邪霊ハンター   作:阿修羅丸

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覗霊(しりょう) その3

 久我(くが)憂助(ゆうすけ)はリュックサックの中からシャツとバスタオルを出して、女教師にそれを身に付けさせた。

 破られた服と下着を、入れ替わりにリュックサックに詰め込む。

 そして二人はエレベーターに乗って最上階の10階へと上がった。幸い他の住人と出くわすような事もなく、エレベーターは無事に到着した。

 富士村(ふじむら)静流(しずる)はハンドバッグから鍵を取り出して、玄関の鍵を開けようとした。しかしその手はまだ震えていて、なかなか上手く鍵が入らない。

 そんな彼女の手に、憂助が自分の手を重ねた。

 手のひらから暖かなものが溢れ出て、自分の手を包み込んでくれるのを、静流は感じ取った。手の震えはあっという間におさまり、彼女は鍵を開ける事が出来た。

 

「久我くん。先生、先にシャワー浴びてきていいかしら?」

「ええ。その間台所貸してくれりゃあ、メシは俺が作っときますよ」

「……あなた、お料理出来るの?」

「うちは親父と二人暮しなんで、交代でメシ作ってるんです……不味くはないと思います」

「そうなの。でも何だか悪いわ。シャワーも支度もすぐに済ませるから、あなたはその辺でくつろいでて?」

「はぁ」

 

 憂助は曖昧な返事をして、リビングのソファに座る。

 それを見届けてから、静流は寝室のクローゼットから着替えを出して、バスルームに向かった。

 ここ最近は何者かの気配や視線を感じて、家の中でも今一落ち着けなかったが、今夜は何故か、とても安心した気持ちで入浴出来た。

 濡れた身体を拭き、乾いてない黒髪をタオルでまとめて、部屋着を着てバスルームを出る。

 

 ――憂助はテレビもつけず、ソファの上で座禅を組み、目を閉じていた。

 

(……もしかして緊張してるのかしら? それで過剰に心を落ち着かせようとしてるとか?)

 

 生徒の奇行を、静流は勝手にそう分析する。

 

「久我くん。ご飯すぐに作るから、その間にあなたもお風呂済ませたら?」

「お構いなく」

 

 憂助は目を閉じたまま答える。

 

「俺は男やき、一晩くらい風呂入らんでも大丈夫です」

「ダメよ、体は清潔にしておかないと。入りなさい」

 

 静流が少し口調を強めて命令すると、憂助は口をへの字に曲げつつも、従った。

 自宅で愛用しているリンスのいらないメリットがなかったので、やむを得ず女性用のシャンプーで髪を洗う。

 次に体を洗おうとボディソープのボトルとスポンジを手に取って――そこで少年の動きが止まった。

 

(これ、さっき先生が使ったんよなぁ……)

 

 今手にしている、ペンギン型のボディスポンジ。

 ほんの数分前、女教師の肉体の隅々にまで触れた物体。

 そう思うと、使用するのが非常にためらわれた。気にしすぎだと自分でも思うのだが、このスポンジで体を洗うのがとても卑猥な行為に思えて仕方がない。

 しかし持参した手拭いは、うかつにもリュックサックの中に忘れてしまった。

 そんな訳で憂助は、自分の手で体を洗うしかなかった……。

 

 

 入浴を手早く済ませた憂助は、静流の作った簡素な夕食を食べる。

 黙々と箸を進める男子生徒に、静流はおずおずと話し掛けた。

 

「食べながらでいいから、聞いてくれるかしら?」

「何です?」

「……さっきのあの黒い影、私の知り合いなの」

「知り合い?」

「ええ。同じ大学に通ってたケーゾウくん……本当は経蔵(つねくら)くんっていうんだけど、名字がそうとも読めるからって、みんなケーゾウって呼んでて……それで私も、ケーゾウくんって呼んでたの。おとなしい人だけど、いろんな漫画本をたくさん持ってて、私も何回か借りた事があるわ。つい最近、亡くなったらしいんだけどね」

「……何か、話聞いてると本当にただの知り合いで、特別仲が良かったような感じがせんのですけど……」

 

 訃報にすら「らしい」を付けるくらいだ。恐らく葬儀どころか通夜にすら出てはいないだろう。

 

「――そうね。講義やお昼休みなんかで、見掛ければ挨拶してたくらいかしら。だから、正体はわかったけれど、別の疑問が出てくるの。どうして私の所に出たのか……」

「表に出さなかっただけで、先生の事を前から狙ってただけでしょう」

 

 憂助はそう言って、インスタントの味噌汁をすする。

 

「それはないわよ。だって彼、別の人に付きまとってたんだもの」

「別の、人?」

「ええ。亡くなった人を悪く言いたくはないのだけど、ケーゾウくん、隣町のマンションに住んでる女性をストーキングしてたみたい。それで、その女の人の部屋に忍び込むために、隣の空き部屋からベランダづたいで侵入しようとしたみたい。そしたら、部屋に遊びに来ていた彼氏さんがベランダで煙草を吸おうと出てきて……」

