TSしたら友人がおかしくなった   作:玉ねぎ祭り
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ごめんなさい。遅れたにも関わらず案の定5話で収まりませんでした。次で本当に終わりです。


藤原咲弥 ⑤

『さっき店の方から連絡受けてね、どうも君のお姉さんが来たみたい。近いうちに妹を辞めさせるからって言って出て行ったみたいなんだけど、藤原さん心当たりある?』

 店長から電話を受けた時、頭が真っ白になった。

 姉さんが、どうして?

 もう二度と関わることがないと思っていた肉親の情報に気が動転した。その後店長に礼を言うとすぐに綾峰の家を出た。姉さんが俺の働いているところを知っていたことは特に驚かなかった。あの家なら俺がどこで何をしていたかくらい把握していてもおかしくないだろうという事は予測できたからだ。だから次に姉さんが向かうであろう場所も綾峰の家か自分のアパートかのどちらかしかないと思った。ここに来ていないというなら後者に違いない。

 その考えは間違っていなかった。

 

 アパートの階段を上って姉さんの顔を見た時、俺は警戒と共に懐かしさを覚えた。

「サク」

 姉さんが俺を呼ぶ声が昔とまるで変っていなかった。優しくて、弟の俺でもちょっと弟離れが出来ていないんじゃないかなんて思うくらいで、だから彼氏ができないんだと母さんに呆れられて。

 楽しかった記憶が蘇るとどうしても虚しさが胸に去来する。それはもう過去の事だと思い知らされてしまうからだ。

 姉さんは俺の顔を覗き込むと、眉を曇らせた。

「少し痩せた?」

「……姉さんもね」

 まだ一年も経っていないけれど、姉さんの目の下には化粧でも誤魔化せないほど濃い隈が見えた。痩せたというよりやつれた、そんな印象を受けた。

「部屋に入ってゆっくり話したいんだけど、どうかしら」

「なんで姉さんがここに」

 俺は本来の目的を思いだした。どうしてここに姉さんがやってきたんだろう。今更女になった俺に何の用があるというのか。疑問は一気に膨れ上がったが、姉さんの目が碌に見れず言葉が途切れて下を向く。昔は姉さんが相手だとどんなに答えにくいことも問いただせたというのに、女になって気も弱くなったのだろうか。

「……姉さんそれ」

 下げた視線が偶然捉えた。姉の左手の薬指に、見慣れない指輪が嵌っていた。

 姉さんは俺が何を言っているのかすぐに気が付いたらしい。

 ふっと笑みを零す。

「先月籍を入れたの。誠実でとてもいいひとなの」

「そう、おめでとう」

 左手をそっと撫で優し気な表情を浮かべる姉とは対照的に、俺は自分でも分かるほどそっけない返事を返した。

 本当はいい事のはずだ。

 姉さんは常に彼氏が欲しい、結婚がしたいと家で騒いでいた。相手が見つかったというのは本来ならば喜ぶことなのかもしれない。

 事が姉の結婚だけなら俺も喜べたかもしれない。

「藤原の家の事業も安定してるみたいだし、結婚後も安心だね」

 コンビニで働いていると嫌でも新聞は取り扱う。新聞の一面に藤原家の事業が持ち直したという記事を見たとき、俺は足元が崩れ落ちるほどの衝撃を受けた。

「ち、違うわ! そんな事を話に来たんじゃない。あなたとそれは別の話よ」

「違わないだろ。『花婿の呪い』が家から消えたから全部解決して皆幸せ。そう言いに来たんだろ?」

 姉の報告がなければ、俺もただの偶然だと思いたかった。

 前時代的な伝説を信じて子どもを追い出した鬼畜生にも劣る下劣な家。そうやって恨むことが出来た。

 性別が変わった。環境が変わった。

 今まで学生だったら許してもらえていたことも、子供だから、女だから、それだけの理由でないがしろにされるようになった。

 世の中を恨んだ。家族を恨んだ。女になった自分自身を恨んだ。

 それでも生きていけたのは、この状況を作り出したのは自分が悪かったからじゃないと思えていたからだ。

 俺は悪くない。朝起きたら勝手に女になっていたんだ。女になったからって即人権を剥奪しかねない勢いで追い出す家ってどんな家だよ。薄ら呟いて泣いた夜は数えきれない。

 

