創大が家出をした。
そのことは我が家をパニックに至らしめた。
「あいつどこ行きやがったんだよ!」
「創大アホじゃん!? なんで連絡一つなしなのさ!」
俺とゆかりはキレる。だってこれで仮に創大が行方不明とかにでもなってみろ。責任問題でお袋がどうなっちまうかわからない。あいつはどこまで人に迷惑かけりゃ気が済むんだよ。
「まあ落ち着け公麿。ゆかり。ほら親父を見習え、あのどっしりとした我が家の大黒柱を」
「うむ、うーん、み、水を……」
「酔っぱらって潰れてるだけじゃねえかよ! つか親父も昼間から酔いつぶれてるんじゃねえよ!」
頭に響くのか、親父は青ざめた顔でごそごそとソファの上で丸くなった。大事な家族会議中にこの男は……。
「大介さんの所にも連絡は入っていないのですか?」
お袋が心配そうに尋ねるが、兄貴は首を横に振るだけだった。
「一昨日の分は連絡受けたんだけどな。昨日はなかった。あいつそんなに金も持ってないはずなんだけど」
二人は困ったなと言う風に沈黙した。くそ、気分が下がってくる。
創大がこの街に住む友人の家に泊まると言い出したのは、本当に突然のことだったらしく、聞けばその日の夕方に急に連絡を受けたらしい。ちょうど俺が平等橋と一緒にいた時に絡まれた時だ。そこから更にもう一日泊まると兄貴は連絡を受け、次の日の分はいくらこっちがメッセージを送っても既読すらつかなかったらしい。
突然の友人宅泊りも含め、これを家出と我が家は認定した。
その件に関して俺は実は少しばかり罪悪感を感じている部分もあった。
俺が露骨に家でも創大を避けていたから、こいつは家に居づらくなって出てったんじゃないかって。あの日いきなり平等橋に挑発した日も、そういった溜まりに溜まった鬱憤がそうさせたんじゃないかって。
たとえそうだとしても俺は謝らないけどな。仕掛けてきたのは向こうだし、これについては譲るつもりはない。でも罪悪感を感じるか感じないかはまた別の問題だ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
ゆかりがくいくい俺の裾を引っ張った。なんだと耳を貸せば、こそこそと何やら言い始めた。
「私のせいかもしれない」
「何が?」
「創大が出ていったの」
見るとゆかりは泣きそうな顔をしていた。
こそこそ話したってことは周りに聞かれたくないってことだ。
俺はゆかりを引っ張って廊下まで出た。少し落ち着いたゆかりは事情を説明しだした。
「お姉ちゃんが男の人と遊びに行った日あるでしょ?」
「平等橋とな。その言い方マジやめろ。うん、で?」
あの日は家を出る前にゆかりと鉢合わせたので、どこに行くのかと聞かれて前の友達と遊びに行くと言ってしまったのだ。ゆかりがこの前俺と平等橋の電話を盗み聞きしてたのは知っていたから。話がズレた。元に戻そう。
「その日に創大とかち合っちゃってさ。しかもあいつお姉ちゃんどこ行った? とか聞くから絶対教えてやるもんかっていじわるしたの」
「いじわる?」
「あっかんべーってしてやった」
妹の頭が想像以上に幼稚で複雑な気分だ。
「そしたら創大がお姉ちゃんのこと馬鹿にしてきたの。『どうせあいつは友達もいないのに見栄張って一人で遊びに行ったんじゃねえのか?』って。あったま来たからお姉ちゃんは超イケメンの男の人とデートだって言ってやったの!」
「おい待て。お前いろいろ間違ってるぞ。くそ、まあいい、とにかくそれで?」
「そしたら創大のやつ急に黙って。一言『フーン』ってだけ言って気づいたら家から出ていってたの。これ私のせいだよね?」
ゆかりはまた半泣きになっていた。
お前のせいじゃないよと俺はゆかりの頭をぽんぽん撫でてやった。
ゆかりも創大は嫌いだ。でも家から追い出したいと思っていたわけじゃない。
過剰攻撃。
それがゆかりを不安たらしめていることだろう。
