絶狼の考えや行動をいちいち詮索する、なんて不粋な真似、この私の流儀じゃない。
したところで、あまり意味もない。
けれど、彼がバイクのエンジンを切った場所が、ある意味、予想通りであり、また予想外でもあったものだから、思わず尋ねてしまった。
「ここなの?、絶狼。」
ヘルメットを脱ぎ、ぷう、と軽く息を吐くと、絶狼は柔らかく笑いながら、
「…まあ、ね。」
地に足を下ろし、ゆっくりと腰を上げると、彼は傍らの建物を見上げた。
黒いシャツに漆黒の魔法衣を引っかけただけの、いつもの出で立ち。
彼はこの姿以外に、なろうとはしない。
何故なのか、改めて尋ねたことはないけれど、おおよその見当はついている。
それにしても、彼にとって、ここは特別な場所。
今さら、なぜ…。
私の内側に、不快な細波が生じ始める。
絶狼の愛車であるバイクの後輪には、両側に革製のバッグが装備されていて、彼は身を屈めると、その片方から、さっき買ったものを取り出した。
これを買ったものだから、ここへやってくることもあり得る。
そう思ったのだけれど、それもただの可能性のひとつにすぎず、確信にまでには至らなかった。
絶狼が今、手にしているもの。
それは、可愛いらしいコンパクトな花束。
まず目を引くのは、ピンクや赤紫のダリア、黄色のフリージア、クリームや白のトルコ桔梗といった華やかな花々。
しかしその影には、カモミイルやミント、ローズマリイといったフレッシュハーブの花達もこっそりとあしらわれている。
明るく爽やかな色合いのその花束は、贈る相手が何をもって喜ぶか、よく熟知している代物。
絶狼はそれをちらりと覗き込み、微かに笑んでから、優しく右手に下げて歩き出す。
赤茶色の煉瓦に覆われた堅牢な外壁に沿ってしばらく進み、玄関前のステップにさしかかると、彼はそれをひょいと右肩に担ぐ。
…そう、ね。
いつも、そうしていた。
彼女に花を贈る時は、いつもこんな風に、背中で隠すようにしていたわね…。
あまり一般的ではない広さのステップを上がりきると、そっけないほど装飾の少ない正面玄関の前に出る。
そびえるように大きい、その両開きの扉は、分厚い無垢の一枚板でできていて、鎚の跡が荒々しい黒く武骨な蝶番や鋲によって、力任せに扉としてそこへ打ち付けられている。
わずかな隙間もない、壁よりも堅固な扉。
初めてここを訪れた者は大抵、まずこの扉に畏れを抱き、尻込みしてしまうのが常だった。
再びここへ立って、そんなことを思い出し、そんなことすらすっかり忘れていたと気づく。
扉の前に立った絶狼は、扉の表面に指先を軽く当てると、そっと押した。
重そうな扉は、音もなく中へと退いてゆく。
やはり、昔と何も変わっていない。
踏み締めるような足取りで、彼は屋内に入る。
今日は幸いにも晴天。
こんな日は、暗くなりがちなエントランスも気にならない。
正面の壁の、少し見上げる位の高さに施されているステンドグラスが、鮮やかな色と光を放って輝き、エントランス全体を明るく照らしてくれるからだ。
ステンドグラス自体が眩しいほど輝いている訳ではない。この、ガラスと光で描かれた絵画には、不思議と空間そのものが鮮やかになるような、そんな明るさをもたらしてくれる効果があるらしい。
だが、今の彼には、そんなことすら目に入っていないだろう。
軽く口元を引き締め、どちらかといえば厳しい表情で、避けようもないくらい目の前にある、二階へと続く階段を見つめている。
ふいに、一瞬だけ鋭く睨み、だがすぐに、足元に視線を落とす。
顔を伏せたままで、彼はまた歩き出す。
さっきまでとは、全く違う足取り。
床に敷かれている深い瑠璃色の絨毯の上を、彼はゆっくり、ゆっくりと、まるで静謐な儀式か何かのように進み、階段を前にして立ち止まる。
その場を見下ろし、彼は微動だにしない。
理由など、聞くまでもない。
あの時、間に合うことができなかった絶狼と私は、ここで見つけたのだ。
事切れた、道寺の亡骸を。
ここに立つだけで、嫌でもあの時の情景をまざまざと思い出してしまうのは、きっと私も彼も、変わりないだろう。
暗闇に浮かぶ、記憶の中のその情景から逃れるように、私はぐるりと辺りを見回す。
うっすらと光を反射する白壁と、手の込んだ調度品のようなマホガニーの手摺や階段。それから、繊細な輝きで光りを散らす、細やかなガラス製のシャンデリア。
それらが呼び水となって、果てのない凍てついた記憶の海から、幾つもの光景や瞬間が甦ってくる。
