綾峰が女になった。
その話は教室全体に激震を走らせた。
人一人の性別が変われば多少何か問題が、平たく言えば生理的嫌悪感からくるイジメとか、そういったトラブルが起こりそうなものだと思うのだが、綾峰に関して言えば一切それは起こらなかった。
いや一切と断言すると少し語弊があるか。どちらかというとマイナス意見を唱える奴を綾峰肯定派の連中が同調圧力という名の暴力で封殺していた印象だった。
綾峰は人見知りをするが人当たりはよかった。
クラスであいつのことを嫌いだという奴は聞いたことがなかった。興味本位で容姿をいじってくる男子連中に対してもあいつは苦笑いこそすれ嫌な態度はとらなかった。
あいつの人柄がこの事態を大ごとにさせなかったといっても語弊はないと思う。
また、あいつの性別が変わって喜ぶやつの方が多かったというのもある。
男子連中は勿論だ。
二年に上がってすぐ、クラスの女子の中で誰が男子の一番人気か票を集めたことがあった。
裕子のせいで途中学年主任が集計途中に現場に乱入し、生徒指導問題に発展したのだが、再度隠れて行った結果綾峰は四位に輝いた。
男だぞ?
その疑問はあったが誰一人この結果に「きめえホモかよ!」と笑うことはなかった。それどころか「俺だけだと思ってたのに」と沈痛な面持ちで黙るやつらの方が多かった。
断っておくがうちのクラスの女子のレベルは相当高いと思う。
芸能人の誰に似てるのが何人とかそういう物差しで測ることはできないが、容姿だけを単純に切り取っても可愛い奴は相当数上る。だからランキングを作ろうって話にもなったんだが。
その中で男であるにも関わらず綾峰がランクインすることがまず異常なことで、そのことに「残念これネタでした!」と茶化すことができない真剣さがそこにはあった。
というか俺もあいつに票を入れていた。
仮に女子に入れているのが本人にバレたら面倒なことになると思ったからだ。
綾峰ならうっすら目を細めながら「ふ。まーた一人俺の魅力にほだされやがったぜ」とかなんとか抜かすだけで済む。
他のやつらはどうも真剣に入れているみたいだったから温度差を感じるところではあった。
とにかくそういう訳で男子はほぼ全員綾峰を受け入れた。
問題は女子だ。
今まで男子というカテゴリーの中にいた綾峰が自分たちのテリトリーに踏み込んでくることにどう思ったのか。
結果から言うとこれも心配することはなかった。
荒神裕子が綾峰を大層気に入ったからだ。
裕子と俺は両親が離婚する前に住んでいた家のご近所さんだった。
俺にというより、姉貴に懐いていた裕子は小さい頃よく俺の家に遊びに来て、ついでだからと俺を含めた三人で遊ぶことが多かった。
両親が離婚して引っ越してから疎遠になったが、偶然同じ高校だったというのは二年に上がって同じクラスになってから気が付いた。もっとも相手は俺が同じ学校だと姉貴を通じて知っていたみたいだったが。
兄妹同然に育った裕子のことを女性としてどうこうと見ることはないが、女子の中であいつが一番人気が高いというのは頷ける話だった。
容姿は整っているし、スタイルもいい。
欠点は重度の男嫌いという点だが見る人によってはそれも魅力的に映るらしい。
こいつが男子人気一番ということは、このクラスの男子の過半数が被虐趣味かあるいはそれに準ずる何かを抱えていることになる。そう思うと背筋が冷たくなった。
裕子は男子に人気があることも確かに事実だが、どちらかというと女子の方に人気が偏る類の人間だった。
それはそうだと思う。美人で親切、スタイルもいいし頭もいい。それなのに男子に媚びることなく下手な男子より男らしい面もある。俺は裕子の信奉者と称する女子がこの学校に複数存在することを知っている。
裕子はそれゆえにクラス女子の中で最も発言権が強い女子だった。
そんな相手が綾峰を気に入ったのだ。
並の女子が文句を言ったところでそれすなわち裕子に楯突くことに他ならない。女子を丸め込めた一番の理由は裕子を味方につけたことだと俺は分析していた。とはいえもともと裕子は男だった時から綾峰には親切だった。あの顔で男臭さが一切ない綾峰に、いい意味でも悪い意味でも男扱いしていなかったのだろう。
クラスの皆が綾峰を受け入れてハッピーエンド。
このままいけばそうなるはずだった。
俺だけが受け入れることができなかった。
俺はこの時すでに綾峰のことを下の名前で呼ぶほど気を許していた。
どんなに仲良くなろうとも俺は相手のことを下の名前で呼ぶことはない。ファーストネームで呼ぶことで相手が勝手に親友認定してきて、ずかずかと俺の領域に踏み込んでくるのが嫌だったからだ。中学校の時それで幾分嫌な思いをしてきた。
