家に帰ると姉貴が腕を組んで玄関の前に立っていた。扉を開けた瞬間飛び込んできた姉の姿に一瞬びびった。
「おかえり。正義」
「ただいま。どっかいくの?」
「いかないわ。そろそろあんたが帰ってくる頃だと思って待ってたのよ」
時刻は八時前。部活がある平日なら大体この時間くらいに帰宅することは多い。
「ごはん食べながらでいいから。大事な話があるの」
十中八九母さんの話だろうなと思いながら、俺は荷物を下ろして頷いた。
姉貴の話は大体が予想を超えるものではなかった。
母さんの病気のこと、俺に会いに来たいという事、いままでそれを隠していたことに対する謝罪など。公麿に聞いた内容を補足するような形で述べられたそれを、俺は咀嚼するように聞いていた。
「さっきまで母さんがそこにいたのよ」
話がひと段落すると、姉貴は空いている席を指さしてそういった。
「ここに来たの?」
「『やっぱり正義には会わない方がいい』。そう言うために私に会いに来たみたいだけど、なんの偶然かその行き道であんたに会っちゃったのよね。向こうも驚いたみたいよ」
「ああ。俺も、そう」
姉貴は神妙な顔をして、「大丈夫だった?」と尋ねてきた。何がとはきかない。
「心配しなくても大丈夫。なんともないよ」
「でもあんた」
「本当は自分でも結構驚いてる。もっとビビったり、最悪吐くんじゃねえかって思ってた。でもそんなこと全くなかったよ」
それはきっと一人じゃなかったからだ。
弱いくせに誰よりも友人思いなあいつがいてくれたから、俺は一歩踏み出せたんだと思う。
それとは別に、あいつにも一度訊かれた疑問をここで氷解したいという気持ちになった。自分がとんでもなく薄情な人間だと思い始めてきたからだ。
「なあ姉貴。俺さ、母さんが病気で、その、後が短いって知った時とか、あと実際に会ってみた時とか。特別何か感じなかったんだ。そうか、とは思ったけど、だからってそれ以上の感情は生まれなくて。いや生まれないって言ったらそれは嘘だけど、だからって泣くとかそういうのは全然なくてさ」
俺は薄情なのだろうか。
そういう疑問を姉貴にぶつけると、彼女は困った顔をしながら、それでも俺の質問に答えてくれる。
「薄情なんかじゃないよ。正直ね、私も複雑よ。娘としてはそりゃ悲しまなければいけないものだけど。何年も前に離婚していて、そして母さんにはもう別の家庭も築いてる。そういうところが素直に感じ取れないところなのかなとか、ね」
テーブルの上で手を組んで親指同士を回すようにこすり合わせる。それは姉貴が言いにくいことを言う時の癖だった。
「私たちは父さんが死んでから今まで二人で生きてきたから。もう他人なのよ母さんは。だからじゃないかなと思うんだけど、この考えをあなたにも押し付けるつもりはないわ」
姉貴の気遣いは嬉しい。俺は母さんに凄くなついていたから。
しかしそんな配慮は無用だ。逆に俺はすっきりした気分だった。そうか、もう他人なのか。公麿の前で吐き出した言葉でもあまり自身は持てなかった。まだどこかで信じていた部分があったからかもしれない。
その幻想をかき消してくれる言葉が俺には必要だったのだろう。
「うん。もう大丈夫そうだよ」
一言そういうと、姉貴は静かに「うん」といい、空いた俺の湯飲みにお茶を足してくれた。
「母さんが何を考えていたかなんて私にも分からない部分は多いわ。でも今日でもうここには来ないと言っていたわ。向こうの家でも随分心配をかけたみたいだし」
「そうか。いやでもそれをこっちに言われても困るんだけど」
「まあ、ねえ」
笑うに笑えない微妙な間が生まれた。誤魔化すようにお茶をすすると、姉貴が思い出したかのように「キミちゃんにもお礼を言わなきゃいけないわね」とつぶやいた。お茶を噴出した。