以前ここに住んでいたあの三人のことを、その時ここに棲んでいた私は、私なりに楽しんでいた、らしい。
だからこそ、今、私は懸命に平静であろうと努めているのだ、と気づく。
不快で、不快で、たまらない。
私の奥底で膨らみ始めている、絶狼に対する仄暗い期待が。
彼の抱える深い悲しみが、ホラーにとってひどく甘美で食欲をそそる、憎しみや殺意といった浅薄な感情へと、捻れ、歪み、狂暴に膨らんでいけばいい…。
そんなことを、魔導具であるこの私が期待するなんて、プライドが許さない。
そんな風に意識を乱され、私はひとり、悔しくて苛立つ。
一方、絶狼はというと、意外なほど落ち着きを払っている様だった。
呼吸を乱すことも、感情をざわつかせることもなく、ただ足元を見下ろす。
しかしそれも、長い時間、そうしていたわけではなく、ふいにゆらっと頭を上げると、これから向かう先へと視線を投げ、それからまたゆっくりと歩き出す。
数段を昇り、踊り場に立つ。
そこで二階へと上がる階段は、右と左の二方向へ分かれ、それぞれ城の東側、西側へと向かう廊下へと伸びていく。
絶狼はその東側へと続く階段の前に立ち、止まった。
再び、首を深く折って俯く絶狼を、私は息を殺して、待つ。
何の気配もない、静かなエントランス。
空気の流れすらない。
私は意味もなく、耳をそばだててしまう。
ほどなくして、絶狼は右足を軽く持ち上げると、爪先を高く上げたハーフブーツの底で、階段の一段目の角を蹴り始めた。まるで踏み潰すかのように、がしがしと何度も蹴りつける。
そうして彼は、階段の軋む音をしばらく見下ろしていたが、ふいにその爪先が一段目に乗った。
トトン、と二度、その爪先が軽やかに階段を叩き、彼はくいと上階を見上げる。
翳りのない、まっすぐな表情。
彼は階段を昇り始める。
いつもの彼なら、一瞬で駆け上がってしまうくらいの階段であるのに、今日はひどく時間をかけて進む。
やっと階段を昇り終え、絶狼は再び、足元の絨毯だけに視線を這わせながら、彼女の部屋の前に立った。
自分の記憶に間違いがないか確かめるように、彼はしばしドアを見つめる。
絶狼の白い指が、躊躇いがちにドアノブへと伸びた。
剣士のくせに、絶狼の手には傷痕ひとつ、見当たらない。
幼い頃から、彼は極力、傷を負わない戦い方を自身に叩き込んできたからだ。
戦士として、傷を負わないようにすることは至極当然なことだろう。
だが、それに固執しないこともまた、戦いに勝利するためには必要な場合もある。
特に、魔戒騎士の戦いに、負けは有り得ない。あってはならない。
それでも、絶狼は傷を負わないことに拘(こだわ)った。
そのためになら、どんなに辛く厳しい鍛錬でも厭うことなく、自ら進んで課すほどに。
最初こそ、道寺も怪訝そうであったが、その理由に気づくと、何も言わず、鍛練の内容に彼の意に沿うものを取り入れてやっていた。
絶狼がそこまでする理由なんて、決まっている。
彼の手に傷や痣を見つけただけで泣きそうになってしまう、彼女のため。
彼女は絶狼と出会ってからというもの、ひたむきに彼を想い、彼もまた、そんな彼女を想った。
二人の互いを想い合う心は、いつだって、今でさえ、こんな風に絶狼を傷や痛みから守っている。
そう思いついて、私はわずかに呼吸を乱す。
彼の目の前にある、鈍い光りを纏った真鍮製のドアノブ。
ぎこちない仕草で、彼はそれを掴む。
そうして、絶狼はまた、動かなくなった。
今までの経験上、こんな時の『人』に声をかけてはいけない。
声をかけることは、邪魔をすることと同じで、大抵の場合、私は疎まれ嫌われてしまう。
待つことしかできない私は、ため息まじりに意識を広げ、辺りに注意を向けた。
今いるこの廊下は、明るく暖かで心地よい。
だが、足元の絨毯には、はっきりとした影は見当たらない。視界を巡らせ、明るさがどこからやってきているのかと探せば、のびやかに背の高い窓が絶狼を背中から見下ろしていた。
東西へと伸びる二階の廊下。その北側の壁には、このような大きな窓が並んで配されている。
この窓のおかげで、城はかろうじて凍てつかずにすんでいたことを思い出す。
堅牢であること。それが建造物として大前提である、城。
一階には最低限の開口部しかなく、よって窓も最小限の明りを取るくらいにしか配されていない。
それでも、昼間から電灯をつけたくなるくらい部屋は暗く、空気は淀みがちで、子供たちはいつも低い室温に震えていた。