しかしこれで合点がいった。あの日創大があの電車にいたことは偶然かどうかわからないが、少なくとも俺と平等橋を見つけたアイツが突然平等橋を見て彼氏かどうか聞いてきたのはそういう理由があったからか。
「おいお前ら。取り敢えず探しに行くけど、行くか?」
兄貴が車のキーを揺らしてやって来た。ゆかりはうつむいている。迎えに行くべきか、それとも自分が言っていいのかどうか迷っているのか。
「ゆかりは家に居とけ。兄貴、俺行くよ」
「じゃあいくぞ」
さっさと出ていく兄貴を追って、俺も急いで家を出た。
高校を卒業して、兄貴はすぐ自動車の運転免許を取った。
それから休みの日とかちょくちょく運転しているので、海外生活が長い親父より兄貴の方がひょっとしたら運転がうまいかもしれない。
兄貴は車に乗り込んでから、どこか目的を定めたように走り始めた。俺はそれに違和感を覚えた。
「ひょっとして創大の場所わかってる?」
「……ああ」
「嘘?」
「いや、マジ」
俺たちは数秒間沈黙した。いや兄貴はもともと無口だから、俺が黙ることで必然的に沈黙が訪れたといった方が正しいか。
しかし聞き捨てならん。なんであいつの場所知ってんだよ。ていうか朝っぱらから俺が騒いだのは何だったんだよ。
「親父とお袋には出る前に言ってあったんだがな」
「なんで俺には黙ってたんだよ!」
「言ったらお前ついてこなかったろ」
俺は黙った。今度は怒りでだ。兄貴の意図がよくわからない。
わざわざ創大に会わせるために俺を誘いだしたみたいじゃないか。
「どういうつもり? 俺今結構兄貴にムカついてんだけど」
「なんでだ?」
「俺があいつのこと嫌いなの知ってるだろ!? なのにわざわざ騙すみたいにして呼び出してさ! これもあいつと口裏合わせてんのか? 兄貴はあいつのこと気に入ってるもんな!」
「少し落ち着け」
「もが!」
赤信号で車が止まったタイミングで、兄貴は俺の口にドーナツを突っ込んできた。腹が減るだろうと兄貴が出るときに持ち込んだものだ。それにしても、お袋といいこの家の人間は相手を黙らせるために食べ物を口に突っ込みすぎだ。
「あいつも大概だがお前もお前だ。まず第一に別に騙してない。俺はあいつと口裏を合わせてお前のこと呼び出したわけでもないし、気に入ってるからお前を陥れたとかそんなんでもない」
兄貴が長く喋るときは怒っているときか慰めているときかの二択。これはどっちかわからない。
「これ見てみろ」
兄貴は俺に自分のスマホを投げてきた。画面にはどこかの地図と、一か所丸いアイコンが点滅している。
「これって」
「GPS機能だよ。昔ちょっとあいつのスマホ弄る機会があったから、そん時にID知ったからな。今でも同じIDか自信がなかったが繋がったみたいだ」
創大のスマホのGPSから場所を割り出したということらしい。噂じゃ聞いたことはあるが、実際に使用するところを見るのは初めてだった。
俺はへーっと感心していると、こほんと咳払い。運転席の兄貴が正面を向きながら話の続きをする。
「あともう一つ。お前なんか僻んでんのか?」
「は? なんだよ急に」
いきなり喧嘩売って来た。兄貴と言えど気が立っている今の俺に自制心はない。
「あいつがこっち来た時からやれお気に入りだ可愛がってるだと言ってくるが、俺があいつになんか特別なことしてるとこでも見たことあんのかよ」
「あるよ。だって兄貴あいつのこと怒らねえじゃん!」
「そりゃなんもしてねえ奴相手にキレてたらそっちの方がおかしいだろ」
何言ってんだ兄貴。創大はいつも何かしているじゃないか。見ていないのか。
「何をしているっていうんだ?」
「いっつも喧嘩売ってきてる」
「俺が見る限りそんなの初めの数回だけだったろ。後はお前がずっと威嚇して会話らしい会話なんてなかったじゃないか。それとも俺が見てない所で散々やりあってたのか?」
やりあってない。兄貴の言う通り、あいつから俺に絡みに来たのは初めの数回だけだった。でも最後にデカいのをかましてきた。
