道寺は、手を止め、顔を上げた。
書斎の扉の向こうに、人の気配がする。小さくて、ひどく頼りない気配。
「愛娘よ、絶狼。」
胸元で、銀色の美貌が、からかい気味に囁く。
その直後、微かなノックの音がして、重厚な木製の扉がゆっくりと室内に押し込まれる。
見れば、その隙間の影から、静香の白い顔が覗き込んでいた。
「あの、お父様、…今、お話ししても、いい?」
消え入りそうなくらい小さな彼女の声に、道寺は深く頷く。
それを認めてから、静香はワンピースの裾を揺らめかせつつ、恐る恐る、道寺の机の前である書斎の真ん中に立った。
今日の彼女は、グレイを基調としたワンピース姿だったが、アクセントに黒のリボンや白のレースがあしらわれていて、控えめながらも可愛いらしい。
ふわふわとした明るい亜麻色の髪は、黒いリボンのカチューシャが軽く押さえていた。
未だに、仕事中の無愛想な道寺が苦手らしく、やってきた静香の表情は、強ばり引きつって見える。
胸の前で握り合っている彼女の指先が、真っ白であるのを眺めながら、道寺は柔らかい口調で促した。
「どうした、静香。」
すると、彼女は思いつめた面差しを伏せて、たどたどしく告げる。
「お願いが、あるの。」
「願い?」
怪訝そうに聞き返されてしまい、静香は俯いてしまいがちの顔を必死に上げながら、おどおどとした眼差しを道寺に向け、
「あのね、…次の誕生日って、初めて銀牙も一緒の誕生日でしょう?
だから、記念に、……写真を撮りたいの。私と、銀牙と、お父様で。」
緊張で、息もうまくできないらしい。
たどたどしい口振りで、それでも、静香は自身の願いを告げた。
道寺は、当然、彼女の言葉が聞こえていたはずなのに、憮然とした顔のまま動かない。
返事すらしてもらえず、静香はますます色をなくしながらも、
「駄目、かしら?」
倒れそうなほど彼女は張りつめた様子であるのに、道寺は緩慢に机の上へ視線を泳がせながら、
「駄目、という訳では、ない。」
歯切れの悪い道寺の台詞に、静香は首を傾げる。
彼の不可思議な態度に気をとられ、とりあえず緊張から解放されたらしい静香だったが、道寺はどこか冷たい目で彼女を見つめ、
「いいのか?そんなものを残して。まだ、わからないのに。」
道寺の声は、固く低く揺るぎない。
銀牙は今なお、いついなくなるか、分からない。
改めてそう宣告されてしまい、静香は先程とは異なる様子で、再びぴしりと表情を強ばらせた。
だが気丈にも、すぐに思い切り明るく笑って見せ、
「私なら平気よ。きっとそんなことにはならない、って信じているもの。」
にこやかにそう言って、静香は微かに首をかたむけた。亜麻色の前髪がさらりと揺れ、白い額に可憐さが映える。
すとん、と鳶色の瞳を手前の床へ落とし、彼女は確信めいた微笑みを浮かべて、
「銀牙なら、きっと大丈夫よ。」
まるで自身を励ますような台詞。
しかし、そんな静香を目の当たりにしても、道寺はわずかに瞼を伏せるばかり。
彼の冷たく沈んだ面差しを見て、静香の笑顔はあっという間に搔き消されてしまう。
口をへの字に曲げたかと思うと、感情に声がよれてしまいそうになりながらも、
「わかっているわ、お父様。ちゃんと、わかってる。
どんなに私がそう願っても、銀牙がいっぱい頑張っても、駄目な時だってあることくらい、わかってるわ。
だって、私も銀牙も、まだ子どもなんだもの。
結局、ひとりじゃ何もできないし、何も思った通りになんてならないんだわ。」
ぽろぽろっ、と涙が頬にこぼれ落ち、静香は慌てて手の甲で拭う。
しかし、一度あふれてしまった涙は、簡単にはおさまらない。
あげく、彼女がやっとの思いで秘めてきた不安までもが、その小さな口からこぼれ出てしまう。
止まらない涙を隠すように、彼女は手や腕で顔を覆いながら、
「もしかしたら、明日にだって、銀牙、いなくなっちゃうかもしれない。
…気がつかないうちに、いなくなっちゃったら、…どうしよう、…って、いつも私、とても怖いの。」
うっく、ひっく、としゃっくりを上げ、静香は涙を手でこするように拭った。
書斎の真ん中で、きちんと両足を揃えて立ちながら、静香は泣き続ける。
道寺は椅子に腰かけたまま、動こうとしない。
泣かせているのは自分だと自覚しているせいで、慰めようもないからだ。
そして、彼の心配は、今、別のところにある。
極端に体力のない静香にとって、泣く、という行為は、重労働に等しい。
身体に大きく負荷のかかる呼吸を、絶え間なく不規則に繰り返すそれは、長引けば、静香の場合、最悪、生死をさ迷うような事態への引き金となってしまいかねない。
それでも、道寺はただ黙って、注意深く静香を見守る。
幸いにも、激しかったしゃっくりは、次第に弱まり、彼は秘かに安堵する。
ようやく静香の様子が落ち着いてきたらしいと分かると、彼はゆっくりと口を開く。
「写真など残して、いざ、あれがここを去ることになったら、辛いのはお前ではないのか?」
押しつけるのではない、静かな口調。
しかし、静香はびくりと身を震わせ、顔を上げる。
涙の滲む目元を見つめながら、彼は、
「写真は、寂しさも悲しみも、幾度でも鮮明にするだろう。そんなことは、繰り返していいことではない。何も残さず、心のあるがままに任せるのも、自然なことと、私は思うが。」
見る度に、悲しみをぶり返すような代物など、いたずらに残さない方がいい。
忘れた方がいいことなら、少しでも早く忘れるに越したことはない。
痛みを伴うなら、なおのこと。
その痛みが深いなら、よりさらに。
理性的な道寺の言葉に、静香は目をこすりながら、でも小さく首を横に振る。
くすん、くすんとまだ鼻を鳴らしながらも、静香は懸命に反論した。
「そんな、悲しいこと、言わないで。
…銀牙、なのよ?