「ちょ、何よいきなり汚いわね!」
「うえ、ごほっげほっ、ちょ、ごめん」
テーブルいっぱいに吹きこぼしたのを姉貴が持ってきた台ふきでふき取る俺を見て、姉貴がうっすら目を細めた。
「なんかあった?」
「なんかって何が」
「キミちゃんと」
椅子に足を引っかけて転んだ。
布巾を水で洗おうと立ち上がった際だった。
起き上がっている最中の姉貴の無言が耳に痛い。姉貴の方を見るのが怖い。
「半分冗談のつもりだったんだけど」
「何がよ」
「ここまできてその誤魔化しがきくと本気で思ってないでしょうね」
布巾を絞りながら黙る。まずいな。何がまずいか具体的に説明することはできないがこれは非常にまずい事態だ。
「そういえばお母さんが正義に会ったときに隣に綺麗な女の子がいたって言っていたわね。正義の彼女だと思ってたみたいだけどそれキミちゃんでしょ。うん、あの子にしか母さんの事話してないからやっぱりそうよ」
「姉貴は探偵にでもなった方がいいよ」
「今の事務職で手一杯よ。それよりそうか、そうよね。その場にキミちゃんが居たなら仕方ないわよね」
姉貴はどこか納得するように頷いた。俺はそれとは別に姉貴が妙な勘違いをしないように先に釘を刺しておく必要があった。
「姉貴あれだろ、公麿に母さんの話した時俺にそれを伝えるかどうかの判断を投げたみたいじゃん。結果的に俺はどうにもならなかったけどさ、仮に俺を母さんに会わせて俺がまた変な事に成ったらどうしようっていうのは悩んでたみたいだからその点で公麿を責めるとかはやめてくれよ」
あいつはあれで気にするタイプだから、こういうことはしっかり言っておく必要がある。
だが、姉貴は俺の発言にこいつは何を言っているのだと言わんばかりに胡乱げな視線をよこしてきやがった。
「あんた馬鹿じゃないの? なんで私がキミちゃん責めるのよ。むしろ感謝しかないわ」
「感謝、なんで?」
俺の中でも答えは浮かんでいたが、確認のために聞いてみる。さっきから姉貴の呆れた視線が精神的にきつい。
姉貴は息を吐き、俺から視線を外し、昔を懐かしむように目を細めた。
「あんたのことでさ。お母さんの事はできるだけあんたから遠ざけるべきだと思っていた。それがあんたのためになるって思ってたわ。でもあんたはもう高校生なのよね。まるきり子供じゃないしこれからのあんたの人生を考えたときどっちが正しいのかなんてまで考えてなかったのかもしれない。確かに今回の結果はたまたま運がよかったからなのかもしれないけど、うまくいかなかったとしても私はキミちゃんを責めれなかったわ。あんたの事を本気で考えてくれた結果だもの、それって」
「いや、そんな重いもんなのかなって」
肉親からそういうことを言われると無条件で照れてしまう。鼻の頭を掻く。
「考えすぎなのかもね。まあそれはそれとしてなんだけど」
と、お茶をすする姉貴が切り出した。なんだなんだ、姉のこの話はここからが本番ですとでも言いたげな雰囲気は。
「改めて聞くけどキミちゃんと何があったの?」
「なにもねえよ」
「何よその用意してましたみたいな回答速度」
実際用意してたからな。
「とうとう付き合うようになったわけ」
お茶を含んでいなくてよかった。口に入れていたら確実にまた噴出していた。
「な、なに言ってんだ姉貴。んなわけねえだろ」
「そうなの? お似合いだと思うけど」
「いやいやいや。あいつ元男だぞ。んなわけあるかって」
「関係ないでしょ。今女の子なんだし。ていうか私は少なくともあんたはあの子の事好きなんだと思ってたけど。違うの?」
無言は肯定を示す。
俺は熱くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。何かうまい誤魔化しを考えたが何も浮かばず断念する。その隙を姉貴は逃さない。