同じ中学校の奴が高校でも俺をファーストネームで呼ぶことはあるが、俺からそれをしたいと思えたのは綾峰だけだった。
言葉にすると変な響きを持ちそうだが、綾峰は俺にとって特別な存在だった。
俺の逃げ場であり、支えであり、楽しみでもあった。
人間不信に陥っていた俺を救ってくれた、とまでいけば表現は過剰だが、少なくとも俺はこいつのおかげで助かった部分が大きかった。
そう考えるようになったのは綾峰が女になったと分かった後、つまり男だった綾峰に対して俺がどう思っていたのか客観的に見ることがあってからのことだった。
信頼していた友人が俺の最も忌避するところの『女』になった。
そのことは俺の中で吐き気を催すほど混乱たらしめることだった。
女性が悪いんじゃない。悪いのは不貞を働いた元母親で、世の女性すべてがそういうわけじゃない。
感情で推し量ることはやめようと、人を信じる事ができるようになった俺ならば可能だと、頭で必死に唱えた。
だが考えてもみろ。
心の中に潜むもう一人の俺が囁きかける。
人を信じさせてくれるようにしてくれた綾峰は男だった。
綾峰は女になってしまったんだぞ。どうして変わらないあいつでいてくれると思うんだ。
考えれば考えるほどドツボにはまる。
綾峰の笑顔が、時折怒ったように拗ねる仕草が。
男の時と変わらないはずなのに女になったというその事実だけで、俺の目にはまるで悪意という名のフィルターがかかったかのようにあいつの行動一つ一つが歪んで見えるようになった。
意図して綾峰を避けた。
自分の周囲に近づいてきてほしくなかった。
綾峰は俺を混乱させるために生まれてきたのかと、避け続ける中考えたことがあるほどだ。
だからだろう。自分のことで手いっぱいで、俺があいつにどれだけ酷いことをしているのかという自覚があの時の俺には全くなかった。
綾峰が女になってひと月、つまり俺が綾峰を避けるようになってからひと月が立った頃、久しぶりに裕子から電話があった。
『あんた小さいのよ』
開幕早々突然の罵倒。
こいつのそれは慣れたものとはいえ電話超しでそれを聞きたいと思うほど俺は酔狂ではなかった。
思わず電話を切ろうとしたが、綾峰の名を出されたら切ることができなかった。
『一番にわかってあげなきゃいけないのはあんたでしょ。気丈に振る舞ってはいてもそれは強がってるだけ。緊張状態にあるから感覚が麻痺してるだけなのよ。昔のあの子と今のあの子を見てたらわかるわ』
女になって混乱しているのはお前だけじゃない。
裕子の言葉は鋭利な刃物のようだった。ざっくりと自分の一番触れられたくない部分に容赦なく突き立ててくる。
頭ではわかっていたはずだった。それはそうだ。自分の性が突然変わったなんて知れば混乱しない方がどうかしている。
ゆっくりと女になっていく過程があれば徐々に自分の性別を受け入れる用意はできただろうが、突然女になったのなら精神が追い付いていないのは当然だ。一か月そこらで慣れるはずがない。
環境の変化に常にさらされ続けるストレス、意識とは裏腹に進行する女性としての自分。
本来こういう時に頼りにするのが親であったり友人だ。
とかく学校において普段と変わらない友人という存在は変化についていけない自分の支えになるものだ。
その役目を俺は放棄した。
あまつさえ拒絶した。
俺が少し考えただけでも綾峰がどんな気持ちでいたのか想像するに難くない。
『あんたがお母さんの件で女子を苦手にしてることは知ってるわ。でもそれとあの子は関係ないことでしょう?』
「うるせえよ!」
裕子の言うことの方がもっともだった。だが母親の話を持ち出されて俺は感情的になって怒鳴りつけた。
勢いで通話を切ってまた自己嫌悪に陥った。
「何やってんだよ俺」
久しく感じることのなかったドロドロした悪感情が、俺の血液をめぐっている感じがした。
次の日、俺は暗い気分のまま学校を終え、家に帰った。
綾峰と裕子の顔が見れない。
綾峰はいつも俺の方を気にしてちらちら見ていることは気が付いていた。俺も気になって偶に綾峰の方を見るが、視線が合いかけるとすぐに逸らした。
あいつのそばで裕子が立っているのも怖かった。
昨日一方的に電話を切った後ろめたさもそうだが、自分のあまりのガキ臭さに呆れられているんだろうなと思ってしまう自分がいることが嫌だった。
針の筵のような学校を終え、クラブで汗を流し、姉貴と住むアパートに帰ったら綾峰がいた。
リビングで、テーブルの上に食器を置こうと中腰の姿勢で固まっていた。
姉貴のエプロンを制服の上からつけた綾峰。何処からどう見ても女子だ。
なんでこいつがここにいるんだ?
