学校の幽霊 その1
放課後。
久我憂助は教室に残っていた。
他に生徒はいない。みんな部活に行くか下校するかしており、彼一人だ──生徒は、だが。
教室にはもう一人、女性教諭がいた。教卓に両肘をついて、憂助を見つめていた。
国語の担任である富士村静流である。
中間試験を休んだ憂助は、放課後に追試を受けており、今日は国語の追試をやっているのだ。彼以外に受ける者はおらず、静流は二人きりになれた事をちょっぴり喜んでいた。
憂助は黙々と問題を解いている。静流の視線に気付いているのかいないのかは、わからない。
問題を全て解き終えると、席を立ち、静流に手渡した。
「じゃ、失礼します」
憂助はそう言ってペコリとお辞儀すると、机の横のフックに掛けていた鞄を肩に下げる。
「ま、待って久我くん!」
静流が慌てて呼び止めた。
「はい」
「あ、あの、明日は土曜日でお休みでしょう?」
「ええ」
「良かったら、ちょっと付き合ってもらえないかしら」
「……何ぞ厄介事ですか?」
「そうじゃないけど、その……」
静流は言い淀んだ。教師と言う立場にいる者が、このような事を口にしていいのかどうか……しかし、これは何のやましい事でもない、人として当たり前の事なのだと自分に言い聞かせた。
「この前あなたに助けてもらったのに、未だにちゃんとしたお礼が出来てないでしょう? だから、そのお礼がしたいから、その、一緒にお食事とか、どうかなって……」
「お構い無く」
憂助はつれない返事である。
静流は一瞬心が挫けそうになったが、ある程度は予想していた事でもあった。
「で、でも、もうお店にも二人分の予約を入れてあるし……」
そう言うと、憂助は口をへの字に曲げる。相手の意志も確認せずに予約を入れるのは、大人としてどうなんだという思いがある。ちょっと文句の一つも言ってやろうと口を開きかけたその時──、
「そこのお店、ステーキハウスなんだけど、お肉がとても美味しくて、先生のオススメなの」
「明日の何時に、どこ集合ですか?」
憂助はそう尋ねてしまったが、何の後悔もなかった……。
◆
翌日。
時刻は午後8時。
憂助と静流は食事を終えて、夜の町を並んで歩いていた。
憂助はジーパンと長袖Tシャツにマウンテンパーカー。
静流はレザーパンツとニットセーターの上からコートを着ている。
家ではまず食べる機会のない大きな肉に存分にかぶりつけたおかげか、憂助の表情は明るい。この少年には珍しく、明確に『今とても機嫌が良い』とわかる。
静流はそんな教え子の腕に自分の腕を絡ませたい衝動に何度も駆られて、その度にそれを抑え込んでいた。
今夜の食事は、あくまでも命の恩人への感謝の印であり、それ以上の深い意味はないしあってはならない。憂助に抱いている特別な感情を自覚しつつも、それはただの気の迷い、いわゆる『吊り橋効果』に過ぎないのだ。心の中で、そう自分に言い聞かせて。
(仮に付き合えたとしても、どうせ長続きなんてする訳ないんだから……)
何せ自分たちは教師と生徒の関係だ。その立場の違いは憂助が卒業してしまえば問題ないが、彼はまだ高校一年生。それまで彼を繋ぎ止めていられるとは思えない。教師というのは休みの日も結構忙しい。恋人同士の時間が取れなくなれば、憂助の心が離れていってしまうのは火を見るより明らかだ。
年齢差もある。自分は今25歳で、憂助がもう16歳になったと仮定すれば9歳差、まだならば10歳差となる。『育った文化が違う』というフレーズが出てきてもいい年齢差だ。話題や趣味が合うとは思えない。
──いっそ
何よりも一番の問題は、憂助本人である。あの事件以降、こちらから積極的に話し掛けて来たものの、彼の態度は素っ気ないものであった。
(やっぱりこの子にとって、私はただの一教師にしか過ぎないのよね……)
認めたくはないが、そのように思えてしまう。
考えれば考えるほど見込みがなさそうで、やはりスパッと諦めるのがお互いのためだと思う。
