夏休みが明けて新学期となった。
久しぶりに袖を通した制服はなんだか新鮮で、これから毎日嫌って程着なくちゃいけないのにこの日だけは嬉しくなるから不思議だ。
例の如く平等橋の待ち合わせの場所に行くと、やつは既に待っていた。
遠めでもはっきりわかるくらい存在感を放ってやがる。改めて見てもあいつイケメンだよなあと謎の怒りが込み上げてきた。
「よお平等橋」
「なんでお前ちょっとキレてんだよ」
改札前で俺に気が付いたあいつは、流れてくる人にぶつからないように近づいてきた。
「今日は俺が先に着てたぜ」
「あ、うん。そうね」
「流すなよ。ジュースな」
「それいつまで続けんだよ……」
そういやそんなルールがあったなと思い出す。先に待ち合わせについていた方が昼休みに紙パックのジュースを奢ってもらえる。
もともと平等橋が遅刻しないように自分の戒めてとして勝手に始めてきたものだったが、いつの間にか俺も適用されるようになってしまった。
夏休みにあったことや面白かったことなどを中心に話ながら俺たちは歩いた。
合間合間にちょこちょこ会っていたはずなのだが話す話題が尽きないから不思議だ。
平等橋は主に夏休み中部活であった嫌なことや面白かったこと、後は愛華さんの悪口なんかを面白おかしく話してくれた。
俺は基本聞き役だ。聞かれたら答えるがそれ以外はふんふんと相槌を打つ。これは平等橋と出会った時から変わらない。
「そういやお前なんか太ったか?」
話が一段落したころ。唐突に平等橋が尋ねてきた。
「え、太ったかな。気がつかんかった」
俺はというと意外そうに目をぱちぱちと瞬くだけだ。マジか、太ったか。
腹の肉を掴もうとするがちまっと皮が引きつるだけ。
「なんか全体的なフォルムが丸くなった気がするんだよな。あと腹出てるような」
「別に私だからいいけどさ、他の女子に言うなよ? それ。ボコボコニ殴られるから」
腹や顔をさすさす撫でてみてもあんまり変化が分からない。
なんでこいつそんな事言い出したのかと考えてみて、思い当たることがあった。
「多分ブラのカップがひとつ上がったからだと思う。ほら、ベストがそのせいで伸びて見えるだろ?」
前回クラス合宿で水着を付けた時、なんかほんのちょっときついなーと思っていた。するとプール終わりの着替えで裕子たちにあっさり見つかってしまったのだ。あの時は裕子や舞衣だけじゃなく亜衣まで悪乗りしてきたから困ったものだった。
お袋に相談して新しい下着を買いに行って測り直したら、胸が育っていたのが分かったのだ。
今まで意識してなかったけど確かに大きくなっている。女になりたての時は潰れた餅みたいなペタンこだったのに、今じゃ小リンゴくらいになっている。ブラを付けたら形が出るからぱっと見もう少し大きく見えるだろう。
俺が丁寧に説明すると、平等橋は途中から「もういいから」「俺が悪かったから」と顔を塞ぎだしていた。その様子が面白かったから嬉々として続けてやった。
「あー、あれだ。俺はひょっとしてとんでもないセクハラ発言をかましていたということになるのか?」
「覚えとけよ平等橋。一般的に女性に太ったとか言いだした時点でセクハラだ」
あっはっはと笑う俺たち。平等橋の笑いが渇いているがそこは気にしない。
男の時はこんなセクハラもこいつは全く気にしていなかったが、今はこの手の際どい話はできるだけ振ってこない。久しぶりの感覚だったので俺の方がつい調子に乗ってしまった。
「セクハラついでにこの際聞いてもいいか」
「いいけど。何?」
変なスイッチが入ったのか、平等橋はえらく真面目そうな顔をしてきた。
「公麿ってさ、女になってから一人で致したことってあるのか?」
「いたす?」
「いや、ほらだからそのオナニー」
「あんた何公衆の面前で卑猥なこと聞いてるのよ」
「うわ、裕子。いたのかよ、声かけてくれよ」
いつの間にか裕子が俺の隣に歩いていた。反対の隣に歩く平等橋が「はがががが」と壊れたロボットのような声を出している。
凄いな、目視できるレベルでだらだら汗を流しているぞこいつ。
「公麿こっちへいらっしゃい。妊娠させられるわよ」
「お前時々表現が古いぞ」
裕子が平等橋の存在をいないもののようにして俺を自分の方に寄せてきた。なんだか平等橋がちょっと可哀そうでもある。
「おい裕子。これは俺と公麿の会話だ。途中から出しゃばってきて調子乗るなよ?」
おお、珍しく平等橋が反撃した。
意外な事態に目を丸くさせていると、裕子の目が小動物をいたぶる鷹のように鋭く細められた。
「言うじゃない平等橋。いいわ、私も聞いていてあげるから話を続けなさいよ」
「え?」
裕子の返しが意外だったようで、平等橋はきょとんとした。
