『綾峰に女ができたわ』
夜中の8時頃、突然裕子から電話がかかり、開口一番これだった。
裕子から連絡が来るときは大抵何かしらのトラブルが発生した時だ。だから着信画面に裕子の名前が現れた時、俺はげっと眉を顰めたのだが、要件を聞いてもいまいち意味が掴めなかった。
なにが言いたいのだろうかこいつは。
『鈍感な男はこれだから嫌いよ。もっと焦りなさいよ』
鈍感の使いどころミスってるだろ。そう思ったが反論されると面倒なので黙っておいた。
「お前知らないのか? 綾峰は今女なんだぞ」
『知っているわよ。一緒にお風呂にも入ったことあるんだから。舐めないで欲しいわ』
「男にそういうこと言うのはやめろ」
一瞬想像しちまったじゃねえか。
「女に女ができたって言ってんのか?」
『不自然な話じゃないでしょ?』
何バカなこと言ってるんだよという意味で答えたのに肯定の言葉が返ってきて、俺は一瞬鼻白んだ。
本当だ。何もおかしくない。
ジェンダーだ性差だなんだと、性に関するマイノリティ層がいることは俺も知っている。男性は女性を、女性は男性を番として選ばなければいけない理由は現代において議論を醸し出している所でもある。
まして綾峰、公麿は少し前まで男だったのだ。恋愛対象が女性であってもさほど驚かない。どころか非常に納得してしまう所でさえある。
もともと女っぽかったやつで、更に女子と付き合っている様子もなかったので女に興味がないと勝手に思い込んでいた節があった。でもそういえばいつかの昼休み女の方が好きみたいな話を裕子たちのグループで話しているのを聞いたことがあったな。
「その話ちょっと詳しく聞かせろよ」
夜分に突然電話をかけてきたんだ。生半可な情報じゃないことは確かだろう。
きっかけは放課後の誘いを断られたことだったらしい。
裕子は女子バスケットボール部に入っていて、平日は滅多にオフがない。しかし週末の日曜に試合が入っていた日などは、振り替えに一日どこかの平日の練習がオフになるらしい。
公麿はどの部にも入っていない。いや確かどこかの文化系の部活に入って気もしたが、滅多に顔を出していなかったから実質幽霊部員だ。とにかくそういう訳で公麿は放課後高確率で暇をしていると思ってもいい。
これまでも裕子は部活がオフの日は綾峰をアポなしで誘ってはどこかに連れまわしていたらしい。
裕子が公麿を連れ出したくなる気持ちは俺も少しわかる。だってあいつ口では面倒だとか、いい迷惑だとか憎まれ口叩く癖に、実際どこか連れてってやると超テンション上げるからな。テーマパークに連れ出したときのテンションの上がり方は今思い出しても少し笑える。
その日はいつものように誘うと、「悪い。今日は用事あるんだ」と断ったそうだ。
部活をしていないとはいえ公麿も忙しい日くらいあるだろう、と裕子は退いたらしい。多分嘘だ。こいつのねちっこさは俺が一番よく知っている。きっと朝から放課後までごねたに違いない。
問題があったのはその翌日。
体育館の不備があって二日続けて部活が休みになったそうだ。これ幸いと公麿を誘うとまたも断りの返事が。
裕子はここで女の勘が働いたそうで、公麿の断りを怪しんだ。
放課後、まさかのストーキング行為に及ぶほどに。
「お前やっちゃいかんだろそういうことは」
『亜依と舞依が囃し立てるから感覚が麻痺してたのよきっと。反省してるわ』
そこで公麿がはにかみながら美術室へ消えていったところで裕子は気を失ったそうだ。
もう一度言う。気を失ったそうだ。誇張表現ではない。
「どういうことかちょっと理解できなんだけど」
『精神的ショックっていうのかしらね。あれはトラウマものよ」
もろい精神だな。
『亜衣と舞衣のあの二人が焦っている所を初めて見たわ』
「公麿が美術室に入ってっただけで気を失われたんじゃ誰だってビビるわ」
『るっさいわね。話を戻すわよ』
裕子はこう考えた。
美術室は放課後美術部の部室となる。
美術部には女子の部員しかいない。
公麿は美術部員じゃない。
つまり、美術部に公麿に女ができた。
「いやその三段論方おかしいだろ」
結論がぶっ飛び過ぎである。
俺の指摘を、裕子は嫌そうな溜息交じりに返した。
『あんたはあの子の顔を見てないからそういうことを言えるのよ』
「どういうことだ」
『あんた馬鹿だから分かんないわよ。でも、いいわ、あんたに電話したのもそれが理由なんだから』
「さっぱり何の話か分からん」
『あんた明日土曜あの子と出かけるんでしょ?』
なんで知ってるんだこいつ。口に出しかけたがやめた。藪蛇になりそうだし。こいつとの会話こんなんばっかだな。
『あの子に事情を聴きだしてきなさい』
「いや事情ってお前」
嫌だよそんな面倒なこと。
対して興味が湧く話でもないし。それより明日は純粋に楽しみたい。
裕子は俺の返事を聞くと露骨に機嫌を悪くした。このパターンは危険だ。警戒音が頭の中で鳴り響く。
『あんた私に借りがあること忘れてないでしょうね?』
出来れば忘れたままでいたかったがそうもいかない。公麿に俺の家を教えたことだろう。そうしていなかったら俺と公麿は未だに気まずい関係が続いていた可能性が大いにありうるので、うん借りですねこれは。
「何すりゃいいわけ?」
『特別なことは何もしなくていいわ。ただ女と付き合ってるか訊いてきてほしいのよ』
