熱で気持ちが弱っていた自覚はある。
部屋の中で一人だと思うと余計にみじめな気分になって、去年なら、とか思って泣きそうになっていたからだ。
そんな中わざわざ訪ねてくる人がいたら、その人が優しくしてくれたら、つい帰りを止めてしまうのは人間としての性ではないだろうか。
これはつまり生理現象だ。
反対に、弱っていたところに付け込んできたという至極卑怯な手段にやられたと言い換えてもいい。
「だから俺は悪くない」
「なんか言ったか?」
「別に」
綾峰の自転車の荷台から降りると、あいつは「こっちだよ」と先導した。
実家から近いところでバイト先を選んだといつだったか綾峰は言っていた。俺のアパートからそう遠くない場所に彼の家はあった。それでもコンビニを挟んで反対方向にあったので、自転車で大体三十分ほど。綾峰の健脚でそれだから俺の足じゃもう少しかかるだろう。
綾峰が連れてきた場所は昔からの日本家屋が並ぶ住宅街で、その一つが綾峰の家だった。
裏手に自転車を止めると、ポケットから家の鍵をまさぐる綾峰。俺はその間に綾峰の家の庭とか、門の様子とかを何気なく見ていた。
「珍しいか? こういう家は」
「いや。うちも家がこんな感じだったから」
うっかり零れた。
思わず口を押えて綾峰を振り返るが、彼は「ふーん、そうか」と特に気にした様子もなかった。
この姿になってから、他人に実家のことを話したことはない。
ないとは思っているけれど、もし同じ地方出身の人がいたらすぐ俺が誰なのか分かるからだ。地元じゃ俺の家は有名だ。古くから続く家系だし、田舎という事もあってコミュニティが狭い。三つも県を跨いで俺を追いやったんだから、その辺りの心配は向こうの方が強いだろうが。
もう一つは、意地だ。
二度と帰って来るなと手紙にあったように、俺はもうあの家の人間じゃない。
だから自分がもうあの場所を実家だと、たとえ言葉の上で相手に説明することすらそこにまだ未練があるように思えて嫌だった。
玄関を潜ると微かに線香の匂いがした。実家でもしょっちゅう法事やなんやで家の匂いがこれに包まれていたので、俺は一瞬険しい顔をつくった。
「この匂いダメか?」
「……別に、そんなことないけど」
綾峰はちょっと待ってろと言うと、俺を残して奥へ行ってしまった。
体が怠かったので上がり框に腰を下ろし、壁に背を預けているとどこかから視線を感じた。
主を探ってみると、すぐ近くにある階段のちょうど五段目くらいからひっそりと身を潜めている黒い影。
猫にしては大きい。
「こんなとこで何してんだ桜」
「うぉおお兄ちゃん!?」
ぬっと現れた綾峰に驚いたのか、そのまま足を踏み外してどどどどっと俺のすぐ近くまで転げ落ちてきた。
「何すんだ!」
「転んだのはお前だろ」
「お兄ちゃんが急に驚かすからだい!」
元気よく立ち上がると、綾峰の襟元を締め上げた。女の子にしては背が高い。綾峰の妹だろうか。
相手の対応にも慣れているようで、綾峰は「わかったから」と激高する相手にあくまで冷静だ。というか完全に呆れている様子が却って面白い。
「大体お兄ちゃんは!」
「おい、今はそれよりこいつ案内したいんだ。後にしてくれるか?」
「そうだ! それだよ。お兄ちゃんがいきなり人を連れて来るなんて珍しいと思ったら――」
思い出したように俺の方に向き直る綾峰の妹(推定)。その目が俺を捉えたとき大きく見開かれた。
「え、女の人!? うそ、マジか! おばあちゃん!! お兄ちゃんが女連れ込んできたぁああああ!!」
「ええい黙れ度阿呆!!」
本気で拳骨をくれる綾峰が珍しく、俺は終始目を丸くしていた。
「なんか現実じゃないみたい」