だが、しかし。
やはりこの胸の内の想いは消し難かった。
助けられた後、つい感極まって憂助に抱きついてしまったが、その時感じた少年のたくましい肉体の感触が忘れられず、思い出す度に全身が熱く、甘くうずいてしまう。
今がまさにそうで、隣を無言で、しかし上機嫌で歩く生徒に、無性に抱かれたかった。
一夜限りの肉体関係に終わってもいいから、この少年と肌を重ね合わせたかった。自分の全てを捧げたくてたまらなかった。
そしてそんな衝動がこみ上げて来る度に、それを理性でねじ伏せる。
あの日以来、そんな堂々巡りが静流の内で延々と続いている。
思わずハァ……と溜め息がこぼれた。
「どうかしましたか?」
それを聞いた憂助が、そう尋ねて来る。
「……何でもないわ。ただ、家でもやらなきゃいけない仕事がまだたくさんあったなって思い出して……お休みの日でも、先生って忙しいの」
「……すんません」
憂助は謝った。自分の追試の採点があるのだろうと思ったのだ。しかし静流はコロコロと笑った。
「あなたが謝る事じゃないわ。むしろ久我くんは手の掛からない生徒だから、私としては助かってるくらいよ? ──逆に、私の方が助けられたし」
静流は言いながら、憂助と腕を絡めた。
「心配してくれてありがとう……久我くんって、本当に優しい子ね……ちょっと愛想に欠けるけど」
「すんません」
「いいの。そういうところも可愛いし」
言われて憂助は、口をへの字に曲げたが、彼と腕を組める喜びで、静流は気付かなかった。
(ダメ……私……もう、ダメ……!)
理性よりも衝動が上回った。
「ねぇ、久我くん」
「はい」
「今夜は、泊まっていって?」
「はい?」
「本当は、一人でいるのがちょっと怖いの……昨日、近所で空き巣があって、女の人の下着とかも盗まれたそうで」
自分でもあきれるくらいスラスラと、ありもしない事件をでっち上げる。
「だから、今夜だけでも、一緒にいてくれる? お礼に、明日は焼き肉を奢ってあげるから、ね?」
「わかりました」
憂助は迷わず即答した。
「あ、ありがとう、久我くん……」
あまりの即答ぶりに、誘った静流すらちょっぴり戸惑うほどであった……。
◆
静流の住むマンションへ向かう途中の公園の前まで来た時、二人は足を止めた。
無人の公園に一人の女の子の姿を見付けた。背丈からして、小学校低学年くらいだろうか。ベンチに一人ポツンと座っており、周辺に保護者らしき者の姿は見当たらない。
静流は公園の中に入り、女の子のそばへと歩み寄った。
憂助は歩道で待つ事にする。知らない男の人に近寄られれば、女の子が怖がるだろうと思ったのだ。
「あなた、どうしたの? 早くお家に帰らないとパパやママが心配してるわよ?」
静流は女の子の前まで来ると、しゃがんで彼女と目線を合わせた。
「暗くて、怖いの」
女の子はそう答えた。
「一人だと、怖くて帰れないの?」
静流がそう尋ねると、女の子はコクンとうなずいた。
「お家までの道のりは、わかる?」
コクン。
「じゃあ、お姉さんが一緒についていってあげる。それなら、お家に帰れる?」
コクン。
相手がうなずいたのを見て、静流は安堵した。
憂助も公園の外からそのやり取りを見て、面倒な事にはならならなさそうだと安心した。
そんな彼の耳に、バサバサと羽音が聞こえた。
目の前に、灰色の影が舞い降りる。
肩から翼を生やした、一匹の鯖虎だ。憂助が『チビ虎』ととりあえず名付けたものの、その日その時の気分で『チビ』だったり『トラ』だったりする、蠱毒の呪物。霊喰いの妖猫。
チビ虎は翼をたたむと、公園の方を向いて、その場でチョコンとお座りした。そして何度か、公園の中と憂助とを交互に見る。まるで何かを催促しているかのようだ。
(こいつが、こげな態度する時は……)
近くに食糧となる霊がいて、憂助に退治するようせがんでいる時の態度である。
そしてチビ虎の視線は、公園に向けられている。
