続きません。
古明地こいしは、地底をふらふらと彷徨い歩く。
あるときは、当てもないまま人通りの多い街道を往く。またあるときは、迷路のように入り組んだ路地裏を突き進む。
通行人にぶつかる。でも進む。行き止まりに行き着く。壊して進む。例えそこで鬼の喧嘩が行われていようとも、こいしは構わず全速前進。いつだって、こいしの散歩に障害なんてありはしない。
今日も今日とて、こいしは鼻歌交じりに旧都の大通りを歩いていた。
右手には、八百屋の店頭に美味しそうに置かれていた、赤くてまんまるなリンゴ。左手には、いつの間にやら握られていた、緑がかった透明の一升瓶。酒瓶をちゃぷちゃぷと揺らしながら、右手のリンゴを一齧り。みずみずしい果実の味が、口いっぱいに広がる。
こいしはご機嫌になって、目の前を歩く見知らぬ小妖怪を殴りつけた。切れのある左フックが決まり、ぱりんと小気味の良い音がこいしの耳を打つ。それっきり、小妖怪の姿は見えなくなった。
満足したこいしは気付く。左手が、妙に軽い。
「ありゃ……お酒までどっかいっちゃった」
見れば、確かに握られていたはずの酒瓶は、瓶口だけを残して丸ごと消えていた。まるで何かに削り取られたみたいに、割れ目がギザキザだ。これで叩かれたら、さぞかし痛かろう。そんな形をしている。
こいしは随分小作りになった酒瓶を振り上げた。僅かに残ったお酒が、ぽたぽたと滴り落ちてくる。リンゴを持つ右手に、一滴のお酒。ぺろりと舌で舐めてみても、あまり味は分からない。
こいしはこてんと首を傾げた。どこにいったのだろう? お酒。不思議なこともあるものだ。
けれど、消えてしまったのなら、仕方がない。こいしは潔く諦めて、手に持ったリンゴを齧る。リンゴは美味しい。お酒は消えた。儘ならない世の中である。
そこでこいしは思いつく。
そうだ、お酒を探しに行こう。
思い立ったらなんとやら。
こいしは、瓶だったモノを『燃えないゴミ』と書かれた屑かごにぽいっと投げ入れて、走り出す。
ゴミの分別は大切だ。『燃えるゴミ』は、灼熱地獄の燃料になる。『燃えないゴミ』は、あんまり燃えなくて処理に困るから、やっぱり灼熱地獄の燃料になる。ゴミの分別は大切なのだ。
こいしは走る。風だ。こいしは今、風になっている。何も知らない旧都の住民たちは今日、口を揃えてカマイタチに遭ったと言うだろう。しかし、それはこいしであって、断じてカマイタチではない。古明地こいしは、古明地さとりの妹であり、一人のサトリ妖怪なのだ。
──それは丁度、こいしの目の前に飛び出してきたこいしと同じように。
「わわっ」
不意に現れたこいし。予想もしなかった乱入者に、こいしは咄嗟にブレーキをかける。
けれど、ほんの少し遅かった。こいしとこいしは正面からぶつかってしまった。二人の頭と頭が衝突、ごちんと鈍い音がする。
「いったーい!」
『いったーい!』
思わずその場にへたり込む、一人目のこいしと、二人目のこいし。
こいしが元気な悲鳴を上げれば、こいしもまた元気な悲鳴を上げる。ぶつかったのはこいし。ぶつかってきたのも、こいし。果たしてこのこいしは、一体どちらさまなのだろう。
ぶつかった拍子に落としてしまった、もうほとんど芯だけになったリンゴを拾い上げながら、こいしはこいしに問いかける。
「ねーねー、あなたもこいしなの?」
『ふっふっふ、ばれてしまっては仕方がない。何を隠そー、私こそが地底の覚らないサトリ、古明地こいし!』
「わー、やっぱりこいしなんだぁ。あ、もしかして私の双子さん?」
『えー、そうだっけ?』
「うーん、そうかもー」
こいしの言葉に、リンゴを持たないこいしが『そっかぁ』と笑う。それにつられて、リンゴを持つこいしも「そうだよー」と無邪気に笑う。
それからこいしは、こいしの両手を握りバンザイをしようとして、右手のリンゴが邪魔なことに気が付いた。お口を大きく開けて、リンゴをがぶっと丸齧り。まんまる真っ赤だったリンゴは、とうとう茶色いヘタだけになった。
「ちょっと待っててー」
こいしは辺りをきょろきょろと見渡す。道のはしっこに屑かご発見。
ゴミはきちんと片付けないと、亡者が寄ってきて大変なのだ。奴らが一匹いたら、あと百匹はいると思え。云わずと知れた、旧都の教訓である。
ゴミ捨てを無事に終えたこいし。再び事故現場に戻ってみたら、そこにはこいしがいなかった。ついさっきまで、確かにここに立っていたはずのこいし。こいしの知らぬ間に、もう一人のこいしはどこへ消えたのか。
『わ!』
「わぁ!」
こいしを探すこいし。そんなこいしの真後ろから、よく知る声で短い反響。どこにもいないと思っていたこいしは、こいしの背後に潜んでいた。
