ありがとうございました!
晴「リクエストありがとうございました!」
そろそろ春休みが明け、新学期が始まろうとする時期。
春だというのに、俺と千反田の体は汗だくになっていた。
俺は今日とある理由で千反田家に呼ばれた。千反田は俺が今大きな決断、そして行動を起こそうとしていることをどう感じているのだろうか。
暑さのせいなのか、俺が今伸ばしかけている手を見つめる千反田の大きな瞳が、どこか熱っぽく、息も荒い。
千反田の部屋。机の上には女の子らしい小物や装飾品が置いてあり、女の子特有の甘い香りが俺の鼻に情報を与えた。
この部屋に今いるのは俺と千反田の二人だけ。今なら誰にも見られる心配はない。加えて部屋は密室。いや、別にこのやり取りは見られたって構わない。
「こっちがいいのか……千反田?」
「あっ……そっちはダメです……」
「こっちか?」
「あっ……そっちも……」
俺の知る限りでは、千反田は
俺は、
そうだ、全てはこの忌々しい暑さから始まった。
あれは、数時間前に遡るだろう。
ザクッ!!!
鍬が勢いよく土に下ろされた。
俺は首にかけていたタオルで自分の額の汗を拭う。
今俺がいるのは千反田家の畑。夏に向けての野菜の種を撒く為の土壌作りを手伝ってくれと頼まれた俺は、こうして汗を流しながら畑仕事に勤しんでいるわけだ。
普段は千反田家の親戚が手伝うという事らしいが、親戚に急病人が出てしまい、急遽人員不足になってしまったとのこと。俺は《生き雛まつり》にて傘持ち役を務めた事で、千反田家関連の役職を務めることが多くなった気がする。てか、大体は晴香が勝手に俺のことを推薦してるだけなんだけどな…。
畑仕事が一段落ついた所で、俺は数人居た男達に話しかけられた。
「おい、南雲の坊主。休憩だ!少し休んできてもいいぞ!」
「た、助かります。鍬を振りすぎて腕がプルプルで……」
「なっさけねぇなぁ」
「慣れてないんすよ」
そう言い残して俺は千反田家に向かって歩き出した。
玄関口までたどり着いた俺は、思わず足を止める。
『休憩の時は家に上がって大丈夫ですよ』とは事前に言われたものの、人の家に勝手に上がり込むのはなんだか気が引ける。
俺は玄関前の石垣に寄りかかった。
近くに自動販売機はないかと辺りを見渡すが、見えるのは広大に広がった大地と先程まで俺が作業をしていた畑のみだ。
思えば、財布も携帯も千反田家の中にあるカバンの中だ。
俺は雲一つない晴天を大きく仰いだ。春特有の鳥のさえずりが聞こえ、ボーッとしてしまう。
「お疲れ様です。南雲さん」
声を掛けられた俺は、視線を空から目の前にずらす。
作業着を着た千反田が目の前にたっていた。髪はいつものように降ろすのではなく、ポニーテールの尻尾の部分をさらに丸めた…お団子のような髪型になっており、うなじからは汗が滴っていた。
思わず息を呑む。
「南雲さん?」
「ん?あ、あぁ……お疲れ様。」
「入らないんですか?」
「いや、一人で入るのは気が引けてな……」
「気にしなくてもいいですのに」
「そういう性格なんだよ」
「では、私が来たので入りましょうか。美味しい麦茶があるんですよ」
ほほう。畑仕事でいい汗をかいたところだ、ぜひ頂こうじゃないか。
俺は千反田に連れられ、千反田家の廊下を歩く。今向かっている方向には覚えがあった。夏休み、《氷菓》の検討会を行った大部屋だ。
千反田が襖を開けるが……
「あら」
既に男達が休憩場所として使っており、とても座れるスペースが無い。千反田は一度考える仕草をとる。
「あの、南雲さん」
「ん?俺は別にここでいいぜ」
「私の部屋に来ますか?」
「うん?」
千反田家二階。俺は今千反田の部屋の前に立っている。『少し待っててくれ』と言われたので、多方部屋の片付け出してるのだろう。
むむ、なんか緊張してきた。
やがて戸が開かれる。
「どうぞ」
「お、お邪魔します」
「ふふ、そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。私や摩耶花さんだって南雲さんの部屋にはよく入ってるじゃないですか」
それとこれとは別だろ。しかもその時は奉太郎と里志もいるだろ。
足を踏み入れると、最初に俺に情報を与えたのは視覚だった。本棚の上には女の子らしい小物が瓶詰めにされて置かれており、なかなか味が出ている装飾品になっている。
薄水色のカーペットの真ん中には直径一メートル程の丸机と二つのクッション、勉強机にはいくつかの参考書が立て掛けられている。
そして、額縁のようなものに入れられて壁にかけられているのは、《氷菓》だ。
「適当に座っててください。今麦茶を持ってきます」
「あぁ、助かる」
そう言って千反田は部屋をあとにした。いや……
これが紳士の俺だったからいいものの、普通男を自分の部屋に一人置いて出てくか?
