平山裕子の肉体の柔らかさを感じながら、久我憂助は小学校六年生の時の、彼女との会話を思い出していた。
五時間目の体育の授業中の事だ。
その日はサッカーをやっており、憂助はキーパーを任されていた。
相手チームの男子が、ゴールの隅を目掛けて蹴り込んだボールを、憂助は横っ飛びでキャッチ、更に取り落とすまいと抱きかかえる。
その直後、ゴインという重い金属音と共に、頭に衝撃が走った。
勢い余ってゴールポストの角で頭を強打したのだ。
生暖かい物が、額を流れた。
出血していた。
だが憂助はうめき声一つ上げず、体操服の上を脱いで細長く畳み、それを額に巻いてプレーを続行しようとした。
担任の緒方から保健室に行くよう言われたが、「平気です」とだけ返した。それでもきつく言われたので、憂助は口をへの字に曲げて、渋々保健室で手当てを受ける事にしたのだ。
そんな一幕を平山裕子は保健室の窓から眺めていたらしく、
「久我くんは我慢強いのね」
と、手当てしながらコロコロと笑う校医を、憂助は口をへの字に曲げて睨み付けた。
手当てが終わると、「ありがとうございました」と言ってグラウンドに戻ろうとする。それを平山裕子が制した。
「駄目よ、血が出るくらい頭打ってるんだから、安静にしてないと」
彼女はそう言って、強引に憂助をベッドの上に横たわらせる。
「緒方先生には私から言っておくから、授業が終わるまで休んでなさいね」
「もうすぐ終わるからいいです」
「私が言ってるのは、その次。六時間目の事よ」
裕子は苦笑しつつも、真面目に授業を受けようとする少年の態度には好感を覚えた。
「あなたは頭を怪我してるんだから、誰も文句は言わないし笑ったりもしないわ。いい子にしてなさい。わかった?」
「……うっす」
憂助は不満げに答え、布団を頭から被った。
五時間目が終わり、様子を見に来た緒方に裕子が説明する。
それから六時間目の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「久我くんの名前、いい名前よね」
裕子が唐突にそんな事を言った。
憂助からはカーテンで見えないが、彼女は憂助の親への連絡先を確認しているところだった。
「……先生。ユウスケのユウは『憂鬱』の『憂』ですよ。ホントは『優秀』の『優』にしようとしたけど、役場に届け出る時にアホ親父が間違って『
「お父さん、きっと照れ隠しで言ったのね」
裕子はそう言って笑った。
「憂鬱の憂は『憂い』とも読むの。憂いは心配とか悲しいとかそんな意味で、『憂える』と書けば、心配するとか気遣うとかいう意味ね。あなたの名前は『憂』える者を『助』けるという意味になるから、いい名前だと思うわよ」
「どーも」
憂助は素っ気ない返事を返した。
カーテンで見えないが、ベッドの中で憂助は耳まで真っ赤になっていた……。
──その平山裕子が、今、目の前にいた。
深夜の小学校の保健室で、あの時と変わらぬままに。
「大きくなったわね、久我くん……嬉しい……」
艶かしく微笑み、裕子はズボンの上から憂助の股間を白い手で撫でた。