 でも呪いが実在しているなら。

 そう信じられる証拠を見せつけられたら。

 追い出した向こうが正しかったと、そういわれてしまったら。

 

 

 俺は何のために生まれてきたんだ。

 

 

「待ってサク! 話を聞いて!」

 俺は後ろを向いて飛ぶように階段を駆けた。一瞬でもあの場に留まることを本能が許さなかった。

 耐えられなかった。

「~~~~~~!」

 吼えていたのか叫んでいたのか泣いていたのか分からない。

 何も考えられないくらい遠くへ、ただ遠くへ。それだけを考えて俺は走った。

 

 

 悲しくても腹は減る。

 邦楽の歌詞にありそうだなと自嘲しつつ、俺は腹を撫でた。急いで飛び出してきたから財布も持って来ていない。

 時刻はとっくに夜中を回り、あたりは真っ暗だ。ひょっとするとバイトの始まる時間になっているのかもしれない。

「……寒い」

 思わず零すと、いっそう温度が冷えた気がする。

 あれから走り続け、途中で泣き止んで歩き、また後ろから追いかけられていないかなと振り返りつつ走り、歩き、また走り、いったい何のために逃げているのか分からなくなってきた辺りで歩くのを止めた。近くにあった公園のベンチに座り、急激な眠気に襲われて起きたら今、という状況だった。

 起きた瞬間全身に寒気が走った。がたがたと体の芯から震えが止まらず、その割に不思議と体の表面は温かい。意識がゆらゆらと揺れ、ぼうっとする。これは風邪を引いたな。二月の寒い日に殆ど部屋着みたいな恰好で汗を掻いて寝れば誰だって体調を崩すか。

 なんだかバカみたいだ。自分の行動も、自分自身の境遇も。

 普通に座っているのも辛かったので、ベンチに横になる。木の冷たさに自分の温度が移ってだんだん温かくなるのがほっとする。

 これからどこに行こう。

 熱で働かない頭が警笛を鳴らしている。

 アパートには帰れない。姉さんが待っているし、何をされるのか分からない。

 バイトにも行けない。こんな体調だし、動くことも難しい。

 そして綾峰の家にも、いけない。

 俺は今まで自分の境遇を家のせいだと思っていた。

 女になったことも、虐待同然で追い出されたことも、そのせいで世の中に放り出され苦労をしたことも全部。

 可哀そうな人間だと、客観的な目から見て俺は自分をそう見ていた。

 だから綾峰が俺に優しくしてくれる時、それを受け入れても許される状況にあると、自分自身で納得をつけていた。綾峰の好意が嬉しいのは、可哀そうな俺を可哀そうだと思っての行為だからだ。

 でも今日姉さんと会って、俺は可哀そうな人間ではないと思ってしまった。

 貧乏神をただ家から追い出しただけ。

 俺は疫病や病魔のような家に害を与えるものだと知ってしまった。

『花婿の呪い』が他の家に災厄を引き起こしたという記述は今までにない。

 しかしここで可哀そうな俺という存在が消えてしまったと俺は思ってしまった。

 寧ろ家族に迷惑をかけていたという事実が真実であるならば、俺が綾峰の好意を受け取ることは許されないことのようにさえ思えてしまった。

 あの家は俺に甘い。

 綾峰はもちろんだし、桜ちゃんもそうだ。おばあさんもとてもよくしてくれる。

 あそこにいたら俺はつい甘えてしまうだろう。それは許されないことのように思えてしまうのだ。自分自身に自信が持てない。自分という人間の価値がひどく不安定に見える。

 女になって暫く、俺は死ぬことばかり考えていた。

 そのどれも勇気がなくて実行に移せなかったけれど、今日は大丈夫そうだ。

「このままじっとしてたら、明日には死んでるかな」

 気温は今零度を下回っているだろう。風は切り裂くような音を鳴らし、だんだん曇り空が広がっているのが月を隠すことで分かってくる。昼間見たテレビでは今日の夜から明日の朝にかけて雪が降ると報道していた。

