言葉を発する者は、誰一人としていない。
神道宗光はシワだらけの顔を期待に歪ませていた。
彼の配下であり、敬虔な信者である女たちは、依然昏倒したままである。
峰岸葵は、白い裸体を隠す事も忘れて、久我憂助に心配そうな眼差しを向けた。
その久我憂助は、木刀を下段脇構えにしていた。
剣術において、下段の太刀は虎に例えられる。腰を落とし、木刀を我が身で隠す憂助の様は、まさに藪に潜み獲物の隙をうかがう虎であった。
対する
剣術において、上段の太刀は竜に例えられる。振り上げ、打ち下ろすその動きは、さながら天地を駆ける竜のごとしといったところであろう。
誰一人として言葉を発する者はいないが、決して静かではなかった。
どこか遠くから、かすかにうなるような重低音が聞こえてくる。一見石造りのように見えるが、この大部屋には電気が通ってあり、照明や空調の設備もある。その空調の稼働音であろう。
しかしそれが、対峙する二匹の獣の唸り声のように聞こえていた。
憂助が、動いた。
地を蹴って飛び出し、低い軌道で間合いを詰め、飛鳥竜摩の足を狙って木刀を振り抜く。
飛鳥竜摩もまた、跳躍していた。
憂助の木刀はむなしく虚空を薙ぐ。
その頭上めかけて、飛鳥竜摩の木刀が稲妻めいて打ち下ろされた。
憂助はとっさに体を回転させて仰向けになり、上から来る一刀を打ち払った。
瞬間、ぶつかり合った木刀を中心に衝撃が八方に走った。
憂助はそのまま床を転がって間合いを取り、正眼に構える。
着地した飛鳥竜摩は、木刀を中段の霞に構えた──と思うや否や、すかさず間を詰めて、突きを放った。長尺の木刀がまるで槍のように伸びてくる。
憂助、これを正眼の構えのまま受け流そうとするが、飛鳥竜摩は互いの木刀がぶつかり合った瞬間に、己れの木刀を真横に振り抜いた。
普通なら威力などあろうはずもないが、憂助は木刀もろともに、数メートル後方の柱まで吹き飛ばされた。
(こいつ、間違いねえ……!)
憂助は確信した。
目の前の男は、念法使いだ。
今の突きからの廻し打ちは、筋力で出せる威力ではない。
(しかし、どこ流なんやろか……?)
そんな疑問もあった。
結城家から始まる念法の一族は、年に一度集まって交流会を開く。ずいぶんとお気楽なもので、用意された料理をパクパクつまみながら、名乗り出た者同士がカラオケ大会や宴会芸のノリで手合わせをするのである。
憂助も父や祖父と共に何度か顔を出し、本家や他の分家のおじさんおばさんたちに稽古をつけてもらった。
そのため、ほんの一合立ち会えば、どこの家の流派なのかくらいならわかる。
しかし飛鳥竜摩の構えや動きは、憂助の知る念法ではなかった。そもそも念法は一子相伝。風間家のみが門弟を募っているが、それも片手で数えても指が余るほど。
憂助の知らない念法の流派なのか、あるいは、持って生まれた力を磨くうちに自得した、我流念法か……。
いずれにせよ、倒すべき敵である事だけは、確かだ。
憂助は相手の正体についてあれやこれやと、考えるのをやめた。
木刀を八双に構えて一歩踏み出そうとした瞬間、飛鳥竜摩の木刀が眼前に迫っていた。
「──!?」
とっさに身を捻り、横に転がって、かわす事が出来た。
飛鳥竜摩はその場から一歩も動いていないのに、いかにして数メートルの遠間を越える突きを放ったのか?