布団のから顔をだしてぽつりと口に出せば、ますます実感がわかなくなった。
包まった布団からは綾峰の匂いがした。あいつの家の布団なんだから、そりゃ匂いくらいするさ。分かっていてもどうにも落ち着かない。他人の家に泊まるなんて経験今までしたことがなかったからだ。
綾峰が帰ってきた後、彼の隣でけたたましく騒ぎ立てる彼の妹(その後正式に妹であると紹介された)の桜ちゃんと客間に通された。そこに家主のおばあさんがいた。
「あら、いらっしゃい」
部屋には布団が一組用意されており、明らかに急いで準備してくれたであろうことは想像がついた。
俺たちが部屋に入ると、おばあさんは柔和そうに微笑み「ゆっくりしていってくださいね」と言った。
「俺たちのばあさんだ。ばあさん、こっちが連絡した」
「おばあちゃん。この人女の人だよ。しかも超美人。めっちゃもっさい恰好してるけどヤバいくらい美人だったよ!」
「お前はもう風呂入って寝ろバカ」
桜ちゃんが俺を指さして嬉々として語ると、綾峰は鬱陶しそうに彼女を追いだした。
「桜さんが初対面の人に懐くなんて珍しいですね」
「あのバカ。相手は病人だってのに」
綾峰は心底しょうがないなと言いたげにがしがし頭を掻いた。
「ごめんなさいね騒がしくしてしまって。風邪を引いているのでしょう? 足元にあんかも仕込んでおきましたからもう今日はお休みなさい。明日、元気になったらまたお話しましょう」
おばあさんに布団に押し込まれ、それからすぐ部屋の電気が消えた。
おばあさんが言っていた『あんか』が何なのかよくわかっていなかったけど、布団の中に入ってすぐに分かった。足元を温める電気枕みたいなものだ。これのおかげで、冬場の布団でも入った瞬間冷っとすることがなかった。熱くなったらスイッチを切ったらいいらしい。
慣れない人の家なのに、俺はすぐに瞼を落とした。
尿意で目が覚めた。
体をよじってスマホを着ければ、深夜1時。まだ眠りについて数時間もたっていない。体調を崩した日は眠りが浅くなるが、こう何度も頻繁に目が覚めてはそれだけで精神的に疲れるというものだ。
尿意に逆らって布団にくるまっていても、だんだんそれが気になって眠れなくなるのは明らかだ。
諦めて布団から出ると、意外なことにふらつかずに立てた。体がかなり回復していることにささやかな喜びを感じ、寝る前に綾峰から教わったトイレまで向かう。
廊下に出るとひやっとした空気が背筋を撫でた。身震いしながらさっさとトイレを済まそうと向かっていると、どこかで人の話し声が聞こえた。
こんな時間まで起きているのだろうかと、なんとなしに光の漏れる部屋の前まで来る。
予想通り一人は綾峰だった。会話の内容までは聞こえないが、なにやらぼそぼそ話している。
『藤原さんと言いましたね。どうして彼女をうちまで連れてきたんですか?』
襖に掛けた手が止まった。
相手は綾峰だけではなかった。あのおばあさんも一緒だったのだ。
カクテルパーティ効果というものがある。
カクテルパーティのように、大勢の人々がいる会話の中でも自分の興味のある会話や、自分の名前などは自然と聞き取ることが出来ることをそのように言うらしいのだが、まさしく今の俺はそうだった。さっきまで中身が分からなかった綾峰の声が、はっきりと意味のある言葉として耳に届く。
『もしかして怒ってる?』
『まさか。でも相手は女性ですし、まして今までそんなこと一度もなかったでしょう。犬猫とは違うんですよ?』
『別に拾ったわけじゃない』
とくとくと心臓が脈打つ。この会話を自分が聞いていいものか判断に困ったが、あいにく足が動いてくれない。
『バイトの同僚だと聞きましたが、本当にそれだけですか?』