 凍死で死ぬなら痛くないかな。

「誰が死なせるか」

 聞きなれた声が頭上から降ってきた。

 うっすらと目を開けると、綾峰がいた。

「あ、あや、みね?」

「おう俺だ。なんだお前氷みたいに冷たいじゃないか」

 体から湯気が出ている。額からは汗がしたたり落ち、口を開くたびに白い息を吐きだしている。

「なん、で?」

「ばあさんがお前が急に飛び出してったって電話よこしてな。そっから八時間近く探したぞ。こんな人も寄り付かないような辺鄙な場所で寝やがって」

 口調は荒いのに温かみがある。

 なんでこんなにしてくれるのだろうか。俺はだって、いらない人間なのに。

「お、俺は、駄目だから。ひ、必要ない人間だから!」

「はあ? 何言ってんだお前」

 自分で立てない俺を持ち上げようとする綾峰の胸を押す。こんな俺に構う必要はない。

「俺は可哀そうなんかじゃないんだ。当然だったんだ。死んだ方がいいんだ!」

「落ち着け藤原」

「やめろ! 離せ! 優しくするな! 親切にするな! どうせ本当の俺を知ったらお前も幻滅するんだ、離れていくんだ! だったらお前もいなくなれ!」

 言い終わらぬうちに体が大きなものに包み込まれた。

 綾峰に抱きしめられていると、遅れて気が付いた。

「辛かったんだな」

 耳元で絞り出すような綾峰の声が届くと、俺の中で何かが決壊した。

 家族を恨むとか、可哀そうだとか、それはほんの一部でしかなかった。

 ただ、辛かった。

 そこからは単純だった。

 幼子のように声が枯れるまで俺は泣いた。

 

 

 寝覚めは最悪だった。

「痛っ」

 頭が痛いのは予想が出来た。風邪を引いているのは予想がついていたからだ。

 追加で喉が痛いこともまあ分かる。体の節々が痛いのもまたしかり。完全に風邪の症状だ。

 だが関節痛では説明のできない全身の筋肉痛の理不尽なまでの痛みは納得がしかねた。少し考えれば昨日の無茶な走りが原因だと分かるのだが、それを差し引いてもひどい。

「起きてるか?」

「ひゃっ」

 襖が開くと同時に俺は布団に頭を隠した。瞬間びしりと体と頭に電流が走る。いっっったい!

「昨日の件で気まずいのは分かるが普通にしてくれ。そっちの方がありがたい」

「気まずいっていうか」

 気恥ずかしい。

 前回は見られていなかったが、今回はばっちり恥ずかしいところを見られてしまった。顔を合わせる心の準備が必要だった。

「やっぱり顔赤いな。体温計持ってきたからどんもんか計っとけ」

「お前のせいだと思う」

「応急処置はしたぞ。昨日見つけた時からもう風邪ひいてるっぱかったからな、許せ」

「……そういう意味じゃないんだけど」

 ごにゅごにょと言葉にならない文句を綾峰にぶつけていると、病人の戯言と切り捨てたのか彼は体温計を数回振って渡してきた。わきの下に挟むとひやっとする。

 昨日、綾峰に発見されてから帰るまでの道中の記憶があやふやだった。綾峰の口ぶりから、おぶって家に運んでもらったことは確からしいのだが、その際変な事を口走っていなかったか不安だ。確認するのも変だし。

 考えあぐねていると、綾峰は珍しく言いにくそうに口を開いた。

「なにかあったか?」

 いつもならここで何もないとはぐらかしていたと思う。すました顔で「別に」なんて言って、綾峰もそれから言及することはないと思う。昨日の事を見られているというのもあったけど、綾峰の前で隠すことをしたくないという気持ちが強かった。

「……信じられない話かもしれないけど――」

 意を決して俺は口を話すことにした。

 自分の事。家の事。包み隠さずに。

 恐怖はあった。

 家の事を綾峰に話すことは大した抵抗もない。理解を得られるかどうかは別の話だが、なぜ俺が年齢を偽ってまで一人で暮らしているのか説明するのはそう難しくないからだ。

 問題は、俺が本当の女じゃないと綾峰に言わなければいけないことだ。

 俺だって少し前までは男だったから、そろそろ気が付いている。

 普通他人が見も知らぬ他人に対してここまで優しくはできるもんじゃない。見返りがあって人は初めて行動に移すものだ。

 日常的に俺は自分の姿をできるだけ見ないようにしてきたが、生きていたらどうしたって目にする機会はある。女になって時間が経つごとに体全体に丸みを帯びていき、女性らしくなっていくのが分かっていた。