「特別なことじゃなくてもすげえ神経使うことじゃねえか、仮にうんって頷かれた場合俺はどうすりゃいいんだよ」
『あんたのケアなんてどうでもいいのよ』
すげえことを言いやがる。
まあいいだろう。不承不承、俺は裕子の頼みを引き受けることにした。
約束の土曜、姉貴が休日出勤ってことでついでに俺もたたき起こされた。
時計を見れば明け方四時半。
何のいじめかと思った。
親父を亡くしてから、俺たちは可能な限り家族での時間というものを大事にするようにしていた。
人がいつ死ぬかわからないってことを親父から学んだからだ。でもこれは別段暗い話じゃない。その分実感を持って家族がいる時間を意識しようってなったってだけだ。
だから我が家ではきっちり三食家族がそろって食べることを理想としていた。
そういう理由で姉貴はいつもように俺を起こしたわけだが、自分が何時に起きたかわかっていなかったようだ。
「え、嘘時間、あ!」
珍しく謝る姉は面白かった。結局妙に目が冴えてしまい姉貴と同じ時間に飯をくった。
「正義今日キミちゃんとデートなんだって?」
コーヒー吹きかけた。なんで知ってんだ。
姉貴はどこか機嫌よく「早く答えなさいよ」とせかしてくる。こ、こいつ。
公麿は極度の人見知りではあるが、人から好かれやすい質だ。
しかも滅多に友人を紹介しない俺が友人として紹介したのだ。公麿に対して姉貴が興味を持つのは理解できた。それがなくても「あの子すっごい可愛かったから今度家に持って帰ってきなさい」と公麿を家に帰した後姉貴に言わせたほどだ。単純に公麿が気に入っただけの可能性もある。顔はいいからなあいつ。
姉貴が公麿のことを気に入ったのは個人的に嬉しい事でもあった。
性別が男から女に変わったという人は多くない。世の中のニュースを見れば稀に目にするレベルだ。だから姉貴が公麿の事情を理解してくれたというのはどこか安心するというか、ほっとすることだった。
姉貴が公麿を気に入っていることと、今姉貴が振って来た話題とは別問題だけどな。
「いやデートって、何言ってんだよ」
「デートじゃないの? 裕子からそう聞いたけど」
あのアホ、姉貴にも電話していたのか。
「男相手だぜ。んなわけねえだろ」
「何言ってるのよ。あの子女の子じゃない」
そうだった。昨晩裕子に指摘したはずなのに俺が逆に言われるとは。
でも公麿だからなあ。女って言われてもピンとこない。
顔は依然とあんまり変わっていないし、口調もそのままだ。
スカートを学校で履くようになったのと、後ろ髪が伸びたこと、後は声がちょっと高くなって全体的に華奢になったことくらいしか変わっていない。……結構変わってるな。改めて整理するとびっくりした。
公麿が女になったということは俺も理解しているし受け入れたつもりだ。
でもなんというのかな。あいつに触っても女子と触れ合ったようなざわつきは感じないし、ノリが男の時と一緒だから実感として持ちにくいものがあるんだよな。
そういうようなことをかみ砕いて姉貴に言うと、こいつアホなんじゃないかという目で見られた。なんだよその眼はあぁん?
「あんたアホね。そんな態度じゃすぐにキミちゃん取られるわよ」
「取られるも何もアイツは俺のじゃない。それに公麿も男子と付き合うなんてしないだろ」
「バカね。だから女の子に取られるっていってんのよ」
裕子の話か。
この二人は二人して心配のし過ぎというか、誇大妄想が過ぎるというか。
「後になって後悔しても遅いのよ?」
使い古された定型文を残し、姉貴は仕事に行った。
待ち合わせ時間までが遠かった。早朝に目が覚めると10時の待ち合わせが凄まじく遅く感じる。
自分としては「もう家出てもいいだろ」とか思って出たんだが、着いて見たら一時間近く早くついていた。体感時間が狂ってるな。
コンビニに入って雑誌を読んだり、近くの鳩を見て時間を潰していた。どちらも時間を潰すには限界があったので、結局待ち合わせの場所で音楽を聴いて待つことにした。
ネットニュースとか普段あまり見ないアプリまで使っていると、腕に衝撃が走った。
なんだと驚いてその方を見て固まった。
なんかすげえ可愛い女子がいる。
まずくりっとした大きな猫目が目に入った。次に薄く潤いを持った小さな唇。華奢で小柄な体躯。浅く後ろで纏めた髪は普段学校では見ないものだ。
すぐに反応しない俺を不審がって、そいつは少し頬を膨らませていた。
公麿、だよな? 多分。恐らく。信じられないけど。
こいつこんな女子女子してたっけ? あれ、おかしいぞ。
「私以外いるわけないだろ」
いたずらが成功した子どものように公麿は笑った。
まずいな。
何がまずいのか具体的に説明することはできないがやけに自分の心拍数が上がる感覚がけたたましく警笛を鳴らしている。
なんだ。俺は何に不安を抱いているんだ?
違う。この感覚は緊張だ。
……いやいやいや。だから何に対して俺は緊張しているっていうんだよ。
少しばかり立ち止まっていた俺は、公麿に服の裾を掴まれて歩きだした。
「早く行こうぜ」
「あ、ああ」
こいつ人の服とか掴むやつだったっけ。
思い出せない。
『後になって後悔しても遅いのよ?』
どうしてこの時姉貴の言葉を思い出したのか。それを理解するのはもう少し後になってからだった。