「ああ、思い出した。確かニュースでもやってましたよね、マンションの10階から落っこちて死んだストーカー……あのストーカーが、先生の大学時代の知り合いだったって訳ですか?」

「ええ。だから、その人の所に出るならわかるのだけど、何故私の所に出るのか、どうして私を狙うのか、さっぱりわからなくて……」

「先生。たぶん違います。もともと先生が狙いだったんですよ」

「どういう事?」

「このマンションの住所、確か西元町(にしもとまち)ですよね?」

「ええ、そうよ」

「で、ニュースでやっとったマンションが、西本町(にしほんまち)でしょ? そいつ、西本町をニシモトマチっち読んだんやないんですか?」

「…………えっ?」

 

 静流は、間の抜けた声を漏らした。

 

「どこでどう調べたか知らんけど、そういう勘違いから、ストーカーはそのマンションに先生が住んぢょうっち思って、その出入りを見張っちょった。でも先生の姿が見当たらんもんやき、思いきって部屋に忍び込もうとしたんやないですか?」

「……それじゃあ、私のせいってどういう事なの? さっきケーゾウくんが言ってたの、彼があんな風になったのは私のせいだって……もしもあなたの言う通りなら、どうして私のせいになるの? どうして私を怨むの?」

「ストーカーなんてそんなもんですよ」

 

 憂助はキッパリと言い切った。

 

「そいつにしてみりゃ、紛らわしい住所に住んでた先生が悪いとか、そんな感じなんでしょう」

「そんなの、逆恨みもいいとこだわ!」

 

 静流は思わず声を荒げた。今まさにこの瞬間だけ、怒りが恐怖を上回った。

 

「とにかく、次現れたら、そん時は必ず仕留めます」

「そ、そうね……お願いね、久我くん。頼りにしてるわ」

「ドーモ」

 

 女教師の信頼の言葉に答え、憂助は皿の上の豚の生姜焼きを掻き込んだ……。

 

 

 翌朝。

 リビングの隅で、憂助は座禅を組み、目を閉じていた。一晩中こうして瞑想していたのだ。

 組まれた足の上には木刀が置かれてある。柄の部分に、手彫りで『獅子王』の文字が彫られてあった。念法の基礎を習得した憂助が、修業の次の段階に移る際に自ら製作した愛刀である。

 

 憂助の目が、スッと開いた。

 そして視線を、寝室に続くドアへと移す。

 それから10秒ほどして、部屋着に着替えた静流がドアを開けて姿を見せた。

 

「おはようございます、先生」

「おはよう、久我くん。すぐに朝ご飯作るわね」

 

 そう言ってパタパタと台所へ向かう静流の表情は、とても晴れやかだ。よく眠れたと見える。

 

 ピンポーン。

 

 インターホンが鳴った。

 静流がすぐに、リビングの壁に設置されたモニターで来客の顔を確認する。

 モニターには、黒髪をボブカットにした女性が映っていた。同じ階の住人の女子大生だ。おおかた、友達と遊び回って朝帰りしたら、親がまだ起きておらず、閉め出されているのだろう。それで親が起きるまでの間、時間潰しに静流の部屋を訪れる事が、これまでにもあった。

 そのため、彼女は何の警戒もなしに玄関へ向かう。

 その背中を見た瞬間、憂助の眉間に稲妻が走った!

 

「入れんな!」

 

 敬語も忘れて叫ぶが、時すでに遅し――静流はドアを開けてしまっていた。

 

「ど、どうしたの久我くん……大丈夫よ、知ってる人だから……」

 

 驚く静流を押し退けて、女子大生が中に入る。

 

 バンッ!

 

 ドアが、ひとりでに勢い良く閉まった。

 瞬間、女子大生はその場にうずくまる。

 大きく開かれた口から、滝のように真っ黒なものが吐き出された。コールタールを思わせる吐瀉物があっという間に、廊下のフローリングに畳一枚分はある黒い水溜まりを作る。

 その水溜まりの中から、黒い手が現れた。

 まず右手。

 次に左手。

 そして頭が浮かんでくる。

 

「先生、離れろっ!」

 

 廊下に飛び出した憂助は、今まさに姿を現さんとする黒い侵入者の脳天に、木刀を振り下ろした。

 光輝をまとったその一刀は、まさに白い稲妻だった。

 黒い水溜まりから半身を浮上させた『影』は、そのままの体勢で幹竹割りに斬割され、断末魔の悲鳴すら残さずに消滅した。

 憂助が木刀に宿して打ち込んだ破邪の念は、黒い水溜まりも散らして、浄化した。

 その間に、静流は倒れた女子大生を寝室に連れていった。

 だが、リビングまで来ると、一本の手が毒蛇のように妖しく、そして素早く、静流のシャツの中に襟口から潜り込んだ。

 