私には、生まれて初めての、お友達。
代わりなんていないくらい、大切なお友達で、もう、家族なの。
毎日一緒に、ご飯を食べたり、笑ったりするのが、もう、当たり前なの。
いないことなんて、考えられない。
お父様は、違って?」
涙で濡れた目元を手でこすってしまったせいで、静香の瞼は赤くなり始めている。
そんな痛々しい面差しの娘に、面と向かって訊かれても、道寺はやはり視線を下げて黙すのみ。
静香は深く項垂れ、両手でスカートを鷲掴むと、少しずつ息を整えながら、
「なんとなくね、…わかるの。
今、銀牙がいなくなったとしても、それはきっと、誰のせいでもないんだわ。
お父様だって、銀牙のこと、嫌いじゃないもの。
だから、そんなこと、おっしゃっているんでしょう?」
ゆったりと、深呼吸にも似た息づかいで、静香はひとり語る。
「だから、銀牙は、もしかしたら本当にいつか、いなくなっちゃうかもしれない。
そしたら、私、…きっと泣くわ。
最初は、毎日ずっと泣いて、それから少しずつ、泣かない時が増えて、そしていつか、泣かなくなると思う。」
彼女の両手からは、すっかり力が抜けて、やんわりとスカートを押さえていた。
足元に広がる絨毯に、ぼんやりと視線を放ったまま、静香はぽつんと言った。
「でもね、お父様、私は、ずっと泣きたいの。」
瞬間、道寺の顎が微かに上がる。
静香は壊れた残骸を眺めるような、虚ろな面差しで、
「銀牙がいなくて寂しい、って、ずっと泣きたい。
だって、今、私がこんなに毎日が楽しくて仕方ないのは、全部、銀牙のおかげだもの。
だから、寂しいって泣く、ってことは、一緒にいて楽しかったことを忘れてない、ってことでしょ?
私、銀牙のこと、少しだって忘れたくない。
泣くしかない、辛い思い出になってしまっても、思い出は思い出。
楽しい毎日がある、って教えてくれた銀牙なんだもの。
そんな銀牙を忘れてしまうことの方が、私には怖くて仕方ない。」
疲れたのか、吐息混じりの弱々しい静香の声であるのに、道寺には、彼女の決して譲れない強い意志を感じ取ってしまう。
自身でも気づかないうちに、道寺は静香の表情をうかがい見ていて、顔を上げた彼女の眼に目を奪われる。
彼女はもう、彼の視線に怯むことなく、
「だから、…お願い。」
涙で潤んだ瞳なのに、もう悲しみの色はない。
強い意志と、深い覚悟。
静香の鳶色の双眸には、幼さにそぐわないほどの輝きが宿っていて、秘かに道寺を後悔させてしまう。
彼はもう、小さくため息を吐くしかなかった。
その後、二人の誕生日に、静香の願いは無事、叶えられる。
そうして出来上がった写真を、道寺は静香に差し出したが、静香は受け取らなかった。
代わりに、
「お父様が持っていて。」
にっこりと笑う静香に困惑しながら、道寺は手にある写真を見下ろす。
「だって、私は今、会いたい時に、銀牙に会えるもの。だからまだ、必要ないわ。」
そんなことを言って静香は、ひとり歩み去りつつある銀牙の背中を追って行ってしまった。
立ち尽くす道寺に、魔導具は艶やかな声で、
「やるわね。」
感心しているらしい、銀色の輝きを放つ賢女に、
「シルヴァ?」
質すような主の声色を敏感に察した彼女は、冷ややかながらも柔らかな口調でもって、
「案外彼女、絶狼に持たせてあげたかったんじゃない?
悪くないと思うわよ。
人はあっという間に、成長するからこそ、何かしら過去の痕跡を手元に置きたがる。懐かしがるためにね。」
人ですらない魔導具に諭された形になり、道寺は何か反論しようとしたが、結局、口を噤んだ。
どこか不満そうな道寺を、銀の貴婦人はくすくすと笑う。