『ねぇ奉先。私はアンタを信じているわ、だからアンタも私を信じなさい』
――そう言って彼女はいつでも笑っていた。
幼い頃から洛陽に住んでいたが、その時からもう既に彼は
呂布の血筋ではない母親は五つの頃に家を出ていった。
血筋であるが初代の力を受け継がなかった父は何時も回りの目を気にしていた。
思う所がないと言えば嘘だけれど恨んでいるわけではない。仕方ないことだと思う。母は自分のような子を産んだせいで酷い扱いを受けていたらしいし、父も似たようなもの。その上遼の周囲で何かがあると、全てが遼が原因とされるのだから。例えそれらに欠片も遼が関わっていないとしても。
彼を信じてはならない。
彼は裏切るから。
彼を愛してはならない。
彼は裏切るから。
彼を頼ってはいけない。
彼は裏切るから。
彼における森羅万象は背反から発生し、彼における森羅万象は背反に帰結する。
他人との間結ばれるものは裏切りを前提としているが故に、そこに真実と呼べるものなど築けるはずもなかった。言うまでもなく全ては色あせている。誰もが、何もが、彼が裏切りの徒であることを知っているのだから、向こうから距離を縮めることなんてするはずもないし、彼もまた己の持つ理を知っているから同じことだ。
この世は総じて虚構である。
これが飛籠遼が得た世界への価値だった。
もういいとやがて悟り、或いは諦めたのだ。
そして――そんな下種の価値観を
『湿気た面してるわね、アンタ。もうちょっとマシな顔できないの? 素は悪くなさそうなのに勿体ないわよ』
第一声がこれである。
陰口は随分叩かれたが、真正面からこんな風に言われたのは初めてだった。だからまともに返事も返せず、はぁとかそんな感じの言葉を返して、
『なによその生返事は。今にも死にそうな顔してたから声を掛けてあげたっていうのに』
非常に余計なお世話である。基本的に怒りを覚えない遼でもちょっとイラッとした。けれどそれ以上に自分がそんな顔をしていたことに驚く。自分としてはごく普通の表情のつもりだったから。だがしかしよくよく考えてみれば始めて会った人に言われるようなことじゃないので放っておいてください的なことを言って立ち去ろうとした。
『待ちなさいよ』
待たない。
待たなかったら後ろからドロップキックを喰らった。
それからはもう滅茶苦茶だった。ドロップキックを喰らったが流石に自分よりも年下――そう思っていたし実際そうだった――に手を上げるのはどうかと思ったから逃げだしたが追いかけられてまた蹴りやら拳なんかを喰らって逃げても逃げても追いかけてくる。覚えたての闘気すら使ったのに振りきれず、此方側の人間であることに気付いてから全力で逃走したがそれでも振りきれない。そのあたりはよく覚えていないが、嫌気がさして、自分が呂布奉先の承継者であることを話した時の彼女の反応は覚えている。
『はぁ? だから何よ。それとアンタが湿気た面しながら私から逃げ回ってることの何の関係があるっていうの』
多分、その時から。
自分は彼女に心を奪われていたのだろう。
初めてだった。
呂布奉先の末裔ではなく、飛籠遼という人間を見てくれたのは彼女が初めてだったのだ。
たったそれだけのことで、十分だった。ただ自分を見てくれるという当たり前のことがどれだけ貴いものであるか、きっと彼以外にも誰も解りはしない。
人によっては何をそんなに感動しているのだろうと疑問に思うかもしれない。自分だって今なら苦笑してしまう。
それでも――堪らなくなってしまったのだ。
そうなってしまったのだからどうしようもなくどうしようもなくどうしようもない。
だから自分は彼女に膝を折った。
彼女の為に生きて。
彼女の為に戦って。
彼女の為に死のう。
そう、己に誓った。
使い潰されるだけの武威だったはずの現代の呂布奉先は使えるべき主を自ずから抱いたのだ。
それらの想いをその場で初対面であるのに伝え、引かれてもおかしくなったがそれなのに彼女は快活に笑っていた。