しかし、二階はこの窓のおかげで、過ごしやすい室温と明るさが保たれ、気づくと子供たちは二階でばかり遊んでいた気がする。
この窓がもたらす直接的でない穏やかな明るさは、子供たちと共に、この城の強張りをやんわりと和らげていた、そんな過去を思い出していた。
だが、そう思い返せたのも、ほんのつかの間。
廊下全体が薄く翳り、視界から明るさが沈む。
全ての色から、さあと鮮やかさが欠ける。
深みのあるマホガニーの腰壁は黒ずみ、鮮やかな瑠璃色の絨毯は平坦な青緑と化す。
さては、無粋な雲が無神経に太陽の前をよぎって、その恩恵の邪魔をしているに違いない。
意識の細波に、不快なうねりが混じり始め、私は眉根を寄せる。
突然、絶狼の後ろの窓に、鳥の影がよぎった。
羽ばたきの音が一瞬して、直後、高く鋭い鳴き声が窓ガラスを貫く。
威嚇か、仲間への警告か。
しかしそれも、旋風(つむじかぜ)のようにあっという間で、もうすでに遠い。
その余韻すら消えてしまえば、もう何の音もしない。
それでも、耳は音を探す。
気配のようなひそやかさで、意識の外から届いてくるのは、中庭にある噴水が立てる水音。遠い葉摺れの音。
もう、そんなものしか聞こえてこない。
あまりの静けさに、意識を閉じてしまおうかと迷い始めた頃、また、辺りにふわりと温かい気配が戻ってきた。
かち、…かちん。
小さな金属音が間近で聞こえ、私は眉をしかめる。
絶狼の握り込む力に負けて、ドアノブが変形し始めているらしい。
彼の胸の内を推しはかることはできても、見抜くことはできない。
当然、かけるべき言葉も、持ち合わせていない。
だから私は、そっと名を呼ぶ。
貴方の名を知る存在が、今、ここにいて、貴方の様子がおかしいことに気づいている、と伝えたくて。
理由?
そんなもの、ホラーには必要ない。
そんなものがいるのは、人だけ。
私はしたいようにするだけの、人でないもの。
「…、絶狼?」
瞬間、彼の手から力が抜ける。
同時に、爪の先の方まで彼をきつく縛り上げていた、繊細で頑強な何かが、あっけなく散ったのを感じる。
強ばりが解け、彼はふう、と小さく息を吐いた。
そして、穏やかな笑みを浮かべて呟く。
「大丈夫だ。」
そう言うなり、絶狼はさらりとドアノブを回し、身体ごと部屋に踏み込んだ。
ドアはすんなりと室内に吸い込まれ、彼は踏み込んだその場から中を見回す。
ベッドも、机も、みな昔見たまま。
その光景を目にし、絶狼は胸を突かれたように固まる。
眉をしかめ、苦しげな息を二、三、繰り返すと、彼はぎこちなくなってしまった呼吸を、無理矢理ねじ伏せる。固く拳を握り込み、俯いて息をつめれば、何秒とかからず、絶狼は己を元に戻せる。
今回も、そうして絶狼は普段に戻った。
鋭さを隠すナイフのような眼差しに、凪いだ黒曜の双眸。
今の絶狼はこんな風に、気配のない殺気を、何気なく纏うことができる。
魔戒騎士としての長いキャリアが、自然とそうさせてしまうのだろう。
胸に止めていた息を、フッと肩で短く吐いてから、彼はその端整な顔立ちに、静かな笑みを滲ませた。
纏った殺気が、綺麗に消え失せる。
微笑は、苦そうではあったものの、どこか自嘲気味にも見えた。
再び、部屋の奥へと進み始めた彼の足取りが、先程より柔らかい。
この部屋に保たれている空気さえ壊したくないかのように、彼はそっと机に近づくと、手にしていた花束をやんわりと置いた。
「…ただいま、…かな。」
机の本立てにある淡いピンク色のファイルや、ペン立てに一本だけ置かれてある、クリーム色のシャーペンが目に入り、それらが確かに彼女の手にあった光景をも思い出す。
両腕で抱えていたあのピンク色のファイルには、確かピアノの楽譜が閉じてあったはず。
クリーム色のあのシャーペンは、彼女のお気に入りのひとつで、机に向かっている時は、いつも彼女の手に握られていたものだ。安物だが書きやすい、と言うだけあって、彼女はこのペンを何度壊れても買い直していた、と記憶している。
他愛もない、ありふれた小物たち。
そんなものであっても、彼女が間違いなくここにいて、生活していた確かな証。
彼女が何気なく使っていた、その時のままで今も残されているこの机、それ自体もまた、彼女が生きていた証のひとつと言えた。
だから今みたいに、どちらかというと誕生日のプレゼントと共に贈られるのがふさわしいくらい、可愛いくて華やかな花束が置かれていると、随分前に彼女はこの世を去った、という事実の方が、ひどく不自然な気さえする。
