ガッデム! やっちまった。
ベッドの中で俺は右へ左へのたうち回る。
「……死にたい」
「勝手に死になさいよ」
ぼそりと呟くと予想だにしなかった返事が返ってきた。
今姉貴とは話したくない。怒られるし。多分、殴られるし。
俺の部屋は、先日の一件以来常にオープン状態だ。
姉貴のキックで金具が根元から吹っ飛んだ為、修理に業者を呼ばなくてはいけない。さっさと修理してほしいが俺も姉貴も日中は家にいないことが多いからなかなか時間が取れず、また扉がない生活に慣れつつあったため結局そのままになっている。
扉の損傷の要因が俺である以上、姉貴に対して強く申し上げることができないってことも補足しておく。何がトリガーとなってキレるかわからない。女って怖い。いやうちの姉貴は特別仕様か。
デメリットはこうして姉貴がいつの間にか俺の部屋の前で俺の醜態を観察することがあること。プライバシーの返還を強く求めるところだ。
今日も仕事帰りなのだろう。
朝に見た服装と同じなのに、こころなしかくたびれて見える。社畜お疲れ様って言ったら多分蹴られるから言わない。今は言う元気もないが。
「その様子だと、あんたあの子になんかやらかした?」
あの子がこの場合誰を指すかなんて決まり切っている。俺は姉貴に視線をやる気力もなく、ただ無言を貫いた。軽く蹴られた。痛い。
「で、何やらかしたの。言ってみなさいよ」
気のすむまで蹴って満足した姉貴は、今度はため息とともに俺に再度尋ねた。
こういう空気を作り出されるとこちらとしても弱い。
誰かに聞いてほしかったという思いもあっただけに。
「実はさ」
「あ、先にお風呂掃除してきて。私ご飯用意するから」
「……」
「何よ。早くしなさいよグズ」
いや、まあ、うーん。
「成程ね」
俺の話を聞き終えた姉貴は一言そういうと、ふーっと何かを吐き出すように息をついた。昔仲間と一緒にタバコ吹かしてた時の癖だ。滅多に表に出さないが、考え事をする時ついつい無意識に出てしまうらしい。それだけ真剣に聞いてくれたという証拠でもあった。
意外なことに姉貴は俺の話を聞いた後も怒ることはなかった。
公麿に対して酷いことをした。その自覚があるからこそ、公麿擁護派(勝手に命名)の姉貴はきっと怒ると思ったのだ。
だが今の姉貴の反応はどちらかというと俺を気遣っているように見えた。
今日の朝。俺は公麿と数か月ぶりに外で遊んだ。公麿が女になって初めてのことだ。
女になったってことは頭では分かったつもりになっていても、実際には理解していなかったらしい。
私服姿の公麿を見た時、俺は目の前の少女が公麿と同一人物に感じられなかった。女性に対して綺麗だとか可愛いだとか、そういう印象を抱かなかったことはないが、実際同級生を見て凄く顔が整った子がいても心が揺れることはなかった。
だが私服姿の公麿を前にしたとき、俺は心が掻きまわされた。
こいつこんな可愛かったっけ、だとか。そんないい匂いさせてったっけ、だとか。
服装だってそうだ。昔からあいつは体格や顔の都合で、レディースものやユニセックス系統を好んで着用していた。妹と服を着まわしているってことも言っていたし、もともとその辺は気にしていなかったんだと思う。
男の時に着ていた服のはずなのに、女になってみるとここまで印象が変わるのか。
俺は終始公麿相手に緊張しっぱなしだった。表面上はいつもと同じ風を装っていたが、時々会話の間があくと、何か喋った方がいいのかわからなくなったりした。こいつと一緒にいる時でそんなこと考えたのは初めてで、冷静じゃなかった。
女モノの服が見たいってんで、午前中はいくつかの店を回り、いい時間になったので近くの喫茶店に入って昼飯にした。
時間が経つと慣れるもので、やっぱり公麿は公麿だよなと俺も普段通りに話ができるようになった。なんでこいつ相手に緊張していたのか不思議なくらいだった。
どうでもいい、だけれど非常に気の休まる会話を続けた後、ふと俺は裕子が言っていた公麿の彼女疑惑のことを思い出した。
どうせ裕子が大げさに言っただけだろうと何の気なしに尋ねた。お前最近放課後何してるんだよ、といった感じだ。
この時の公麿の反応が印象的だった。
「何って、いや別に」
俺の胸に去来した感情は困惑の一言に尽きた。
なんでこいつ照れてんの?