 男だった時から中性っぽい顔つきで、女子からもそこそこ人気のあった顔だと自負していたが、女になることでそれに拍車がかかっていた。客観的に見て俺は容姿が整っていると思う。

 綾峰に下心があると思いたくはない。だがそれ以外で継続的に親切にしてくれる理由がなかった。

 例えばクリスマスの日のあの日だけなら、突発的な親切だと思う事が出来ただろう。

 家に帰る途中で雨に濡れている捨て猫を見つけてしまった人が、持っていた傘をその場に残すように、同情からの施しだと思うことが出来た。

 だが綾峰はその後もずっと優しかったし、とどめは昨日の一件だ。

 綾峰は長時間俺を探して走り回ってくれた。何時間も、息を切らして俺を見つけてくれた。

 こんなことをただの親切でできる人間なんているものか。

 綾峰に本当の事を話す気になったのは、彼を騙し続けていることの罪悪感に耐え切れなくなったということも大きい。

 下手に期待させていたのだとしたら、俺はとても悪いことをしていた。

 それを差し引いても優しい彼の事だ、きっと風邪が治るまでは面倒を見てくれるだろう。

 だがそれでこの関係は終了だ。

 俺は荷物を纏めて出ていき、そして姉さんの所へ行く。判決を待つ死刑囚のようだ。

 不思議と心は軽かった。

 本当は昨日の時点で終わりだったんだ。でも綾峰が来てくれたから、最後に報われた気がした。いい夢が見れた。

 全てを話し終えると、俺はゆっくりと息を吐いた。毒をすべて出し切ったような妙な爽快感が体を駆け抜けた。

「そうか。そんな事情があったんだな」

 綾峰は一言そう言うと黙った。目を閉じている俺は彼が今どんな顔をしているのか分からない。

 できることなら何も言わずに立ち去って欲しかった。覚悟を決めているとはいえ、彼の次の言葉が怖かった。

 しかしそれは彼の今まで俺に与え続けてきてくれた誠実さとは反対の行為だ。

 どんな言葉が飛んでくるのか、だんだん脈拍が高まってきた。

「……騙していて、ごめんなさい」

 先に口を開いたのは俺だった。情けない事に沈黙に耐え切られなくなったのだ。

 数秒間綾峰は何も言わなかったが、やがてゆっくりと「そうだな」と言った。

「お前十七で煙草と酒はダメだろ」

「……は?」

「は、じゃない。どちらも二十歳越えてからだ。しかも深夜バイトも。いろいろ事情があったんだと知ったが、店にバレたら店長の立場が怪しくなるぞそれ」

「い、いやそっちじゃなくて」

 綾峰はうんうんと頷きながら、どこかズレた感想を漏らす。違う。俺が予想していたのは、俺が不安に思っていたのはそんなことじゃない。

「女じゃなかったんだぞ。騙していたんだぞ。それは、どうして……」

「どうしてって言われてもな」

 綾峰は特別それで驚いている風には見えなかった。本当に大したことじゃないと思っているのか、どう言葉にしようか迷っているようだった。

「大学の友人にもニューハーフのやつとかゲイとかレズとかいるからな。皆気のいい奴らだし、そこまで気にすることでもないんじゃないか?」

「俺は手術で女になったんじゃない!」

「分かってるよ。呪いだろ。凄いな、現代社会でそんなもんがあるとは、世界もまだまだ広いってことか」

 感心するように息を吐く綾峰。悉くズレている。

「馬鹿にしてんのか! 俺は、俺は!」

 言葉にできない感情が先行する。真面目に話しているのに、気持ちを知って欲しいと思っているのに。

 思わず涙がこぼれそうになった時、綾峰がゆっくりと押しとどめた。

「馬鹿になんかしちゃいないさ。疑ってるわけでもない。お前が言うならそれは本当のことなんだろうな」

 荒れてしまった布団を駆けなおし、俺のでこに冷えピタを貼り付ける。

「薄々だがお前が本当は男なんじゃないかって思う事はあったさ。見かけは完全に女だが言動とか仕草とかな。自分のこと俺なんて言ってるし、性に戸惑いを覚えているのは確かなんだろうってこともな。まさか呪いだったなんて思いもしなかったが」