背後のドアがかちりと開き、
「あ、銀牙。」
甘い香りのするミルクティーのカップを手にした彼女が、危なっかしい様子で現れ、机の上に気づくなり、ほころぶように微笑む。急いで机に近づくと、慌ただしくも慎重に、両手でカップを傍らに置き、子猫でもすくい上げるような手つきで花束を胸に抱く。
「なんて可愛いらしい花束。」
胸元で咲き乱れる花々を見下ろしながら、彼女はそう囁くと、その美しさや香りを充分満喫してから、上目遣いに彼を見上げて、
「もらっちゃって、いいの?銀牙。」
彼女は嬉しさを輝きに変えて、柔らかく微笑む。
見ているこちらまで心がほどけるような、優しく美しい笑顔で。
私にさえ、そんな幻が見えてしまうくらい、この部屋には今なお、彼女が生きている。
絶狼が、ぽつりと、
「よかった…。」
彼はあの時から、本当の顔を隠している。
隠すために、笑顔を止めることができない。
止めたその瞬間から、彼は本当の表情に戻ってしまう。
だから今、笑顔でいることを止めてしまっている彼は、誰にも見せたことのない、本当の素顔。
唯一の彼女にすら、見せていない顔。
しかし、そこで思い出す。
例外がひとり、いたことを。
あの子は、見ている。
ほんのひと時、絶狼の素顔を見て、満足そうに消えていった、黒髪のあの娘。
私には、『悲しみ』という感情が欠落している子供にしか見えなかったけれど、絶狼にはまた違った一面が見えていたのか、あるいは同じ思いを抱えているように感じたのか。
最後、あの子がその姿を失うまで、彼は素顔のまま、ずっと彼女を抱きしめていた。
今となっては、もう、どうでもいいことだけれど。
絶狼の指先が、銀色の小鳥に伸び、優しく撫でる。
机の上で羽ばたく、銀色の小鳥。それは、細長いガラスの花瓶を支えるスタンドの一部で、今は寂しげに空の花瓶に寄り添っている。
緩慢に身体ごと振り向き、絶狼は彼女のベッドを間近から見下ろした。
綺麗に整えられたベッドには、見覚えのあるカバーがかけられている。
彼女の好きだった色と、銀牙の好きだった色が、美しく調和しているそのベッドカバーは、彼女がパッチワークでこつこつと作り上げた代物。
ベッドから出られなかった時の彼女が、退屈を持て余した果てに生み出した、作品のひとつだ。
道寺から絶対安静と診断されると、彼女はいつも、大人しくベッドに横になった。
だが、どんなにいい子でも、数日が限界。
長引けばどうしたって飽きてしまい、そうなると彼女はよく本を読んでいたのだが、いつの頃からか、パッチワークもするようになった。
背中に枕やクッションをあてがい、壁やベッドの柵に上半身を預けて座りながら、彼女は針を動かす。
小さな布地を根気よく丁寧に縫い合わせていく、ただそれだけを繰り返す作業が、信じられないことに、彼女には苦痛ではなかったらしい。
彼女が手を動かし始めると、どこからともなく絶狼が現れ、彼女のベッドの端に腰かけて、魔導書を開く。
彼女はこの手の作業に、夢中になりやすい。
だから、タイミングを見て、それとなくストップをかけてあげないといけないことを、彼はよく知っていたから。
もちろん、もっと単純な理由が、まず第一にあるのだけれど。
あの日も、そうして小一時間ほど、二人静かに過ごしていた時、
「銀牙。」
「ん?」
呼ばれて、絶狼が本から顔を上げると、彼女は表情の乏しい顔で彼を見つめたまま、ぽつんと、
「完成、しちゃった。」
「え、出来たの?すごいじゃないか。」
読んでいた魔導書をベッドに投げ出し、絶狼がにこやかに感心して見せる。
しかし彼女は、どこか上の空、という表情。
ようやく出来上がったというのにあまり喜んでいない彼女の様子に、絶狼が首をかしげていると、彼女は手元にあるそのベッドカバーを見下ろしたまま、ぽろっと涙を落した。
「え?」
予想外の出来事に、絶狼は動揺するが、彼女はそんな彼の腕を指先で優しくとらえて、緩やかに首を横に振る。
「違うの。ごめんなさい。」
「静香?」
覗き込む絶狼に、彼女は顔を伏せたまま、身を寄せ、
「こんなことでも、凄く、…嬉しくて。
こんな私でも、ちゃんと作れた。最後まで、…完成させることができるなんて、ちっとも、思ってなかったから。だから今、本当に、本当に、嬉しいの。」
そう囁いたら、彼女の涙は、はらはらと止まらなくなった。