『やけに食いつくな。ばあさん大概の事は寛容だと思っていたぞ?』
『はぐらかすのはお止めなさい。何度も言うように怒っているわけではないのです。ただ、どうしてあなたが夜中に突然抜け出し、そしてメールで一通一方的に友人を泊めるとだけ送ってきたと思ったらそれが女性。……私も少し混乱していますね』
『断っておくけどあいつと俺は本当にただの同僚だぞ?』
『だから混乱しているというのにこの馬鹿孫は……!?』
呆れと怒りが半々に混じったおばあさんの声。綾峰は慣れているのか特に動じることもなくお茶を啜る音だけが部屋の中に響く。
『どういう人なのですか? 藤原さんは』
『さあ?』
『さあ、って。あなたさあって』
『いや俺もよく知らんからな。自分の事を話すのはあまり好きじゃないみたいだし。ただ色々と複雑な家の事情ってやつがありそうでさ。店長も久々に凄い新人が入ってきたって言ってたし』
そこから綾峰はバイトでの俺の話を中心に語った。
バイトに入ってきたその日から愛想がとても悪かったこと。
仕事は真面目だが、人間関係を築く気がない事。
男性客と女性客とでは対応があまりに違い、バイトの男性陣には特にあたりがきつい事。
どうやら自分はあまり好かれていないこと。
最後の一つは咄嗟に反応しそうになってしまった。「え、どうして」と襖をあけてしまいそうになった。
だけど自分がどうしてそんな行動をとろうと考えてしまったのか自分でも分からなかった。俺が綾峰に取ってきた行動、言動、すべて考えて彼が俺に好かれていると感じるはずがないと思ったからだ。
『それで、わざわざそんな彼女の所まで看病に行ったのはどうしてですか? あなたまさか遂に好きな人ができたんですか』
『いや違う』
俺の肩が跳ね、おばあさんの声が若干喜色ばんだ瞬間に短く否定。俺は微妙な顔のまま固まる。
『前にあいつの家に送っていった時さ、ちょっと部屋の中入ったんだよ。言い方はあれだけど、年頃の女性の部屋には見えなかった。家具らしい家具は机と布団くらいで、後はごみ袋と洗ってない洗濯物の山。だらしないやつなんだなってその時はそれだけしか思わなかった。でも違ったんだ』
一拍置く。
『部屋中真っ暗でさ。電気がついてないんじゃない。じゃあなんでだってベランダまで駆けよったら驚いたよ。窓びっしりに黒い色画用紙が貼ってあったんだ。最初は意味が分からなくてさ。こいつなりのこだわりなのかと思った。だけど部屋からそれ以外に違和感があったんだ』
『なんだい?』
『鏡が一枚もなかったのさ』
「……」
ぎりっと、気が付けば俺は奥歯をかみしめていた。これ以上聞きたくないのに。
『普通どの部屋にも鏡の一枚くらいあるだろ。女性だったら姿見とかあってもおかしくない。この家はそれどころか、洗面所にも鏡がなかったんだ。いや正確にはその跡はあったんだ』
鏡が外された跡が、さ。
重苦しい空気が襖越しにも伝わってきた。
鏡を外したのはこっちにきてすぐの事だ。割れて危なかったというのもあるが、一番の理由はそこじゃない。自分の姿は見るのも苦痛だった。
『思えば出勤してくるときも妙だった。いつもスウェットの上下だし、おしゃれに興味がないんだと思ってた。けど多分そうじゃない。あいつは自分の体を見たくないんじゃないかって、あの家を見て思ったんだ。ベランダのドアに画用紙を貼るのは、きっと夜反射して自分の姿が映らないためだ。それを知っちまったらただ放っとくのはできなくなった。あいつはおそらく人に相談できない大きな悩みを抱えている。でも多分それは誰にも相談できないんだと思う。だから店長から連絡が回ってきたときは考える前に体が動いた。迷惑がられるかもしれねえけど、きっとあいつは風邪で碌なもん食ってねえだろうし、誰も頼らねえだろうし』
