朝目覚めると女になっていた。
「……え?」
体を起こした時手首を捻った。自分の手首はここまで細かっただろうかと疑問を抱きながらなんとか上体を起こす。そこで無性に上半身が苦しく感じられた。
息ができないことはないが、胸の上で何かを強く押し付けられている苦しみ。
堪らず上のパジャマのボタンを緩めて驚愕させられた。
「……嘘だろ」
首から二つボタンを外すと、弾けるようにそれが姿を現した。
先端は自分が風呂場でよく見る。だがここまで膨れ上がった状態を果たして見たことがあっただろうか。
俺に何の知識がなければ、寝ている間に胸部に物凄い量の膿が溜まったのかと青ざめただろう。
「まさか、『花婿の呪い』……?」
俺が別の意味で青ざめたのは、これが病気ではないことが分かっていたからだ。
命に係わる病ではない。
だが自分の身に絶対に起こってほしくないものだった。
「
「ま、待って姉さん!」
まだ混乱は続いていたが、自分を起こしにやってきた姉に今の姿を見られるわけにはいかなかった。襖に手を掛けられたらすぐにバレてしまう。布団で上半身を隠し、緊張で滝のような汗が流れた。
「なあに、風邪でも引いたのサク?」
「そ、そういうわけじゃなくて」
「でも声変ね。あなたやっぱり風邪なんじゃ」
「あ、朝勃ちしてるから!」
このままでは確実に部屋に入られる。それを防ぐために最大のカードを切った。
「……そう。分かったわ。早く来なさいね」
「う、うん」
姉さんはそう言うと俺の部屋に入ることなく立ち去った。同時に俺の中の大切なものが一つ砕けた音がした。姉さんの声は凄く冷たく怖かった。
一応の難は去った、が。
「……どうしよう、これ」
ふにふにと自分の胸部を触り、俺は途方に暮れた。
我が家は曰く平安時代から続く名家だそうだ。
室町、江戸、明治、昭和と手を変え形を変え、表舞台に立つことはなくもその名を代々語り継がせることを迎えて千数百年。誠に信じがたいことだが、倉庫に残る家系図を見れば驚くほど遡れるのだからあながち嘘とも言い切れない。
今ではすっかり凋落の影が見える我が家だが、数代前までは優れた商売人の家として名を馳せていた。むろん今も事業自体は続いているが、この不景気の波に押され事業の維持が手一杯と言ったところだ。
そんな古くから続くことだけが取り柄の我が家だが、実はこの家にとても胡散臭い伝承が残されている。
『花婿の呪い』
そのような名で語り継がれる曰あり気なそれは何かというと、一言で言うならば男から女に性転換するという呪いだ。
この呪いと我が家には実に密接に関わったとある話があるのだが、今は割愛する。
とにかく、そんな呪いがあるという事自体は俺も幼い頃より父親に教えられてきた。
男から女に変わるなんて奇天烈なこと到底信じられるものでもない。話半分でいつも聞いていたが、生まれてからこの方ことある毎に語って来るのですっかり耳にタコが出来てしまった。
呪いと銘打っているだけあって、この家では『花婿の呪い』は忌避されている。
男から女に変わること自体はこの現代においても多少ショッキングなことではあるが受け入れることはできることだと思う。
問題は別にあるという事だ。
我が家で生まれて来る男が女へと性転換した場合、家の存続に関わるほど経済基盤がガタガタになってしまうらしいのだ。
記録に残っている中で近いものだと、百年前に一度。五十年前に一度。三十年前に一度起こっているが、何れもお家存続の危機に陥ったらしい。この場合の存続とは跡継ぎではなく破産という意味だ。
呪いによって生まれた子供は言わば貧乏神のような存在となってしまうのだろう。
それ故に我が家では呪いに掛った子どもは即刻処分の対象となってきた。それこそはるか昔は処刑といったことも平気で行われていたみたいだが、近年の記録を見ると家を追い出されるくらいで済んでいるらしい。家を追い出される事を「くらい」と表現しても良いのかどうかは微妙なところだが。
どちらにせよ、呪いに掛るとこの家で生きていくことは限りなく難しくなる。
「うぅ、ってててて」
何度目になるか分からない腹痛で、俺は電柱に手を当て立ち止まった。さっきから緊張で腹痛が止まらない。
今朝は朝食を食べずに、家から逃げるように登校した。服の上からでも胸が膨らんでいることがはっきりわかったからだ。家の人間に見られたらまず呪いを連想させる。
学校に着いたらすぐ体調が悪いと保健室へ逃げ込み(実際今朝の俺は精神的な疲労も含めてかなり体調が悪く見えていたため疑われなかった)、誰に見られることもなく昼前に早退して帰って来ていた。
その道中何度も立ち止まり考えてしまうのだ。
呪いの事がばれたらどうしよう、と。
念のためこの胸が物凄い量の膿が溜まったか、高熱のせいで腫れあがっただけかという一縷の希望を掛けてみたが、股間を確認した時そんな都合のいい話はないと絶望させられた。
父さんはどう思うだろう。母さんは、姉さんは。
この家で呪いの事を肯定的に捉えている人間はいない。
