アパートに着くと姉さんがいた。
俺の布団にくるまりながら、時々「んん」と寝息を立てている。もう夕方になろうとしているというのに、この人は相変わらずどうしようもないな。
「姉さん、起きなよ。夜寝られなくなるよ?」
「……あと30分」
「いつもそれ言うけど、30分二度寝したら結構なピンチになるよ?」
「分かってるわよサク~。……サク?」
がばっと起き上がる姉。寝ぐせで髪の毛がライオンのたてがみみたいになっている。
「サク? 本当にサク?」
「俺だよ。昨日は逃げてごめんね」
無言で抱きしめられた。支えきれず、俺まで一緒に布団に倒れこんだ。
「サク。サクぅ……」
「うん。俺だよ」
小さな子供をあやす様に、俺は姉さんの背中を何度も撫でた。
姉さんの調子が戻ると、彼女は気恥ずかし気に立ち上がった。だがその勢いとは対照的に、俺を捉える両目は不安そうに揺れていた。
「俺を家に連れて帰るんでしょ」
姉さんの口からは伝えにくい事だと思う。俺は追い出された側だけど、姉さんは直接ではないにしろ追い出した側の立場だ。勝手なことを言おうとしているという自覚があるのだろう。だからここは俺が切り出すことにした。
彼女はわずかな逡巡の後、小さく頷いた。ごめんなさいサク、と何度目になるか分からない謝罪がやって来る。姉さんに対して俺は何も怒ってはいない。家に対しては、まだ感情は色あせてはいないが。
「よくあの父親が判断したね。古い考えに固執するあの家でもとりわけ古い人間だって言うのに」
「違うわ。父さんは今でも反対だと思う。でも私が結婚したから、家長はもう父さんじゃない。そして、あなたをこんな所で一人にさせたくなくて」
姉さんが新たな家長の権限を握っていることは予想の範囲内だ。念の為聞いてみただけに過ぎないが、父親の事を話に出すだけで家を追い出された時の体の痛みを思い出してしまった。
彼女は意を決したように俺に向き直ると、両手を取った。
「家に帰りましょう。サク」
「……」
予想していた答えだったが、いざ目の前にしてしまうとそれでも返事が出せなかった。
「……周りの人はどうするのさ」
俺の父親や母親、所謂本家の人間は家長である姉が黙らせることは可能だろう。だがそれ以外。頻繁に家に出入りする分家の人間はどうなるのだろう。
彼らの頭の中にはもう『花婿の呪い』は悪しきものだとインプットされている。
たとえ俺の存在に対するかん口令が敷かれても、俺を家に置くことで不満は溜まっていくはずだ。そんなことこの聡明な姉が分かっていないはずがない。
「家の人間全員を黙らせることは、ごめんなさい。私の力じゃどうにもできないわ。でもできる限り家の目から映らないところで生活はできると思う。不自由はさせないわ」
思わず笑いそうになった。
隔離された生活をしろって言ってるのと同じだからだ。
腫物を扱うように、異物から遠ざけるように、でも他所に見られないように。
オブラートに包んではいるが、結局家の人間に俺を認めさせることが出来なかったと言っているに等しかった。
だがそれでも俺は姉さんを責める気になれなかった。姉さんが俺の為に、呪いのかかった俺が生きていけるために動いてくれているという事は痛いほど分かったからだ。
姉さんは何も力になれないという風に言ったが、離れでもあの家で俺を容認させたのは相当な労力だったはずだ。
まず誰も賛成しないし、味方はいない。その中であの堅物で保守的な家の人間を譲歩させたのだ。
「学校には、多分通えないわ。でも通信教育ならできるかもしれない。不自由はあるかもしれない。でも可能な限りサクがしたいことをできるようにさせてみせるわ」
「ここに残りたいって、もし言ったら?」
「……サク」
「冗談だよ。そんな顔しないでよ」
決して冗談ではなかったが、姉さんの反応を見てそう言わざるをえなかった。
「あなたもこの一年余りで分かったでしょう? 何の後ろ盾もなく女性の身で生きることがどれだけ苦しい事か。この部屋の家賃だってずっと家が払う保証もないのよ。お金の保証はされているし、寝床もある。あなたにとっては辛い時期かもしれないけど、私がきっと周りを黙らせるから」