こいつの将来が心配だ。いい旦那を見つけたまえよ。くれぐれも、悪い男には引っかからないように。……うん?
机の上に写真立てが二つ置いてあった。遠目からだとわからないが、どちらの写真にも見覚えがあったような気もするので机の上の写真立てを見に行く。
一枚目。これは文化祭の最終日に古典部、桜、晴香、雨で初めて俺の一眼で撮った写真だ。俺が下敷きになって全員が倒れ込んでいる。はは、こんなこともあったな。でも、みんないい笑顔だ。
二枚目。これは、《生き雛まつり》だ。手前には顔におしろいを塗り、それに際立つ赤い口紅をつけ、いつもの大きな瞳をそっと伏せた十二単を着た千反田の姿があった。いつもの活発的な印象とは随分と掛け離れた姿だ。そしてその後ろ…白い装束の様なものを羽織り、赤い大きな傘を千反田に指し、口をポカンと開けている俺の姿が写っている。……てかこの写真、俺の一眼で里志が撮った写真じゃねぇか。
確かメモリーカードは里志の自前のを差し込んだと聞いていたが…千反田に渡したのなら俺にも渡せよ。
「お待たせしました。」
振り返ると、部屋着に着替えた千反田がお盆を持って部屋に入ってきていた。
お盆の上に乗っているのは四つ。一つは大きめのお皿に乗ったクッキー、二つの同じ色と形のマグカップ、麦茶が入ったティーポットの中には二つのティーパックが水を吸って底に沈んでいた。
俺は写真を千反田の机に戻し、テーブルの前に座る。
「すみません。グラスは全部使われていまして、いつも紅茶やコーヒーを入れているマグカップになってしまって」
「いや、気にしてないよ」
千反田は微笑んだ後にティーポットからお茶を注ぎ、先に注いだ方を俺に渡してくれた。そして、自分の分を丁度俺の分と同じ程注いだ所で……
「無くなってしまいました」
ティーポットの中の麦茶が無くなった。
「丁度だったな。ラッキーラッキー」
「はい、それでは、頂きましょう」
俺達は同時にマグカップの麦茶を飲んだ。畑仕事のあとの麦茶は体に染みる……まるで暑い夏の時に飲んでいるような爽快感を覚えた。
半分程飲み干した所で、俺はクッキーに手を伸ばす。
その後たわいの無い話を繰り広げていると、千反田の部屋に乱入者が現れた。
「ワン!!」
柴犬?