「私、あなたの事が好きだったのよ……卒業したんだから、もう生徒じゃないわよね? こっちも、卒業しましょう?」
裕子の手が、毒蛇めいて憂助のズボンの中に潜り込む──と同時に、彼女の体がビクンと震えた。
憂助の木刀が、彼女のこめかみに柄まで突き立てられていた。
木製の刀身は少しも貫通してはいない。
「く、が、く、ん……」
「平山先生は生きとるわ、阿呆……舐めた真似しくさりやがって」
憂助は憎々しげに呟き、「エヤアッ!」と気合いを放つ。
裕子の顔中の穴から白光がほとばしり、彼女は黒い塵となって消えた。
「くぅぅううがぁぁぁあああくぅううぅぅぅんんん……」
だが、その消えたはずの裕子の声が、再び響いてきた。
奥のベッドが、グニャリと形を変えて、裕子の姿に変わった。
壁の薬品棚もアメーバのように溶けたかと思うと、裕子の姿へと変化していく。
天井からは裕子の頭が生えてきて、スライムのように床に滴り落ち、これもまた裕子の姿を取った。
「先生にぃいいぃい……暴力を振るうなんてぇぇええええ」
「いけない子ねぇぇぇええええぇ、久我くぅぅううぅうん」
「お仕置きぃいいぃいしてあげぇぇぇええるぅぅううぅうぅ」
間延びした不気味な声を上げながら、新たに生まれた三人の裕子は人間性を全く感じさせない、四つん這いの動きで憂助に迫る。
憂助は木刀の切っ先で床をこすり上げた。
発生したあるかないかのかすかな摩擦熱を念で増幅させ、破邪の白炎を生み出す。
久我流念法『闇祓い』が文字通りに火を噴き、三人の裕子を焼き払った。
憂助はドアを乱暴に開き、廊下に飛び出した──はずだった。
だが出たのは廊下にではなく、教室にだった。
無人の教室だ。
保健室のすぐ外が教室という奇妙な現象に、憂助は一瞬呆気に取られた。
その瞬間、憂助の背後でドアがひとりでに閉ざされた。
同時に、室内の机や椅子がガタガタと揺れ始める。
それらは一斉にのたうち回り、形を変えた。
椅子の背もたれや机の天板に裂け目が出来て、それが牙を生やした口へと変化したのだ。
そして憂助目掛けて群狼めいて飛び掛かって来た!
「イィーーエヤァッ!」
憂助は木刀を脇構えに振りかぶって、振り抜いた。
一陣の烈風が吹き荒れ、迫り来る椅子や机を一まとめに薙ぎ払い、壁や天井に叩きつける。
闇祓いがかすかな摩擦熱を増幅させるように、わずかな空気の流れを念で増幅させる久我流念法『太刀風』である。
机と椅子の襲撃は退けたが、今度は教室の後ろのロッカーから、蛇の大群が躍り出る。
ただの蛇ではなく、人面の蛇であった。
しかもその顔は、どれも憂助の知っている顔ばかりだった──小学生時代のクラスメートたちなのだ。
「しゃらくせぇ!」
しかし憂助の太刀筋には一切の迷いもためらいも見られなかった。
木刀は破邪の念を宿して白く輝き、迫り来る怪蛇の人面を斬割し、鎌首を刎ねていく。
「人の思い出踏みにじるような事んじょしくさりやがってぇ!」
憂助は木刀を大上段に振り上げると、怒号を上げながらロッカー目掛けて飛ぶように走り、渾身の一刀を叩き込んだ!
木製のロッカーは音を立てて裂け──憂助の木刀を咬み止めた!