『そうかい。じゃあうちに連れてきたのは』
『あんな部屋にいたら治るもんも治らないと勝手に思ったからだよ。全部俺の独断さ』
会話を聞いたのはそこまで。
最後まで聞いていられなかった。
俺は二人に気づかれないように部屋に戻ると、ふらふらと布団を被った。
体が燃えるように熱かった。
尿意はもうどこかへ行っていた。
翌朝目覚めると、洗面所に綾峰がいた。
「よお、調子はどうだ」
「……別に」
昨日の事が脳内にフラッシュバックし、俺は咄嗟に顔をそらした。
「そうか。よく寝れたか?」
しゃこしゃこ歯を磨く綾峰。もう一度別にと答えると、なぜかがはははと笑い出した。何がおかしい。
「そんだけ素っ気ないってことはもう元気ってこった。どれ、熱計らせろ」
「ふ、普通に体温計でいいから!」
ぬっと伸びてきた手を勢いよく叩く。綾峰は目を丸くすると、それもそうかとまた盛大に笑った。こいつはわざとか天然か判断ができない。
「あ、咲弥ちゃん起きたんだ!」
俺たちの騒ぎに気付いたのか、昨日ぶりの桜ちゃんがやってきた。
「桜、お前名前呼びはいきなり無遠慮だろ」
「お兄ちゃんは黙ってて。ね、いいよね咲弥ちゃん?」
「え、あ、うん。いい、けど」
きらきら光る純粋な目で見つめられれば断れない。大方名前は綾峰に聞いたのだろう。初対面の時そういえば名乗った覚えがある。
「じゃあご飯食べよう! 咲弥さんは病み上がりだから、皆と違っておかゆだけどね!」
朝から元気いっぱいな綾峰の妹に手を引かれ、俺は居間へと連れていかれた。
四人で食卓を囲んでいると、綾峰が「お前今日はどうするんだ?」と尋ねてきた。
「どうって、バイト?」
「ああ。熱は下がってたけど店長には大事を取れって言われたんだろ?」
食べる前に計った時36℃8分まで熱は下がっていた。平熱よりはちょっと高いけど、殆ど回復したと言ってもいい。俺は今日はバイトに出るつもりだと伝えると、なぜか綾峰は困ったような顔をした。
「まだ微熱があるし、休んどけよ。ぶり返すぞ」
「でも元気だし」
「どうしてもバイトに出なきゃいけない理由でもあるの?」
俺たちの会話に桜ちゃんが加わってきた。
「理由っていうか、生活かかってるし……」
「そうか……あんまり立ち入るのも良くないってわかってるんだが、そんなに生活厳しいのか?」
この質問が昨日今日あっただけの奴ならその通りだと単純に返しただろう。だが綾峰とはそこそこ長い時間一緒にいるし、なにより昨日の会話を聞いてしまった。
本当の所をいうと、金銭的な不安はほとんどない。
アパート等、光熱費はすべて親が、というか藤原の家が支払っている。俺が稼がなきゃいけないのは俺自身の生活費で、それも贅沢をしなきゃ毎月三万ちょっとで十分満足な生活を送れる。つまり今の俺はオーバーワークをしていることになる。
仕事がしたいってわけじゃない。あの家にいる時間が短ければ短いほどいいと思ってしまうからだ。一人でいるのは孤独だから。
「なんにせよ今日は休んどけよ。風邪は治りかけが一番気をつけなきゃならんし。ついでに泊ってけ」
「え」
最後の一言に露骨に引っかかってしまった。
綾峰はなんだと不思議そうな顔をする。いや、二日連続って聞いてないし、それに他の二人にも何も聞かずにそんな。
「いいじゃんそれ! 泊ってってよ咲弥ちゃん!」
「そうですね。いいんじゃないでしょうか」
桜ちゃん、おばあさんが順に頷いていく。この家の人間はどうなっているんだ。
「い、いやでも悪いし……」
「誰も嫌がっちゃいない。それとも用事でもあるのか?」