「この生活、そんなに悪くなかったよ」
姉さんの言葉をわざとさえぎるようにして俺は言った。驚愕の目で姉は目を見開いた。
「嘘よ。あなたのこれまでの生活は調べたわ。自暴自棄になっていた時期もあったでしょう。その時に力になれなかったのは悪かったわ、でも嘘をいうのはやめて」
「本当だよ」
「……あの綾峰って男?」
姉さんの口調が暗く陰りを見せた。同時に綾峰の名前が出て心臓を鷲掴みされたような苦しみを覚える。
「いい人だっていたんだ」
「でもあんたの本当の事を知っても受け入れてくれる? 女として受け入れてくれる?」
俺は何も言えなかった。言わなかったんじゃない。反論する言葉を持たなかったからだ。
「あなたが好きです」
俺の言葉に彼は瞬きを繰り返した。そうかと思えば忙しなく目を動かせ、額からうっすらと汗を浮かべた。
「なーんちゃって」
「え、あ、は?」
「嘘だよバーカ。信じた? ねえ信じた?」
俺は未だに硬直する彼の脇腹を突っついた。身を捩らせながら「なんだその冗談は」と笑う。
「ちょっと用事があってさ。近くまで寄ったから来ただけ。俺がお前に告白したとマジで思った?」
「思うだろ普通。本気っぽい雰囲気出すしさ。しかもお姉さんに会って出ていくって」
「リアリティを出すための冗談だよ。それっぽかったろ?」
「勘弁してくれよ……」
俺はじゃあまたと彼の胸板を軽く殴って元来た道を引き返した。
後ろから「おい、用事って本当にそれだけだったのか?」という声が聞こえたが、後ろ手をひらひら振るだけにとどめた。
振り返ることはできなかった。きっと酷い顔をしていただろうから。
告白をした時の表情が忘れられない。
驚き、困惑し、どうすればいいのか誰かに助けを求めるように目をさまよわせ。
俺の事を多少は意識をしていると思っていた。
だから、もし彼が告白を聞いて頷いてくれたら俺は今日アパートに行く事はなかった。
彼に家の事をすべて話したとは言ったが、姉がおそらく自分を連れ戻しに来ていることを伝えていなかった。下手な心配をかけたくなかったというのが理由の一つだが、最大はいざという時の逃げ道が欲しかったからだ。
告白をしてもし駄目だった時の逃げ道。
あいつも男だし、しかも今の俺はそこそこ可愛い部類に入る。優しさは勿論あっただろうが、それでも俺にいろいろしてくれたのは俺という人間を気に入っているからだ。成功するとは思っていなかったが、それ以上に失敗するとも思わなかった。なんだかんだで受け入れてくれるんじゃないかと思ったのだ。
甘かった。
彼は完全に答えに窮している様子だった。
はっきりと答えを聞いたわけではなかったが、あのままいけば確実に振られていた。
気が付けば口から出ていた冗談の一言。露骨に安心した様子の彼を見て、俺は一気に心が沈んだ。予想が間違っていなかったことを見せつけられたようだったからだ。
でも考えようによってはよかったのかもしれない。
振られて終わるのは後味が悪い。いいお思い出だけ残していける。
「姉さんの言う通りだと思う」
俺の反応が予想外だったのだろう。姉さんは驚いた声を上げた。
「どうしたのサク」
「いや、当たり前の事だと思っただけだよ。俺は男で、女で、よくわかんない奴だ。そんなのを一般の人が理解してくれるわけないって」
受け入れてくれたのは、あくまでその存在だけだと知った。
LGBTに対して差別的な考えを持たないことと、ではその人とパートナーになれるかは別の話だ。
飛躍して舞い上がって、自分の理想を知らずに相手に押し付けていた。
彼ならばという期待がどこかにあった。どれだけ求めれば済むというのだろうか。恥知らずもいいところだ。
「サク……」
姉さんの何か言いたげな視線を無視して、俺は少ない荷物の荷造りを始めた。
アパートの管理人さんと話を済ませていたのか、駐車場に止めてあった車に乗るように姉さんに言われた。