「あいつ俺の友達殴ったんだぞ。初対面で。正気じゃないじゃないか」
これには兄貴も驚いたらしい。マジかと呟く。
「どういうことか事情はさっぱりだが、そりゃあいつに非がありそうだな」
「非しかねえよ!」
本当にあの時はこいつ頭おかしいのかと思った。平等橋がキレなかったら俺が殴り掛かっていたところだ。
「で?」
「で、って。何が」
「いやそれ以外。他にどんなことされたんだよ」
「ほかにって……」
いろいろされた。
色々されたと思うけど、咄嗟には出てこない。
「されてねえよ。少なくとも家ではな。なんせ見張ってたし」
「見張ってた?」
「ああ。親父に頼まれてな。創大がもしお前にいらんことしてきたら止めてやれって。でも家じゃなんもなかったろ」
兄貴の言葉に俺は何も言い返せなかった。
言い返そうとはした。いや確かに具体的に何かされたわけじゃないけど、あいつが家にいるってだけで俺のストレスは溜まっていったし、間接的に不快感は与えていたわけで。
「正直な。創大に関しちゃ俺もちょっと同情染みた気持ちはなくはない」
「聞いたよ。親戚中たらいまわしにされてたからだろ」
「それもあるけど、俺高校あいつの実家の方で寮生活してたろ? そん時に偶に会ってたんだよ」
「……なにそれ? 聞いてないんだけど」
「いやお前あいつの話されるだけでもう悲鳴上げてただろ。話せるかよ」
兄貴は高校の頃実家を離れて他県に寮生活をしていたことがあった。スポーツ推薦でなかなかの強豪校だったらしい。確かに兄貴のいた高校は母方の実家の近辺にあったはずだが、その頃の創大と会っていたのは初めて知った。
「それで創大がお気に入りになったんだ」
「だからちげえっつってんだろ。お前思い込み激しいんだよ」
「失礼な」
「いやマジで言ってる。自分がこうって思ったら周りもそう思ってるって思いこんでる。視野が狭いんだよ」
「俺兄貴と喧嘩したいわけじゃないんだけど」
「奇遇だな。俺だって喧嘩したくない」
車内には走行音だけが静かに響く。
なんだってんだ兄貴の奴。急に説教みたいなこと初めやがって。
「何度も言ってやるけどな。俺は創大を気に入ってるなんて一言も言ってない。言ったのは同情の余地はあるって言っただけだ。拡大解釈して勝手に世界閉じてんじゃねえバカ」
「うるさいな! 結局何が言いたいんだよ! 説教はこりごりだ!」
「創大が嫌な奴だっていう認識を改めないから、あいつのやることなすこと全部歪んで見えてんじゃねえかって言ってんだよ。言っておくがあいつが全部正しいなんて言ってるわけじゃないからな。寧ろ俺から見たら両方意味わからん。でも会話のキャッチボールが出来ていないのに勝手に相手を嫌いになって家の中の空気を悪くするのはやめてくれってことだ」
兄貴が言うことは言葉の意味としては理解できる。
つまり兄貴は、俺が創大のこと偏った見方をしているからまともに見ることができないって言ってるんだろ。
ついこの前、俺が女になって平等橋に避けられた時どうして俺を避けていたのかやつに聞いた事があった。その時に返って来た答えは「なんか女になったお前見たら全部悪い方向に映っちゃってさ。変なフィルター入って見ちゃってたんだわ。すまん」だった。悪意のフィルター。あいつはそういったけど、俺もそれを通して創大のことを見ているんじゃないかって兄貴は言っているんだ。
そうか? 俺はそこに疑問を感じる。
だってあいつすぐに人のことを馬鹿にするし、見下すし、挙句平等橋を殴るし。人としてどうかと思う所ばかりだ。
会話のキャッチボールが出来ていないのはあいつのせいだ。
俺まで悪いっていう兄貴の考えに俺は賛同することができない。
「その俺は悪くないって顔ぶっさいくだぞ」
「なっ!」
考え込んでいる最中に声をかけるのはやめてほしい。ていうか心の声が漏れてた?