口元を押さえ、声を殺して泣く彼女を見つめ、絶狼はその傍らに座り直すと、震える細い肩をずっと抱いてやっていた。
彼女が泣き止むまで。優しく、守るように。
彼女の残された時間が、他の人のそれより短いことは、二人とも幼い頃から知っていた。
だからこそ、二人は諦めてしまうのではなく、いつも前向きであろうと努めていた。
懸命に、であったのはきっと、無意識に、だろう。
こんなことで泣いてしまうほど、彼女は本当は張りつめていて、絶狼はそんな彼女を守りたいと心から望んでいた。
誰に何と言われようとも。
ふいに、彼の顎先から、雫がひとつ落ちて、
「まだ、…嫌だ。」
解らない、絶狼の台詞。
解らないけれど、
「いいのよ、絶狼…。好きになさい。」
私は貴方の味方。
貴方の命が尽きるその時まで。
『愛しい』絶狼。
貴方の心臓の、最後の鼓動は、私のもの。
だから、どんなことがあっても、私は貴方を見放さない。
廊下に出て、彼女の部屋のドアを閉めようとする絶狼に、私は声をかけた。
「どんな心境の変化なの?絶狼。ここは苦手ではなかった?」
しかし、彼は丁寧にドアを閉ざすと、今度は隣の、道寺の書斎の前に立つ。
急に元気な素振りになって、
「ここも随分と久し振りだなぁ。ちょっと見て行こ。」
先刻とは打って変わり、絶狼は躊躇いなくドアを開け、中へと飛び込む。
「うっあ、懐かしい。」
はしゃぐように笑いながら、彼はぐるりと身を翻す。
陽を入れることが少ないこの書斎には、いつもひんやりとした空気がひっそりと満ちていて、踏み込む度に肌がざわめく。
古書が放つ時を経た紙やインクの匂いはもちろん、薬棚の怪しげな小瓶や、蝋燭に煤けたカーテン等から漂う様々な残り香に、絶狼は目を細めた。
この書斎には南側にささやかなバルコニーがあり、それを見渡せる広さの頑強な格子窓とテラス戸によって室内と仕切られている。
格子窓とテラス戸には当然、特殊なガラスがはめ込まれており、中から外を望むことはできても、外から中を覗くことはできない仕掛けがされていた。勿論、強度という部分においても、相応の対策が施されている。
その格子窓を覆う為のカーテンが中途半端に開いていて、絶狼は誘われるように歩み寄ると、そこから外の景色を眺めた。
「本当に、何も変わっていないんだな。」
そうひとりごちた彼に、不思議と悲しみの色はない。
例えそれがただの虚勢であっても、私は一向に構わない。
さざめいていた私の意識が、そんないつもの絶狼らしさによって、また冷たく凍てついていく。
普段の私に安定していく。
なら、もう何も望まない。
私の問いかけに、絶狼が応えなかったことすら、もうどうでもいい。
沈黙は、消極的な拒絶。
彼は、知っている。
私の質問は心配からではなく、ただの好奇心からだと。
私は魔導具であり、ホラー。
何より人の陰我に魅せられ、食欲を煽られる、魔戒に棲むもの。
人にとり憑き、人を喰う、人に仇なすもの。
どんなに感情豊かに見せても、それは人を惑わす能力のひとつに過ぎない。
第一、私が案じたところで、それが役に立つことはない。
私に何か打ち明けたところで、私ができることもない。
でも、それでも絶狼は大抵、言葉を返してくれる。
賢い彼は、私が喜ぶような言葉や言い方を選んで、きちんと答えてくれたり、さらりとかわしてくれたりする。
そんな風に、私を家族として扱おうとするが故に、彼は感情のまま、言えることは言い、言いたくないことは沈黙する。
気を使わない、ということは、絶狼にとってはそういうことらしい。
だから、広大な凉邑家の敷地を窓辺から眺めていた彼が、ふいに私をその眼差しの前へと翳した時、私は逆に不可解にさえ思った。
もちろん、思慮深い魔導具として、そんな些細な疑念をいちいち口に出したりはしない。
思ったことをすぐ口に出すなんてことは、少なくとも、私は望まれていない。
かつての絶狼達から、私はそう学んでいる。彼らがそう望むのは、命をかけて守り、いとおしむ、愛する者たちばかり。
私は分をわきまえた、有能な魔導具であればいい。
どこか険しい表情の絶狼を見つめ、私は彼の言葉を待つ。
ほどなくして、絶狼は軽く息を吸い込んでから、明るく力強い口振りで話してくれた。
「もうすぐ、雷牙が十歳になる。
それまでに、あいつらが戻らなかったら、俺は鋼牙の代わりをする約束をした。
もし、雷牙が魔戒騎士となることを望むなら、俺は奴を鍛えなくちゃならない。
その約束を果たす前に、…自分もいい加減、逃げてばかりじゃなく、けじめをつけようと思ったんだ。」