「あら」
「犬飼ってたっけ?」
「いえ、親戚の方のを預かっているんです。療養中の間だけ。可愛いですよ。それより」
千反田は自分のポケットから封筒を取り出した。俺はそれを眺める。
「先日の《生き雛まつり》ではお世話になりました。少しですが、受け取ってください」
そう言えば、《生き雛まつり》のバイト代を貰っていなかったな。どれどれ?千円もあればいい所だろ。
俺は封筒を受け取ると、早速中身を見る…なになに?万札が一枚、二枚、三枚……四枚……五枚……
「いやいやいやいやいやいやいやいや、こんなに受け取れねぇよ!!俺お前の傘持っただけだぜ!?」
「いえ、《生き雛まつり》は本来神山の歴史的な文化です。その位は妥当かと」
「け、けどなぁ……」
「受け取ってください。それに南雲さんがいなければ、《生き雛まつり》の時の工事の件は知りようもなく、危うく大きな惨事になる所でした。感謝の気持ちとして、受け取って頂きたいんです」
「……分かった。でも、俺の為だけには使えない。今度古典部で良い店でも探して行こうぜ」
笑いながら
「全部俺の奢りで」
千反田は一度ポカンとすると、笑いながら返してくれた。
「はい、楽しみにしてます。」
俺は封筒をリュックサックに入れようとした。その時だった!
「ワン!!」
千反田の隣で大人しくしていた柴犬が俺の手から封筒を奪って、千反田の部屋をあとにしたのだ。
「あっ!!まて、犬!!」
「犬じゃありません!!クドリャフカちゃんです!!」
「随分と物騒な名前だな!!てか、そんな事はどうでもいい!!」
俺と千反田は走って、犬を追う。
犬は一階まで降りると、先程男達が休憩していた部屋に入る。俺と千反田もそれを追った。
「うお!!なんだ!?」
「危ねぇ!!」
「その犬を捕まえて!!」「犬じゃありませ……」「今はいいんだよ!!」
犬は縁側から、千反田家の庭に出ると、敷地外の真っ直ぐな直線を走った。俺と千反田はそれを全速力で追う。
「おい!!給料返せ、犬っころ!!!」
そして……
「捕まえ……た!!!」
千反田家から少し走った所で、俺はクドリャフカを捕まえた。
「はぁ……はぁ……ふぅ」
「はぁ……はぁ……危なかったですね。あのままどこかに捨てられてたら……」
「あぁ、たまったもんじゃない……」
その後クドリャフカを連れて千反田家に戻った俺達は、再び千反田の部屋に足を踏み入れた。それなりの距離を走ったので、文化系の俺と千反田は息切れを起こしながら、汗を拭った。
まだマグカップには先程の飲みかけの麦茶が入っているはずだ。俺がそれに手を伸ばすが、あれ?
机の上に並んでいるのは、大きさも形も色も同じの二つのマグカップ。
どちらもマグカップの半分程まで麦茶が減っており、どちらが俺のか分からなくなってしまった。
「えっと……どっちがお前のだ?」
聞くと、千反田は首を傾げた。
「半分程減っているものです」
「どっちも半分くらい減ってるんだよ」
「つまり、どっちのが私で、どっちのが南雲さんのか分からないと……?」
「あぁ……でもまぁ、お前別にこういうの気にするタイプじゃないだろ。どっちでもいい……」
俺が片方のマグカップに手を伸ばしたその瞬間、二つのマグカップが乗っているお盆が千反田によって丸机の上から取り上げられた。
そして、おもむろに言う。
「ダメですよ!!どっちのかも分からないのに!!」
「はぁ?だからお前そんなの気にするタイプじゃねぇだろって」
「き、気にしますよ!男女ですよ!?」
「なんの心境の変化だよ!!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
千反田はまるで自分のモノを守る猫の様に俺を睨む。なんだってんだよ…。
やがて千反田は大きく溜息をつき、お盆を丸机の上に戻した。
「分かりました、二分の一の確率です。南雲さんが思う私の方を取ってください」