「悪いとか悪くないって考え止めろよ。そう思うから余計に話がこじれるんだって気づけよ」
「意味わかんねえよ! 結局兄貴は何が言いたいわけ!」
べらべらくっちゃべってムカつく。兄貴のことは尊敬してるけど、俺だって人の子だ。ここまで言われてストレスがたまらないはずがない。
「簡単だ。言葉で無理なら後はどうする」
「は?」
「殴って来いって言ってんだよ」
ほら、あのベンチに座ってる奴相手にな。
車が停車した。
兄貴が指さした先には、ぼーっと空を見上げる同い年の従兄がそこにはいた。
「こんのアホがああああ!」
「え、な、はあ?」
助走をつけてワンツースリー。
勢いよく俺は創大の頬を引っぱたいた。
いってえええええ! なんだこれ叩いた方が痛いじゃないか!
兄貴の言いつけ通り、俺は創大目掛けて思いきり殴った。拳で殴ると下手したらお前の骨がいかれるぞ。そう兄貴が言ったので、平手打ちだと決めたのだが、平手でも指が何本か折れたんじゃないかという不安が訪れるくらい痛みが走った。
「いってえ! いきなり何しやがるんだてめええ!」
「うるせえええ! 迷惑かけてんのはお前の方だろ馬鹿野郎!」
起き上がる創大にもう一発反対の手でビンタ。今度は辺りどころがよかったので乾いた高い音が鳴った。思いっきり拍手した時みたいなヒリヒリした感覚が残る。
「っ! なんのつもりだボケ!」
「黙れこのカス野郎!」
手は痛い。今度は脚だ。全力でローキックをかましてやった。低く唸るよなうめき声が創大から漏れた。
……案の定俺の方がダメージでかいんじゃないかというくらい痛い。
だがこれは相手も相当ダメージを受けたようで、俺とほぼ同時に崩れ落ちた。
たった三発。でも気合いを込めて全力で殴って蹴ってやった。
やり返されるかもしれない。そうしたらまた反撃だ。
荒い息を整え、俺はきっと創大を睨みつけたやった。俺の怒りはこんなもんじゃない。
「散々人のこと馬鹿にする、嫌なこと言う。しかも俺の友達まで巻き込んで挙句家出だぁ!? どこまで人をイラつかせたら気が済むんだよお前!」
「うるせええ! 人の話を聞かないのはどっちだ! 昔のこと散々穿り回して今の俺の話聞いたことあったかよ!」
反省するかと思いきやまさか言い返してきた。殴ったこともあってちょっと許してやろうかなと思った気持ちが吹き飛ぶ。
「お前クズだ! 自分が何やって来たかもわかってないような大馬鹿野郎だ!」
「誰がクズだ! 自分ばっか被害者みたいな面してるお前に言われたかねえんだよ!」
「ハイハイお前らちょっと落ち着け」
いつの間にか俺と創大の間に兄貴が割って入っていた。
ふしゅーふしゅーと興奮した俺たちを戒めるように、「ほれ、こんなところで騒ぎまくってたら警官来てもおかしくねえだろ」と、止めてあった車を指さした。
走行中、俺たちは無言だった。
俺は後部座席、創大は助手席に座っている。俺の場所なのにクソ。
沈黙が続いた後、兄貴が口を開いた。
「創大。お前そろそろ謝れ」
「は、え、えぇ?」
創大は思わぬところから刺されたと言わんばかりに意外な声を出した。こいつがこんな間抜けな音を出すところを俺は初めて聞いた。
「お前の意志を尊重して黙ってやってたけど、いい加減じれったい。つーかそうじゃなきゃ何のためにわざわざ叔母さん騙してこっち来たんだよ」
目の前で俺の知らない話が展開している。何の話をしているんだこの二人は。
「俺からこいつに言ってもいいけど、信じないぞこいつ頑固だから」
「知ってます。いや、でも俺から言ってももう無理っす」
創大は力なく言った。こいつこんな奴だったか。
もっと高飛車で、嫌な奴を具現化したような奴が俺の知ってる創大だ。嫌らしそうに口の端を上げ、人の嫌がることをするのが何よりも好きなのがこの男の本性のはずだ。バックミラーに越しに映るやつは、とてもそうは見えなかった。
「無理かもな。でも謝れ。散々待ってやったんだ。俺もお袋もキレるぞ?」