びっくりしたこいしは、思わず自分と同じ顔を見据える。こいしの右ストレートが唸る。『あうっ』と可愛い悲鳴が聞こえてきて、二人目のこいしはノックダウン。
かんかんかん、とこいしの頭の中でゴングが鳴った。試合終了。こいしの完全勝利だ。
「もー、びっくりしたー」
地に立つこいしと、地に伏したこいし。こいしが寝っ転がったこいしに話しかけても、なんの返事も返ってこない。しゃがんだこいしが「ねーねー」と揺さぶってみても、仰向けなこいしはうんともすんともしない。やがてこいしは黄昏れる。強者とは常に孤独なものだ。
こいしは大地に転がったこいしを、じっと見つめる。間違いない。やっぱり彼女も心を読まないサトリ妖怪、古明地こいしだ。
こいしはこいしの頰を指でつんつん突く。つん、つんつん。こいしの頰は柔らかい。
すると、突然それは起きた。
いきなりのことだ。目の前のこいしが、きらきらと白く光り始めた。地上の太陽と違って、あんまり眩しくない光。こいしから発せられるそれは、なんだか見ていて気持ちがいい光だった。
光らないこいしは、光るこいしを見守りながら思う。
地霊殿のホールに飾ったら、綺麗かもしれない。
善は急げ。こいしは白い光を抱え込むように、両手を伸ばした。
むにょん。
手のひらに伝わる不思議な感触。光ったこいしは、どこかひんやりしている。そして柔らかい。こいしがつついたこいしの頰より、もっと柔らかい。これではまるで、冷たいままに伸びたお餅だ。
こいしは光るお餅を、天高く掲げる。こいしの頭上から白い光が降り注ぐ。そのままぽふんと、頭に乗せる。こいしの視界が明るくなった。楽しくなって走り出せば、それは帽子と一緒に落っこちる。
白い光は、収まっていた。
「なんだろー、これ」
帽子の上に陣取っているのは、少し青みがかったむらさき色。その表面には、ごま粒みたいな黒い点が二つ。ごま粒の下には、裂けるようにおっきなお口。
こいしと比べて、あまりにも小さいむらさき色。地霊殿で飼っているどんなペットより、小さいかもしれない。
もにゅり、もにゅり。
こいしは感触を確かめるように、むらさき色を左右に引っ張る。
「わーのびるー」
むらさき色は伸びる。横に引っ張れば、横に伸びる。縦に引っ張れば、縦に伸びる。力いっぱい引っ張っても、まだまだ伸びる。けれども、こいしが手を離せば、むらさき色は元に戻ってしまう。
むいんむいんと、伸び縮み。多分これは、生きている。だけど、こいしにされるがまま。
なんだかよく分からない、むらさき色。
とりあえず、お姉ちゃんに自慢しよう。
▼
「たっだいまー!」
地霊殿のエントランスに、こいしの元気なあいさつが木霊する。
帰宅したこいしを、色とりどりの怨霊たちがお出迎え。増えたり減ったりする彼らからは、いつも返事が返ってこない。けれど、仕方がない。それが怨霊なのだ。
『たっだいまー!』
怨霊たちの代わりに、元気な『ただいま』がもう一つ。こいしによく似たその声も、やっぱりこいしのもの。古明地こいしは、再び双子になっていた。
こいしとこいしはにこにこ仲良く手を繋ぐ。
二人は並んで、エントランスを進む。階段をかけあがる。ドアを開ける。怨霊を蹴散らす。渡り廊下を疾走する。
途中でお燐を見かけたから、こいしとこいしで『ただいま』を二つ。残念ながら、お燐の『おかえり』は品切れ中。なんとなく、お燐自慢の三つあみをほどいてみる。肩までかかる赤い髪。二人はそれを見ようともせず、てっちりとてとて走り去る。
こげ茶色のドアの前に立つ。大きなドアの真ん中には、まんまるの取っ手が一つずつ。こいしは右の取っ手をぎゅっと握った。こいしが左の取っ手をがっちり握った。
「お姉ちゃんただいまー!」
『ただいまお姉ちゃん!』
ばこん! と大きい、扉が壁に叩きつけられる音。そのすぐ後に、こいしたちの『ただいま』が見事なハーモニーを奏でる。異口同音。でも言葉が違う。打ち合わせなんて、もちろんしていない。
こいしとこいしは、足並みそろえて扉をくぐる。
部屋の中には、机とにらめっこをするさとりが一人。黒くて四角い机。その上には、白い紙束がいくつか乗っている。さとりはそれから目を離せないらしい。にらめっこに道具を使うとは、なかなか卑怯な机である。
何はともあれ、にらめっこ。机から目を離したらさとりの負け。なにかしら声を発しても、さとりの反則負け。真剣勝負をするさとりと机は、両者睨み合ったまま動かない。白熱するにらめっこ。どうやら、接戦のようだ。
こいしとこいしは思う。
お姉ちゃんを助けてあげないと!