「車買ったんだ」
「新婚祝いよ。豪勢な事よね」
車に詳しくないが、王冠の形をしたエンブレムがなんとなく高級車感を醸しているように見えた。
工場座席に段ボール一つ。たったそれだけの荷物しか俺は持っていなかった。
家財道具はそのまま処分する手はずになっている。大部分が借りたときに無料で貸し出してくれたものだし、炬燵はごみ置き場で使えそうだったから拾ってきたやつだ。毛布は別で使っていたがそれも高いものでもない。家財を処分すると俺の荷物は頼りない量となった。まるで俺のこれからの未来を暗示しているようだと自嘲する。
思い入れが強いわけでもないが、それでも一年余り暮らした場所だ。助手席に乗り込み、姉さんが発進の準備をするまで窓を開けて景色を眺める。
「それじゃあ出発しましょうか」
「姉さんやっぱペーパーでしょ。手つきがぎこちないよ」
「うるさいわよ」
姉さんがアクセルを踏み込んだその瞬間、車体がガクンと大きく揺れた。
「え、何?」
「分からないわ。どこかぶつけた? ていうか全然動かないんだけど」
エンジンがウォンウォンと唸りを上げているのに関わらず、不思議なことに一歩たりとも進んでいない。心なしか車体が斜めになっているような。
「ひ! 何あれ!」
姉さんがバックミラーを指さして慄いた。反射的に俺もミラーを覗く。
「綾峰!?」
映っていたのは綾峰だった。汗だくで、踏ん張るように顔をしかめている。冗談だろ。まさかこいつ後輪を浮かしているのだろうか。
「姉さん止めて! アクセルやめて」
「ええ? 何これもうどうなってるのよ」
車が止まると、ずしんと言う音と共にシートが水平に戻った。シートベルトを外し、姉さんの「ちょっとサク!?」という制止の声も無視して車外へ飛び出る。
「何やってんだよ!?」
人外染みた真似をやってのけた馬鹿に一言言ってやりたくなったからだ。
昨日俺を見つけた時よりも息を切らし、どこで何があったのか上着がずたずたになっている。はじめこそ驚きと困惑が強かったものの、だんだん心配の色が濃くなってきた。
「だ、大丈夫なの?」
よく見れば腕は青黒く変色し、尋常ではないほどの汗が地面に広がっていた。
「ちょっと、息が、きれ、切れた。だけ、だ。もん、だいな、い」
「いいよ、息整えてからで」
ポケットに入れたハンカチで汗を拭いてやっていると、運転席から姉さんが出てきた。綾峰を見つけると、目がすっと細くなった。
「サク。どういうこと?」
「いや、俺は」
俺に聞かれても困る。何がなんだかわかっていないのは俺の方だ。
「綾峰大吉。あなたの事も調べさせてもらったわ。家族構成や、あなたのご両親のこともね。経済的に随分苦労しているみたいだけど、そんなあなたが咲弥の事を着け狙う理由はなに? お金?」
「姉さんそんな言い方」
綾峰は今だ荒い息を整えている状態だ。姉さんの言葉に応える余裕はない。
「随分素敵なパフォーマンスをしてくれたみたいだけど、あなたの目的はいったい何なのかしら」
「手荒なことをしたことは、お詫びします」
綾峰は姉さんに向き直ると、俺の手から離れた。喪失感を感じるな俺。
「こいつを連れて行くんですか?」
「そうよ。家の問題よ。あなたに関係ある?」
「あります」
あまりにも綾峰がはっきりと言うものだから、姉さんは「うぇ?」と間抜けな声を出してたじろいだ。
「咲弥」
初めて名前を呼ばれた気がした。
彼は俺に視線を合わせると、浅く息を整えた。
「さっきの返事。してもいいか?」
「さっきのって」
「大学で言ったあれだ。冗談なんて嘘なんだろ」
鼻の天辺から顔全体に血液が広がっていく感覚がした。
「ち、ちょっと待って」
「俺もお前が好きだ」
「え、あ、え、え……」
言葉にならない文字の羅列が脳裏を駆け巡る。なんだ今自分は何を言われたんだ。
「お前が行ってからすぐに後悔した。情けない態度で申し訳ない。今でもまだ間に合うだろうか」
「そんな、そんなことって」
口にするたびに鼻水が込み上げてきた。上手く言葉にできなくなる。