「……すいません。そうですよね。」
創大は言うと、「公麿」と俺の名を呼んだ。こいつに名前を呼ばれたのは随分久しぶりな気がした。
「なんだよ」
「悪かった」
何が、とか、何を、とか。そういうことは聞かなくてもわかった。全部だ。そういうことひっくるめて、全部の謝罪だと分かった。
でも、それでもだ。
許さなきゃいけないのか? そういう気持ちがふと沸き起こった。
どうもこの雰囲気からして、こいつも単に俺に嫌がらせをしていただけではないらしいことはわかる。兄貴とお袋が何らか関与しているんだ。それは信用していいだろう。でもだ、それでも俺が今まで嫌な思いをしてきたのは事実で、それをこんな簡単な謝罪で許していいのか。許すことができるのか。俺は考えあぐねた。
兄貴も創大も、俺が返事をしないことに何も言わなかった。
創大は薄々感づいていたのだろう。小さく息を吐いただけで何も言わなかった。
家まで帰ってくると、家の前に見慣れぬ白いセダンが一台止まっていた。
「母さん?」
車を降りた創大がそうつぶやくと、玄関からきつそうな眼をした中年の女性が出てきた。伯母さんだ。暫く見ていなかったけど、だいぶ老けたな。
エンジンの音で俺たちが返ってきたことに気が付いたのだろう。伯母さんはお袋と一緒に出てくると、すぐに創大の元まで近づき、創大の頬を張った。
「……っ!」
「このバカ息子! 芳子おばさんの所に連絡しても来てないっていうからまさかと思って咲江に電話したら案の定よ! 迷惑かけてこの!」
もう一度叩いた。
さっきまで湧いていた創大に対する怒りがしぼんでいく。
見たくない。
創大は力のない目で虚空を見つめていた。事が過ぎるのをただ待っているように見えた。
「姉さん。もうやめてあげてください。私がいいと言ったんですから」
「あらそう? なら逆に聞かせてもらうけど咲江。あなたどうして私の確認を一言でも取らなかったの? あなたにも問題があったんじゃないかしら」
伯母さんの矛先が今度はお袋に向いた。すると創大が「やめてくれよ母さん」と制した。伯母さんの目がぎろりと血走る。
「あんたは黙ってなさい! よくもまあ親に口答えができたものですね!」
俺は小学校の時以来伯母さんに会ったことがない。そのあたりからお袋がお袋の実家に繋がる人と会うことを避け始めたからだ。久しぶりに見る伯母さんは記憶の中のそれとは大きく乖離して見える。少なくとも見かけ上は俺に対しても優しかったはずなのに。怒っている状態だからでは説明できない狂気がそこから感じられた。
振り上げられる手。流石に黙って見ていられなかった。
「やめてよ伯母さん!」
俺はたまらず声を上げていた。言ってしまってはっと気が付いた。やってしまった。言ってはいけない一言だった。
まるで汚いものでも見るように俺のことを睨む伯母さん。記憶にある表情なんてまるでぬるい。混じり気なしの悪意。俺は伯母さんの表情からそれを読み取った。
「ふふふふ。公麿。あんた女になったのね。汚らわしいわ」
「……っ」
ねっとりと悪意を帯びて伯母は言う。ぞわぞわと産毛が逆立つ思いがした。なんなんだこれは。この気持ちは。
「あんたみたいなのが、あんたみたいなのがいるからこの家はいつまでも呪われ続けるのよ!」
「やめてください姉さん。私の子どもを傷つけることは私が許しません」
お袋が俺の間に立って、伯母さんを睨んだ。
今までお袋は伯母さんに何か強く物を言ったところを見たことがなかった。明確な上下関係が敷かれているという感じでもなかったが、一歩引いてそれに追随している印象はあった。そのお袋が伯母さんに歯向かった。さっきまで感じていた不快感が、お袋が間に入ってくれただけでなくなっていった。
「……そ。ならもういいわ。迷惑かけたわね咲江。帰るわよ創大」
くるっと背中を向けると、伯母はさっさと車に乗り込んでいった。
残される俺と創大と兄貴、お袋。