「ないけどさぁ」
俺がしどろもどろに応えると、何かに気づいた桜ちゃんが「咲弥ちゃん25日大丈夫なんだ!?」と声を上げた。時間差で驚くのはやめて欲しい。
「夕飯はお鍋なんです。人数が多い方が楽しいですし、ね」
おばあさんがにこやかに笑いかけた。それを断れるほど俺は強情じゃなかった。
年が明けて二月。久しぶりに綾峰とシフトが重なった。
「制服姿珍しい」
「たかが二週間ちょっとだろ」
俺がぼそっと呟くと彼は耳ざとく拾う。そうなんだけどさ。
綾峰は年が明けるとしばらくしてバイトを二週間休んだ。大学のテスト週間に入ったからだ。
その間俺は特に変わらず勤務していたが、やはり隣にこの大男がいるのと安心感が違う。
「藤原ちゃんさー、大ちゃんとなんかあったの?」
「え、いや。別にそんなことないですけど」
「嘘だー。さっきちょっと嬉しそうな顔してたじゃん。綾峰がシフトに入ってるって知った瞬間さー。俺と二人の時はそんなのしないじゃんね?」
バックヤードで荷物を整理していると、リョウタさんがじとっとした目で見てきた。以前クリスマスの日にバイトを変わってもらって以来、このフリーターは妙に俺に馴れ馴れしく接してくる。
「俺がなんかしました?」
ぬっと綾峰が現れると、リョウタさんは「なんもないから、俺レジ戻るわ」と逃げるように出て行った。
「俺がいない間に良太さんと仲良くなったんだな」
「両目腐ってんの? そんなわけないじゃん」
寧ろ最近はちょっと近寄りがたくなっている。あの人明らかに俺の事を意識してる。彼女と別れてまだ一月経っていないだろと声を大にして叫びたい。
「それよりさ、あの」
言いにくそうに言葉を濁すと、綾峰はすぐに察してくれた。
「今日の朝飯は期待できるぞ」
「うそ、何?」
クリスマスを越えて、大きな変化が二つあった。
一つがこれ。
「出る前ばあちゃんが筑前煮大量に作ってたから多分家帰ったら食えるぜ」
「本当? ごぼうあるかな。俺好きなんだ」
「間違いなくそのあたりは入ってるよ」
俺がよしと小さく拳を固めると、綾峰は「根菜でそこまで喜ぶのはお前くらいだな」と笑ってきた。
あの日を境に、俺は定期的に綾峰の家へお邪魔するようになった。
結局25日どころかその次の日も泊り、そろそろバイトに行かなきゃまずいってんでアパートに帰った。でもその日のシフトで綾峰と同じになり、飯有り余ってるから食いに来るか? と誘われたことをきっかけにバイト終わりの日は綾峰の家に寄って帰ることが日課になりつつあった。
これにはおばあさんと桜ちゃんの影響が大きかった。
桜ちゃんはどういうわけか俺の事を非常に気に入ってくれ、いつでも来てくれという姿勢を前面に出してくれた。
そしておばあさんだ。
『いつでもあなたのお布団は用意しておきますからね』
いつだったか忘れたけど、例の如く綾峰にくっついて家に帰るとおばあさんが出迎えてくれた。朝が早いおばあさんと、バイト終わりの俺たちの時間がちょうど重なる。俺たちの朝食の用意をしながらおばあさんが言ったのがこの言葉だった。
朝ごはんをごちそうになるころから、俺は綾峰の家で少し寝てから家に戻り、また仮眠して出勤していた。でも堂々といつでも寝に来ていいと家主に言われたのは初めてだった。
ごはん代も、部屋の掃除もタダじゃない。
そう思って俺は何度も代金を支払おうとしたがおばあさんは頑なに拒んだ。内心やっぱり俺が来るのは迷惑なんだろうかと俺は気後れしつつ、それでも居心地のいい綾峰の家に入り浸ってしまっていた。居心地がいいと思うのは、ここにはいつも人がいたから。桜ちゃんは朝が早いから平日は殆ど会う事がないけれど、おばあさんは玄関をくぐるといつも出迎えてくれた。迎え入れてもらえるという事実に俺は飢えていたのだと思う。