「正直女性として今まで見てたわけじゃなかった。それで返事が出来なくてお前を傷つけた。すまん。でもお前がいないと嫌なんだ。俺の気持ちは迷惑か?」
何度も首を横に振る。迷惑なんて考えられない。
感情の矛先が分からず、綾峰の上着の襟を掴み、空いた片方の手で彼の胸を叩く。何度も叩いた。
「なんなんですかこれは」
背中から姉さんの戸惑うような声が聞こえた。
俺が何か答えるより早く、綾峰が前にでた。
「咲弥さんのお姉さんですね。改めて、綾峰大吉です」
「知っています。あなたは一体何者なんですか?」
調べたと言っていたから、姉さんも綾峰のことは知っているはずだ。この場合の何とは、俺との関係性だろう。昨日まで何もなかった俺たちの事を姉さんが把握しているはずがない。
「しがない大学生です。来年からは社会人ですが」
「そういうことを聞いているのではなく」
「妹さんを俺にください」
「だからそういうはあああああ?」
姉さんは驚くほど大きな反応を示した。俺が姉さんでもさっきのタイミングでそんな言葉が飛んでくるとは思わないだろう。いったい綾峰はどんな顔で言ってのけたのかと覗いてみれば、かなり真面目な顔つきだった。いや、うっすらと額に汗を掻いている。ぱっと見は分からないがかなり緊張をしているようだ。そっと彼の服の袖をつまんだ。
「ふざけているんですか?」
「いたって真面目です。妹さんを俺にください」
「……仮に真面目だとしても言う相手が違うでしょう」
「ご両親よりもあなたに言った方がいいと思いました。違いますか?」
姉さんが再び黙った。でもそれはさっきまでの綾峰の調子に押されてというわけではなかった。
「どこまで聞いているんですか?」
「彼女に身に起きたこと。家の事情。あなたの事。何も知らないわけではないと思います」
「この子のどこがそんなに気に入ったの? 顔? 性格? 男だったのよ。あなたはそれを本当に理解しているの?」
「全部です。嫌なところも含めて全て」
「あなたは同性愛者なの?」
「俺が好きなのは咲弥です。性別はどちらだろうとこの際関係ありません」
ここで姉さんが「ぐふっ」と噴出した。堪えきれなかったのだろう。
「サク。この人本当に何者なの?」
「……わかんない。でもすごい人なんだ」
「そう、あなたはそれでいいのね?」
俺は頷いた。それを見ると、姉さんは嬉しいような悲しいような中途半端な笑みを作った。
それは俺に向けての笑みで、綾峰に向き直るときっと強い目で睨んだ。
「口ではどうとでも言えるわ。でも一年。一年たってもまだ同じ事が言えたらその時は認めてあげる」
「はい」
「個人的には絶対認めたくないわ」
「本音零れるの早くないですか?」
「うるさいわね! なんでサクはこんな熊みたいな大男に……」
姉さんはぶつぶつ言うと、一人で車に乗り込んだ。それが意味するところを俺が分からないわけでもない。
綾峰の袖を放して運転席の方まで駆けよると、窓を少し開けて姉さんが俺の名前を呼んだ。
「忘れないで。何があっても私はあなたの味方よ」
「姉さん」
「本当の所を言うと今連れて帰るのは得策じゃないって思っていたのよ。ここで暮らせるならそれに越したことはないのかもしれないわ。でもね、それってあなたを捨てた事になるんじゃないかって」
姉さんは綾峰を見た。いつもがはははと大口広げて笑う綾峰が、この瞬間だけは借りてきた猫のようにおとなしく佇んでいる。
「ありがとう姉さん」
両親二人のことはやっぱりまだ複雑な気持ちはあるけれど、姉さんだけは信じたいと思った。
困ったらすぐに電話してと言い残し、姉さんは去っていった。
走り去っていくのを十分に見送ってから、俺は後ろで所在なさげに突っ立っている大男を振り返った。
「帰ろっか」
色々言いたいことはあるけれど、無性にあの家が恋しくなってきた。
家に帰ると真っ先に俺は桜ちゃんとおばあさんに報告した。
「えええええ! 遂に!?」
「うん。付き合う事にしたよ」
