「箒」
手を伸ばせば掴めてしまいそうに近く、しかしそれでいながら遥かに隔絶した距離の先にある水平線から、空を朱へと染め上げる太陽が登ってから一時間と少し経った頃、IS学園寮はそれまでの幽冥に浸り深閑とした雰囲気が、学生特有の明るく煌めく騒がしい雰囲気へと上塗りされていった。
住民たちが起きたことによって森閑とした雰囲気を振り払い、騒がしいとまでは言えないものの、生活感を漂わせる雰囲気がここ織斑一夏と篠ノ之箒の部屋も満たそうとしていた。
既に二人共制服への着替えは終わっており、今にも朝食を摂りに食堂へと向かおうとしているところだったが、その時この部屋の主の片方であり、IS学園にあっては貴重な男子生徒である織斑一夏が、鏡に向かって髪を整えていた少女、篠ノ之箒へと何かを思いついた様に呼びかけた。
「なんだ」
昨晩の惨事――即ち風呂上りの箒と鉢合わせになってしまった事――もあって彼女は不機嫌を隠すこと無く、雰囲気は刀の切っ先のように研ぎ澄まされていた。
――うっ、っと一瞬怯む一夏。それにやり過ぎたか、と後悔する。
「あ、あぁ、いや……朝食は一緒に食べないか?」
「も、もちろんだ。大体別々に食べる時間もないだろう」
狂喜乱舞する心を押え付けながら、彼女はそう返す。口調とは異なり、その表情は嬉しさを隠しきれていなかったが、一夏がそれに気付くことはない。
――鈍感。そう思いながら、彼女は髪を整え終える。腕を組み、口を尖らせながらキリッと一夏を睨みつけているのは照れ隠しのためだろうか。
「そう言えば」
部屋を出た直後に一夏が何かを思い出したかのように立ち止まる。
「どうした? 忘れ物か?」
「いや……レイの部屋って何処か判るか?」
一夏の言葉は箒を落胆させるには十分だった。もっと自分を見て欲しい。いや、自分だけを見て欲しいと願う少女にとって、一度は得られたたった二人っきりでの食事というチャンスが潰されようとしているのは、当然ながらあまり心地の良いことではなかった。
「レイ? あぁ、あの二人目か……いや、知らないな」
「そうか」
不機嫌さを隠さずに彼女は応えるが、しかし肝心の一夏の方はと言うと箒の心情を汲み上げることもせずに、ただ彼女が答えを知らなかったことで少し落胆しただけだった。
「何か用事でもあったのか? それなら昨晩済ませておけば」
「いや、飯に誘おうかと思ってさ」
「……わ、私じゃ不満か?」
――昨日はなんでか知らないけど殆ど話しできなかったしさ、と一夏は頭を掻きながら続ける。だがしかし、箒にとってはそこは重要ではなく、久しぶりに会えた幼馴染との逢瀬の時が削られるというその一点だけが懸念事案だった。
「不満なわけ無いだろ。でも数少ない男同士なんだから仲良くしておきたいだろ?」
「ん……ま、まぁそうだな。朝食の時間は限られているんだし、食堂に行けば会うんじゃないかと私は思うが」
女だらけのこの閉じた狭い世界で数少ない同じ境遇を有する同志、あるいは戦友として友情を深めたいと彼は考えていたのだが、それが箒に伝わったかどうかは定かではない。
ただ、彼女は何を言っても自らの気持ちを汲み取ってくれそうにないと考えたのか、それともこれ以上自らを押し出すのも恥ずかしいと思ったのか、あきらめ半分にそう言う他無かった。
「おぉ。確かにそうだな」
一夏のその脳天気な返答で箒はレイが気を利かせてくれないものか、と思うものの、彼女の期待は木っ端微塵に砕かれることとなる。
食堂――というよりも雰囲気的にはカフェテリアと呼んだほうが良いだろう――に入り、朝食を受け取った一夏が真っ先に隅っこの四人席を二人で専有するレイとリリウムを見つけてしまったせいだった。
「よぉ、レイ。隣いいか?」
「お、おい、一夏。二人の邪魔になるだろう」
「別に構わないが?」
「リリウムも歓迎します」
脳天気な一夏の言葉にレイは箒の方を見て苦笑しながら応える。リリウムも同様で、箒を内心落胆させる。
「そういえば挨拶はまだでしたね。リリウム・ウォルコット、3組です」
「織斑一夏だ。よろしくな」
次は君の番だ、と言わんばかりにレイが手を差し伸べてくる。
「……篠ノ之箒」
渋々と箒は白旗を上げて現状を受け入れることにした。拒絶して一人で食べるよりも、一夏と一緒に食事をした方がまだマシだと思ったのもそうだし、リリウムなら一夏を狙うライバルになることはないだろうと直感したことも白旗を上げることにした理由の一つだった。
「箒は少しは表情を緩めた方が印象は良くなると思います」
「そうだな。今は今で武士娘――とでも言えばいいのか? みたいでカッコイイんだが、硬すぎて勿体無いな」
「どうだろう。こいつは昔からこんなだからなぁ」
こんな一怜も悪くないな。そう思いながら、箒は食事とささやかな会話へと没頭していった。
