瞼を上げつつある自分に気づいて、絶狼はさっきまで見ていた光景が、現実ではないんだと知る。
目覚めるような緩慢さで、彼は我に返った。
虚ろだった瞳に、急速に光が戻って、尖る。
「絶狼?」
銀色に輝く賢女が、柔らかく響く。
「どうかした?」
何事もない普段通りの彼女の口振りに、絶狼は答えない。
仕立てのいい椅子は、仰向けに寝そべるように背中を押し当てると、柔らかく受け止めてくれる。
椅子にすべてを委ねたまま、彼は何もない虚空を冷えた眼差しで見下げた。
口を軽く結び、一点を見据える絶狼の表情は、淡い青に翳っているようにも見える。
懐かしい静けさに耳をすませているのか。
それとも、天井に映っている影を眺め、前にこれを見たのはいつだったろう、と思い返しているのか。
風ひとつ入って来ないこの書斎もまた、時が止まっているかのようだ。
だが、絶狼は唐突に椅子から立ち上がり、思い切り伸びをしながら、
「さぁて、帰るかぁ。」
軽やかな口振りで、絶狼はあっけらかんと呟いた。
それから、あの夜のままに、きちんと片付いている机を見下ろし、
「シルヴァ、」
呼ばれて、魔導具は丁度、机の上に置かれた手の甲から、主を見上げる。
「何?」
「この引き出し、元の通りに、封じておいてくれ。」
明るい表情の絶狼にそう言われて、魔導具は意外そうに眉を浮かせると、
「あら、ひとつくらい、持って帰らないの?」
すると絶狼は、彼女を胸元まで持ち上げ、
「これは、道寺のものだ。俺が持ち出していいものじゃない。」
「そう、ね。」
彼の言い分に、銀の貴婦人は冷たい瞼をわずかに下げて頷く。
彼女の様子に憂いを感じたのか、絶狼は続けて、
「見たくなったら、また来ればいい。付き合ってくれるだろ?」
悪戯っぽい笑みでそう告げる彼に、魔導具は艶然とした声で、満足気に頷く。
「ええ、勿論よ。」
それから、銀の貴婦人は主の命に従い、道寺の机にあった封印を再度施し、絶狼は書斎を後にする。
廊下に出て、間もなく、彼は階段前の小ホールとも呼べる開けた空間に差し掛かる。
さっきは視線すら向けることなく、絶狼はここを素通りしたのだが、今度は足を止めて見渡す。
窓にかかる白いカーテンが、緩やかな風に絶え間なく揺らめいている。
絶狼は、こつ、こつ、と艶やかなフロアを進み、止まる。
足元の床には、何の痕跡も残されていない。
見下ろし、囁く。
「ごめんな、静香。」
そこで初めて、魔導具は気づく。
絶狼は、守れなかった静香に向かって、今まで一度も、謝罪の言葉を口にしていなかったことに。
おもむろに踵を返し、彼はその場に背を向け、立ち去る。
階段を降り、エントランスを抜け、玄関から外に出た。
まだそれほど、陽射しは傾いてはいない。
けれど絶狼は、他のどこも見ることなく、愛車の元へと戻った。
本当に、これで帰るつもりなのね。
銀色の輝きを放つ賢女は、迷って、でも口を噤む。
彼が岬へ寄ることもなくここを去る理由なんて、私が尋ねたところで、意味すらない。
けれど、今なら言えることは、ある。
「絶狼、」
「何だ?」
停めてあるバイクに跨がり、彼は腰を下ろすと、彼女と向き合う。
魔導具は、かちかちと睫毛を震わせてから、
「ごめんなさい、絶狼。
私があの夜、もっと早く、奴の気配に気づくことができていれば、きっと違う結果になっていたはずだわ。」
私にだって、言えないでいたことくらいある。
あの時はプライドが言わせなかったが、今なら、言える。
私ではどうすることもできない、絶狼の悲しみや苦しみを、ずっと間近で感じてきたからこそ。
魔導具の言葉に、絶狼はびっくりした顔で目を丸くしたが、そのうち僅かに首を傾げ、
「もしかして、シルヴァ、俺がお前のこと、実は内緒で恨んでるって、思ってた?」
軽やかな口調の彼に合わせ、私は見透かすような余裕の笑みを浮かべながら、
「フフ、まさか。」
私の答えは、絶狼に気に入ってもらえたらしい。
彼は嬉しそうに微笑むと、早速、手に下げていたヘルメットを被る。
エンジンを軽く噴かし、絶狼は愛車で、来た道を戻り始めた。
一方、美しい魔導具は瞼を閉じ、ついさっき絶狼からもらった台詞を、意識の一番深いところへと秘める。
彼からの、たった一言。
「…ありがとな。」