桜ちゃんはどしぇええとオーバーなリアクションを、おばあさんは「あらあら」と番茶をすすりながらおめでとうと言ってくれた。俺は照れくさくて頬を掻いていると、手洗いを済ませた綾峰が居間に入ってきた。
「お兄ちゃん咲弥ちゃんと付き合ったんでしょ!? 告白はどっち?」
「え、俺ら付き合ってんの? あ、そういう事になんの?」
「なるよ。何言ってんだよ」
とんでもない発言を言ってのける綾峰を俺は鋭く睨みつけた。そこ桜ちゃん、口笛拭かない。
「あれだけ啖呵きったんだ。今更なかったことなんかにしないよ?」
「こっちのセリフだ。望むところだよ」
それからの日々は目まぐるしかった。
俺が綾峰、大吉さんと付き合うこととなってから、桜ちゃんのファッションチェックがかなり厳しくなった。
「咲弥ちゃん? 今まではすっぴんもスウェットも許してたけど、これからは私のお姉ちゃんになるかもしれないんだからそうもいかないよ?」
おかげで俺は今まで貯めてきた貯金を一部切り崩して、服と化粧に時間を費やす事になった。
アパートはあの日以来完全に引き払った。
そうでなくても半分以上綾峰の家で寝泊まりしていたようなものだったので、それほど変化があった訳ではなかった。ただそのおかげかどうか分からないが、今までも少し感じていたお客様扱いが、完全に家族のそれと同じになった風に思う。その分家事労働は増えたけど、苦にならないくらい嬉しかった。
バイトは、深夜の時間帯はやめた。
結構な日数無断欠勤を繰り返したので勝手にクビになっていると思っていたが、大吉さんがいろいろ言ってくれていたみたいだ。ついでに本当の年齢も店長にバレたようで、昼間なら雇いなおしてくれるというので甘えることにした。その分時給は下がるけど、桜ちゃんやおばあさんと接する時間が増えたから結果オーライだ。大吉さんとは完全に活動時間がずれてしまったけれど、彼も以前のような無茶な働き方はやめたので何もない日は二人でいることも多くなった。桜ちゃんに見られたらまた冷やかされるんだけどさ。
大吉さんが大学を卒業したタイミングあたりをきっかけに俺も色々と心機一転することにした。
まず呼び方をかえるようにした。私と口の中で何度も練習し、自然に私と出るまでそこそこ時間がかかった。
寝室を客間から大吉さんの部屋に移した。その際ちょっと揉めた。
「いやなんでだ。狭いだろ」
「いいでしょ。それとも一緒に寝るの嫌なの?」
「いや、別に嫌ってわけじゃないが」
「じゃあいいじゃん。はい、決定」
ほぼ強引に決定したが、さすがに部屋が狭すぎるという事もあっておばあさんが二人の寝室を作ってくれた。大吉さんは後で頭を抱えていたそうだがそんなもの知らない。
これとほぼ同時に、私は大吉さんに婚姻届けを突き出した。
「さあ! さあ!」
「いや、これはまだ早いだろ」
「何? 他に好きな人でもできたんだ」
「そうじゃない。でもお姉さんの言いつけがなあ」
大吉さんは姉さんの言った一年間を律義に守っていた。それを歯がゆく思う事になるとは思わなかった。
さらに一年、姉さんが視察しに来て結婚を許してくれた時になって私は大吉さんに少し待って欲しいという旨を伝えた。
「どうした。何かあったか」
「うん。名前を変えたいんだ」
「名前?」
婚姻届けに名前を出す時、『咲弥』という名前を使うのがなんとなくはばかられた。そりゃ頑張れば女性としても使える名前かもしれないけど私が違和感を覚えてしまう。
「どんな名前にしたいんだ」
「もう決めてるの。おばあさんみたいな感じがいいなって」
「ばあさんか」
大吉さんは目を細めた。
おばあさんが亡くなったのは昨年の冬のことだった。朝目覚めが遅いと思って起こしに行ったら冷たくなっていた。特に大きな病気があった訳じゃない。大往生だ。
「ばあさんってでも確か大正生まれだろ? いいのか、今と大分テイストが違うぞ」
「いいの。それに私がそうしたいんだ」
おばあさんから受け取ったものはたくさんある。それを忘れない為にも名前の一部を引き継ぎたかった。
