「うお、とッ!?」
腕に衝撃が通り、靴裏がコンクリートにめり込む。
ダメージはなくとも腕に受けた衝撃を逃がすことは今の流斗には不可能だ。だから力任せに腕にかかる質量を受け止め歯を食いしばり、
「先輩!」
「……」
名前を呼ぶのよりも一瞬早く、背後から銃弾が飛来した。何発か体を掠めたような気がするが構わない。目の前のそれに着弾しバチリと白いスパークが弾け腕への負荷が弱まった瞬間に逆の腕を振りかぶって叩き込む。
「だらっしゃぁ!」
ぶち込んだ瞬間、拳に形容し難い感触が伝わるがまとめて拒絶して殴り飛ばす。
「■■■ーー!」
声になりきっていない音を発しながらソレは大きく飛ばされた。
「……ちっ」
舌打ちは手ごたえの薄さからだった。確かに拳撃を打ち込んだが衝撃が通る前にソレは自分から背後に飛んでいた。実際十数メートル背後に吹き飛んでも途中で体勢を立て直し、見事に着地している。
それは一言でいえばでかい猿だった。足と腕が二本づつあり、頭部と胴体もある。形としては人間にも近いが、背筋が曲がっていている。最も全身をどす黒い靄に包まれているからシルエット以外はよく解らない。
なんだかよく解らないもの――妖魔だ。
「ふぅーー」
低く唸る妖魔に対し息を長く吐きながら拳を構え直す。背後の澪霞が何をしているのかは解らないが、彼女なら下手なことはしないはずだ。戦闘のイロハというのは少しづつ学んでいるが、面倒なので澪霞に任せればいい。
少なくとも今の自分に必要なのは、この戦闘という空気により深く慣れることだから。
妖魔との戦いはこの三か月近く何度か熟してるし、春休みに入ったからは一日置きくらいの頻度で戦っている。少しは慣れているとは思うが、それでも今夜のレベルの奴は初めてだ。手古摺っているとは思う。
最も無様を晒す気はないのだが。
●
「――ふむ」
無様を晒す気がないと意気込む流斗と何を考えているのか解らない澪霞を少し離れた民家の屋根の上から遼は眺めていた。手には戟があり、普段付けている眼鏡はない。いつでも流斗たちの戦いに関われるという様子だ。
無論怠けているわけではない。
流斗と澪霞の修行故に実力が数段上の遼は待機していたのだ。或は観察して、指摘するのも彼の役目だ。最も同じことを別の場所で駆が似たようなことをやっていたりもするのだが。
そして二人の戦いを見て思う。
まだまだ未熟と。
だが同時に未熟だけで済まないような違和感も。
あの二人と出会い、特に流斗とは平常からそれなりに共に時間を重ねている。一緒に武術の稽古をすることもあるし、徒手空拳における戦闘方法について指示したことも何度かある。だから荒谷流斗の能力に関しては幾らか知っている。ある程度の器用さはあるが、極まった点はない。
普通に戦えばまず負けない。
ある程度流斗に有利な状況だとしても問題ない。
殺し合いだったら――多分、それでも殺されることはないだろう。
ただ、もしも互いにとって譲れないものを掛けたとしたら、解らない。ありとあらゆる面で上回っていたとしても、結果がどうなるか本当に想像できないのだ。気弱になっているわけではなく、心からそう思うのだ。『神憑』への予備知識だけではなく、荒谷流斗を知った上で思うのだ。
事実として彼は格上だったはずのリルナ・ツツを降しているのだから。
「……くく」
いつの間にか自分が笑みを浮かべていたことに苦笑する。未熟なのは自分も同じらしい。
ちなみに澪霞は謎だ。大体事務的なこと以外であんまり話すことないし。流斗と澪霞の間に入るのも野暮だ。
結構噂になっているのは二人は多分知らない。
「む」
視界の先に動きがあった。流斗でも澪霞でもない。
二人が相手していた妖魔に、だ。
●
「■■■――」
「……なんだ?」
妖魔の動きが変わった。それまで住宅や塀などを縦横無尽に駆け巡っていた妖魔が唐突に動きを止めたのだ。妖魔自身の移動で細かく亀裂の入った道の真ん中にそれは立ちすくみ、小刻みに震えている。