『へぇ、悪くないわ。いいえ、寧ろいいわね。私の方からお礼を言いたいくらい。ありがとう、貴方が私の最初の味方よ』
笑いながら彼女は受け入れてくれた。
まるで空を舞う鳥の様に。
何物にも縛られないと思わせる在り方がそこにはあった。
そこから先はあっという間に時間が過ぎていく。出逢ったのは十で、その頃からは日本と中国を行ったり来たりしながら武を磨いていたがそれも全て彼女の為だった。中国にいる時は可能な限り彼女と共に時間を過ごした。共に武術の稽古をすることもあれば、取り止めのない時間を過ごすこともあった。
全ては彼女の為に。
勿論遼が呂布奉先の末裔であるが故の偏見や迫害はどこに行ってもなくなることはなかったが、そんなものはどうでもよかった。
等身大の自分を見てくれる人が一人いる。たったそれだけのことで遼は満足だった。それに、何かしら血筋に関して酷い扱いを受けた時、彼女は何時もそれらを笑い飛ばしてくれた。
『ねぇ奉先。私はアンタを信じているわ、だからアンタも私を信じなさい』
その言葉さえあれば満たされていた。
――けれど彼女は遼の下から飛び去ってしまった。
二年前、日本から中国に帰って来た遼が彼女の下へ行こうとすれば既に中国を出奔した後だったのだ。
遼に残されたのはたった一つの置手紙。
それもありったけの罵詈雑言。
全部嘘だったとか。
ホントはアンタが大嫌いだったとか。
気を許したことなんて一瞬もないとか。
要約すれば大体そんな感じ。
出逢って少ししてから知ったのだが、彼女もまた国内における有力な承継者の一人だった。そんな人間が国を出て傭兵ギルド等に所属したのだから当然問題になる。できることならば遼はすぐにでも彼女を追いかけたかったが、彼女との関係が深かったことで遼もまたしばらく身柄を拘束されていた。寧ろ彼女が出奔したのも遼が原因だとされたりもした。
彼女を連れ戻す為に何度か追手が差し向けられたが悉く返り討ち。最近になってようやくある程度嫌疑が晴れた遼が彼女を追えるようになったのはつい最近のことだ。寧ろ遼は彼女を捕獲しなければ完璧には嫌疑は晴れない。
そうしてこの街に来た。
少しだけ予想外の出会いもあった。
そして今、ようやく彼女の手掛かり。
伝言の意味は解っている。
『そんな二人はさっさと蹴散らして追いかけてきなさい、追ってこれるものならね』
そういうことだろう。
故に。
「――行きますとも」
裏切りの将は猟犬へと狩る
遥か彼方にて、己を睥睨する鳳に至るために。
●
先に動いたのは遼の方だった。
迫る猟犬の牙を受け流し捌くのではなく、些か以上に強引に弾き飛ばして無理矢理空間を作る。僅か一瞬で埋められるようなスペースだったがそれで十分。
「っと」
軽い掛け声と共に跳躍した。それでも一気に垂直十メートルは跳ねて、それまで遼のいた所を投斧が通り過ぎる。
「おっとっと」
反応は即座だ。気の抜けた声を出しながらも猟犬の爪牙は軌道を跳ね上げ滞空中の遼の下へと殺到する。
避けるのは、不可能だ。
数度戟の振りで弾けるかもしれないが足場がなければ確実に漏れが出る。それを吉城は解っているから飛ばした投斧は数十。
蚊斗谷吉城は猟犬である。
猟犬とは飼い主の意のままに動き、得物を仕留める。そして、得物の失策は見逃さない。さりとて油断することはなくその牙を剥き、
「――駆けろ、赤兎」
「!」
遼の足元に宿っていた真紅の陽炎。
それを遼は蹴っていた。中空で何もない空間で力んだ瞬間、脚の陽炎そのものが足場になったのだ。
――赤兎。
それは呂布奉先の愛馬の名前である。赤い毛を持ち、馬ながら兎のように動いていた故に名付けられた。人に呂布があれば、馬には赤兎がある。そうとすら言われていた。残念ながら馬としては既に絶たれてしまった血だが――主従の絆は残っていた。ただ概念としてでありながらも、無くなりはしない。
別に特別難しい概念を宿しているわけではない。
役割は何も変わらない。戦場を駆け抜ける駿馬を具象化するだけ。