左右のロッカーから、やはりクラスメートたちの顔を持つ新たな蛇の群れが現れて、憂助の全身に巻き付く。
そしてギリギリと締め上げ始めた。
憂助は、目を閉じた。
観念したのか──否。
彼は目を閉じて、山での修行の日々を思い出していた。
目が見えない中でも鮮烈に耳に響いた、川のせせらぎや風のそよぐ音を、今心の中で再び響かせる。
眉間のチャクラが開かれて、白い光輪が生まれた。
光輪は激しく回転しながら、輝きを強めていく。
「イィィーーーエヤァッ!」
雷鳴のごとき気合いと共に、眉間の光輪から放射された白光が、憂助の全身を締め上げる蛇たちを焼き払い、消滅させた。
それで、襲撃は一旦途絶えたらしい。
教室内に、不気味な静けさが戻った。
憂助はその隙に精神を集中させ、静流の元へと瞬間移動で飛んだ──。
◆
富士村静流と、チビ虎を抱いた峰岸葵は、どちらからともなく手を繋ぎ、暗い階段を上っていた。
踊場を抜けて次の階段を上り、次の踊場を過ぎてまた階段を上り、そしてまた次の踊場へ──そこで二人の足が止まった。
ここが学校の中なら、階段が長すぎる。もう二階どころか三階に到達してるはずだ。
「……峰岸さん、いったん戻るわよ」
「う、うん……」
二人は階段を下り始めたが、今度はいつまで下りても一階にたどり着けない。下りた先には踊場が待ち構えているだけだった。
「やっぱり、同じ所をグルグル回らされているだけみたいね」
「どうすんの、センセー」
「……動き回っても疲れるだけだし、久我くんが私たちを見つけてくれるのを待つしかないわね」
「はぁ~い……もぉ~、早くいつもみたいに瞬間移動で助けに来てよね……」
葵はぼやきながら、抱っこしていたチビ虎の背中を撫でる。
そのチビ虎が、突然肩の翼を広げて飛び立ったかと思うと、上の階段の暗闇の中へと消えていった。
「ど、どうしたの?」
「わかんない……もしかして、久我がこの上にいるから行っちゃったのかも。アタシ等も行こーよ!」
葵は言うなり階段を駈け上がる。
静流も後を追う。
階段を上った先にはドアがあり、それを開けると、ドアの向こうはたくさんのデスクが並ぶ職員室だった。
照明一つ灯されていない暗がりの中で、しかし静流にははっきりと見えていた──そこに居並ぶ教員と思しき男女の姿が。
彼等は一斉に、静流の方を向いた。
その目は、ポッカリと穴が空いているかのように真っ黒だった。
身の危険を感じた静流が逃げようとするよりも早く、彼等の手が静流の服や髪を掴み、冷たい床の上に引きずり倒した。
無数の手が毒蛇めいて彼女の服の中に潜り込み、肌をまさぐる。
男女問わず、代わる代わる静流の唇を吸った。
服を乱暴に剥ぎ取られ、あらわになった白い肌の上を、舌が這い回る。
手も、唇も、舌も、どれも怖気をふるうような冷たさがあった。
その冷たい不気味な愛撫の度に、静流は自分の中の熱を奪われていくような感覚に襲われた。
二本の手が、それぞれ下着を剥ぎ取ろうとした瞬間、突然職員室内を白光が照らした。
「エヤァッ!」
鋭い声と共に、熱風が吹き荒れて、静流に群がる教員たちを吹き飛ばして塵に変える。
瞬間移動で駆けつけた憂助であった。
「先生、大丈夫ですか」
憂助は静流に駆け寄り、優しく抱き起こす。
静流は思わず、親にすがりつく小さな子供のように、憂助に抱きついた。
「先生、服着てください。風邪引きますよ」
憂助はつとめて冷静にそう言い、静流もそれに従った。
「んじゃ、行きましょう。先生ん家まで飛びます」
「待って、まだ峰岸さんがいるの。あの子も助けないと」
「峰岸? なしあいつがこげなとこおるんですか?」
「私たちと同じように、変な子供に誘い込まれたらしいわ」
「しゃーねえのぉ……」
ぼやきつつも、やたらこういった事に巻き込まれる葵を、いろんな意味で心配する憂助であった。
「それと、肩に羽根が生えた猫ちゃんもいたんだけど……」
「うちの居候です」
「そ、そう……あの猫ちゃんも一緒なら大丈夫だとは思うんだけど」
「あいつには期待せん方がいいですよ」