直接血のつながっている家族以外にも、親戚一同が入れ替えたちかえ我が家には暮らしている。一般的な家庭とは違うかもしれないが、俺は親戚が常に十人単位で側にいる生活をずっと送ってきた。それらすべてが俺を嫌な目で見てきたとしたらどうしよう。
想像しただけで足がすくむ。吐き気が込み上げてくる。
元来心配性であるという自覚はある。実際は女になってしまったと言っても、ただ心配されておしまいという事も十分あり得る。なにせもう三十年近くも呪いは起こっていなかったのだ。その間日本の情勢は大きく変わった。高度経済成長を超え、先進国の仲間入りを果たした現在の日本のもとで、平安時代から続く呪いのせいで家が傾く、なんていうわけもないだろう。
そんな楽観、通用すると一度でも思った自分が馬鹿だった。
「咲弥。お前女になったな」
「……」
三十人近くの観衆が取り囲む中、俺は父さんと対面して座っていた。
学校から帰ると、家には見たこともないような量の車が家の庭に何十台と止まっていた。俺が帰ったと分かるや否や、お手伝いさんが「坊ちゃんがお戻りになられました!」と大声で叫び、俺を連れて家の奥の大広間へと通された。普段親戚一同が会する時以外ほとんど使ったことのない部屋だ。それだけでこれはもうただ事ではないことが分かった。
部屋にはスーツを着た大人たちが何十人とおり、俺が部屋に入った瞬間視線が一気に集まった。
その中に誰一人好意的な色は含まれていなかった。
考えてみて欲しい。
自分の父親程年の離れた男たちに訝し気な目で見つめられる状況を。
部屋に入っただけで吐き気が込み上げてきたが、何とかそれは耐えた。
中央には父さんがいた。
普段着ないような背広に身を固め、険しい顔で俺を見ている。その横には顔を伏せた母さんと、姉さんがいた。
俺が女になった事はとっくにばれているようだった。
「答えろ咲弥」
父さんの声に親としての甘さは一切感じられなかった。
犯罪者を取り締まる声と表現すれば的確かもしれない。
顔を上げて見れば、怒りで真っ赤に充血した父親がそこにいた。
がちがちと耳の奥で固いものが打ち付ける音が聞こえる。自分の奥歯の音だと気づくのに時間がかかった。
だんだん周囲が騒がしくなった。
『聞いたか。本家からついに出たぞ』
『最近事業が安定しないと思っていたんだ』
『この家はもう駄目だ。咲弥さえ生れてこなければ』
今まで優しかった親戚が自分の事を外敵のように見てくる恐怖。
「黙れ貴様ら!」
騒がしくなった周囲を一喝する父親に、俺は一瞬の希望を見た。
「こいつさえいなくなれば会社は元に戻る。そういう事であろうが!」
言葉を失った。
父親は俺の事をかばったのではなかった。
自分の、家の保身の為周囲を黙らせたに過ぎなかった。そしてそれは、俺をこの家から追い出すという方向ですでに結論付けているように聞こえた。
「答えろ咲弥! いつだ! いつからお前は女になっていた!」
「ぃ、い……っ」
「はっきり答えんか貴様!」
立ち上がり、俺の胸倉を掴む父親。
俺は目から涙が溢れ、喉からしゃくり上げる様に嗚咽がこぼれた。
「やめて父さん!」
「離さんか! こいつが! こいつがいたから!」
堪らず姉さんが父親を止めようと体に屈みつくが、俺を蹴る足までは止まらなかった。
「やめて、やめて!」
「こいつが、こいつが!」
「……なさい! ごめんさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
蹴られながら何度も俺は謝罪した。
顔を蹴られ、背を蹴られ、腕を蹴られ、腹を蹴られ。
今まで父親だと思っていた人物に怒りのままに蹴られ続けた。
体の痛みと共に目が覚めた。
「……っ」
息を吸い込もうとすると胸が痛み、息を吐こうと口を開くと唇が切れた。
体は痛みでピクリとも動かない。
それよりもここはどこだ。
見慣れない布団からなんとか起き上がり、部屋を出る。キッチンと風呂とトイレが短い廊下を挟んであった。
どこかのアパートに俺はいるようだった。
「……?」
冷蔵庫に封筒が貼りつけてあった。
中を開くと、二枚の便せんがあった。
初めは何が書かれているのかとただ気になって読んでいたが、進めていくにつれ目の前が真っ暗になっていった。
「は、はは」
そこにはこう記されていた。
『お前はもううちの子供ではない』
「はははは、は!!」
『うちの子供であるという戸籍を抹消した。このアパートはせめてもの慈悲であり、それ以外の生活費はすべて自分で賄え』
「はははははははははは!!」
『二度と家に帰って来るな』
手紙をびりびりに破き。俺は乾いた笑いが止まらなかった。
世界中の時間が止まった感覚があった。
ふと、風呂場にある鏡に自分が写った。
男の時よりもずっと小さく見える頭。大きな目。喉仏の消えた細い首。一回り体は小さくなっていた。
衝動的にそいつを殴りつけた。
「死ね! 死ね! 死ね!」
幾度も殴りつけ、放射状に罅が入り、鏡面が真っ赤に染まっても殴り続けた。
「……っぐ、あ゛っ、ぐ……あ、あぁあ゛あ゛あ゛ぁぁあ……!」
涙と悔しさと、痛みと悲しさ。色々な感情がない交ぜになって何も見えなくなったこの日を、俺は生涯忘れない。