学校から家に一目散に帰ってくる。この一目散って言葉が今の自分を表すちょうどいい表現だと思う。
一目見ることなく散るように去る。
本当の意味とか語源とかは分からない。でもなんとなくそんな気がしている。
珍しく家に帰っても誰もいなかった。ゆかりはまだ学校だから分かるが、ほかの家族がこの時間にいないのは珍しい。
でも都合もいい。
誰もいないとわかっているが、いつものように音を極力出さずに自分の部屋を開け、ゆっくりと扉のカギを占めた。
「はああ~」
いつもの癖で息を吐いた。姿見の前に立って、頭のウィッグを取った。
ネットで締め付けられて新種のメロンみたいな模様がいまだにちょっと笑える。
「癖になってないかな」
ネットを取って頭を振る。ハラリと肩口まで髪の毛が落ち、籠った熱気を取るように髪を揉んだ。
「うん、いい感じ」
あの日、自暴自棄になって断髪を試みた日を思い出す。
『公麿! 公麿!?』
鬼気迫る表情で自分の名前を呼ぶ母親の姿を見たのはあれが初めてだった。
次の日目が覚めると、家族が全員そろってリビングで待っていた。
『公麿さん。話があります』
お母さんが口火を切った。
今日の学校は休んでいいという事を先に言い、昨日“私”の身に何が起こったのかを詳しく説明するように言った。
“私”自身何が起こったのかよくわかっていない。だから何も言えずにいるとゆかりが泣き出した。
お母さんも困ったように、どうしたらいいのかわからない顔をしたので、“私”も不安になった。
『安心しなさい公麿。何も不安がることはない』
お父さんが側に来て頭をゆっくり撫でた。いつもなら強引にするのに、その日は特に優しかったので思わず泣きそうになってしまった。
それから“私”が学校に行くとき学生服を引っ張り出してきても両親は何も言わなかった。ただ不揃いな髪を気にして、お兄ちゃんが短い髪のウィッグを買ってきてくれたのでそれをつけて学校に行くようになった。
最初はワイワイうるさかったクラスメイトも、いつの間にか静かになった。
荒神さんが何か言ってくれたみたいだ。
荒神さんと言えば、彼女はとても親切だ。
あまり馴染みがないのに“俺”にも親切にしてくれる。ただいきなり下の名前で呼ばれるのでちょっと戸惑ってしまう。女子に、しかも美人な女子に名前で呼ばれたら照れてしまうのだ。それは彼女の友達の楠さんや柊さんにも言えることだ。
“俺”が困っているのを察したからか、だんだん彼女たちも無理な距離の詰め方をしなくなったが、始めは本当に困ったものだった。
平等橋はそういう時もっと困った顔をする。
そうだ、平等橋だ。あいつは最近変だ。
ことあるごとに“俺”の事を女だと言ってくる。意味が分からない。
良いやつで、唯一の友達なんだけど変なのが玉に瑕だ。
最近学校があまり面白くない。
何故か体育の授業はいつも見学だし、トイレも職員室を使えと言われる。他にもクラスメイトからなんだか腫物を扱うような扱いを受ける。どうしてだろうか。
そういった不安をお母さんに話すと、お母さんは海外に一緒についてくるかと転校を提案してきた。
転校か。
真っ先に頭に浮かんだのは平等橋だった。
あいつと離れるのは寂しいな。
それを考えた瞬間、体が折れ曲がるほど苦しくなった。病気になった痛みとかじゃない。締め付けられるような寂しい痛みだった。
お母さんは考えておきなさいと優しく言った。それ以来ずっとぐらぐら“私”の心は揺れている。
学生服とシャツを脱ぐと、ここ二週間ですっかり見慣れたさらしが姿を見せる。
初めのうちはズレて休み時間の度にトイレに入って確認したりしたものだが、ほぼ毎日つけると慣れたものだ。
これもお兄ちゃんが買って来てくれたもので、変えも含めて今四枚のさらしが我が家には存在する。
さらしの巻き方なんて今まで生きて来て知る由もなかったが、インターネットで動画を見て何とか形にすることが出来た。
胸を潰すことが出来るので感動するが、凄く窮屈なので帰ってからこれを外すのが地味に一日の楽しみだったりする。
しかし楽しみはこれだけではじゃない。
本棚の上に置いている化粧ポーチを取る。
汗をかいていないか確認して、下地を作っていく。化粧のやり方は誰から教わったんだか忘れてしまったが、順番を間違えかけると『それじゃ全然乗らないよマロちん』と言う声を思い出すので今のところミスはない。マロちんってなんだろうと思うけど。
「うんできた。今日のはうまくいったぞ」
クローゼットを開けて、中から長髪のウィッグを取り出しつける。