「誰もあんたを責めないわよ。あれだけ可愛い子がいつもあんたのこと考えて動いてくれるんだもの。女の私でも抱きしめてわしゃわしゃ撫でまわしたいわ」
「あいつは犬かよ」
姉貴の軽い冗談に少し笑ったが、俺の気持ちは落ち着かなかった。
「素直に認められないのはあの子が男だったから?」
「そうじゃない。それも関係あるっちゃあるけど」
俺はあいつの好意を利用しているんじゃないかと、そういう気持ちがないわけじゃないからだ。
男だった時、人見知りのあいつに話しかける奴は俺くらいだった。無視されたらそれでいいやって軽い気持ちだったからあいつの一見冷たいように見える反応にも慣れた。むしろあいつに話しかけている時は周りの奴らが寄ってこないから便利だなくらいに思っていた。
あいつが俺に懐くのは予想外と言えばそうだったけど、それ以上にあいつといることが俺も楽になるなんて思っていなくて、近づいた動機が動機なだけにだんだん心苦しく思うようになっていた。
俺は暇つぶしだったり、人除けだったり、自分の気さくなキャラというイメージの保持のためにあいつと仲良くしようとしていたのに対し、あいつはただ友達が欲しいだけだった。
あいつが求めているのは異性との愛情なんかじゃない。
同性の友情だ。
それがあいつと長く接する間で俺が分かったことだ。それは女になっても、いやむしろ女になってからの方が顕著に感じた。
『お前は俺の事をそんな目で見ないよな。他の奴とは違うんだよな』
被害妄想と言えばそれまでだ。しかし俺がクラスであいつ以外の友人たちと話している時に遠くから感じるあいつの視線が、時々すがるようになっていたのを俺は感じていた。
「あいつを裏切ることはできないよ」
これが俺の答えだ。
今の公麿が男子にあり得ないくらいモテているのは知っている。クラス合宿を筆頭に恐ろしいほどのやっかみを男子連中からうけているからだ。
でもだからこそ、俺はあいつの期待にこたえなければならない。俺はあいつの一番の親友でなければならない。
「本当にそうなのかなあ」
俺の意見を一通り聞き終えた後の姉貴の感想だ。
そうに決まってるだろ。
俺は軽く笑ってしめた。
だって、そうじゃなかったら俺はどうすればいいのだろう。
次の日学校に行くと公麿の姿がなかった。
待ち合わせの場所にもなかなか来なかったのでLineで一言告げてから先に行ったのだが、教室についてもあいつの姿は見えない。既読もつかないし風邪かとも思って裕子に聞いてみたがあいつも知らんという。
昨日の一件があっただけに、公麿が来ていないことに妙な胸騒ぎを覚えたがここで何かできるわけでもない。
一時間目が過ぎても公麿は姿を現さなかった。
これはおそらく病気で欠席だなと思った二時間目の途中、教室の後ろの扉が開いた。
公麿か? そう思い振り返り、硬直した。
「すいません、遅刻しました」
公麿には違いない。
だがクラスメイト全員がその姿に疑問符と驚嘆府を頭に浮かべているだろう。かくいう俺もそうだ。何があったんだこいつ。
姿だけを見ればどこも違和感はない。
どころか見慣れた姿であるはずだ。
だがそれはもう二度と見ることのできないはずの姿で、それ故に違和感がある。
(そういえば、あの時はそんなに短かったんだな)
思わず俺はそんな感想を抱いた。それがこの場においてやや間の抜けた感想であることは重々承知のつもりだった。
「公麿、あんたそれどういうつもりよ」
授業もお構いなく裕子が立ち上がり、公麿の肩を掴んだ。
対する公麿は取り立てて驚くこともなく、
「普通じゃん。だって俺“男”だぜ」
髪を切り、男の制服に身を包んだ公麿は確かにそう言った