いいタイミングだ、と思った。
別に、過去と決別しようとか、そんなことを思った訳じゃない。
だけど、このままでいい、と吹っ切れていた訳でもなかった。
どんなに足掻こうとも、新しい記憶は鮮明で強烈だし、古い記憶は少しずつ掠れ、ぼやけていく。
今を共に生きている者達に癒されてしまうことは、別段、罪でもない。
静香のことを忘れるのではなく、過去のこと、思い出とすることで、新たな系譜を作る伴侶を迎える。
少し前までは、そんなことを考えただけでも、心にある傷から血が滴った。
今は、ちょっと違う、気がする。
それを確かめるのに、いいタイミングだと思った。
静香が一番喜んでくれそうな、小さな花束を携えて、俺は自分の意志でここへ戻った。
ここは、零の始まりの場所。
そして、銀牙と、静香の死んだ場所。
結構、経ってるんだけど、なんだかまだ、うまく整理がつかない。
バイクでここへ向かっている間はそうでもなかったんだけど、バイクから下りて玄関へ向かう道すがら、急に頭ん中がごしゃごしゃになった。
俺は何をしに来たんだろう。
魔戒騎士としての務めを果たすことには、何の疑念もない。
当たり前のことをしているだけだ。
道寺はそう望んでいるだろうし、彼の為にも、そうしたいと望んでいる。
彼女だって、そんな俺をきっと許してくれている。
だから、俺は今、こうしている。
けれど、何かが引っかかる。
俺は何も間違っていない。
間違っていないのに、俺は魔戒騎士以外のすべてから、背を向けて立っている。
だから、ここへ戻って来た。
俺がどうしたいのか、何を望んでいるのか、その答えがあるとしたら、ここしか考えられないから。
俺のすべてが、ここにはある。
玄関扉は、意外と平気だった。
エントランスに足を踏み入れ、階段を前にして、立ち止まる。
道寺の遺体があったところで、あの夜を思い出す。
ここで静香の悲鳴が聞こえ、階段をかけ上がったんだっけ。
少しためらったけど、俺はもうあの頃のガキじゃない。
ゆっくり昇りきって、俺は正面に設けられた小ホールと向き合わないまま、静香の部屋へ向かう。
あそこは、最後でいい。
しかし、静香の部屋で、俺はあっけなく動けなくなる。
俺は俺を試せるほど、何も吹っ切れてなんかいなかった。
このドアを開けて、何も感じないことも、何かを感じることも、俺には怖いことなんだと思い知る。
ゾッとして動けなくなった俺の背中を、シルヴァの声が押した。
「絶狼?」
ふ、と身体の緊張がとける。
何やってんだろ、俺。
静香に会いたかったんじゃなかったのか。
どんな静香であったとしても。
そう思い直して、勢い任せに踏み込んだ。
明るい陽射しが、窓から差し込んでいた。
がらんとした、誰もいないこの部屋を見回す。
おぼろげになっていた記憶が、みるみるうちに鮮明さを取り戻していく。
ぼんやりと、机の上に花束を置いて、以前はよく使っていた言葉を、一応呟いてみた。
「…ただいま、…かな。」
見覚えのある机。その小物たち。
静香の気配が、ここには確かに残っていた。
机に向かっていた彼女の姿。その横顔。
彼女がこの部屋で、どんな顔をして、どんなことを言っていたか。
様々な年齢の静香。
様々な感情の静香。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。
ぽつぽつと思い出していく。
陽だまりの中で降る、光りの雨のように、淡く頼りないまま、止まない。
止まないことに、心は震え、胸がいっぱいになる。
「よかった…。」
俺は、忘れていない。
静香を忘れてなんかいない。
身体ごと振り向いて、静香のベッドを見下ろす。
何度、このベッドで彼女を抱き締めただろう。
苦しいほど強く抱き締めたこともあったのに、彼女は何も言わず、ただひたすら、優しかった。
華奢でたおやかな腕で抱いてくれたり、淡く色づいた唇で頬を撫でてくれたりもした。
俺のためだけに、幾度となく涙を落とし、
『好きよ、銀牙。誰よりも、好き。』
晴れて魔戒騎士となったものの、守りし者としての務めを果たす過酷さは、想像以上だった。
辛くて、苦しくて、だけど彼女には何も言えなくて。
口を噤んだまま、それでも甘えてしまう俺を、彼女はひたすら優しく、受け止めてくれた。
甘えでも、許しでも、求めれば、彼女はいくらでも与えてくれて、それがどんなに救いだったか。
籍を入れ、改めて妻として迎えるまではと、肌を求めることはしなかったが、俺が求めるなら、彼女はそれすら許してしまっていただろう気さえする。
そんな彼女を、忘れろという。
過去にしろという。
今を生きる、優しい人達が。
「まだ、…嫌だ。」
静香を思い出にして、新たな伴侶を迎え、新しい系譜を作る。
いつかは、そうなる?