「お、おうよ、続けてやらあ!」
啖呵を切って俺に向き直る平等橋。この時点で不自然さ100%だ。
「公麿、さっきの話の続きだけどなって聞けるかぼけえええええ!」
赤面しながら平等橋は走り去っていった。
「あ、おい平等橋」
「ほっときなさいよあんなの」
裕子はふんと鼻を鳴らした。俺も裕子が横で聞いているのが分かっていて答えたいものでもなかったので安心と言えば安心。でも逃げるなよなーくそ。
「裕子さ、なんか平等橋に厳しくない?」
いつか言おうと思って口に出せなかったが、ちょうどいい機会だ。思い切って聞いてみよう。
裕子を見ると、彼女はへの字に口を引き結んでいた。痛い所を突かれたという表情だ。
「あいつになんか嫌なことされたこととかあるのか?」
「いえ、そういう訳でもないんだけど。……そうね、確かにどうしてなのかしら」
平等橋と裕子は小学校来の幼馴染だ。
裕子は主に愛華さんと交流があって、平等橋本人とはそこまで深い交流があったわけではないと聞くけれど、本当の所はどうなのだろう。
彼女の平等橋に対する当りの強さを見ると、さも全男子を嫌悪している風に見えるし実際本人もそういうことを口にする。だがここ数か月間付き合ってきてあそこまで理不尽なほど当りの強い反応を示すのは平等橋だけなのだ。
ほんの少しだけ、もやっとするところでもある。
「平等橋はほら、馬鹿だから」
「うちのクラスの男子なんて大概バカの集まりだよ」
「飛びぬけて馬鹿なのよあいつは。何、ひょっとして嫉妬してるの?」
「うん。ちょっとだけ」
「マジっすか!?」
がっと両腕で肩を掴まれた。痛いし目が血走っていて怖い。
「まままままさかあなたたち夏休みに何かあったの!? 吐きなさい。吐いてすっきりしなさい!」
「何もねえし怖ええよ!」
振り払うとあっさり崩れ落ちた。ここ通学路なんだけど。人めっちゃ見てんだけど。
「おい、立てって裕子。お前あと凄い勘違いしてるって」
「勘違いって何よ」
ふらふらと足元のおぼつかない裕子の手を引き先導する。このままじゃ遅刻しそうな勢いだ。
「私がこう、なに。もやっとしたのは、裕子が平等橋のこと好きとかそういうの疑ったんじゃなくて。あいつの幼馴染だから、昔のこととか、その、いろいろ知ってるのかなって思って」
「……あいつに何かあったの?」
「それは……」
元の調子に戻った裕子は、声のトーンを落として俺に尋ねた。
答えていいものなのだろうか。
頭の中にあるのは勿論先日の愛華さんとの会話だ。
平等橋の母親、弟切ユリさん。
平等橋と愛華さんの母親ということもあって、随分綺麗な人だった。
アパートの階段ですれ違っただけだったが、その眼は暗く濁っておりはっきりと記憶に焼き付いている。
平等橋の母親で、あいつに女性不振を植え付けた相手。
彼女がこの街に単にやって来ただけならここまで悩みはしない。だが相手は自分の死期を悟って最後に一目自分の息子と娘を見ようとやって来たという。
俺の感性が青いからかもしれないが、それって勝手なこと、だと思う。
冷たい考えだろうか。
死ぬとわかっているから一目血を分けた子どもの顔を最期に見たい。この考えは理解できる。
でも自業自得だ。
会えない原因を作ったのはほかでもない、自分自身なのだ。
愛華さんには平等橋に母親が来ていることを教えるか否かという事は言われなかった。ただ知ってほしいというだけだった。
さっき会った時に見た平等橋の反応からして、あいつは愛華さんに母親のことを聞いていないのだろう。
平等橋に母親のことを伝えるのがいいのか、それとも黙ったままでいるのがいいのか。俺はずっと悩んでいた。
俺がどう思うかと、平等橋がどう思うかはまた別問題だからだ。
愛華さんからはあまりいい話を聞かない母親であっても、今の平等橋にとってはまた違っているかもしれない。
また俺が平等橋の母親がどんな人なのか、愛華さんの情報からしかうかがい知れないというのも大きい。このため下手に手が打てないという面もある。
だから裕子が少しうらやましくなったのだ。幼馴染である彼女は、きっと俺なんかよりもずっと平等橋の家の事情に詳しいはずだから。
「何もないよ」
俺は努めて何でもないように笑った。
裕子は「そう」と言ったきり、この話に触れてくることはなかった。
帰り支度をしていると、後ろからボスと軽い衝撃があった。振り向くとサイドバックを片手に平等橋がニヤッと笑っている。
「なんだよ」
「今日部活なくなったんだ。一緒に帰ろうぜ」
魅力的な誘いだ。
これはつまりこのまま遊ぶことができるという提案に他ならない。
夏休み終了から授業開始初日だというのに、大半のクラブは今日から開始だ。その為裕子も亜依も舞依も部活に行くとさっさと教室を出て行ってしまった。