「ごめんなさい創大さん。荷物はもうまとめて車に積んであります。ばたばたしたお別れになりましたね」
「いえ、俺の方こそ申し訳ありませんでした。結局母親に見つかってしまいご迷惑をおかけすることになってしまって、ほんとなんて言ったらいいか」
「お気になさらず。姉さんのアレは見慣れたものです。創大さんもいつも大変ですね」
ふふっとお袋が笑うと、創大もつられて少し笑みを作った。
「大介兄もほんとごめん」
「いいよ。俺基本何もしてないし」
兄貴はめんどくさそうに耳を掻いた。創大はそれを見て苦笑した。
「そんで最後に公麿。やっぱり言わせてくれ。ごめん」
「……よくわかんないんだけどさ。結局お前それ言いにここまで来たわけ?」
『早く来なさい創大!』
創大は何か言いかけたが、叔母さんの怒声でかき消された。結局あいつは何も言わなかった。
「あ、そうだ」
最後に振り返って創大は俺の方を見た。
「あのさ、お前の友達にやっちゃったあれ。あれだけはマジで俺もなかったなって思った。だからそれは謝りたい。伝えてくれないか?」
「はー? なんでだよ。つーか自分でまた謝りに来い」
「……それもそうだな。すまん。じゃあな」
「創大」
背を向ける奴に俺は声をかけた。このまま去られるのもなんとなく気分が落ち着かない。
「今度は電話出てやるよ」
「……ブチ切りはすんなよ」
そういって創大は去っていった。後ろ姿で見えなかったけど、微かに笑っていたような、そんな気がした。
三週間の予定は、結局蓋を開けてみると二週間も滞在しなかったことになった。
創大が帰った後、俺は兄貴とお袋に詰め寄った。今回の種明かしだ。
「もともとあいつの方から俺に連絡が来たんだよ。お前と話し合うことができないかってな」
兄貴の所にそういった連絡は実は随分前から着ていたらしい。それこそ俺が女になってすぐくらいから。でも兄貴は俺がバタバタしてたってのもあってもう少し待ってくれって伸ばし続けていたそうだ。
「私とお父さんが帰国したこともあって、それならいっそ夏休みを利用して遊びに来てはどうかと私が言ったんです。姉さんに内緒でやって来たのは来てから知らされてびっくりしましたけどね。とにかく、公麿さんと創大さんの仲が拗れているのは知っていましたから。昔の創大さんならまた喧嘩になるだろうからご遠慮いただこうかとも思っていたんですが、私も個人的な用事で実家に何度か顔を出していたことがあったので、今の創大さんを知っていたからというのも大きかったですね。創大さんの方に公麿さんに歩み寄ろうという意志があるのなら問題はないかと」
「でも問題大有りだった。お前が創大のことやたらめったら嫌うのはまあ予想の範疇だったんだが、創大も昔の癖が抜けなくて全然素直に歩み寄ろうとしやがらなかった」
お袋と兄貴は何度か二人で創大をたしなめたらしい。今のやり方だったら一年使っても歩み寄るどころか険悪になるぞと。
「それでできるだけ公麿さんに誤解されないように直接的な接触は避けて、でも要所要所で会話が出来たらいいと言う結論が出たのです。順調に二人で話しているときなんかもあったでしょう?」
あれは兄貴とお袋の入れ知恵だったのか。
「でもそんな中でお前の友達に喧嘩売るなんて暴挙に出たわけだ。流石に俺も何も言えなくなってな。電話口で黙ってたらあいつ暫く家に帰らないとか言い出した。勝手にしたらどうだって俺も返した。あいつがこの辺に知り合いなんているわけないって知ってたからな。金もねえし突き放したら黙って帰ってくるだろうと思ったからだ」
「ちょっと待って? アイツの家出って当てがあったんじゃないの?」
説明の途中だったが、俺は口をはさんだ。友達の所に泊まるって言っていたじゃないか。
「お袋にも黙ってたんだけど、そんなもんいるはずない。なんで他県に友達がいるんだよ」
「待ちなさい大介。あなた私に嘘をついたのですか?」
