「ただいまー!」
「おう、お帰り」
台所とほぼ一体となっている玄関から聞こえてきた声に海はフライパンを動かしながら応える。
香ばしい香りと共に炒められているのはキャベツやピーマン、ニンジンといった野菜に、少しばかりの豚ばら肉。それが醤油や少しのナンプラー等の調味料で味付けされている。二つだけのコンロの片側には豆腐と刻みネギ、それに油揚げが浮かぶ味噌汁がありそちらは既に完成済み。野菜炒めにしても後数分で出来上がる。
「手洗ってこいよ。すぐ食べられるぜ」
「やたー!」
「いただきます」
「いただきます」
●
「それにしても凄いよねー、海君料理こんなに美味しいなんて。ここ一週間食生活が大分改善されたよー」
「そりゃあよかった。……俺もなんで自分がこんなに料理できるのかよく解らないけどな」
言いながら野菜炒めを口に運び、出来に満足する。野菜自体は近所の閉店間際のスーパーで半額シールの張られたものだが、問題ないレベルだろう。とりあえずこれだけでキャベツ一玉とか使っているので水が出過ぎてべちゃべちゃになってないか心配だった。
「それにこんなに沢山作ってるのに上手くやりくりしてるのがすごいよね。なんか家事とかしてて思い出さない?」
「全然だな。出てくるのは大量のレシピだけだよ」
「有難くはあるけどねぇ」
果たして自分がどういう人間だったのは解らないが、相当の料理好きであったらしい。それも大人数を日常的に作っている。頭の中に浮かんでいるはほとんどが複数人向けの調理方法とか如何に嵩増しするか、みたいな知識ばかりだ。
定食屋でもやっていたのだろうか。
「まぁでも居候させてもらって何もしない、なんてことは居心地が悪いしな」
「あははー、家事ほとんどやってくれて助かってるよー。もー一週間もだねぇ」
海がいなくなって空に拾い直されてから一週間。
その日から海は自分にできる限りのことを行おうとしていた。まず分かりやすかったのはごちゃごちゃしていた玩具の類の整理や料理。普段缶詰や惣菜しか買っていなかった空の食生活は栄養的にもコスパ的にも良くなかったのでそこから改善した。と言ってもこのあたりのスーパーとかを巡ってどこが安いか比べて一番安く仕上がる買い物をしたり、学校から帰って来た空を食事と共に出迎えるとかそういうことくらいだ。意識してやってみれば海からすれば随分と当たり前のことのようで、大した苦にもならなかったが、そのあたりものぐさだった空への助けにはなっていたようだ。
「学校はどうだった? ほら、なんだったけなあの喧嘩したらしい二人」
「あぁ荒谷君と白詠さんかー」
ここ何日か聞いていた空の学校の有名人の二人。何やら最近喧嘩したとからしい。
「なんなんだろうねー、何があったのかいまいち誰も知らないみたいだし。というか荒谷君はともかく、白詠さんと仲いい人っていないみたいだし。一週間前はほんと仲良かったんだけどね」
「仲良かったのか」
「良かったねぇ」
一度笑って、
「毎日放課後は一緒に仕事して一番遅くまで残って、帰る時は一緒でいろんな所でご飯食べる姿目撃されて、朝も良く一緒に登校してお昼ご飯も一緒で。そりゃなんかあると思ってたし、会話聞いてたら絶対そうだと思ったんだけどね」
「そんなんか」
「全然違う方向向いてるんだけど滅茶苦茶仲良さそうだった」
「なんだそりゃ。こう、本人同士はイチャイチャしてる感はないのか?」
「はたから見ればイチャイチャしてるようにしか見えないけど本人達には自覚はない……と思ったかな」
「よく見てるな」
「間近で見たのは一回だけだけどね。あれは凄いわ」
「ふぅん……なのに今は喧嘩してるのか」
「まぁお昼とか夜の仕事が一緒なのは変わらないらしいけどね」
「喧嘩してるのかそれ」
滅茶苦茶仲がいいのではないだろうかそれは。
「いや、私は詳しいよ。あれは漫画とかニチアサでよく見るやつだもん。なんか微妙な雰囲気で距離が開くけど仲直りしかけて事件が起きちゃって、そこから互いの絆を確認して、好き! 私も! ってなるやつ」
「高校生の事件って……」
「………………警察沙汰にならない事件だよ」
洒落にならない。
その白詠さんというのは随分なお嬢様みたいだし、それが警察沙汰なんて笑えないだろう。昼の間にニュースとか見てると世間じゃそういうことはすぐニュースになるみたいだし。
「にしても、高校生な」
空の話を聞くたびに思う。自分は、恐らく空と一緒くらいか少し上程度の年齢であろうで、大きくは離れていないが、
「……俺は高校とか行ってたのかね」
「あはは、どうだろうねー? なんか思い出せない?」
「全くだな」
それこそスーパーのお得な言買い物の仕方とかエコに済む家事の仕方とか、そんな庶民的なことばかり。学校に行っていたのか実に怪しい所だ。
記憶の欠片はあまりにも少ない。
現状では思い出すのにも時間が掛かるだろう。
なのに、
「まー、思い出すまでここにいていいよー。私も海君がいて助かってるしねぇ」
「……ありがとよ」
そんなことを彼女は言う。
なんとなく照れくさくて、身体が痒くなる。
物好きな少女だ。
髭とか髪とかはちゃんと手入れをしたが、それにしても自分が強面というか悪人顔というかひたすら人相が悪い野郎を家に置いておくのは色々問題があるだろう。変な噂とかを立てられて迷惑にならないかとか、実は何回か聞いてるのだが、その度に真っ青な空みたいな笑顔を浮かべてここにいればいいと微笑んでくれる。