示すのは、任意による足場の作成と移動補正。呂布奉先の承継者として飛籠遼が体現した能力の一つである。特殊能力としては別段衒ったものではない。空間跳躍自体は上位クラスの武芸者は覚えていることは多いし、移動補正なんてものは極めて有り触れている。遼のは単純に補正の度合いや足場としての強度が高いことは確かだが言ってしまえばそれだけ。
ただそれだけのことが――呂布奉先の一騎当千の武威と合わさることで話は大きく変わる。
好きな場所好きなタイミングで任意の足場を精製する。
つまり――遼は常に全力の一撃を用意できるということ。
足場がコンクリートでも地面でも中空でも水でも炎でも。そこになにがあろうとなかろうと関係ない。その気になれば空をも走れるのが飛籠遼である。
中空で軌道を変えた遼はそのまま連続して虚空を蹴りつけ、吉城へと迫りながら戟を振りかぶる。最初の接近よりも数段速い。投げ斧による自動防御の反応速度を上回る勢いで吉城へと迫る。
「これは困った――ならこうしよう」
吉城が指を振る。
たったそれだけの動作で投斧が遼の速度に対応しながら射出された。
「――」
不思議なことではなかった。
それまで吉城は特別なアクションを見せずに投斧を自由自在に操作していた。実際それは澪霞を瞬殺できるほどのものであり、遼でも気を抜けば危ないもの。そのレベルのサイコキネシスを自然体で体現していたのだ。ならばこそ、指の動きや視線、さらには意識の指向性を加えれば精度が上がるのも当然だ。
故に猟犬の牙は呂布の戟に追いつく。
「……シィ!」
当たり前のことだからこそ遼もまたそれくらい予想していた。
鋭い呼気と共に右足が虚空を踏みしめた。中空でのブレーキ。高速機動からの急停止により遼の肉体が軋みを上げる。そしてその僅かな停止の間にも投斧の盾は集まっていた。それまで数十に近い数を操っていた念動力が十となったことにより精度は格段に上がっている。
「はぁ……!」
構わずに
急停止の瞬間に戟の刃にありったけの闘気を集め放ったのだ。
「――!」
回避に意味はないことは集められた闘気を見て解った。刃の軌道上を斬撃として斬りつけるのではなく、闘気を放出してぶっ壊すのだ。
「――クァ!」
らしくもなく声を張り、斬撃波へ猟犬の牙を飛ばす。
三割は散らした。
一割だけ避けて、もう一割は自分で防ぎ。
「……!」
五割は喰らった。
術式で作られた盾が壊れ、 十字に構えた投斧や腕にもダメージを受ける。鮮血が散り、骨亀裂が入る。足元のコンクリート毎も砕かれ、斬撃波の勢いで体が浮く。
その上で、
「畳みかけますよ」
さらに遼は前に出た。態々弾けた瓦礫を踏むこともない。赤兎を用いることで再び虚空を蹴り再加速、さらに戟を構え直す。
「舐めるな……!」
吉城もまた止まらない。傷ついた腕を動かし、爪牙を走らせる。腕を十字に交差していたから後は振り払うだけ。
振った。
「……!」
遼は退かなかった。
寧ろ――加速する。
音速すら上回り高速回転する猟犬の双牙へと突っ込んだのだ。直撃コースである。相対速度的に、もう方向転換は間に合わない。回避はできず、掠っただけでもダメージは大きい。
それでも、前へと往った。
その上で放ったのは再加速分の勢いを乗せた刺突。
赤兎を用いない純粋な技術にて生じた神速の二連撃。
双牙を粉砕する。
「見事。だがそろそろ決める」
破砕した牙の先、ボロボロになった両腕で吉城は新たな得物を構えていた。
身の丈もあるような巨大な斧だ。
形状そのものはそれまでの物と変わらないにしても、質量が段違いである。ただ振りおろしただけでも人は殺せるだろう。それが念動力でアシストされているのならば語るまでもない。
これまでの投斧が猟犬の爪牙だとすれば、これは顎そのものだ。
そんなものが既に振りかぶられ、振り下ろされる直前。
『猟犬』蚊斗谷吉城の
避けられるタイミングではなかった。全力の刺突を連続で放った後だからこそどうしようもなく一瞬の硬直は消せない。防御は間に合ったとしても、顎斧の前に意味があるのかは怪しい。
振り下ろされた。
●
全ては一瞬が連続する。