その答えは、当の飛鳥竜摩がすぐに見せてくれた。
中段霞から突き出された木刀の刀身が、白光を伴って消失したのだ。
かと思えば、憂助の目と鼻の先に、白光を伴って出現する。
瞬間移動の応用であろうが、中段突きのはずが、上段や下段へと飛んでくるのが厄介だった。
憂助は右に跳び、左に転がりして、攻撃をかわす。
飛鳥竜摩が木刀を真横に振り抜いた。
刀身から放たれた光が、長さ五メートル以上はある刃となって飛来してくる。
憂助の体が、白い光に包まれて消えた。
直後、飛鳥竜摩の背後に瞬間移動して、脳天めがけて木刀を打ち下ろす!
飛鳥竜摩、これを頭上に木刀を掲げて防いだ。
そこからは、両者足を止めての打ち合いとなった。
木刀と木刀がぶつかり合い、その度に異様な衝撃が四方に弾け飛ぶ。
互いに相手の喉笛を狙って噛み合う野獣同士のような、激しい剣戟であった。
不意に、憂助がバックステップで下がる。その体が、白い光に包まれた。
飛鳥竜摩は木刀の切っ先を左手で握り、柄へと滑らせる。長尺の刀身は左拳の中に消えた。
憂助の姿が消えた。
飛鳥竜摩が、柄のみとなった木刀を振った。
どこからともなく、硬い物がぶつかり合う音が響いた。
彼の頭上に生まれた白光から、憂助が弾かれるように飛び出した。
床に転げ落ちた憂助めがけて、飛鳥竜摩の両手突きが放たれた。姿を現した反りの強い長尺の刀身が、飛竜めいて迫る!
「エヤァッ!」
憂助、これを打ち落とさんと木刀を振るう。
しかしその迎撃の一撃は、木刀の反りによって、外側へと受け流された。
そして飛鳥竜摩の突きは軌道を一ミリもブレさせる事なく、憂助の胸を貫いた!
学生服の背中を突き破って、血に濡れた刀身が顔を出す。
飛鳥竜摩はそのまま木刀を振った。
串刺しにされていた憂助の体が、力なく振り落とされ、葵のそばまで転がった。
憂助の胸にはぽっかりと穴が穿たれ、鮮血が床にどんどん広がっていく。心臓を貫かれているのだろう。
「く、久我……?」
葵は、我が目を疑った。
ついさっき、三頭の鵺を倒してのけた少年が、たった一人の人間に負けたのだ。
「ちょ、ちょっと……ねぇ久我ってば! 嘘でしょ! なに死んだふりしてんのよ! マジ面白くねーし! ねぇ、起きてよ久我ぁ!」
葵は血で汚れるのにも構わず駆け寄り、抱き起こし、揺さぶった。
だが憂助は、答えない。
虚ろに開かれた目は、どこにも焦点を結んでなかった。
「く、くくく……ひっ、ひっ、ひぃーっひっひっひっ!」
神道宗光の笑い声が響いた。
「見事見事! お見事でしたよ飛鳥くん! さすがは百戦錬磨のサイキックソルジャーですね! 実に素晴らしい!」
パンパンと手を叩いて笑い転げるが、そのうち急に咳き込んだ。
「さぁ、儀式の続きといきましょう……葵さんをこちらに」
「ん」
素っ気なく答えた飛鳥竜摩は、血振るいした木刀を下げて、葵の元に歩み寄る。
葵は憂助の頭を胸に抱き、裸身を震わせるしか出来なかった。
自分を守ってくれるものは、もういない。
深夜の海の底よりも暗い絶望に、悲鳴すらも凍りついて出てこなかった……。
──チリン。
鈴の音が響いた。
飛鳥竜摩は足を止め、振り向く。
葵も神道も、音のした方を見た。
深草色の作務衣を着た男が、木刀を手に下げて立っている。
木刀の柄尻に、細い紐で二つの鈴が付けられている。
口元に髭を生やしたその男の太い眉とがっしりした顎は、憂助に似ている。
久我京一郎であった。
「どなたですかな……勝手に入られては困りますな」
神道の
とたんに、顔つきが少し間抜けな感じになった。