こいしたちの行動は早かった。
そろり、そろり。こいしは卑怯な机に忍び寄る。するり、すたすた。こいしは卑怯な机の背後を取る。
互いに目を合わせる、こいしとこいし。それから二人はこくりと頷く。
各員配置についた。
これよりお姉ちゃんの援護を行う。
こいしは正面から、卑怯な机をくすぐるように蹴りつける。こいしは背部から、卑怯な机を笑わせるために激しく揺らす。
響き渡る騒音。散らかっていく書類たち。
「な、何⁉ 地震⁉」
こいしたちの見事な援護に感極まって、勢いよく立ち上がるさとり。
なんてことだ。さとりは机から目を離してしまった。これではさとりの負けである。姉妹の力を合わせても、勝てない相手がいるなんて。
こいしたちは否応にも思い知らされる。この世界は、自分たちが思うよりもずっと広いのだ。
「……なんだ。こいし、帰ってきてたのね」
惜しくも敗れたさとり。正面のこいしを視界に入れて、ほっと胸を撫で下ろす。そこで背後のこいしは困ってしまった。
前にいるこいしはともかく、後ろにいるこいしにさとりが目を合わせてくれない。だから、こいしは考えた。いつもみたいに、自分から声をかけて気付いてもらおう。
片や、いつも通りありふれた挨拶を。片や、己の存在の主張のため。
二人はそれぞれ順番に、さとりへ帰宅を告げる。
「お姉ちゃんただいまー」
『ただいまーお姉ちゃん』
「ええ。おかえりなさい、こい、し……⁉」
地霊殿に帰ってきて、初めてのおかえり。横に並んだこいしの顔には、自然とにっこり笑顔が浮かぶ。
対するさとりは驚天動地。両の瞳をぐしぐしこする。二回、三回、ぱちぱち瞬き。こいしとこいしをじっくり見比べて、第三の目も大きく開く。
やがて、さとりは声を振り絞る。恐る恐るといった風に、こいしとこいしを指差して。
「……あなたも、こいしよね? 心が読めないし……」
「えへへー、いいでしょー。旧都を歩いてたらこいしを拾ったのよ」
『こいしに拾われちゃったー』
「…………そう」
こいしを自慢するこいし。こいしに拾われたこいし。そして、こいしとこいしに混乱するさとり。
さとりは再び椅子に腰かけて、頭をかかえてうんうん唸る。「拾ったってどういうことよ……」やら、「どうしてこいしが二人に……」などと疑問を投げかけるが、右のこいしは応えない。左のこいしも応えない。さとりの元に帰ってきて、ご機嫌な二人。さとりの混乱に気付いてもいない。
こいしとこいし。二本の視線の先には、黒くて四角い大きな机があった。紙とかインクとかで、なんだかごちゃごちゃしている机だ。そんな彼奴こそ、姉妹が雪辱を晴らなくてはならない恐るべき強敵。宿命の相手。
何がいけなかったのか。こいしとこいしは考える。やがて、二人は己の過ちに気が付いた。それと同時に、為すべきことを理解する。
かの強敵には、ただの援護じゃ生ぬるい。
もっと直接的な戦力の増強でなくちゃだめだ。
二人がさとりを見れば、机になにやら話しかけている。きっと、再戦の申し込みに違いない。
こいしはさっきのように、こいしにぱっちり目配せする。その意図を正しく読み取ったこいしは、こいしの前に一歩出て、大きな瞳をゆっくりと閉じる。
それは、時間にして数秒の沈黙。
こいしの全身から、真っ白な光が放たれた。
『……はぁ、こいしに頼まれては仕方ありませんね。まずは散らかった書類から片付けましょうか』
「……! ……⁉」
さとりは口をぱくぱく動かす。開いては閉じ、開いては閉じ、金魚のお口。けれども、さとりの唇から出るのは空気だけで、なんの音も出てこない。
机を挟んで、さとりの正面に立つ人物。
こいしと同じくらいの背丈。桃色の癖のある髪の毛。気だるげな半眼。──開かれた、第三の瞳。
「わー、お姉ちゃんがふたりー」
「え……? 何? え……⁉」
『……あなた誰なの、ですか。見ての通り、私は古明地さとりですよ。自分の名前も忘れましたか?』
「え、いや、だって……」
『……古明地さとりが二人いたらまずいんですか? こいしも喜んでくれてますよ? …………私はサトリです、妖怪のほうの。心が読めるのは当然じゃないですか』
ため息一つ、さとりは机の周りをせっせと片付ける。そんなさとりを目に入れながら、机を前に呆然と座っているのも、またさとり。
一人減ったこいしは、二人のさとりの間を行ったり来たり。
姉が二人もいれば、妹はとても忙しくなるのだ。