「ひあっ!?」

 

 豊満な膨らみの先端にある敏感な部分を指でつねられて、静流の唇から艶かしい声がこぼれる。

 

「ちょっと、何をす……」

 

 たしなめようとして、静流は凍りついた。

 自分の胸を気安く弄ぶ手は、闇を凝固させたかのように真っ黒だった。

 そして、彼女が妹のように可愛がっている女子大生の、口の中から伸びていた。

 

『富士村さん……』

 

 声と共に、黒い腕が肩まで現れる。

 

『静流さん……』

 

 もう一本の腕が、ずるりと口から吐き出され、静流の艶やかな黒髪を鷲掴みした。

 

『静流ちゃん……』

 

 そして今度は、頭部が現れた。

 何たる怪異か、女子大生の口から、大人の男性の上半身が生えて来たのである……!

 ストーカー経蔵は、下半身を失った無惨な姿を完全に現すと、静流の背中にしがみついた。

 

『ようやくこの時が来たんだ……君を手に入れるこの瞬間が……僕の愛が実を結ぶ時が……君と一つになれるこの時が!』

 

 ストーカー経蔵は静流の胸を引きちぎらんばかりに乱暴に捏ね回し、粘着性すら感じさせる生臭い吐息を耳元に吹き掛ける。

 

 ここにストーカー経蔵がいるのなら、たった今憂助が撃退したのは何者か?

 憂助には、もう答えがわかっていた。

 あの『影』を倒した瞬間、少年の耳には『ありがとう』とささやく安らかな声があった。

 それで彼は、直感で悟ったのだ。ストーカー経蔵は、近くをさ迷う浮遊霊を捕らえて手下にしたのだ。そして女子大生の身体に一緒に潜り込み、静流の油断を誘って部屋に侵入したのである――浮遊霊は、憂助を引き付ける囮だったのだ。

 静流を追ってリビングに戻った時、静流は黒い影に羽交い締めにされていた。

 ポルターガイスト現象によって、ベランダに出るサッシが開き、静流の足が一歩一歩、おぼつかない動きでベランダへ彼女の体を運んだ。

 憂助が駆け寄る前に、サッシは行く手を阻むように閉ざされた。

 

「な、何をする気!? やめて、お願いだからやめて、ケーゾウくん!」

『大丈夫……怖くないよ……僕がついてる……二人で天国へ行こう……』

 

 経蔵は静流にささやくと、彼女の足をポルターガイストで操り、手すりへと進ませる。

 静流の身体は死への強制行進を進めながら、宙に浮いた。

 そして空中を歩き、手すりを乗り越えた瞬間、肉体を操る不可視の力が消えた。

 静流は絹を裂くような悲鳴を残し、10階から地上へと、真っ逆さまに落ちていく!

 

『キャァーハハハハハハ! 富士村さん、静流さん、静流ちゃん! これで僕たちは、永遠に一つだよ。二人で天国へ行こぉぉぉおおおおおおっ!』

 

 経蔵は狂喜の声を上げた。勝利を確信し、静流の胸を揉み、うなじに舌を這わせる。

 だがそんな二人を、太陽とはまた別の白い輝きが照らし出した。

 瞬間、静流の表情は恐怖から一転、歓喜と安堵に変わった。

 経蔵の表情は喜びから一転して、恐怖に歪んだ。

 白い光輝の源は、木刀を振り上げた憂助だったのだ! 後を追って飛び下りたとしても追い付けるはずもなし……しかし念法は、その不可能を可能にする!

 

「てめえ一人で地獄へ行け! 天誅!」

 

 破邪顕正の一刀が、静流の肉体を透過して経蔵の霊体のみを両断! 黒い塵へと変じて、風に消えた。

 憂助は空中で静流を抱き止め、目を閉じて精神を集中する。

 二人が白い光に包み込まれて消えた――次の瞬間、寝室のベッドの上に、二人は落っこちた。

 憂助を下に、静流を上に。

 二つの豊満な膨らみが、少年の顔を塞いだ。

 

 瞬間移動。

 

 憂助が念法修業の果てに身に付けた秘技。

 ただし、知ってる場所や知ってる人の所にしか行けない。いつでもどこでも何度でも、無制限に飛べる訳ではない。

 これこそが救出を成し遂げた奇跡であった。

 

「先生、もう大丈夫です。アイツは今度こそ、完全に仕留めました」

 

 女教師の下から這い出て、憂助は断言する。

 静流はしばし呆けた顔で憂助を見つめていた。

 しかし、その頬に赤みが差し、瞳が潤いを見せたかと思うと、憂助に抱きついた。

 

「ありがとう久我くん、本当にありがとう……! 凄くカッコ良かった……本当に素敵だったわ……!」

 

 抱きついた勢いそのままに生徒をベッドに押し倒し、熱のこもった声でささやきながら、情熱的な抱擁をする。

 さすがの憂助も、どうしたらいいのかわからなかった……。

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