「息子がこちらにお邪魔しとうようやき、迎えに来ました。お構い無く」
「そうはいきませんな。せっかくお越しくださったのですから、おもてなしの一つはさせていただきましょう」
神道の言葉に、飛鳥竜摩は京一郎に対して木刀を中段霞に構えた。
「ふむ……」
しかし京一郎の視線は彼ではなく、血にまみれて倒れている息子に向けられていた。
「こらまた派手にやられたのぉ~」
呑気な声を上げつつ息子の傍らに来ると、何を思ったか胸に空いた傷口に、木刀の切っ先を突っ込んだ。
「ちょいさ」
そのまま真横に振ると、木刀から血と肉の塊が振り落とされ、遠くの床にベチャリと音を立てて落ちた。
憂助の胸の穴は、綺麗に塞がっていた──というより、なくなっていた。
「……へっ?」
葵が声を漏らした。
憂助の頭を抱いていた胸元に、彼の呼吸を感じ取ったのだ。
「傷を治したのか?」
「というより、怪我をしたという事実を切り取った」
飛鳥竜摩の問いに、京一郎はフフンと鼻を鳴らして答える。
「お嬢さん、これ着ときない」
憂助と同じ訛りのある口調で言い、作務衣の上を脱いで、葵に投げ渡した。
脱いだ下には、白い肌着があった。
「もうちょっとしたらお巡りさんも来てくれるきね。それまで息子の事よろしく。悪い奴等はおいちゃんがやっつけちゃるきね」
小さな子供に対するような優しい声音に、葵は奇妙な安心感を覚えていた。
「やっつけるとは、誰が、誰をだ? まさか、貴様が俺を倒すとでも言うのか」
事も無げに言ってのける京一郎に、飛鳥竜摩が怒気混じりに言った。
「まぁ、そんなとこかのぉ。若者を指導するのは大人の務めやしね」
「ほざけ!」
飛鳥竜摩は木刀を突き出した。
刀身が白光を伴って消失し、遠間を越えて出現し──虚空をむなしく貫いた。
京一郎はすでに横にかわしていた。
飛鳥竜摩は舌打ちし、間合いを詰めた。
京一郎が木刀を高く掲げると、そこに得物を打ち下ろす。
次に京一郎が木刀を体の横に立てると、飛鳥竜摩はそこに横殴りの打撃を打ち込む。
激しい打ち込みを受けながら、鈴はまったく鳴らなかった。
そんな剣戟が、更に数合続いた。
「……アイツ、何やってんの?」
奇異な光景に、葵は思わずつぶやいた。
京一郎が『さぁ、ここに打ちなさい』と木刀で示し、飛鳥竜摩が『はい、わかりました』とばかりにその木刀に打ち込んでいる。
そんな風にしか見えないのだ。
実際は違った。
飛鳥竜摩が打とうとする箇所を、打とうとする瞬間に、京一郎がガードしているのだ。
「ちぃいっ!」
業を煮やした飛鳥竜摩は、一歩下がって木刀を中段霞に構え直した。
京一郎が、ここで初めて構えた。
しかし変わった構えである。
木刀を正面で垂直に立てたのだ。腕は伸ばさず、木刀はほとんど密着して、窮屈な構えだった。
「こざかしい!」
飛鳥竜摩が両手突きを放った。憂助のカウンターを受け流しつつ心臓を貫いた、あの突き技だ。
京一郎は片足を後ろに引いて、木刀を振り下ろした。
両者の木刀が交差して、反りを利用して
正中線に沿って、何か熱いものが体を通り抜けたと感じた瞬間、飛鳥竜摩は意識を失い、その場にぶっ倒れた。
「
京一郎がポツリとつぶやいた。今の技の名前であろう。
「──さて、お次はそっちか」
京一郎は神道に向かって歩き出した。
神道は狼狽して顔を歪ませた。
「しゃあっ!」
蛇のような声を上げ、背中から生えた人面の触腕を伸ばす。
京一郎が木刀を正眼に構えると、白い光がほとばしり、縦横無尽に駆けめぐった。