仕方がないので美術部にでも顔を出すかとやや寂しい気持ちがあっただけでに、平等橋のこの誘いは震えるほど歓喜するものがあった。
「よっしゃ! 今日どこ行こうか!」
「テンションクソ高えなおい。それに愚問だぞ公麿。そんなの決まってんだろ! ノリと勢いで決めんだよ!」
がしっと手を組みあった。さあ行こう。時間は一秒でも無駄にはできない。
俺たちは互いの背中をバシバシとたたき合うというよくわからないテンションのまま昇降口を降りた。
平等橋の上手くはないが決して下手とも言えないなんとも独特な歌声をたっぷり堪能した後、俺たちは学校の駅近くのファストフード店で駄弁っていた。
とりとめもない話をしていると、不意に平等橋が「そろそろ話せよ」と切り出した。
「えっと、何が?」
内心の動揺は隠せなかったが、なんとか平静を保ってとぼけた。
「知ってるか公麿。お前は嘘ついてるとすげえきょろきょろ目線を泳がすが、隠し事をしているときはいつも眉をハの字にさせてんだぜ」
「嘘だろおい」
とっさに俺は自分の眉を触った。平等橋はそのさまを見てにやっと笑った。こ、こいつカマかけやがった。
「話しにくい事なのか?」
「え、いや、その」
平等橋の声には心配の色が隠れているように感じた。俺は平等橋に隠していること、つまり平等橋の母親のことを話すべきかずっと迷っている。このタイミングで平等橋に切り出すのは果たしていい事なのか悪い事なのか。
俺が答えあぐねていると、平等橋の目線は俺ではなくどこか違う方に向いていることに気が付いた。視線の先を追ってみると、小さな子供を連れた母子のテーブルを見ている。
「俺の母親の話ってお前にちゃんとしたことあったっけ」
平等橋はぽつりと口にした。俺は無意識に平等橋の母親のことを口に出していたのかと焦ったが、そうではなかった。
ぼんやりと母子の席を見つめる平等橋。彼の心情を俺はつかみ損ねている。
「俺が女性不振になった原因でさ。そこまでは話したっけ」
「え、ああ」
「親の不倫現場って結構壮絶でさ。母親としてのあの人しか知らなかったから、急にそういうことを父親以外の人とするんだってなったら怖くなった。裏切られたって感情より得体のしれない不安に押しつぶされそうになったんだ。でもさ、生きてりゃ浮気だ不倫だなんて結構ごろごろあるだろ。知らないだけで隠してそういうことする人だっている。うちが特別ってわけでもないんだよな」
だからかな。
平等橋は淡々と、滔々と、感情が入らないように続きを口にする。
「あの日俺が忘れ物を取りに帰らなかったら。あそこまで騒ぎ立てなければ。離婚なんてしなかったかもしれない。父さんも死ななかったかもしれない。まだ一緒に、家族四人で暮らしていたかもしれない。そんなことを最近は思うようになってきたんだよ」
「平等橋……」
ずずっと氷で薄まりきったオレンジジュースをすする平等橋を見て、俺も踏ん切りがついた。
「悪い公麿。急に重い話しちまった。引いた?」
「引かないよ」
「だと思ったぜ。お前と俺の仲だもんな」
けらけら笑う平等橋。いつもなら乗ってやるが、ここでこの話を終わらせたくはない。伝えなければならないと身を乗り出した時、店の外から見つけてしまったからだ。
「出るぞ平等橋!」
「え、いきなり何?」
俺は自分のトレーをもって片手で平等橋の腕を掴んだ。
店の外に出て必死で探す。いた。
「なんなんだよ公麿」
戸惑った様子で抗議する平等橋。俺は無言で指をさした。
「お母さん、病気でもう長くないらしい。お前に会いたいって言ってるけど愛華さんが止めたんだ。私はでも会うべきだと思った」
視線の先を追う平等橋。何年もあっていなくても、親の顔は忘れないのだろう。
びたっと顔をこわばらせた平等橋。失敗したかもしれない。余計なことをしたか。俺の心中不安が渦巻いたのも一瞬。平等橋は俺の手をとって足早に歩きだした。
「平等橋?」
平等橋は何も答えない。まっすぐに前を向いて、でも繋がれた手は歩きながらでもわかるほどはっきりと震えていた。
「母さん」
その人の近くまでくると、平等橋は恐らく緊張で掠れた声を出した。
ぴくっと振り返ったその人は、信じられないとばかりに目を開いた。その顔から本当に予想の範囲外だったのだろうということが伝わって来た。
「……まさ、よし?」
感動の再会という言葉は似合わないだろう。
経緯を知っているだけに、この立ち合いが果たしてどれほどの意味を持つのか俺にはわからなかった。
ごたごたしてましたがようやく更新再開できそうです。毎日更新できるかは不明ですが、八月中には完結させたいなあ……