◆ ◆ ◆ ◆
彼、織斑一夏にとってこの流れは想像の範囲外だった。しかし、隣席に座るレイ・エリスにとってはそうでは無かったらしく、狼狽える一夏を横目に冷静そうに佇んでいる。
全ては授業開始直後の織斑先生のクラス代表を決めないといけないな、の一言で始まった。始まってしまった。
推薦でも自薦でも構わない、の一言は、聴覚にとって、一切の希望を捨てよ、という悪夢の宣告でもあった。実際に箱は開かれ、オリュンポス山を噴火させたかのようにクラスの大半の女子による一夏とレイに対する推薦合戦が始まり、収集がつかない喧騒に教室は包まれた。
「先生」
その喧騒を鎮めたのはレイの発言だった。一夏にとっては濁流を流れてきた藁の一片のようなもので、希望を込めた瞳が立ち上がったレイに向けられる。
「なんだレイ。拒否権はないぞ」
「いえ、セシリア・ウォルコット嬢を推薦します」
織斑先生の機先を制した言葉の想定とは全く異なる発言がレイから飛び出す。
これに衝撃を受けたのはクラスメイト達だった。昨日何か良く判らないがセシリアと諍いを起こしていた彼がセシリアを推薦したことは誰にとっても意外だった。推薦されたセシリア自身が呆然としてレイの方を見ていることからもそれは判るだろう。
「ウォルコットと一緒にしないでください! オルコットですわ!」
「ほう、何故だ」
だが、流石に自らの苗字が間違っていることに気付いたセシリア本人がすぐさまにそのことを主張するが、織斑先生の質問に制され、黙って席につく。
「セシリア・オルコット嬢はイギリス国家代表候補生ですし、何よりも入試主席で、それを自称するほどには自身の才覚に自信があるようなので適格でしょう」
皮肉気にレイはそう言う。最も言われたセシリア本人は言葉を額面通りに受け取ったらしく、上機嫌に頷いている。
「流石ですわ、レイさん」
レイが言い終わると、それに呼応してセシリアが立ち上がり、自信あり気に、と言うよりは自信過剰気味に金髪白人と言う語から類推されるよりは慎ましやかな胸を張り、腕を組む。
「だいたい、珍しいからというだけで男をクラス代表にするのは恥晒しですわ。わたくし、セシリア・オルコットにそのような屈辱を一年間もの間味わえと仰るのですか? レイさんが言ったように実力から言えば私がなるべきですわ。それを極東の猿なんぞにされては困ります」
失敗した、とレイが顔をしかめ、頭を抱えるのにも気づかずにセシリアの暴走はパンジャンドラムのように制御を失い、軌道から外れながら続く。
「わたくしはIS学園にサーカスを見に来たのではありませんわ。だいたい、文化的に後進的なこのような辺境で辺鄙な国で過ごさないといけない事自体わたくしにとっては屈辱で」
「イギリスだって大したお国自慢は無いじゃないか」
その狂った演説を中断させたのは一夏だった。彼は正義感からか、怒りを隠そうともせずにセシリアを睨みつけている。それにまた幾人かのクラスメイト達がはぅ、と頬を赤く染めていたのだがそれは本筋には関係無い。
「なっ……あ、あなた、わたくしの祖国を侮辱しますの?」
いや、その前に他人の国を侮辱したのはセシリアじゃないのか、とクラス中が心を一つにする。因果応報の例とするには余りにも気分の悪い言葉の掛け合いであったが、しかし、それでも一例となりうる程には当てはまっていた。
「決闘ですわ」
「おう、良いぜ」
売り言葉に買い言葉。
後は簡単だった。織斑先生の仲裁でクラス代表の決定は二人の言う決闘、実際のところ模擬戦によって選出されることが決定された。日時は一週間後の月曜日であり、場所は適当なアリーナを貸切にすると織斑先生は告げた。
唯一の懸念点は、セシリアとレイが専用機持ちであるのに対して一夏はそれらを有さず、機体性能面で格差があるという点だが、それに気付いた人間はレイと織斑先生以外には誰もいないようだった。
まぁ、そんなことは誤差範囲にしかならないか、と何か決意したように教科書を開きながらレイは思った。セシリアの腕がどの程度かは自称している分にしか判らないが、それでも一夏と比較すると隔絶しているであろう事だけは確実だった。そして、隔絶した技量は、隔絶した機体性能以上に勝敗に影響を及ぼす。つまり、セシリアが量産機で、一夏が専用機であっても勝敗はセシリアの白星に変わりはないだろうとレイは考える。
そしてそれは、そのままセシリアの認識でもあった。彼女は彼我の練度の差から勝利を確信していた。彼女は自信を表情に乗せ、その意識はどうやって勝つか、と言うよりも、どうやってこの身の程知らずの男を甚振るか、という点に向いているようだった。
その二人の心情に気付くこと無く打倒セシリアのために勉強に身を入れようとレイに倣って教科書を開き、目を通し始めた。