「■■■――」
痙攣は徐々に大きなっていき、さらに黒い靄もまた蠢きだしていく。
「……?」
背後の澪霞もまた微かに困惑し、脚を止めていた。そしてその間にも妖魔の蠢きは終わらない。
少しづつ、その姿が変わっていく。二メートル近くあった巨体は縮んでいき、細見に。曲がっていた姿勢も幾らか矯正されて行けば、
「……人?」
人間の形のそれだった。
両足があり、両腕があり、頭部も胴体もある。人型の妖夢、というものは初めて見た。真っ黒なシルエット。これまで見たのは大体が何かしらの動物を模したものであることと黒い靄に包まれていることは共通していた。そもそも妖魔というのは人の負の想念が集まったよく解らないもの云々って駆や澪霞が言っていた。だから人にとって身近な生き物の形になるとも。
けれど人の形そのものになる場合、それが意味するのは――。
「■■■――!」
「う、お!?」
「荒谷君ッ」
妖魔が瞬発し、そのまま流斗へと殴り掛かり、思考が中断される。動きそのものは変わらず獣の動きだった。ただそれでもやはり人間の動きに近い。なんとなくそれに覚えがある。けれど考えている暇もなかった。大ぶりな動きで腕が叩き込まれ、それを腕で受け止めたら吹き飛ばされる。予想していなかった動きに反応が遅れて、受け止めきれずに身体が弾かれた。
そのまま十数メートル吹き飛び、背後の突き当りの塀に激突する。
「いっ……たくないけど!」
痛みはない。いや正確に言えば受け止め損ねた両腕に鈍痛があることはある。それでも問題はない。問題があるとすれば、
「先輩!」
呼んでいた時、既に白い光を纏った澪霞は両手に握った拳銃を乱射していた。麻痺効果のある雷弾が妖魔に命中し――しかし妖魔の動きは損なわれることなく動き続けていた。電撃が靄の周囲に弾かれるが、それだけだ。
「――」
切り替えは滞りなく行われた。雷弾が効かないことに一切の停滞を見せずに、次に動きを繋げている。拳銃が効かなかったから、裾から滑り出した符は突撃銃に姿を変える。流石に秒間何十発も放たれる雷弾には妖魔もたじろいだ。だが全身を振り回しながら、我武者羅に突進してくる。
「っ」
小さく息を呑みながら、大きく跳躍し退避する。おまけに五指から鋼糸を伸ばし、妖魔を拘束する。
だが、
「■■■――!」
「――荒谷君ッ」
糸を引きちぎり、人型はそのまま流斗へと向かってきた。
「おいおいちょっと待てって」
瓦礫を振り払いながら手間取っていた流斗は、また反応が遅れた。大きな音を立てて迫ってくる人型妖魔に対し反撃も防御もできない。
迫ってきたシルエットに思わず、顔が引きつって、
「――シィッ」
飛び込んで来た飛将の一撃が妖魔を穿つ。
「遼!?」
思わず名前を叫んだが、飛籠遼はしかし構わずに妖魔に戟を振るう。突進してきた妖魔の勢いを利用した刺突により、人間でいう心臓の部分に戟が刺さっていたがそれを無造作な前蹴りと共に引き抜く。
「妖魔相手だと加減が要らないので楽ですね」
呟きながら、一息に五閃。放たれた斬撃が刺突痕を中心に炸裂し、人型妖魔を吹き飛ばす。先ほど流斗が受けたものの比ではない。斬撃であるにも関わらず、連続する斬撃の衝撃の衝撃が大きすぎたのだ。戟を振りぬいた遼はしかし、何食わぬ顔で流斗へと振り返る。
「大丈夫ですか?」
「……おう、助かったわ」
手の平を数度握り直し、ふらつきながらも立ち上がる。
頭を何度か振って、
「アイツは」
「さて?」
「……逃げられた」
「先輩」
「おや」
足音も澪霞が現れた。全身の白光を消しながら息を付き、二人を見回し言葉を吐く。
「飛籠君に飛ばされて、そのまま逃げられた。探知にも引っかからないし、私はこのまま追いかけるから荒谷君はお爺様に報告をお願い。飛籠君も探索に」