 綾峰の語調はあくまで優しい。何か反論しようと口を開く気にもならないくらい、心に響かせる。

「話してくれてありがとう。言うのは凄く勇気がいることだったろう。怖かったと思う。お前すごいな……ってまた泣いているのか」

 手渡されたティッシュケースを受け取った瞬間、ああ、俺はもう駄目だなと、綾峰の顔を見ながら思った。

 

 

 午前中寝ると体調も幾分回復した。

 居間に行くと、おばあさんが炬燵に入ってテレビを見ていた。俺に気が付くと、「あら、もういいのですか」と立ち上がろうとして来てくれたのを手で制す。

「ご迷惑をおかけしました」

「詳しいことは知りませんが、大変だったと聞いています。寒いでしょう? お入りさないな」

「はい。あと心配かけてごめんなさい……」

 いつものように微笑むおばあさんを見て、改めて謝罪を述べた。忘れていたけれど、昨日は突然飛び出したんだ。心配したに違いない。

「体調はどうですか?」

「結構よくなりました。なんか風邪引いてばっかりだな」

「喋り相手がいて嬉しい限りです」

 ふふふっと笑い合う。

 そういえば綾峰の姿が見えないなときょろきょろ見渡していると、「大吉さんなら学校の方ですよ」とおばあさん。

「え、いや、別に探してなんか」

「違いましたか?」

 違わない、けど。

「あいつなんか言ってましたか?」

「何か、とは?」

「いや、その、俺のこと、とか?」

「あらあら」

 おばあさんは少女のように目を見開き頬を染めた。なんだか予想していた反応とは違う。

「大吉さんにもようやく春が来たのかしら」

「ち、ちちち、違います! そうじゃなくて」

 俺の正体とか、家のこととか。

 おばあさんに知られるのは綾峰本人に知られることの次に怖い事だ。俺はなんだかんだでこの家の人間に嫌われることを恐れている。失くしたくない居場所だと体が訴えかけているからだ。しかしおばあさんの反応から、綾峰が何か言った様子はなかった。

「大吉さんもあなたが来て随分変わりました」

 暫く俺はおばあさんとお茶を飲んだり、テレビを見ていたりしていると、ポツリと零した。

 なんの事だろうと顔を向けると、おばあさんは目を細めて笑う。

「大吉さんからあの子の両親の話を聞いたことはありますか?」

「両親?」

 俺は思い出そうと頭を捻り、そういえばあいつの口から両親の話を聞いたことがないなと思った。この広い家にも彼の両親が存在している形跡はない。はじめてこの家に上がってしばらくは疑問に思ったものだが、そういうものだと思ってわざわざ聞くことはなかった。

「二人とも交通事故で亡くなりました。まだほんの二年前の話です。その当時大吉さんは大学に入学したて、桜さんは中学1年生でした」

 予想はついていた。これが綾峰とおばあさんだけなら綾峰が大学の都合でおばあさんの家に居候しているだけだと思う。しかしこの家には未成年の桜ちゃんもいる。両親が不在で中学生の桜ちゃんがこの家にいるという事は、両親が海外赴任か何らかの事情でいないか、すでに亡くなっているか二択だと思うからだ。

 俺はこんな時どんな顔をして聞けばいいのか分からなかったが、視線だけはおばあさんの目から外さなかった。

「夫婦水入らずで温泉旅行に行ったその帰り道、トラックが横から突っ込んできて二人とも即死だったそうです。宿を取り、旅行を勧めたのは大吉さんだったそうです。事故があってから大吉さんは何かに取りつかれたようにバイトに勤しみました。大学の学費は二人の保険金でどうにかなりましたが、桜さんの進学資金を貯めるのだと躍起になったのです。私もまさかこの歳で二人も養う事になるとは思っていなかったので、貯金もまったくありませんでしたから大吉さんを無理に止めることはできませんでした。

