれども、謎を解きたいという知的好奇心に突き動かされるまま、うんうんと唸りながら思案することとした。私が知りたかったことと無関係であるとは考えにくかったから。
天帝が受け入れなかったのはなぜか。宇宙の法そのものである天帝をして拒絶させるものの正体とは。考え始めて、すぐに思い至った。正確には、これまでの会話の中に答えがあったというべきだろうか。
「・・・その肉というのは、男の肉親か?」
「正解です。自分の子供一人の価値に及ぶものなど無い。それは天帝であろうと同じこと。親が子を守るというのは人間のみならず生物共通の認識です。しかし男はそれを反故にした。で、あるならそれを受け入れるはずもない」
「つまり、情の前において法は意味を為さないと?」
何も言わず、ただ笑っていた。徐々に感情的になっていく姿が、先の重圧と重なり合う。これはただの問いかけではない。まさか、という懐疑のもと、彼女に再度尋ねてみた。
「その男ってお前の夫か?」
「あはは。あの馬鹿はいつもそうだった。たったひとつが、全てを上回ることだってあるのに、いつも自身の善に酔っていた。射日神話のときもそう。「私は正義の味方だ。世界を救ってくる」ってね。笑っちゃうでしょう? 天帝にも拒絶されて、いい気味ね」
なるほど。なぜ万夫不当の玉依姫が手も足も出なかったのかがはっきりした。あの姫さんとは大部分が似通っている反面、決定的な部分が真逆なんだ。
生きている者と、生きても死んでもいない者との差なのだろう。だが、人間らしい思考、だと思う。その夫というのは、月の民らしくて好きにはなれない。
「目的は、息子の仇討ちか」
「正確には、夫を唆した怨敵への恨みなのだけれど、ね。いまは、もうどうでもいいわ。なんだか、疲れたの」
儚げな笑顔を浮かべていながら、私じゃないどこか遠くへ向けて言葉を発していた。怒気は消え失せていない。戦闘で全力を出し切ったわけでもないはずだ。なのに、顔には疲労が色濃く見えていた。その声色のまま、今度は私に向けて言葉を続けた。
「あなたは強い娘です。自分自身では分かっていないようだけれども、私が保証しましょう。私にはこれ以上失うものは無い。死を恐れることも無く戦える。しかし、それでは歩みを止めてしまう。これ以上変節することができない。未来が無いと言い変えてもいいでしょう」
古来より、死を厭わない兵士は恐れられた。人間は何かを失うのが怖いから。それを諦められたとしたら、強いのは当然だ。だが、自分をそうやって既定してしまうのは、つまらない生き方のような気がする。
「あなたは自身を顧みず、私という怪物と戦った。けれどもあなたの強さには根っこがあった。で無ければこれだけの力を身に付けることなどできないでしょう。あなたの光輝くその目は、何かを為そうとするために、少しずつ前に進んでいる者が持つ強い目です。決して私のようになってはいけません。諦めることなく、囚われることなく、望みを持ち続ければ、誰もが夢見て挫折した本物の魔法使いになれることでしょう。その時は、またあなたと会ってみたいわ」
その言葉を聞き届けたのを最後に意識は暗転した。
目が覚めると自室のベッドの中で、持ち前の収集癖を存分に発揮した部屋が清潔であるはずも無く、辺りには脱ぎ散らかした下着やら、無造作に積み上げられた本が散乱していた。
何も変わらない日常。無理をさせたはずの肉体には傷一つなく、それどころか古傷さえも消えていた。月へ出かけていたことそのものが夢物語であったように。ただ、コレクションの中に不気味な色をした薬が置かれているのを見て、全てが夢でなかったらしいと知った。
いったいどこまでが夢で、どこからが現実であったのか、あるいは全てが夢なのか、現なのか。それさえも定かではない。
まだ薄明りの中、手探りで服と帽子を掴み、床に降り立つと洗面所へと向かった。慣れ親しんだ朝の身支度を手早く済ませ、ふと水垢まみれの鏡をのぞき込むと、ぼやけた私の躯体の中で、瞳だけが眩い輝きを放っているのを見た。こうしてまた、いつもの一日が幕を開ける。
いかがでしたでしょうか。感想等頂けると幸いです。