流斗と遼が何かを言う前に澪霞は立ち去っていた。台詞に感情は感じることはないが、その忙しさから思うことはある。
「焦ってんのか先輩」
「僕には焦っているようには見えませんが。拙いことは拙いですね、行動の速さも納得ですし」
澪霞の背中が遠ざかり、すぐに見えなくなっていく。その光景を眺めながら、流斗の疑問に遼が応える。
「人型の妖夢、といのは滅多に出現するものではないですし、出た場合は非常事態です。対応が遅れる場合街一つ壊滅してもおかしくないんですねコレが」
「あのさ、お前らの話スケールでかすぎていまいちピンと来ないんだけど」
「ですが、本当にそれなら先ほど流斗が攻撃された時点で上半身弾けてもおかしくなかったですし、僕の斬撃も普通に喰らってましたし、色々不自然ですね」
「あれ俺何気に死ぬところだったのかよ」
まさかの情報に背筋に嫌な汗が流れる。しかし此方側に関わって来てから碌な情報に出逢ったことがないなんて今更の話だった。だから切り替えて、遼の話を吟味し、首を傾げた。
「つまり、人型にしちゃあやたら弱かったってことか? 最初からそれっぽい猿だったけどさ」
「人型と猿人型は似てるようで違いますからねぇ。まぁ実際似たようなか性質でも強弱で判別することはあるんですが」
「曖昧だなー」
「最初の時点では流斗と澪霞さんが苦戦するくらい。人型になった後にしても僕なら然程問題ないレベル。それだけだとお猿さんで済ましていいんでしょうけど、シルエットは完全に人間でした。つまり」
「つまり?」
「――意味不明です」
「さよけ」
遼が意味不明なんて言っているのだから流斗に解るはずもない。人型云々の話にしても事前の知識で思い出せるのはなんかすごい強いレベルだけだし。
だが、だからこそ澪霞はいち早く人型の探索に行ったのだろう。海厳への報告すら流斗に任せるほどに彼女は焦っている。
この街を守ることを使命としている彼女だからこそ。
「んじゃこんなとこで駄弁ってる暇ねーな。俺、あの爺さんとこ行ってくるわ。お前さんも頼むぜ」
「えぇ勿論。この街、結構気に入ってますので」
「そりゃいいぜ」
互いに笑って、共に拳を合わせる。
そのまま遼は駆け出し夜の街に消えていき、流斗もその場から白詠の家へと駆けだしていく。海厳に報告することに加え、駆にも話を聞いたほうがいい。あの男なら自分たちが解らないことも、何か解るかもしれない。
何も解らないから、動くしかないというのはもう慣れたことだった。
●
「っ、はっ……あ……」
果たして、自分は何をやっているのだろう。
ただただ体中が痛くて、固い地面を這いつくばっている以外何も解らない。指先を動かすのも怠くだが同時に体を蝕む痛みが痙攣を発生する。だから結果として地面の上でもがいているのだ。
なぜそんな様を晒しているのか、彼には解らなかった。
体の痛み、特に胸から生じる激痛が思考の全てを阻害している。
襤褸切れのような服は血と土に汚れて見るも無残な有様だ。けれどそんなことも解らず彼はただ荒い呼吸を繰り返していたし、その呼吸も徐々に弱まっていた。
命の炎が消えていく。
「……かはっ」
血の塊が吐き出されるが、量は多くない。
それだけ血を流し過ぎているのだ。どこかの路地裏には光は入らず、彼の血が泥濘を作っていた。最早死体とあまり変わらない。時間の感覚すらなく、今が夜明け直前ということにも彼は気づいていない。いや、気づいていたとしても何も変わらなかっただろう。
少なくとも今の彼にできることなどないのだから。
そのまま彼は死んでいく。
死んでいく――はずだった。
「……え?」
「……ぁ?」
たった一人の少女に出逢わなければ。
穢れた英雄が、その真っ青な空を見上げることがなければ。
だからここに――英雄譚は幕を上げた。
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