千反田は走ったせいか顔が赤くなっている。かく言う俺も、走ったおかげで汗をかいている。あぁ……なんでもいいから早く麦茶を飲みたい。
俺は右のマグカップに手を伸ばす。
「こっちがいいのか……千反田?」
「あっ、そっちはダメです……」
「こっちか……?」
「あっ、そっちもダメです」
「どっちがいいんだよ!!」
「どっちもダメです!!」
俺と千反田は同時に息切れをしながら、互いを睨み付け合う。
「気になります……」
ボソッと言った。
「え?」
「どっちが私の飲んだ麦茶なのか……私、気になります!」
ここでもか…春休み期間はこの言葉を言われないと思っていたが。だがまぁ、早く麦茶を飲むためだ、仕方ない。
「あぁ、少し考えてみるか」
千反田が容れてくれた麦茶……まずはこれに注目するが、特に変わった点はないだろう。
千反田はお盆の上に置いてあるティーポットで俺の目の前で麦茶をマグカップに注いだ。つまり、種類が同じ麦茶の訳だ。色合いや香りで見分けるというのは出来ないであろう。
次に注目するのはマグカップだ。
「千反田。このマグカップはいつもお前の家で使ってるのか?」
「いえ、このマグカップは来客用です。普段はコーヒーや紅茶をいれているので、茶渋などが付いているかも知れませんが……綺麗でしょう?」
綺麗、なのかはわからんが、このマグカップが来客用と言うのは少し痛いな。もしこれが千反田家でいつも使われているものだったとしたら、千反田は無意識的にいつも使っているマグカップを取るだろう。その場合は、そっちじゃない方が俺の可能性があったのに。
次いで俺は麦茶が入っていた今は空のティーポットに視線をずらす。麦茶は千反田の分を容れた時点で無くなっており、ティーポットの中には二つのティーパックが入っている。うーん。
マグカップは来客用で形と大きさは同じ、麦茶の種類も同じ、減っている量も同じ……弱ったな。あとはなんだ……?
俺は視線をくまなく丸机に散らばせる。が、解決の糸口となるモノは見つからなかった。俺はもう一度マグカップの中に入っている麦茶に視線を向けた。そして……
「こっちが俺の麦茶だ。」
「わかったんですか!?」
「あぁ」
俺はニヤリと笑う。
「マグカップも同じ、麦茶の種類も同じだから当然香りも同じ。けどな、
「……まさか!」
「そう。お前はこの部屋に来て二つのマグカップにお茶を容れた時に、俺の分を先にいれて渡した。そしてお前の分を容れて麦茶は無くなり、ティーポットの中には二つのティーパックが残った。……つまり。
沈殿。ティーパックは水を吸うと重くなってティーポットの底に沈む。しかしティーパックはそれでも麦茶の中で麦茶の成分を抽出し続けている。
俺は握ったマグカップを見ながら続ける。
「お前が自分を容れて無くなったという事は、お前の麦茶は相当色が濃くなっているはずだ。つまり、比べてみて色の薄いこの麦茶が入っているマグカップが……」
俺は一気に麦茶を飲み干した。
「俺の麦茶ってわけ」
千反田はパァという笑顔を見せたあとに、言った。
「なるほど、そういう訳だったんですね。流石です」
と言って、安心しきった千反田はもう片方のマグカップを両手で握り麦茶を口に運んだ。
ふぅ、やれやれ。なんでこんなことで推理なんてしなきゃならんのかね。いちいち読めん奴だ。
千反田と出会ってそろそろ一年。考えてみれば、俺はこいつの事をあまり良く知らないのかもしれない。進路で悩み、自分の選ぶ道を余儀なくされた彼女は……何を思っているのだろうか。
ただ……。俺は千反田を横目で見る。
あの拒否の仕方は流石に酷いのではないか?あからさまに自分の使ったマグカップを俺に使われるのを嫌がるとは、俺だって傷つく時は傷つくぞ。
別に千反田に拒否されたから傷ついた訳では無い……多分。でも……
「あっ、そうです!少し聞いてもらいたいお話が」
こうしてこいつと笑っていられる時間は、別に悪くないのかもしれない。
俺は、クッキーを口に放り込んだ。