光がおさまると、京一郎は正眼のままである。左拳で木刀をトンと叩くと、チリンと鈴が鳴り、京一郎に迫る八本の触腕の顔が次々に弾け飛び、消滅した。
京一郎の姿が、消えた。
「天誅」
背後からの声に神道が振り向く前に、木刀が彼の体を頭頂から股間まで透過した。
背後に瞬間移動した京一郎の一刀で、神道もまたその場にぶっ倒れた。
「ほい、終わりっと」
京一郎はやたら軽い声を上げると、木刀の刀身を左手で拭った。
そして切っ先を左手のひらにあてがい、グッと押し込むと、木刀は手品のように左手の中に消えた。
「お、おじさん……もしかして、久我のパパさん?」
投げ渡された作務衣を着るのも忘れて見入っていた葵が、恐る恐る尋ねた。
「もしかせんでも、憂助のパパさんよ……それより、はよ服着ないね。もうすぐお巡りさんが来るき」
「あっ、ハァーイ」
葵は自分が全裸のままである事にようやく気付き、いそいそと作務衣を着る。下はほとんど隠せてないが、それでもマシではあった。
探索班からの報せを元に、沢渡直也警部率いるDTSSの部隊が突入してきたのは、それから数分してからだった。
◆
憂助が目を覚ますと、見慣れた自宅の天井があった。
自室の布団の上に寝かされているらしい。
「あ、起きたぁ?」
傍らに、葵がいた。
ベージュのオフショルダーのトレーナーにジーンズ姿で──添い寝していた。
「……何しよんか」
「かくかくしかじか」
「親父が助けに来てくれたんか……」
自分の危機を察して、瞬間移動で駆けつけてくれたのだろうと察した。
起き上がってみたが、体は重かった。
「もうちょっと寝てなよ。今パパさんがご飯作ってくれてるし」
葵はそう言って憂助の肩に手を添えて、寝かせる。
憂助はそれをはねのける気力もないようだ。おとなしく従った。
しばし無言で天井を見上げた後、添い寝する葵を横目でジロリと睨んだ。
「お前、なしこげなとこおるんか。はよ帰れ。親御さんも心配しとうやろ」
「……あー、ごめ。ちょっと説明足りなかったね。あれからもう2日経ってんの。今日は日曜だし、今お昼だし」
それで憂助は、窓を見た。カーテンは閉められたままだが、日中の明るい日差しがカーテン越しに差し込んでいた。
「そうか」
それだけを言って、憂助はまた虚ろに天井を見上げた。
「すまんかったな」
「何が?」
「勇んで飛び込んだはいいが、結局お前を助ける事が出来んかった」
「気にしないでよ。久我が来てくれた時はチョー嬉しかったし。あの虎みたいなお化けやっつけた時とか、チョーカッコよかったし」
「それでも、最後の最後でしくったやろが」
「うーん……それは、そうだけどさ。でも、負けちゃったのはしょーがないっつーか……とにかく、アタシは久我が助けに来てくれて、マジ感謝してるから……だから、元気出してよ」
葵は手を伸ばし、憂助の黒髪を撫でながら、慰めた。
憂助の手を取り、胸元に引き寄せる。
トレーナーの下に潜り込ませて、自慢の膨らみにあてがった。
「ほら、おっぱい揉ませてあげっからさ」
憂助の手に自分の手を重ねて、ゆっくりと揉ませる。
いつものように硬派を気取る気力はないらしい。
憂助はただされるがままだった。
そんないつにないおとなしさが、葵にはとても可愛らしく見えた。
たまらなくなって、憂助を思いっきり抱き締める。
「久我、助けに来てくれて、マジありがとーね。久我がマジ強い事、アタシはちゃんと知ってるからね。だから、元気出してね……何でもしてあげるから、さ」
子供をあやすように憂助の頭を撫で、葵は優しくささやき──ゆっくりと唇を重ね合わせた。