 でもあの子はただお金を貯める為にがむしゃらになっていたんじゃなかったと思います。両親を死なせてしまったのは自分だと、自責の念が強かったのだと思います。

 何度もあの子には言ったのですが、聞き入れてはくれませんでした。学業に支障はきたさない。これを繰り返し私に言い、まるで自分の体を痛めつけるようにあの子は生きてきました」

 今の綾峰を見て信じられないと思う反面、心のどこかでああ、だからかと納得してしまう部分があった。

 傍から見ても綾峰は働きすぎだ。大学生のアルバイトと言っても限度がある。でもあれが賃金を稼ぐ以外の目的があるのだとすれば、それが自分を罰するためだとするなら、あの過酷極まりないスケジュールは理解できてしまう。

「家にいる時間も少なくなりますから、桜さんとも話すことはなくなります。両親がいなくなって不安だった桜さんは大吉さんとの話し合いを求めていました。ですが色々あってうまくいかなかったんです。私も間に取り持とうとしましたが、二人の間に会話がない月も存在するほどでした。そんなある日、大吉さんが珍しく困った顔をして帰ってきたんです。バイトで厄介な奴が入ってきたと頭を掻きながら」

 ここまで凄く暗い雰囲気だった話が、急に色合いが変わり始めてきた。

「仏頂面で接客は最悪。話し合おうにもそれすら撥ねつけられる。しかもかなり訳ありそうだ。大吉さんがそんな風に話す人は初めてでした。今までバイトの事を聞いても順調だ、とか問題ないといった色合いのない反応が一転しての態度。それも日を追うごとに頭を抱えることが多くなって帰って来ました。そんな兄の態度を見て、桜さんも自分から話しかけに行き、大吉さんも愚痴のような相談のような形で桜さんと再び話すようになりました」

 おばあさんは今度ははっきりと俺の目を見た。

「あなたのおかげです咲弥さん。あなたは大吉さんからいろいろしてもらった、なんて風に思うかもしれませんが、それ以上に私たち家族に与えてくれたものは大きいんですよ」

 これで初日の謎が解けた。

 どうしておばあさんが俺を快く受け入れてくれたのか。どうして桜ちゃんが俺に警戒せず懐いてくれたのか。

 俺を警戒させない為に知らないふりをしてくれたのかは分からないが、もともと俺の事を知っていたのだ。その事実とさっきの話は顔から火が出るほど恥ずかしいが、同時に疑問が消えたことで余計な不安がなくなった。それにしてもバイト初めの俺の態度は改めて最悪だったよなと反省しなければいけないけれど。

 俺が一人で悶々としていると、おばあさんは何か思いだしたように立ち上がり、箪笥の引き出しを開けた。

「昨日夕方にあなたのお姉さんと名乗る方からこれを預かっていたのを思い出しました。渡しておきますね」

「え、姉さん?」

 受け取ったのは銀糸があしらわれたレター封筒。妙なところでおしゃれ感を出す癖は変わっていない。

「どこかへ行くのですか?」

「はい。姉に会って来ようと思います」

 手紙には一言『話がしたい』と書いてあった。場所も何も書いてないという事は、きっと俺のアパートにいるに違いない。昨日別れてそのままの場所だ。

「あ、その前に」

「はい、なんでしょう?」

「大吉君の携帯の番号ってわかりますか?」

 最後に俺はやり残したことを片付けなければいけない。

 

 

 時間の進みが遅い。

 俺は手首に着けた時計を見ると、分針がさっきから一歩も動いていない。待ち合わせ時間までまだ十分はあった。

 呼び出したのは自分なのに、まだかまだかと相手が来ないことにいら立ちを覚える。たんたんと忙しなく足踏みをするのがその証拠だ。

 普通に待っているだけなら俺だって何もここまで苛立たない。

 俺が苛立つ、というよりも一刻も早くこの場から立ち去りたいと思うのは、理由があった。

『ねえねえ、あれ誰?』

『モデル?』

『さあ? 誰か待ってるみたい』

『さっきから全然動いてないぜ』

『俺声かけてみようかな』

『あ、お前それはヤバいって』

 時間が経つごとに周りに人が増えていっている。はじめは勘違いかと思っていたが、周りの声が聞こえてきた辺りで、俺の事を言っているのだと分かってきた。見世物になってきている現状がたまらなく恥ずかしい。