「それじゃ、一緒に帰りましょうね?」
静流はそんな事など露知らず、女の子の手を握る。
女の子がベンチから立ち上がり、彼女の手を引いて歩き出した。思いの外、力が強い。
トコトコと静流を引っ張って向かう先は、公園の反対側の出入口だ。
だが、静流の足が不意に止まった。
真っ暗なのだ。
本来この公園の向こう側には、道路を挟んでコンビニがある。
なのに今、女の子が向かおうとする出入口の先は、闇に塗り込められていた。
何かおかしい。
しかし女の子は、構わずその闇に向かって歩き出す。女性とはいえ大人を引きずって、難なく進む。
「イエェェーーヤッ!」
憂助が雷鳴のような気合いを上げながら、駆け寄る。
その手には、柄に『獅子王』の文字を彫り込んだ木刀。
チビ虎も同時に駆け出していた。
しかし、破邪の念を込めた木刀が唸る前に、静流は女の子に引っ張られて闇に呑まれた。
闇から無数の小さな手が現れ、憂助とチビ虎をも引きずり込んだ──。
◆
峰岸葵は、カラオケボックスで熱唱した後、ギャル友トリオと別れて一人家路に就いた。
時刻は午後8時を過ぎている。
住宅街に向かう道すがら、一人の男の子がポツンと立ち尽くしているのを見て、足を止めた。
見た感じ、小学校高学年くらいのようだ。
「こぉーらチビッ子ぉ、早く帰んないとパパやママに怒られっぞぉ~」
そう呼び掛けると、男の子は葵の方をクルリと振り向いた。
「散歩してた犬が逃げちゃって、中に入って行っちゃった」
「中?」
何の中? と聞こうとして、やめた。
夜の闇に、学校と思わしき大きな建物のシルエットが浮かんでいた。
二人は、その学校の正門前に立っていたのだ。
(あれ? こんな所に学校なんてあったっけ?)
葵は怪しむが、男の子が彼女の手を握る。
「お姉ちゃん、一緒に探してよ。連れて帰らないとパパやママに怒られちゃうよ」
そう言われると、この見知らぬ男の子が無性に可哀想になってきた。
「オッケー、お姉ちゃんに任せなって!」
そして、ついそんな風に安請け合いしてしまうのだった。
「とは言え、どこから入ったもんかなー……」
正門の鉄格子の隙間は、犬ならともかく人間がくぐるには狭すぎる。
「こっちから入れるよ」
男の子が葵の手を引いて、歩き出した。
白い塀沿いに進むと、裏側に出る。そこは塀ではなく金網で仕切られてあり、しかも破れて穴の空いてる部分があった。
二人はその穴をくぐって、学校の敷地内に入った。
「あそこから入っていったんだ」
男の子がそう指差した先は校舎の勝手口で、引き戸が開け放しになっていた。
「うわ、開けっ放しとかありえねーし……」
葵はぼやきながら、男の子に手引きされて校舎の中に入る。
当たり前だが、中は真っ暗だ。廊下の先は暗闇の中に消えていて、全く見えない。
葵はショルダーバッグからスマホを取り出して、ライトを点灯した。バッテリーは充分あるし、何より画面のバックライト程度では気休めにもならない。
そのスマホのライトが、教室のドアを照らし出した。
そこも施錠されておらず、開け放されてある。
不意に男の子が、その教室の中へと駆け込んだ。
「こら、一人で行くなー!」
葵は後を追って中に入る。
入った瞬間、ドアがひとりでに閉まった。
「ひっ!」
葵は思わず声を漏らす。
ドアがひとりでに閉まったからではない。
教室の中に、さっきの男の子以外にも同い年くらいの男の子が十人ほどいて、葵を一斉に見つめていたからだ。
彼等の目が、ポッカリと穴が空いているかのように真っ黒だったからだ。
葵の本能が、今すぐ逃げろ大音量で警告を飛ばす。
それに従って逃げようと背を向けるより早く、男の子たちが一斉に葵に飛び掛かった。
力はとても強く、葵は簡単に床の上に押し倒される。
たくさんの細い手が、葵の服の中に潜り込み、肌を撫で回し始めた。
その不気味な愛撫に、葵は覚えがある。生者にあらざる者の手の感触だ。