「あ、ネットつけてな……もういっかこのままで」
幸い地毛と色は殆ど変わらない。ちょっと見えても問題はないだろう。
「お次は何を着よっかなー。ワンピは、さすがにもう寒いよね。なんで買っちゃたんだろうこれ……バーゲンだったからだ。思い出した……」
たまたま一人で出歩いていたらシーズンオフという事で格安で売っていたのを調子に乗って買ってしまったのだ。まだ暑いから全然着れると勢い込んだものの、その後一週間で一気に気温が落ちた。
「まあこれかな」
厚手の臙脂のボルドーニットを手に取り、ベージュのロングスカートを履く。少し背伸びした格好だが案外悪くない。
クローゼットの下段からブーツを取り出す。なんだかんだでこれが一番高かったよなーと思いながら手に取り、ゆっくりと部屋を出た。
すぐに準備をしたため、家の誰かが帰ってきた気配はない。しかし玄関で鉢合わせるわけにはいかないので、念には念を入れて確認をした後家を出た。
鍵を閉めた後は小走りで家から離れる。200メートルくらいいったところでようやく緊張を解いた。
「はー、いつやっても緊張するねこれ」
普段はお母さんとお父さん、ついでに隣の部屋にお兄ちゃんがいるから大変だ。お母さんは若干気付いている節があるけど、お父さんとお兄ちゃんにばれるわけにはいかない。なんでなのか理由はちょっと説明できないが。
最近化粧をして街に出ることにハマっている。
字面に起こすとどういうことだと混乱を招きそうだ。もっと言うと、女の子の姿で羽を伸ばすのが気持ちいいといったところだろうか。
あの日から私は自分の性について理性とは離れたどこかで自分はどうしようもなく女であるという事を自覚させられてしまった。
気持ちの上では私は男だった。学校には学生服を着る。髪の毛は短くする。女の子は興味はあるけどちょっと苦手。昔の綾峰公麿はこんな感じだった。だから学校ではこれでいかなければならない。そうでなければ綾峰公麿ではないから。
でも学校を離れるとその縛りはなくなってしまう。少なくとも、体はそう認識するみたいだ。
蒸れるウィッグを外し、きつく縛ったさらしを外す。
自己主張するように盛り上がった胸が、丸みを帯びた体が、自分が女であると主張する。
押さえつければつけるほど自分が女であると自覚してしまった。
気づいてしまうと、どうして学校外でそれを押さえつける必要があるのかと、逆に解放したがる自分がいた。
女の子らしい服を着て、化粧して、街を歩く。
それが楽しいと感じるという事は、自分が間違いなく女であるという事を肯定していた。男でも感じるかもしれないが、私は男の時はそんなこと思ったことはなかったから、私の中での変化と言う意味でここはとらえることにした。
自分が女だと思うと、今までかたくなに守ってきた人の呼び方も違和感を覚えるようになった。
『俺』は『私』に。
『お袋』は『お母さん』に。
そういった言葉遣いも変わっていった。
でも学校の中では別だ。
だって学校では『私』は『俺』なのだから。なんでそうなのかはわからないけど、そうしないとおかしなことになってしまうからだ。……それ以上は私もよくわからない。これ以上考えてよかった試しがないし、考えない方がいいと思うからだ。
化粧品を買った。服を、バッグを買った。下着も買った。
今まで女性の象徴として避けてきたものを積極的に見て行った。
お年玉とか小遣いがすごい勢いで減っていったけど後悔はしていない。
洒落た、と自分では思っているバッグをふるふる振って駅まで向かう。ここまでくれば家族に会うこともないだろう。
この時間は地元の高校生を中心に駅がごった返す。特に駅の近くのコンビニでたむろする男子高校生の集団は厄介極まりない。
今日は何かあるのか、それに加え一般の人もいて人通りが多かった。
時間ずらせばよかったかなーと思いつつ考え事をしていたのが悪かった。
「でえっ!?」
何かにつんのめって転んでしまった。
何が起こった!? と確認をすると、排水溝の枠にヒールが突き刺さっていた。嘘だろ。
「えぇ……」
冗談だよね。さーっと顔が青くなる。まさか買って一月もたっていないブーツのヒールが取れた?
「……あの、大丈夫ですか?」
困り果てて立ち往生していると(厳密には座ったままだけど)、見知らぬ人から声を掛けられた。側で事故が起こっても我関せずと無視していくような現代社会においてなんて親切な人がいたのだろう。感激しながら、「実はブーツが……」固まった。
「大丈夫ですか」
目の前に平等橋がいた。
声を掛けてきた親切な人は平等橋だった。