「なんだこの人だかりは。おう、待たせたな」

「遅い!」

 予定より五分以上早く来てくれたにも関わらず、俺は相手の脛を思い切り蹴飛ばした。

「痛い!」

「いや、蹴っておいてそれはないだろう」

 相手は無傷でこちらは多大なる損害を受けた。きっと涙目で睨めばさしもの熊男も「お、なんだなんだ」と頬を引きつらせる。

「お前の大学人が多すぎる!」

「そら大学だからなあ。というかあれか、この人だかりやっぱりお前が原因だったか」

 あたりを見渡しながら話す綾峰。その人だかりも、俺が綾峰と話しているうちに散っていった。

「今日は随分めかしこんでいるんだな」

「……うっさい」

 俺は今普段使っている真っ黒の男物のコートとスウェットではなく、かわいらしい女性もののコートにロングスカートといういで立ちだ。薄らと化粧も施しているが、多分この熊男には気づかれていない。鈍感だから。馬鹿だから。

 家を出るとき、短縮授業で帰ってきた桜ちゃんとちょうど鉢合わせした。俺が外出することと、綾峰に会いに行く事を聞き出した桜ちゃんは俺を部屋に引きずり込み、メイクアップを済ませて送り出してくれた。彼女がどんな意図をもっての行動かは説明されなくても分かる。全く、おばあさんといい似た者家族だ。

「電話で緊急だと聞いたが、何かあったか」

 綾峰の声は低かった。心配ばかりかけてきたのが悪かったな。

「今日はさ、綾峰に」

 いや、最後だ。ずっと呼び捨ても失礼だ。

 綾峰にはもう俺が22歳じゃないことはバレている。年下なのにずっとため口をするのは抵抗があったのだ。でも綾峰さんだと今まで親しくしてきたのに急に壁を作ったような気になる。ちょうどいいと言えば、これかな。

「大吉くんに言いたいことがあって来たんだ」

 彼もまさかいきなり自分の下の名前を呼ばれることは予想していなかったのだろう。「え、いやおい、お前」と珍しく動揺した姿が見れて溜飲が下がる。

「今から姉さんに会って来る。それで、多分ここを出ていくと思う」

 今日一日どうして姉さんがここにやってきたのか考えていた。

 俺を警告するつもりなのだろうかと初めは思った。ほぼ一年が経とうとし、本家の恨みで俺が妙な行動に走ろうとしていないかどうかという監視の目的なのかと。だが昨日の姉さんの雰囲気からどうもそういう感じじゃなかった。

 そこで思い出したのが姉さんの結婚だ。

 昨日は焦ってそこばかりに目が行ったが、姉さんが結婚をしたという事は、実質的に家の権利が父親から姉さんの夫に譲渡されたことを意味する。

 あの家では、家業とは別に家長は代々長男か長女の夫が引き継ぐことになっている。家の実行支配権を握ったと言っても過言ではない。

 姉さんは俺に妙に甘いところがあったから、それで俺を家に呼び戻そうとしているのではないかと思った。

 でも呼び戻されたとしても俺の存在がいいものじゃないことはあの連中の印象からぬぐい切れない。きっと今よりずっと自由は利かない生活が待っているだろう。

 それでも、姉さんがわざわざ俺の所へ再び来てくれたという事実が、時間が経つごとに嬉しくなってきた。どんな扱いを受けても、俺はやはり家族が恋しかった。

 あの家に戻れば俺はもう二度とこの地へ来ることはない。家がそうさせない。

 その前に最後に。彼に伝えたい自分の気持ちがあった。

 それはきっと男の時だったら想像もつかなかったもので、実を言うと女になった今でもこんな感情を持つことがあるなんて思いも知らなかった。

 何度か自分の中で確認もした。

 勘違いじゃないか? 気の迷いじゃないか?

 彼が何かをするたびに、それが勘違いでも気の迷いでもないことを証明してくれた。

 多分、これは向こうからしたら迷惑な話だ。これから消える人間が残すにしては最低最悪の行為だと思う。

 それでも何もせずに去る事だけはできなかった。

「なんだ」

 彼が問う。

「あなたが好きです」

 俺は言った。    

 






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