疑問はすぐに氷解する。裕子だ。あいつがチクりやがったんだ。
裕子は姉貴経由でこのアパートを知っている。裕子がいないで綾峰だけがいるということはつまりそういうことだろう。
「いや、意味わかんねえし」
あいつが俺に親切をやく理由はない。理由があるとすれば、俺があいつの害になるようなことを行っているからだろう。原因排除の為にしかあいつは動かない。この場合の問題というのは綾峰と俺の関係のことだ。
どこまで俺は人を煩わせれば気が済むんだ。
自分で自分が嫌になる。
視界の隅でびくりと体を震わせた奴がいた。
目はせわしなく動き、顔は血の気が引いて青色に見える。
なんでこいつこんなびびってんだ。
綾峰の様子を見て俺は心臓に冷水を掛けられたかのような気分に陥った。
さっきの発言だ。
思わず口に出てしまっていたのだ。
今の俺たちの関係性を鑑みれば、それが綾峰にとって肯定的な響きを含んでいるはずはない。
自分のしでかしたこと、それに対する責任、そういったものを取らなければいけないはずなのに、俺は逃げるように自室に入った。
いや実際逃げたのだ。
自分のしでかした軽はずみな行動で、はっきりと綾峰を傷つけた。
直接綾峰を傷つけた。
後悔をして情けない気分に陥っていたのは一瞬だった。
なぜなら、次の瞬間俺の部屋のドアが吹っ飛ばされ、続けて姉貴が青筋立てて入って来たからだ。
今度は俺の血の気が引く番だった。
身長はもうずっと俺の方が高くなったが、俺は姉貴に勝てた例がなかった。
素手で煉瓦を殴り砕くし、昔やんちゃしていた時の名残からか、筋を通さない者に対する態度は徹底的だった。
あの場に死角になっていて見えなかったが、姉貴もいたのだ。
冷静に考えれば綾峰だけでこの部屋に入れるわけがない。姉貴がいるのは予想できたはずだった。その考えが抜けるほど俺は混乱していたということだろう。
自分が悪いことをしているという自覚があった分姉貴の拳は痛かった。情けない奴だと言外にも言われているようだったからだ。
姉貴の怒りは相当なものだった。
普段だったら怒ってもここまで怒りはしない。相当綾峰は姉貴に気に入られたのだろう。
「あんたさっさとあの子に謝りな」
しこたま殴りまわした挙句、低く脅すような声音でそういうと、俺の襟首をつかんで部屋の外へ投げ出した。
ボコボコにやられた俺を見て怯える綾峰がすぐそこにいた。
目元が赤い。泣いた後が見えた。
もう吹っ切れた。何をやってるんだと情けなる自分にも情けなくなった。
「……ごめんな公麿」
口の中が切れてうまくしゃべることができない。
姉貴に殴られたから謝る男。
主観的に見ても客観的に見ても超絶情けない姿だった。
その後綾峰を含めて飯を食って、綾峰に泣かれて、姉貴にまた殴られそうになって、なんとか仲直りをした。
いや仲直りなんて綺麗な言葉を俺は使ってはいけない。
あれは俺が一方的に拒絶したもので、綾峰に一切非はなかったのだから。
初めからわかっていたことだった。
綾峰がたとえ女になろうと綾峰であることに変化はないということくらい。
分かったうえで疑い、結果傷つけた。
俺は綾峰に甘えていたのだ。それがよくわかった。
綾峰とはそれから良好な関係を続けていけた。そう俺は感じていた。
友人としての綾峰。
男の時と何ら変わらない友人関係。
それがいつまでも崩れることはないと俺は思っていた。
きっかけ一つでそんなもの簡単に崩れると、この時の俺は考えてもいなかった。