時刻は夕方の5時を過ぎる頃だ。
庭に軽自動車が停められてある。美智子の母親は在宅しているようだ。
――しかし、そうだとすればあまりにも静か過ぎた。
「お前はここで待っとけ。邪魔だ」
憂助は葵に言い捨てて、胸までの高さの門を開けて敷地内に入っていく。その足取りには何の迷いもためらいもなく、まるでここが自分の家であるかのようだ。
何の気遣いもない言いぐさにちょっとカチンと来る葵だったが、事実なので仕方がない。実際に何も出来ないから、彼に助けを求めたのだ。だから文句を言いたくなったのを、ぐっとこらえた。
しかし心配だ。彼は助けてくれた時に持っていた、あの光る木刀を持っていない。その事を道中聞いてみたが、彼は「心配いらん」と返すのみだった。
憂助は玄関のドアノブに手を掛け、回した。
施錠はされてないようで、簡単に開いた。
――ゾクゾクッ!
外から眺めていた葵は、思わず総毛立った。
家の中に、あの山奥の民家同様に『影』たちがたむろしていたのだ。
そいつ等が憂助目掛けて、無数の黒い腕を伸ばす。
「イィーーっ……エヤァッ!」
憂助は雷鳴にも似た鋭い声を発した。
目の錯覚だろうか、一瞬、彼の体が光ったように、葵には見えた。
否、錯覚ではない。
確かに憂助の体から白い光が放たれ、その輝きが手を伸ばす『影』の群れを消滅させた。
「邪魔するぜ」
憂助はそう言って中に入ると、自ら玄関のドアを閉めた。
◆
家の中は、暗い。
夏の今頃なら、屋内でもまだ照明を点ける必要がないほど明るいはずだが、逆に照明が必要なほどだ。
空気も、何年も閉めきられたままであったかのように淀み、しかも冷たい。憂助がハーッと息を吐くと、その吐息が白くなった。
「どなた?」
廊下の左手から、女性の尋ねる声がする。
行ってみるとそこは台所のようだ。部屋着の上からエプロンを着けた女性が立っている――手に包丁を持って。
美智子の母親の
憂助は突き刺すような眼差しで、睨み付ける。
彼女ではなく、その背後に群がる影を。
彼等は思い思いに、彼女の身体にまとわりついていた。
気安く髪や頬を撫でる手もあれば、半袖シャツやスカートの中に潜り込み蠢く手もある。
彼女の豊かな乳房を、見せつけるように揉みしだき、捏ね回す手もあった。
奇怪な存在に熟れた肉体を弄ばれているにも関わらず、幸枝の表情は虚ろで、目線も定まっていない。
憂助が、一歩前に出た。
瞬間、『影』は幸枝の鼻や口、耳からその体内に入っていく。五つの『影』が全て、一人の女性の体内に一瞬で収まってしまった。
かと思いきや、幸枝が包丁を振り上げて襲い掛かって来る!
その目は黄色く濁っていた。
憂助は逆さに握った包丁を突き立てようとする彼女の手首を、左手で掴んで止めた。
そして右手で幸枝の口許を押さえ、そのまま壁に押しつける。
「エヤァッ!」
掛け声と共に、右手の平から白光がほとばしる。
光は幸枝の口から体内に入り、その肉体を侵食していた『影』を焼いた。
女性のものではない――否、人間のものとすら思えないおぞましい断末魔と共に、『影』たちは幸枝の体から逃げ出し、そのまま煙となって消えた。
幸枝が、糸の切れた操り人形のように倒れる。それを抱き止めた憂助は、優しく床に横たわらせてやった。
そして立ち上がるや否や、後ろ回し蹴りを放つ。
その蹴り足が、眼鏡を掛けた中年男性の腹に突き刺さる。
彼は金属バットを振り上げた姿勢のまま、台所から廊下の壁へと吹き飛ばされた。
美智子の父親の孝之だ。その目は黄色く濁っており、妻と同様に『影』に取り憑かれているのがわかった。
憂助は素早く孝之の懐に飛び込み、両手で彼の耳を押さえる。
気合いと共に白光がほとばしり、幸枝と同様に体内の『影』を焼き払った。
孝之を廊下に横たわらせてやり、憂助は次に二階へ続く階段へ向かう。
上がろうとする足が止まった。
目線は階段の上を見上げている。
その上の白い影。
全裸の美智子が、仁王立ちして憂助を黄色く濁った目で見下ろしている。
口からは無数の黒いミミズが這い出して、うごめいていた。
白い裸身が不意に跳ね上がり、虫のように天井に張り付いた。
美智子の首がグルリとフクロウのように回転して、憂助を見つめるや否や飛び掛かる。
「エヤァッ!」
憂助は一瞬の迷いも見せず、拳で迎撃する。日本拳法風の縦拳が、槍のごとく真っ直ぐに繰り出された。
上空からの攻撃は、相手のカウンターに対して無力。防御するしかない。
しかし美智子は、憂助の腕を掴んで跳び箱を跳ぶように直突きをかわした。
そのまま憂助の頭を両足で蟹挟みに捕らえ、体重を掛けて押し倒す。
まったく嬉しくない顔面騎乗をされながら、憂助は廊下に倒れた。
その倒れる勢いを利用して下半身を跳ね上げ、美智子の頭を両足で挟む。
そして下半身を上げた反動で起き上がり、素早くマウントポジションを取った。
だが元通りに向き直った美智子の顔から黒い触手が伸びて来て、憂助の顔に絡み付く。
それが鼻や口、耳から侵入しようとする。
憂助は目を閉じて、眉間で黄金の水車が回転するのをイメージする。
すると眉間に光が生まれた。その光が渦を巻きながら、光輝を強めていく。
「イィーーエヤァーーッ!」
家全体を震わすような、まさに烈帛の気合い!
同時に憂助の全身から、これまでにない強い光輝が爆発するように溢れ出し、触手を焼き払い、消滅させた。
「ウギィィイイイイッ!」
美智子がケダモノじみた声を上げる。
そして細腕からは想像も出来ない腕力で憂助をはね退け、階段を四つん這いで駆け上がって行った。
「だいぶやられてんな……」
憂助はぼやきながら立ち上がる。
背中の襟口に右手を差し込み、引き抜くと――長さ1メートルほどの木刀が出てきた。とてもそんな長物を隠してるようには見えなかったのに……。
柄に『獅子王』と彫られたその得物を携えて、憂助は階段を上っていった。