思わぬところで飛び火した。お袋はなんですっと言わんばかりに目をかっと開いた。怖い。
「待ちなってお袋。目が怖いし最後まで聞いてくれ。男の意地ってやつだろあいつのあれは。馬鹿らしいことだけどさ。とにかく一日目と二日目はネカフェで泊まったらしいんだけど、三日目で金が尽きたらしい。それでまあ救助に向かったってわけだが」
兄貴は一息つくと、ずずっとお茶を啜った。
リビングにはお袋と兄貴と俺、そしてソファで死んでいる親父。ゆかりは部屋でゲームでもしてる。
兄貴の説明を聞き終えた俺だが、どうにもすっきりしない所が多い。
「……なんであいつが家に来た理由から嘘ついてたのかわかんないんだけど」
確かここにあいつが来た時、いつも頼ってる親戚のばあちゃんが死んだからって聞いた。俺も名前くらい知ってる人だったし、式自体は出てないけど葬式があったのも知ってる。親戚がいろいろいるはずなのに、なんで絶縁状態の我が家に転がり込んできたのか不思議ではあったけど、それが嘘だとは思うまい。
「創大さんに口止めをされていたのです。理由を言えば公麿さんが嫌がるだろうからと」
「あいつ俺のことわかってんのかわかってないのかさっぱりわからん」
「私たちから見たらわかっている風に見えたんですよ。だから受け入れても大丈夫だろうと思ったんです」
あいつが俺の嫌がることをわかっているくせにどうしてその誤解を解こうとする努力をしなかったのかがよくわからん。
「てかまずなんで創大を受け入れたのさ。あいつが昔とちょっと雰囲気違うなって言うのは最後でわかったよ。でも普通そんなんで嫌がる俺がいるのに受け入れるかね?」
「それは……」
お袋は少し考えるように黙った。言葉を探しているように見える。
「それは、創大さんが次のあの家の跡継ぎになる人だからですよ」
「……よくわからないんだけど」
「言葉が足りませんでしたね」
お替りいりますか? とお袋が俺と兄貴のグラスに麦茶を注いだ。
「私たちはもうあの家とは縁を切っているとは言え、やはりまだ繋がりはあるんですよ。
それは公麿さんが女の子になってしまったことで、更に呪いという形でその存在が浮き彫りになってしまいました。要は悪目立ちしてしまっている状態なんですよ今うちは。直接的な被害は少ないにしろ、先ほど姉さんの態度を見ればわかる通り呪いは本家にとって忌避すべきものなんです。姉さんの態度が異常だと思ってはいけません。本家の人間は大体があんな態度を取ってきます」
お袋は「何も知らないのに好き放題言ってくるんですよ」とぼそりと続ける。
伯母さんのあの目。あの目が本家に行けば集中砲火されるのか。絶対行きたくない。
「昔は創大さんもあんな感じでした」
お袋は言う。それはそうだろう。生まれた時からそういう環境で育てば、自然とその場の考えに思考が染まるのが人間だ。それは俺も何となく想像がつく。
「私も諦めていた部分もありましたから。殆ど部外者になった私が本家の人間である創大さんに何か言って、それが原因で家族に影響が及ぶのを考えたら何も言えなくなったというのもあります。ですから姉さんとも徐々に距離を置いて行ったんですよね」
創大が突然俺に意地悪になった理由。
それは俺が将来的に呪いを受けると伯母さんから、あるいはそれ以外の本家の誰かに聞いたからなのかもしれない。呪いは忌み嫌われる。排斥して当然というのが向こうの考えだ。
「でもどうしてでしょうね。創大さんはその考えがおかしいのではないかと思うようになったそうなんです。性が変わるのはおかしいことだけど、それで差別的な考えが生まれる理由が分からないと、そういったのです。私は呪いに寛容な当主が生まれれば、私がいなくなった後も公麿さんは後ろ指刺されずに生きていけるのではないかと思って創大さんを受け入れることにしたのです」
そういうことだったのか。
お袋や兄貴が散々俺に話し合えと言った理由がよくわかった。