んなわけあるはずないだろ。
そう返ってくるものだと思っていた。だが返って来た実際の返答は答えを誤魔化すもの。
綾峰に女ができた。
裕子の言葉を信じるわけじゃない。現実的に考えられない。だってあの公麿だぞ。どちらかというと女子の枠組みにカテゴライズされていた奴だぞ。女子が公麿のことを可愛いだのなんだの愛玩動物よろしく撫でまわしていたのは知っているが、恋愛対象として見ているだなんて話聞いたことがない。
なのになんでこいつはこんな照れてんだ。頬染めてんだ。ついでに明らかに誤魔化してるって分かってんのにそれを突き通すんだ。俺にも言えないようなことなのか。
自分でも驚くほど公麿の反応に困惑し、そしてかなり苛立ちを覚えた。
しつこく問いただしても公麿は誤魔化すだけだった。
お前この前俺のこと友達って言ってきたよな。ならなんでそこまで露骨に隠す。
自分でもよくわからないほど公麿に対してムカついた。
感情に任せてそのまま店を出た。
困惑した公麿の表情。
俺の態度に戸惑いを覚えていた。
どうして俺がキレてるのかわかっていないようで、それが更に苛立ちを加速させた。
だがそれは理不尽な怒りだったと家に帰って頭を冷やした今なら思う。俺自身どうしてそこまで怒りを覚えたか説明できないからだ。
たとえ友人同士であったとしても秘密の一つや二つあるのか当たり前。そいつの全部を知っているなんてことあるはずがない。
午後は最悪だった。
公麿が必死で俺の機嫌を窺うように何か言って来ても、俺はそれに空返事を返すだけ。
どんどん公麿の顔に悲壮感が生まれてくる。それに罪悪感と、同じくらい苛立ちが混在した。
こんな気分で遊べるわけがない。
俺は一方的に公麿に今日はお開きにしようと告げ、返事も聞かずに家に帰った。公麿がどんな表情をしていたか、俺は見ていない。
家に帰って冷静になると、俺がどんな馬鹿をしでかしたか頭を抱える羽目になり、冒頭に戻るという訳だ。
「嫉妬したんでしょ」
「は?」
姉貴は俺の話を聞くとそういった。嫉妬? 何にだよ。
「いや、だからキミちゃんが自分以外の誰かの約束を守ってるってことによ。自分の言葉より優先するその人にあんたは嫉妬したんじゃないの?」
「いやいや、なんで俺が公麿に嫉妬なんてする必要があるんだよ」
この姉は何を言っているのか。
今は悪ふざけとかいらない。たまには真面目に答えてほしい。そう思って再度口を開きかけたところ、姉貴の目を見て何も言えなくなった。その目に冗談だとか悪ふざけだとか、そういった色が混じっていなかったからだ。
「昔お母さんのことであんたが臆病になってるのはわかるわ。でも自分の気持ちを正しく理解しなきゃいけないわ」
「意味わかんねえ」
あの人は今関係ないだろ。そう思ったが口には出さなかった。
「なんにしても解決は早くした方がいいわよ。じゃなきゃ折角仲直りしたのにまた疎遠になっちゃうわよ?」
それは嫌だな。嫌なんだけどなんて言って謝ればいいのか。
最近公麿のことでやたらと頭を使うことが増えたなと、俺は頭を抱え込んだ。
次の月曜、つまりあの最悪の土曜から二日が経った登校日。
スマホで謝るのはなんか微妙かなと思ったこともあって、俺は直接公麿に謝罪しようといつもの待ち合わせ場所に行った。公麿はいつまでたっても来なかった。
仕方なく一人でとぼとぼ学校へ行くと、教室に公麿はいた。
なんだ来ているじゃないかと公麿の方に向かうと、俺の死角からにゅっと誰かが現れた。
「ここは通さんぜ旦那」
「お通しできませんぜ」
柊と楠。裕子と常につるんでいる女子だ。顔は全然違うのにどこか姉妹のような息の合い方を見せる。
「え? なんで」
「ボスに止められてるんでさ」
「自分の胸に聞いてみなってさ」
二人の背後には公麿を隠すように裕子の姿が。あ、あいつ今中指立ててきやがった。
公麿は俺と目が合うと露骨に目を逸らした。怒り方が分かりやすい。
その後も休み時間の度に俺は柊と楠に邪魔され続けた。