「あ、そうだ! 『クロスライザー』見ないと! まだ途中だったよね、もー海君見るペース遅いんだからぁ! 一週間も見れば三週はできるよ!」
「いや、無茶を言うな」
「お昼になにしたのさー!」
「洗濯とか掃除とかだけど……」
「やりながら見れる! こんな狭い部屋なんだから!」
「先週それで見たか確認クイズとかを出されて録に応えられなかったからながらは禁止って言ったのは空だが……」
「全くもー!」
特撮が絡むと色々訳が分からなくなるのがこの少女の玉に瑕だ。
「よしじゃあ十キロランニングしてから、続きを見よう!」
「……はいはい」
●
「……ふっ……ふっ……!」
「はぁっ……はぁっ……!」
葵空の身体能力はやたら高い。昔一人で学校の武道大会に突っ込んで全員張り倒したとかいう訳の解らないエピソードを聞いた時は半信半疑だったが、しかしそれでもこうして目の前で走っている姿を見るとそれも嘘ではないんじゃないかと思えてしまう。
海も決して身体能力は低くない。怪我が未だに治りきっているわけではないが日常生活に際しての問題はあまり感じないし、重い物を運ぶ時もあまり困ることはない。というか、妙に家事にこなれているから動き方を知っているのだろう。
それにしたって、
「は、速いなぁ……!」
「ははは、遅いよー」
現時点で二十分以上ほぼ全力疾走に近い速度で走っているのに空は息一つ切らさずに走り続けている。記憶がなくても常識がないわけではない。
故に思う。
葵空の体力がやばい。
「ちょ、ま、待ってくれ空……し、死ぬ……っ」
走りすぎた時に起きる特有の脇腹の引きつりと口の中の乾き、腰やら背中も痛い。
「もー。だらしないなぁ」
へたり込みそうになるのを押さえながら、荒い息を繰り返す。ここ数日毎日やっているわけだが、一向に空に付いてける気がしない。一体何を食ったらああなれるのか。同じものを食べているはずなのに。量の問題にしてもふざけてる気がする。
「はぁーっ、はぁっー……うぇっ」
「お水飲んだら? 持ってきたよね」
「そ、そりゃあなぁ……ないと死ねるわ……」
スポーツ用のサブバックに入った水分を一気に煽る。もうそろそろ冬は終わるが、それでも気温はまだ少し低い。それでも全力疾走の後では体は熱を持つし、冷えた水分を求めたくなる。
「ぷはぁ……あー……ったく、病み上がりなんだけどなぁ」
「とか言いつつ、一緒に走ってくれる当たり海君付き合いがいいねー」
「……別に、そんなんじゃない。ただ、ほら、あれだよ。……体力作りは必要だし」
「あははー」
その笑いはなんだと突っ込みたかったが、息を整えるのが先だった。まだランニングは終わっておらず、少しだけ休憩したら走り続けなければならないのだから。
「ふー……」
息を長く吐き出し、呼吸を整える。
「もう大丈夫?」
「おう」
頷き、
「――」
ドクンと心臓が低く脈打った。
「――ぁっ」
既に一度経験したから。
ふざけんな、ちくしょう。
「海君?」
「――なんでだよ、駄目だ、いけない、逃げろ、どっかいけ、行かなきゃ――」
既に一度経験しているから解る。
自分が――自分じゃなくなるのだ。
「海君!」
「――ッ! 行け逃げろ来るな離れろ!」
叫び、飛び出した。
ついさっきまで力尽きていたというにも関わらず、肉体の発揮できる全力――
自分が、自分じゃなくなり――消えていく。
「海君ッ!」
空の声は、届かない。
椎名海を蝕む
視覚も聴覚も味覚も嗅覚も触覚も何もかもソレに犯される。
解るのは自己の喪失と、残っている微かな自我だけで空から離れようという意思だけがただ足を動かしていく。
そのまま走り続けて、
「どわ!?」
「――!?」
誰かに激突した。
「ッ痛っぇ――ッ!」
「――どけ、逃げろ邪魔だ消えちまえ――ッ」
「おい待てアンタ――」
人間の全力疾走どころか、バイク並の速度の疾走で激突したにも関わらず、少し姿勢を崩すだけにとどまった黒髪の少年に言い棄てるだけ言い棄て、また走り出し、
「――■■■」
椎名海の意識は消失した。
●
「おいおい、まじかよアイツ――!」
一目見た瞬間、そいつから湧き出る正気に気づいた。
馬鹿みたいな勢いでぶつかってきた、流斗と同世代らしき少年。全身から黒い靄をにじませながら、即座に走り去ってしまっていた。
「くっそ、速すぎんだろなんだよ」
走り去った少年を追いかける為に走りだす。
出会い頭に拘束すればよかったんじゃないかと思いつつ、自分には無理だと思い直す。
「先輩なら――あぁくそっこんなんばっかだなぁおい!」
最近微妙な感じの澪霞の顔が頭に浮かび、何とも言えない感情が浮かび上がったのでそれを振り払う。
「とりあえず連絡しねぇと――」
スマホを取り出し――、
「ッ!?」
走り去った方角から轟音とよく解らない嫌な気配が生じた。
「……おいおい、マジかよ」
スマホ握り締めたままに、冷や汗を拭わずにその先に走り出し、
「――■■……」
全身に黒紫の靄――瘴気の化物が、そこにはいた。
ぎらつく真紅の瞳と目が合う。
「……さっきの根性ジャージの方がイカしてたぜ?」
「■■■■ーーッッ!!」
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