「――!」
まず同時に二人が察知したのは人払いの結界に侵入してきた存在。
それに対する驚愕が二人の動きを一瞬だけ止める。
白詠澪霞。
戦線離脱させられたはずの彼女が再び現れる。他ならぬ吉城の手によって落とされたからこそ動揺が生じた。増援を警戒していなかったわけではない。寧ろ、警戒していたからこそ先ほどの段階で澪霞を落としたのだ。殺すつもりはなかったし生かすつもり別になかったが少なくとも戦闘不能にはしたはずだった。そのあたりの手際には自信があったから動揺し、さらにもう一瞬動きが遅れた。
「……!」
そしてその時すでに遼は動き出していた。
当事者であった吉城と傍観者であった遼との差だ。
生じた一瞬を使って体を半身にして顎斧の軌道から逃れる。紙一重の回避。顎斧の風圧だけでも吹き飛びそうになるがそれを気にしている暇はない。
そして次の一瞬で――地面に食い込んだ顎斧を蹴り飛ばした。
「な――!」
無論大質量の顎斧がそれだけで吹き飛ぶということはない。闘気を込めていたから幾らかはズレたがそんなことは重要ではなかった。
大事なのは遼の脚が顎斧に触れたこと。
足場がコンクリートでも地面でも中空でも水でも炎でも――敵の武器だろうとあらゆるものを十全の足場とする赤兎を宿したその足で!
「スゥ――」
息を、吸う。
蚊斗谷吉城の切り札は猟犬の顎。
ならば飛籠遼の切り札――なんてものは実は存在しない。
練り上げられた闘気。
磨き上げられた武威。
積み上げられた状況。
それら全てが噛み合えば、飛将の一撃は必殺に足りえるのだ。
――噛み合う。
「はああああああああああ――!!」
吐いたのは裂帛の咆哮であり、放たれたのは無拍子の裂槍だった。
切り札を切った直後だったからこそ吉城は回避などできるはずもなく。
裏切りの将は猟犬を仕留めた。
●
「急所は外しました。応急処置が自分でできるのなら頑張ってください」
吉城の血で濡れた戟の血を振り払いながら、倒れ伏した吉城へと遼は告げる。手の中の柄を滑らして短く持ち直し、制服の内ポケットから眼鏡を取り出し装着する。
戦いの終わりを確りと区切るように。
「……どういうつもりかな」
腹や口から少なくない血を流し、意識を朦朧とさせながらも吉城は言葉を紡いでいた。受けたダメージは大きい。実際に仰向けにぶっ倒れて動くのも億劫だ。動けないこともないが、自分のとっておきを超えられた。澪霞という乱入者があったから故だが理由になどならない。
気を取られた方が悪いのだ。
顎斧を足場にされた時点で負けたと思った。
まぁ殺されたり、死んでも仕方ないなとも。
なのに、致命傷すら受けずに済んでいる。
「無益な殺生は好みませんので」
吉城から背を向けた歩みに迷いはない。
「それにただ使われただけの犬を縊り殺すほど鬼ではありません」
「皮肉にしては最高だ」
傷口を押さえ、簡易的な術式で止血をしながら嘆息する。
「敗者の責務か。甘んじ命を拾わせてもらおう。リルナは……ま、どうにかしてるだろう。ただで死ぬような娘じゃないし、死んだら死んだでそれまでだ。生きてたら彼女も見逃して欲しいけどね」
「敗者というには注文が多いですね」
「悪いね。ついでにもう一つだけいいかい?」
「なんです?」
「君を裏切った彼女と会って――どうしたいんだ?」
それは物言わぬ武器がずっと思っていたことだった。
飛籠遼は自身を裏切ったかつての主を追いかけている。
どうして。
何がしたいのか。
別に知ってどうこうなることはないが、純然たる興味故の質問だった。
そんな問いかけに、遼の背中が止まった。
止まって、振り返る。
「決まってるじゃないですか」
その顔には笑みが浮かんでいた。
笑っているけれど、怒っているような、疲れているような、楽しんでいるような、それら全部を混ぜてしまったような――そんな苦笑。
「僕は――裏切り者ですよ?」
次話エピローグ。
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