けじめ…。
ホラーには分かりにくい、人特有の心の有り様。
私は半分理解を諦め、残り半分で、
「ついたの?」
すると彼はため息混じりに笑って、
「ああ。…俺はまだ、過去のことだと割り切って、思い出なんかにしたくない。そう、けじめをつけた。」
可哀想な子…。
結局、まだ引きずりたいのね。
世界はもっと明るくて、広大で、様々な存在で溢れているというのに。
貴方はどうしても、彼女に拘ることを望むのね。
まだ、悲しみたいのね…。
私は、青い夜に静かな草原を照らす月の光りを思い浮かべながら、優しい旋律を奏でるように、
「絶狼、…人は時の流れと共に、どんなことをも忘れることができる生き物と、聞いたことがあるわ。」
実際、そんな風に生きた絶狼もいた。
そんな風に生きても、魔戒騎士であることを棄てさえしまわなければ、誰も何も言わない。
何もかも捨て、あるいは失い、違う世界へ行くように、隣町に根を下ろし、全く違う家族と幸せになることは、間違ってさえいない。
「でも、貴方はまだ、抗うというのね?」
とても彼らしいと解っていながら、それでも違う答えをして欲しいと望んでしまう私が囁く。
絶狼は、私の台詞に、ふわりと笑った。
柔らかく穏やかなその笑顔は、いつもとどこかが違っていて、何故か懐かしい気さえする。
「忘れる、なんてあり得ないさ。」
そう言った彼の声は、とても晴れやかで、私は不意を突かれた。
しかし、微笑はすぐにかき消され、絶狼は表情を引き締める。
強い光りを宿した瞳を、陽光に満ちた外界へと向けて、
「俺は、忘れない。忘れる訳には、いかない。」
噛み締めるような彼の口調からは、揺るぎない決意が伝わってくる。
高潔で凛々しい、彼の真摯な表情。
絶狼は軽く唇を噛んでから、断固たる口振りでもって、
「忘れてしまったら、全部、消えてしまう。なかったことになる。
俺に家族がいたことも、愛してくれた人がいたことも。
俺が、いなかったも同然にしてしまう。
そんなのは、嫌だ。
あの二人がいたからこそ、今の俺が生きているのに。」
絶狼は挑むような眼つきでテラス戸の向こうを望んでいるが、もしかしたら、テラス戸のガラスに映った、もうひとりの自分を睨みつけているのかもしれない。
彼の語気には、そんな重たい気迫があった。
けれど、私は困惑し、何も言えない。
何も言わない無様な魔導具に、絶狼は眼差しを戻すと、再び穏やかな笑みを浮かべて、
「あの時、シルヴァがそう言ったんだぜ。」
決して責めている訳ではない呟き。
……、そうよ。
あの時、私は彼に囁いた。
悲しみと絶望にうちひしがれ、身動きひとつ取れずにいた彼に、私はそう囁き、そして二人の復讐まで唆(そそのか)した。
あの二人がそんなことを望むはずがない。
それくらい、私にだって解っていた。
でも、それでもあんなことを言ったのは、あのまま絶狼を死なせたくなかったから。
それは、紛れもない真実。
けれど本当は、それだけじゃない。
あの時、私は他方で確かに、喜びに溢れていた。満ち足りていた。真っ黒な嬌喜を享受し、甘い悦楽に意識は溺れんばかりだった。
今、私が彼の全てを握っている。
彼の命も、彼の心も、彼の未来までもが、間違いなく私の手に握られていて、弄ぶことも、握り潰すことも、私次第。
そんな快感に酔いしれていた。
あの時の私は、主を守る魔導具でありながらも、闇堕ちを唆すホラーそのものだった。
だからこそ、痛む。
今さっきの、絶狼の言葉。
彼に他意はない。
それは、わかっている。
それでも、今改めて、彼の口からあの時の私の言葉を聞かされて、私は苦く重たい闇を背負ってしまったんだと気づいた。
まるで、『人』のように。
そして、嫌というほど思い知ってしまう。
この闇は、決して私を解放してはくれないことを。
絶狼は、私のせい、ではなく、私のおかげ、というニュアンスで話してくれた。
そんな彼の思いに、私は何を思えばいいのだろう。
ホラーである私は、それをわかっていいのだろうか。
何一つわからないまま、全てをわかっている振りをして、とても巧妙に人の感情の猿真似をする。
それが一番、私にふさわしい気がするのだけれど…。
いまだに、どこかあどけなさが残る絶狼の笑顔を向けられても、私は眼差しを伏せ、力なく告げるばかりだ。
「ええ、…そうね。確かに、そう言ったわ。
でも本当は、今の貴方の在り方そのものが、二人が生きていた証ではなくて?