いや。
俺はそんな真似、殺されたって嫌だ。
道寺には悪いけど、新しい系譜なんて、くそ食らえだ。
そんなの、他の奴らが勝手にやればいい。
誰であろうと、これ以上、俺から静香を奪うことだけは、絶対に許さない。
例えそれが俺自身であっても。
道寺の書斎で、シルヴァがお節介をする。
以前撮っていた家族写真の在り処を教えてくれた。
懐かしい姿に、苦く笑う。
久し振りに、記憶の中じゃない、静香の顔を見る。
幼い頃の彼女は、まだ元気もあって、一緒によく遊んだ。
静香と同じ誕生日となってからは、毎年その祝いの席で家族写真を撮ることが、四人での約束事のひとつとなった。
きっと一番新しいものなら、あの夜とさほど変わらない姿の静香が微笑んでいるはず。
見たい、と思いながらも、指はその写真を取ろうとしない。
あの時の彼女の隣には、あの時の俺がいる、からか。
と、突然、意識を奪われる。
今度は過去を見せられる。
写真を撮りたい、と静香が言い出した時の情景らしい。
視点が、シルヴァのいた道寺の胸元だったから、この現象は恐らく彼女の仕業なのだろう。
幼い静香が懐かしくて、胸が痛む。
道寺の意地の悪い台詞に泣かされながら、それでも静香は告げる。
『銀牙がいなくて寂しい、って、ずっと泣きたい。
寂しいって泣く、ってことは、一緒にいて楽しかったことを忘れてない、ってことでしょ?
私、銀牙のこと、少しだって忘れたくない。』
耳にした瞬間、息がつまった。
あの夜以来、胸の奥深くでずっと涙が止まらない俺を、静香が優しく抱き締めてくれた気がした。
静香の気配に、ふわりと包まれる。
また、……だ。
俺の、死にかけた心の欠片を、静香はまた、そっと抱いて癒してくれた。
と、同時に、心が深く裂けて、血が噴き出す。
何もかもが真っ赤に染まるほどの痛み。
やっとわかる。
静香の記憶が掠れてきたのは、時が経ったから、だけじゃない。
忘れたかったからだ。
そして俺は、忘れてしまうよりも残酷なことを望んでいるのだと思い知る。
俺は罪人。
全てを、命すら彼女に捧げ、彼女を守ると約束したのに、何ひとつ守れなかった。
そのくせ、俺はまだ生きていて、未来を求めるようにあがいている。
俺の両手を染めるこの赤は、静香の血。
決して拭えやしない、美しい命。
罪だとか、罰だとか、そんなんじゃなくて、そんなことよりも、俺は望んでいたはずなのに。
今の俺は、間違っている。
そんなことを認めるだけで精いっぱいだなんて。
バカな男だ。
そして、安堵する。
「でもね、お父様、私は、ずっと泣きたいの。」
世界に取り残されたのが、俺でよかった。
俺に先立たれた静香の痛みと苦しみは、きっと俺以上に違いなかったろうから。
別に、うぬぼれでも、のろけでもなくて、俺は寒気がするほど薄情な奴だし、彼女は本当に優しい女(ひと)で、何より寂しがり屋だったから。
帰り際、俺は静香の死んだ場所をわざと自分に見せつける。
謝罪したところで、仇を討ったところで、何も変わりはしない。
湿った黒い土に横たわる、静香の白い顔がふいに浮かんだ。
本当に最後の、彼女の面差し。
俺はその後、あの黴臭く汚らしい黒い土を彼女の上に落とし、埋めて、閉じ込めた。
苦しくて、何度も胃液を吐きながら。
あの時は、仇を討つことばかりを頭の中で燃えたぎらせていたから、そんなこともできたのかもしれない。
愛車のところまで戻った時、突然、シルヴァが謝った。
あの夜のことは、自分にも責任がある、と。
以前の彼女なら、絶対そんなことは言わなかっただろう。
魔導具としてのプライドが、そんな真似を許すはずがない。
変わったのか、ホラーでも。
でも、俺は感謝する。
相棒として。
愛車は来た時と同様、ご機嫌に俺を振り回して、すんなりと現役の魔戒騎士としての日常に連れ帰ってくれる。
殺伐とした、戦いの黄昏へと。
まずは、そう、雷牙だ。
奴はまだ、脆く儚い、何も知らない子供。
損な役回りだと、つくづく思う。
後でちゃんと、俺が自ら望んで師匠になったんじゃないと言ってきかせよう。
奴の父である、鋼牙の頼みだから引き受けたんだ、って。
でなければ、誰が、引き受けるものか。
笑顔を奪う役回りなんて。
静香だけでなく、雷牙までも、俺が闇に引き入れる役になるとは。
いや、そうじゃないか。
そうは、させない。
彼は鋼牙の息子であり、カオルちゃんの息子なんだ。
あの二人の息子なら、きっと叶う。
本当の笑顔を失うことなく、牙狼となれる。
俺が、叶えさせてやる。必ず。
それが俺にとっての、道寺への手向け。
ゆっくりと、また傷が裂けて、熱い血が滴る。
いつまでも、いつまでも、俺は無力なままだ。
あいつには、何ひとつ届きやしない。
俺は安心して、にやりと笑う。
ようやく、還ってこれた気がする。
全てから色が消えたこの世界こそが、俺の生きるべき世界。
俺に光りなどいらない。
光りに満ちた世界を一度は手にした。
そして、もう二度と得る事はない。
それでいい。
それでやっと、俺は彼女と同じところに立てるのだから。
バイクのエンジンを軽くふかして、その爆音で思考を断ち切る。
小気味よく疾走する愛車にまで感謝しながら、俺は自身の管轄地へと急いだ。