その冷たい手が、生ある者の温もりを貪るように、葵の全身をまさぐる。
101cmの豊かな胸に、小さな指がいくつも食い込み、弄ぶように捏ね回す。
顔を突っ込んで、脇腹やヘソを舌で舐め回す者もいた。
穿いていたズボンとショーツが脱がされ、太股を指と舌が這い回った。
「やだ! やだやだやだぁ! 離せエロガキども! アタシに触んなぁ!」
葵は必死に抵抗するが、小さな身体からは想像も出来ない怪力で押さえ込まれて、身をよじるしか出来なかった。
──その時、一陣の風が吹いた。
巨大な灰色の影が教室の中に躍り込み、葵の身体に群がる子供たちを蹴散らしていく。
それは灰色の虎だった。
肩から同じ灰と黒の縞模様のある翼を生やした虎の前足での一撃で、一人は壁まで吹き飛ばされ、首と胴が離れ離れになった。
別の一人は喉笛に食いつかれて、簡単に首を引きちぎられた。
残った子供たちは、室内の闇に溶け込むように消えていった。
葵が身を起こすと、虎の姿はない。
ただ、チビ虎が倒れた二人の男の子の骸を、シャクシャクと音を立てて食べている真っ最中であった。
蠱毒の呪法で生み出されたこの魔猫は、その気になれば今のように本物の虎と見紛う戦闘力を発揮する。なのに、普段は憂助に霊を退治させるのだからふてぶてしい。
「猫ちゃ~ん……」
ドアを開けて、恐る恐る呼び掛ける女性の声がした。
葵が全裸に剥かれたまま振り向けば、そこには静流がいた。
「静流センセー?」
「峰岸さん? どうしてここに? て言うか、その格好はどうしたの? 大丈夫?」
「ふぇええ~ん、静流センセー!」
顔見知りに会えた安心感から、葵は静流に抱きついた。全裸で。
静流は生徒をなだめ、まずは服を着るように促す。
葵が落ち着きを取り戻して服を着ると、お互いの事情を話して聞かせた。
「……それで、この猫ちゃんと一緒に、久我くんを探しているの」
「久我もいんの? でも、出口ならすぐそこにあったよ? アタシ、変なガキんちょに案内されてそこから入ったし」
葵はそう言って廊下に出る。
しかし、ついさっき入ってきた勝手口は、影も形も見当たらない。ただ、壁があるだけだ。
「あれー? 本当にここに出入口があったんだよ? マジマジ」
「……きっと、消えてしまったのね。この学校、変なのよ。やけに広すぎるわ。先生、この廊下をかれこれ百メートルくらい歩いたもの」
「え、何それ」
「とにかく久我くんを探さないと……この辺にはいないみたいだし、他の階に行ってみましょう。峰岸さん、先生から離れちゃダメよ?」
「ハァーイ」
葵は返事をしながら、不安を紛らわせるようにチビ虎を抱き上げ、静流と一緒に上の階に続く階段に向かった。
◆
憂助は、ベッドのある狭い部屋の中にいた。
ベッドの周りはカーテンで仕切られ、壁に並ぶ棚には薬品の瓶が陳列されてある。
部屋の片隅には、身長計と体重計が置かれてある。
保健室だと、すぐにわかった。
それも、彼が通っていた小学校の保健室だ。レイアウトが全く同じなのだ。
周りを見渡しても、静流の姿は見当たらない。あの女の子によって、別々の場所に飛ばされてしまったのだろうか?
敵の正体や目的は何であれ、まずは静流の安全確保が最優先だ。
憂助は保健室を出ようとドアに手を掛けた。そこへ──、
「久我くん」
女性の声がした。
素早く木刀を正眼に構えつつ振り向くと、無人だったはずのベッドの上に、白衣を着た一人の女性が座っている。
緩やかなウェーブの掛かった栗色の髪をした、若い女性だ。静流と同じくらいだろうか。
「大きくなったわね、久我くん」
その女性はベッドから立ち上がり、憂助に歩み寄る。
「また会えて、先生とっても嬉しいわ」
そして、ゆっくりと憂助の首に両腕を回し、密着してきた。互いの着衣越しに、胸の膨らみが押し付けられる。
「平山、先生……」
憂助は呻くように呟いた。
その女性は、彼が小学六年生の頃に校医を勤めていた平山裕子であった……。