今の絶狼の在り方を決定したのは、間違いなく、あの二人だもの。
それは、絶狼があの二人を忘れても、忘れなくても、変わらない事実。
だから、あの時の私の呪いは、もう解けてしまって構わないのだけれど。」
すげない、冷えた口振りでわざと悪意のある言葉を使ってみせれば、たちまち、絶狼は眉をひそませ、怪訝そうに聞き返してきた。
「呪い?」
私はすかさず、用意していた台詞を差し出す。
そう、これは、弁明。
私なりの謝罪。
「絶狼が死を望むということは、絶狼の中に在る二人に関する全ての記憶をこの世から消すということ。
それは、貴方までが二人を殺すのと同じ。
あの時、私はそう言ったわ。
今は、死なんて選びはしないでしょうけど、忘れる、ということに置き換えても、意味は同じになる。」
饒舌な自分に幾分落ち込みながらも、どうしても伝えなくてはならないところまで、必死に語る。
「けれど今なお、貴方がそんな言葉に縛られ、幸せに背を向け続けるなら、それはもう、ただの呪いだわ。
仇討ちを果たしたあの瞬間に、二人は現在と切り離され、初めて過去となった。
今を生きる者は、過去に縛られてはいけないわ。
先立ってしまった者を、絶狼が怨霊にしてしまっては、あまりに彼らが哀れだもの。
だから、もう過去に縛られないで。絶狼。」
詭弁だった、と我ながら思う。
だからこそ、いつか伝えなくては、と思っていた。
今を逃しては、私の『闇』は深くなるばかり。
ホラーが闇を恐れるなんて、バカげた話だけど、何より、これ以上この子を惑わすような真似は、したくない。
私は瞼を閉じ、黙する。
絶狼は、聡明だわ…。
勝手に力が抜け、私の意識は沈みながら拡散し始める。
私が話している間、絶狼は何も言わずただ聞いていた。
そして、私が黙り込んでしまった後も、身動きひとつ、せずにいる。
蝋燭の火が消えた後に立ち昇る、白く細い煙のような不安が、私の中で揺らめく。
身勝手、と言われても仕方ない。
あるいは、絶狼の胸内では、すでに私を見限っているのかもしれない。
震え凍える意識の中、微かに空気が揺らいだのを感じた直後、
「縛られてなんかないぜ、シルヴァ。」
軽やかに、はっきりと言い切る絶狼の口振りに、私は驚いて見上げる。
彼はあやすような笑みを浮かべて、楽しげに言った。
「言ったはずだ。忘れる訳にはいかない、って。
これは、俺の意思なんだ。
俺はここへ来て、決めた。
忘れない。過去のことにも、思い出にも、しない、と。」
しかし、そう言い切ったにも関わらず、彼の面差しが一瞬だけ深い翳りに沈んだのを、私は見逃す訳にはいかなかった。
まるで、風に駆ける薄い群雲が、白い月の前をほんの一瞬よぎるかのように。
だが彼はすぐに明るい表情に戻って、元気に話し出す。
「道寺のことは、すごく身近に感じる時があるんだ。
俺が魔戒騎士であろうとするほど、あの人の気配を、剣や絶狼から感じる。共に戦ってくれてるんだ、今でも。
それなのに、俺が勝手に、過去とか思い出なんかにできないだろ?」
笑顔でそう語る絶狼は、嬉しそうですらある。
「彼は、魔戒騎士だった。
そして、あの人は絶狼を継いだ瞬間から、どんな死であっても受け入れる覚悟ができていた、そんな気がする。
だから俺も、バラゴが消え失せた時、仇を討てた、少しは精算できた、と思えたんだ。」
軽やかに言い切る絶狼の面差しは、後悔に囚われている者のそれではなかった。
絶狼の、道寺に対する誠実な尊敬や感謝の念がまっすぐに伝わってくる。
すると何故か、私まで、意識が熱を帯びた感覚になった。
魔戒には、決して存在しない、光りを帯びた熱を。
しかし絶狼はそこまで言って、ゆっくりと、大きく苦しそうな息を吐いた。
と同時に、ゆるゆると私を身体の脇に下ろす。
これでもう、私は絶狼の表情を覗くことはできない。
私の傍らには壊れんばかりに握りしめられた、彼の拳。
私の意識の細波が、暗く乱れる。
絶狼の心が、こんなにも軋んでいる。
今、彼の心に溢れているのは、きっと、彼女。
あの時以来、この子は滅多なことでは、彼女のことを口にしなくなった。
この私にさえ。
そう思ったこともあったけれど、本当はそうじゃない。
今は、解る。
彼は心のどこかで、私を責めている。
否、責めたがっている、と言った方が正しいだろう。
あの晩、私がもっと早く、バラゴの気配を探知していれば、こんなことにはならなかった、静香を失うことだってなかったんだ、と。
だが、彼は解ってもいる。
私を責めたところで、過ぎてしまったことを変えられる訳でもない、と。
だから、彼は未だ一度たりとも、私を責めたことなどない。
余計なことは何も言わず、残された者同士として、悲しみを共有し、共に在り続けようとしている。
ひたすら、思いを胸に秘めて。
彼は、心優しい家族。
けれど、私には、彼に知られず、彼を知ることができる瞬間がある。
魂の契約の代償として、彼が差し出すほんの指の先ほどの命を、惜しみながらも、うっとりと一口だけかじる、あの瞬間。
彼の精神が、ほんのわずかだけ流れ込んでくる。
それは、写真のような一瞬の映像と、複雑な感情の色と熱を持っていて、心のほんのひとかけらの断片でありながらも、私の意識を魅了する。