憂助はあっさりと言い切った。
面倒は憂助に押し付け、美味しいところだけをちゃっかりいただく図々しさを何度も見ているので、あの妖猫がおとなしく葵を護衛するとは思えないのだ。
ともかく、憂助は静流を伴い、葵の元へと瞬間移動した。
◆
葵がチビ虎を追って階段を上ると、その先にドアがあった。
それを開けて中に入ると、そこは教室であった。
思わず警戒する葵だったが、照明一つ灯されていない真っ暗な室内にたたずむ人影を見て、パッと笑顔になる。
「久我! 良かった~!」
その人物が久我憂助である事を認めると、パタパタと駆け寄り抱き付く。
「マジ怖かった~! 静流センセーもこの下にいるから早く……んう」
葵の言葉は思わぬやり方で遮られた。
憂助が突然唇を重ねてきたのだ。
あまりに予想外過ぎて驚いたものの、葵は半ば条件反射で、口の中に潜り込んで来た舌と自分の舌とを絡ませ合った。
憂助の手が服の中に潜り込み、101cmの豊かな膨らみを捏ね回す。
「んうっ!?」
葵は咄嗟に、憂助を突き飛ばした。
見られるのも触られるのも大好きだが、今の憂助の手は、ゾッとする冷たさがあったのだ。それはついさっき、別の教室で自分の体を弄んだあの黒い目の子供たちと同じ感触だった。
「だ、誰よアンタ! 久我じゃな、ひゃっ!」
後ろから二本の腕が葵の体に巻き付き、胸を鷲掴みしてきた。
肩越しに振り向くと、そこにも憂助がいる。
見れば室内の椅子や机が形を変えて、次々と憂助の姿に変わっていき、近付いてくる。
葵は恐怖で凍り付き、逃げるどころか声も上げる事が出来なくなっていた。
無数の手が葵の体へと迫った時、突如、光を伴う激しい熱風が吹いた。
その光が、風が、偽物の憂助の群れを吹き飛ばし、黒い塵に変えて消滅させる。
ペタンとその場に尻餅をついた葵に、
「大丈夫か?」
と声をかける者があった。
振り向くと、木刀を手にした憂助が静流と共にそこにいた。
「立てるか?」
憂助が空いた左手を差し出す。
葵はそれを掴んで、半ば引っ張られるように立ち上がった。
そして憂助の顔をジーッと見つめる。
「なんか。俺の顔に何か付いとうんか」
「アンタ本当に久我?」
「当たり前だ」
「じゃあおっぱい触って!」
葵は大真面目に言った。本物ならさっきの偽物のような冷たい手はしていないからと考えたのだ。
だがその直後、教室内にデコピンの音が響き渡った──。
「阿呆言うとらんと、脱出するぞ。掴まれ」
「はぁ~い……」
葵は額を押さえながら、憂助の左腕にしがみついて、胸を密着させた。
静流はそれを見ながら、憂助の肩を遠慮がちに掴む。
憂助は目を閉じて精神を集中させた。
その場に白い光が生まれ、教室から三人の姿が消えた。
次に三人が姿を現したのは──また別の部屋であった。
教室ではない。絨毯が敷かれ、奥にはデスク。
その前に来客用のソファとテーブルが一式。
壁には黒板や掲示板が設置されてある。
チッ!
憂助は顔を歪めて舌打ちした。
「久我くん、ここは?」
「校長室」
憂助は静流の問いにそう答えながら、腕にしがみついて胸を押し付けてくる葵を振り払った。
「あー、言われてみればそんな感じだねー。でも、なんでここに飛んだの?」
「来たくて来た訳やねえ……言いたぁねえが、閉じ込められた」
「へっ?」
「この学校の外には出られんっち事てえ」
「その通りです」
別の声が、答えた。
三人が振り向くと、デスクの椅子に、いつの間にかスーツ姿の男が座っていた。
白髪混じりの髪をオールバックにした、六十歳ほどの男だ。その目は穴が空いているかのように真っ黒だった。
「あなた方にはいつまでも、我が校に留まっていただきたい」
男は、怖いくらい朗らかに笑う。
「それにしても、久しぶりですねぇ、久我くん。大きくなって……」
「校長先生……」
憂助は呻いた。
柄に『獅子王』の文字を彫り込んだ木刀を握り締めると、
「エヤァッ!」
鋭い掛け声と共に、木刀を横一文字に振り抜く!
白光が三日月状の刃となって、デスクの向こうの男へと飛翔していった──。