創大はもともと俺と会話を試みようとしてやって来たのに、過去のトラウマから俺は奴をはねのけてしまった。
アイツも俺が素直に話さないからむっとなったのかもしれない。多少いじわる染みた接触をしたのかもしれない。でも俺はそれを過剰に反応してしまった。昔のせいで悪意のフィルター越しに見るあいつはいつも歪んで見えたから。決定的だったのは平等橋の件。あれはあいつも謝ったとはいえ今も許す気になれない。あれだけはなんでしたのか意味わからんが、それ以外ではあいつも一応の歩み寄りを見せていたのだ。
俺が意固地にならず、ちょっと我慢してあいつの話を言いていればここまで拗れなかったのかもしれない。うーん、それでも俺がしたことはそこまで間違っていなかったと思うのは、俺が頑固な証拠なんだろうか。
「なあ、俺って思いこみ激しいのかな」
「かなりな」
「そんなことありませんよ」
俺の問いにまるで正反対の答えが同時に返って来た。どっちなんだよ。
「こいつ思い込みかなり激しいって」
「あら、自分の考えをしっかり持っていないと話もできませんよ。公麿さんはただ自分の考えを持っているだけだと思います」
「そこで柔軟な発想転換ができないから思い込み激しいって言ってんだよ」
「何でもかんでも自分が間違っていると疑ってかかるよりずっといいですし、それに公麿さんはしっかり人のお話を聞く子ですよ?」
「それって自分に害のない話限定でしょ? そんなの誰だって聞くって」
「もういい! もういいから!」
俺を挟んで兄貴とお袋が戦い出したのでストップをかけた。しかもよく聞いたらお袋も俺のこと思い込みが激しいって方に賛同してるっぽい言い方だったし。フォローはめっちゃしてくれてたけど。
思い込みなあ。知らず知らずのうちにしてたのかもしれない。いやでもそんなの皆してることじゃないの? と思わなくもない。でもどうなんだろうな。反省すべきことなのかな。
女になって三か月ちょっと。
ムカつく従兄が実はそうでもないんじゃないかと自問自答するようになって、すこし自分を見つめ直さなければいけないのかなと思わせた。
本家とか呪いとかよくわかんないことばかりだけど、これからいろんな厄介ごとが付きまとってくるんだろうな。それを思うとぞっとするけど、とりあえず今は冷たい麦茶でも飲んでわははと笑っていようと思う。なんか事が起こったらそれから考えてもいいだろう。
夏休みもそろそろ折り返しが見えてきた、そんなある日だった。
お詫び
感想欄が創大ヘイトでえらいことになっているのはわかってるんですけど、こんな形で一旦は〆ました。ふざけんじゃねえよとか、納得いかねえって方がいたら大変申し訳ありません。
感想欄参考にしてちょっと展開変えようかなとか思ったりもしたんですけど、結局は自分が元々考えてた話で進んでしまいました。
途中経過でこんな事を書くのはあまり好ましいことではないと思うのですが、モチベーション維持の為というか、この小説で私が考えていることを書こうと思います。
この小説は一人称視点ですすんでいくので、見るもの感じるものすべてある1人が主観で感じたものとなります。今回主人公が従兄に対して過剰に悪感情を剥きだしにし悪いように書きまくったのはあくまで主人公がそう思うというだけで周り全員同じことを思っているかというのはまた違うかなという風にしました。こうした一人称視点での他者とのすれ違いみたいな部分がうまく表現できればなと考えていたのですが、なかなかうまくいきませんね。創大へのヘイトが高まっていくにつれ皆さんの反応が厳しいものとなっていきましたが、それも含めて私の力量不足というほかないと思います。あれですよ、本来は創大そこまでヘイト集める予定はなかったんですよ! どうしてこうなった……
この一連のお話で不快な思いをなされた方もおられたかと思います。謹んでお詫び申し上げます。
次からは純粋にTSを愛でられるお話にしたいなあ。