不確かで、不安定で、甘く苦く、柔らかく鋭く、清く冷たく。
闇の中で戦い続ける、揺らぎのない彼にはそぐわないほど、彼の隠している心そのものだと分かってしまう。
そして、一度だけ、垣間見えてしまった。
流れ込んでくるあまりにも膨大な情報量が、まるでノイズのようだったけれど、その中で明らかに、他とは異なっていたもの。
目を瞠るほどに美しく、悲しげにはらはらと涙を落とし続ける、今は亡き婚約者。
白く目映い光りに包まれた彼女は、まるではっきりとしない幻のようだったが、一瞬見ただけでも、よく解った。
今でも、彼女が絶狼の全てだと。
私は尋ねたくなり、口を開こうとしたが、彼の方がわずかに早かった。
「ここへ来たのは、正解だったな。」
この書斎に踏み込んだ時と同様、晴れやかに明瞭な声でそう言いながら、絶狼は大きく伸びをして見せる。
穏やかな彼の瞳は、城の南側に広がる深い緑色の芝生を映しながら、
「俺はまだ、立っていられる。」
ついさっきまでの陰りを微塵も感じさせない、突き抜けた表情の絶狼に、私は戸惑う。
戸惑うが、即座にそれは切り捨てる。
絶狼が迷いを断ち切れたのなら、私の戸惑いなど、どうでもいい。
彼が前に進めるのなら、それだけでいい。
私はある記憶を手繰り寄せながら、絶狼へ尋ねる。
「ねぇ、絶狼。覚えているかしら?」
思わせ振りな台詞を、柔らかな口調で響かせれば、彼は私を胸元まで持ち上げて、怪訝そうな眼で見下ろす。
彼が本当に二人を忘れないと、過去にも、思い出にもしないと決めたのなら、こんなことで揺らいだりはしないはず。
私は彼の眼差しを、瞬きで刻みながら、
「写真のこと。毎年、三人で撮っていた。」
「写真?」
訝しげに眉を寄せて、怖いくらいに考え込んでいた絶狼だったが、ふいに一瞬だけ目を瞠り、すぐにその表情は優しく緩んで、悔しそうな笑みへと変わる。
「思い出した。……そうだ、撮ってたよなぁ。すっかり忘れてたよ。」
ため息混じりにそう言って、彼は肩を落とす。
懐かしげに苦笑する彼に、私は重ねて、
「あれが今、どこにあるか、貴方、知っている?」
すると彼はびっくりした顔になり、
「え?、あれって、まだあるのか?俺はてっきり、道寺が…」
そこまで言って、絶狼は笑みをかき消し、幾分沈んだ眼差しで口を噤む。
彼の推測は、確かに正論。
魔戒騎士たる者、己れのどんな痕跡であれ、抹消しなくてはならない。
道寺も絶狼にそう教え、実践してみせてもいた。
しかし、私は得意げな含み笑いを湛えたまま、睫毛を震わせ、
「なら、道寺の、あの椅子に腰かけてみて。」
誘うように囁きながら、私はちらりと道寺の机のある方へと目配せした。
絶狼は何を思ったのか、少しだけ躊躇った後、でも私の指示通り、道寺の机に向かう。
上質な黒革で覆われた、ゆったりとした安楽椅子に、彼は静静と身を沈め、肘を折った両腕をひじ掛けにのせる。
かつての、道寺のように。
椅子に背中や首まで預け、絶狼はそこから見える景色を不思議そうな眼差しで、しばし眺めた。
彼の爪先が床を軽く蹴り、ゆっくりと椅子を回らす。緩慢に回る視界に、絶狼は何を見ているのか。
軋む音さえ立てることなく、椅子はおおよそ一周したところで動きを止めた。
冷たい表情の絶狼が、こうしてこの席に座っていると、彼こそ凉邑家当主であるという威厳すら感じられる。
しかし、絶狼はすぐに私を目の前に翳して、にこやかに、
「で?」
唐突に聞き返してくる気紛れな主に、私はさも慣れていると言わんばかりの笑みを向け、
「ちょっと待っていて。今、開けるから。」
そう返して、私は呟く。
『イデ アル ナ ピエタ』
魔戒語の、簡単なセンテンス。
それに呼応して、道寺の机の、上から二番目の引き出しが、かこっ、と鳴った。
絶狼は少し緊張した面持ちで、私を見つめる。
しかし、私は何も言わない。
見れば分かることを説明なんてしたくもない。
確かに私は、今の今まで、絶狼に言ったことはない。
実は、道寺の声を再現できるなんて。
それに、さっきの魔戒語の意味だって、絶狼ならすぐに分かったはず。
私は絶狼の鋭い眼差しを、あえて見返す。
悪いことなど、何もしていないもの。
わずかだけ口角を上げ、挑むように見返していれば、絶狼はいきなり、笑った。
「さすが、シルヴァ。そんなこともできるのか。」
楽しげに笑いながら、絶狼は解錠された引き出しを開ける。
引き出しの中には、いくつものフォトフレームが本のように閉じてしまわれていた。
そのひとつを手に取り、中に飾られている写真に目を落とす。
椅子に身体を預け、両手でフォトフレームを持って、彼は写真を眺める。
今の絶狼はきっと、道寺と同じ眼をしている。
鋭い眼つきなのに、ひどく凪いだ瞳で、きっと写真を見つめている。
「『すべては、ここに。』…か。」
絶狼が弱いため息と共に呟く。
道寺にとっての、すべて。
それを見て、絶狼が何を思うのか、私には想像もつかない。
だけど私は、絶狼の知らない事実を、まだ幾つか知っている。
私が知っているだけでは、何の価値もない記憶。
私は自分の思いつきに、意識がさざめくのを感じる。
緩やかな熱を帯びた、細波。
フフ、きっと私は今、「楽しい」のだわ。