無理やり押しのければできたと思うけど、そうすると公麿とまともな話にならない気がしたからできなかった。
悶々とした気分を抱えて俺はその日帰る羽目になった。
その日の夜、裕子から着信があった。こいつから連絡が来るような気がしていたから、特に驚くことはなかった。
『あんたも可愛い所があるじゃない』
「なんの話だよ」
開口一番に意味の分からないことを言うのはこいつの癖なのか。今日の仕打ちを思い出して若干不機嫌になって答える。
『美奈子の事、付き合ってるって思ってたんだって?』
「……その言い方じゃ違うらしいな」
この電話のかけ方からしてそうだろうと思っていたので驚きはなかった。ただただ自分の行いのアホさがフィードバックして死にそうになるが。
『何あんたが不機嫌になってんのよ。綾峰に関すること教えないわよ』
「いや別にいい」
『意地張る所でもないでしょ。馬鹿じゃないの?』
こいつ辛らつ過ぎないか? 心が折れそうだ。
『愛華さんに聞いたのよ。あんたデートの途中で嫉妬して帰ったんだって? 『き、公麿は友達だし、ドゥフフ』とか言ってたくせに』
「ドゥフフとは言ってない」
悪意のある俺の物まねに殺意を覚えた。
「というか、今回俺はお前に踊らされた感がどうしても否めないんだが」
自分が悪いというのはもちろん自覚しているし、そこで言い訳をするつもりもない。が、最初に焚きつけたのはこいつだ。そんなこいつに何か言われるとむかっ腹が立つ。
『……そこは、まあ悪かったと思ってるわよ』
幸い本人にも自覚はあったようだ。こいつが素直に謝るのは非常に珍しい。
『それでもあんたはあの子のこともっと信じたほうがよかったんじゃない? 言い訳になるけどあの時の私の勢いを信じるなんてあんたも結構どうかしてると思うわよ』
「ここでそれを言われると痛いけど、やっぱりお前が言うなって話だよな」
『誤解だってわかったんだから水に流しなさいよ。それに、あんたが綾峰のことちゃんと女の子だって気が付いたみたいだし今回は応援してあげるんだから』
「応援?」
いろいろと突っ込みたいところはあるが、裕子が俺に好意的になることはとても珍しい。
『綾峰にあんたがただ嫉妬しただけだって教えておいてあげたわ。よかったわね、どうしてあんたが突然キレたのかあの子はそれを聞いた途端すぐに分かったみたいよ』
何を言ってくれているんだこの女は?
声にならない悲鳴を上げる俺をよそに、裕子は『明日の昼だけあの子を貸してあげるわ』と言って一方的に通話を切った。
呆然としたまま立ち尽くす俺。
口角を上げて口笛を吹く姉貴と目が合った。死にたくなった。
翌日は公麿に弄られ続けた。
それはもうあいつは嬉しそうだった。
いっそ爆笑でもしてくれた方がマシってもんで、あいつはくつくつと声を押し殺すように俺を見て目を細めた。
不思議なことに腹は立たなかった。
それどころか安心すらした。いやなんでだよ。自分で思っておいて自分で不思議に思った。
散々周りから言われたが、俺は確かに嫉妬していたのかもしれない。
でもそれはあいつの一番の友人が俺ではないのかもしれないという不安からくるもので、決して誰かに取られるだとか、こいつに恋人ができることで今の関係が崩れるだとか、そういうことを考えたわけじゃない。そこあたり姉貴も裕子も勘違いをしている。
公麿はあくまで友人で、俺が心を許した数少ない友人で、そんな友人から相談を何一つされなかったことに嫉妬しただけだ。
女になろうが公麿は公麿。
俺のそのスタンスは崩すつもりはない。
でもなんだかな。最近のこいつを見ていると 変に動揺することが増えた。どうしてだ。
「なんだよ」
公麿が下から覗き込むように尋ねてくる。どきりとするほど整った顔。
「なんでもねえよ」
できるだけ普段通り返した。
なんでもない。そうなんでもないはずだ。
深く考えるのはやめよう。今はただこいつとアホみたいなことくっちゃべって笑っている方がずっと楽しいのだから。
今回で番外編はいったん終了です。次回からまた綾峰視点ですね。