だから、おばあさんがいつでも来ていいと言ってくれた時俺は涙が出るほど嬉しかった。
お金を受け取ってくれなかったのはそれだと商売みたいになってしまうからだと後でおばあさんから聞いた。それじゃあ悪いからと、最近は部屋の掃除や買い物の代行なんかを率先して引き受けている。今じゃアパートにはよっぽどの事がない限り帰ることはない。
「タバコも止めたみたいだし、お前食い意地ばっか張ってるとデブるぞ」
「うるさいなあもう!」
がはははと笑う綾峰の向う脛を蹴っ飛ばすも相手は全くダメージを受けた気配がない。痛む右足をぶらぶらさせて痛みを取っている間に綾峰もレジの方へ帰っていった。
「……」
俺は出口の方へ移動し、こっそりと様子をうかがった。戻ってきた綾峰を発見したリョウタさんが「お前なんか藤原ちゃんと妙に仲良くない?」と絡み、「気のせいですって」と笑いながら躱す綾峰。視線は綾峰を追っていた。
「やばいやばい」
自分の行動が謎過ぎて、俺は急いで離れた。
二つ目の変化がこれ。俺の病気。
近頃妙に綾峰のことを目で追う事が多くなった。
部屋にいる時や、一緒に移動している時、そんで今日は久しぶりにバイトが一緒になってから、ずっと。
別にあいつの顔に虫がついてるとかじゃない。でも気付けばあいつのことを探している自分がいて、正直気持ちが悪い。
今の綾峰を俺はうざいとかキモイとか思っていない。いやうざいんだけど、嫌なうざさじゃないっていうか。
本当に優しい人だと分かってしまった。
がさつだし、馴れ馴れしいし、かなりしつこいところはある。でもその反面人の気持ちをいつも考えてくれていると気づいた。
気づいてしまったらもうあいつを邪険にはできない。
今までひどい事や素っけないことばかり言ってきて虫がいい話って自分でも自覚はしている。でもあいつと一緒にいると落ち着くんだ。
誰に対しての言い訳か知らないが、俺は絶えずそんなことを頭の中で考えながら、でもそれにしたっていつも目で追うっていうのは脳になにかの障害を抱えてしまったのか、なんて思ったり。一緒にいると落ち着くはずなのに、不意に起こすあいつの動作に妙に心臓が高鳴ったり落ち込んだり。これってどういう事だろう。
「おい藤原。休憩長すぎるぞ」
「ひゃい!」
ひょこっと顔を出してくる綾峰。突然の出来事に顔に血液が集まっていく感覚がせりあがって来る。
「サボりか?」
「うっさいバカ!」
最近じゃ顔もまともに見れない。
どういうわけだか恥ずかしい気分だけど、嫌じゃない。
俺はようやく自分の居場所が見つかった気がしていた。
簡単に幸せになれるなんて、どうして思えたんだろう。
それは突然の出来事だった。
いつもの平日の昼間。
洗濯と床掃除を済ませ、おばあさんと昼のワイドショーを見ながらコタツでミカンを剥いていると、店長から電話がかかってきた。
「なにかありましたか?」
電話を切るとおばあさんが少し心配そうに尋ねてくる。きっと俺が緊張で声が堅かったからだろう。
「……ちょっとアパートの方へ行ってきます」
荷物も持たず、おばあさんが俺の名前を呼ぶのも聞かず、俺は駆けるように家を飛びだした。
いつもは綾峰の自転車の後ろに座って通る道を、全速力で走った。
近くまでやってきて、俺は荒くなった息を整えながら階段を上った。
目の前に髪の長い綺麗な女性がいた。
少し前までは見慣れた姿。少し痩せただろうか。
彼女はまだ俺に気づいていない。だから俺から声を掛けた。
「……姉さん」
「サク」
およそ一年ぶりに、俺は自分の部屋の前で姉さんと再会した。