「咲江ってどう?」
「ばあさんが文江だったからな。しかし一気におばさんっぽくなったな」
「殴るよ?」
「ごめん」
名前が変更され、婚姻届けが受理された後も大変だった。具体的に言うと、夜が。
「ねえ、そっち行っていい?」
反対側の布団で寝たふりをする大吉さんに声を掛ければ「ううん」と返事なのか寝返りなのかよくわからない反応が返って来る。
「返事ないから行くからね」
「ううん」
「なんで頑なに嫌がるわけ!」
第一子である大介を授かるまで、この攻防があと数回続くことになる。
うちの旦那は超絶奥手だった。
子供ができると、今まで以上に女性としての責任感を感じることが多くなった。
「これはなんですか、大介さん?」
「ぶーぶー」
「はい。ぶーぶーですね」
「なんだその口調」
大介に絵本を読んでやっていると大吉さんが横からやって来て茶々を入れてきた。
「子供の情操教育っていうか、子供って親の言葉をすぐに真似たりするでしょう? 汚い言葉を使う子になって欲しくないから」
「そうか。しかしますますばあさんみたいになってくな」
「おばあさんは私の理想だから」
女性として、母として生きていく上でおばあさんが私に与えてくれたものが如何に大きかったか日々痛感させられる。
掃除、洗濯、炊事といった家庭の技術に加え、女性として生きていく心構えもおばあさんから教わった。
私が元男だと伝えるととても驚いていたけれど、それなら戸惑うことも多いだろうと言って、通常であれば小さい女の子がお母さんに習うようなことまで丁寧に一つ一つ教えてもらった。
『大吉さんは少しデリカシーに欠けますからね。嫌な時は遠慮なく口に出すのですよ。夫婦円満の秘訣は互いに無理をしないことです』
おばあさんとの日々は私の宝だ。口調をまねるのもあくまで尊敬の延長だ。
とはいえあくまで目的は子供の教育の為だった。それが癖になってしまい、子供が大きくなってもずっと続くとは思わなかったけれど。
玄関で靴を履き替えていると、大介を抱えた夫が見送りに来た。いつもの自信たっぷりな様子と違い、眉が若干下がり不安そうに見える。
「本当に俺もいかなくて大丈夫か?」
「平気です。相変わらず心配性ですね」
ふふふっと微笑むと、大吉さんは「だって場所が場所だしなあ」とあくまで不安を隠さない。
「いつまでも逃げているわけにはいきませんから。この子もいますし」
そっとお腹を撫でる。先日産婦人科に行けば三か月と診療された。男の子になるか女の子になるかまだ分からないが、生まれて来る子供の為にも憂いはなくしておきたい。
「頑固だな」
「心配をかけてごめんなさい」
肩をすくめて苦笑する旦那。小さな手を振る息子に見送られ、私は藤原の家へ向かった。
電車とバスを使って四時間余りかけて四年ぶりに帰ってきた。
町の景色は時間が止まっていたのかと錯覚するほど変わっていない。
こんなに色あせた町だっただろうか。
家に近づいても懐かしいという気持ちは一つも起こらなかった事が逆に不思議だった。思い入れがなくなることはげに恐ろしきことかな、ということか。
「サク。お帰り」
門の前に姉さんがいた。会うのは二年ぶりだが、また少しやつれた印象を受けた。
「みんな中にいるわ。父さんには、その」
言いにくそうに淀む姉。この人には面倒な役を押し付けてばかりで申し訳なくなる。
「線香くらいはあげますよ。それくらいの常識は持ち合わせているつもりです」
先日父親が亡くなったと姉さんから電話を受けた。
悲しくはなかった。そうかと淡々と思っただけだった。
家を追い出された日から終ぞ会う事はなかった。随分早くに亡くなったんだなと、他人のような感想を持った程度だ。
私の反応を半分予想していたのか、姉さんは深く追求をすることはなかった。その日は何事もなく終わったのだが、昨日また姉さんから電話がかかってきた。
『父さんからサクへ遺言状が出てきたのよ』
それは遺産の分配についてだった。
私はもう藤原から籍を抜かれているし、姉さんも一時は戻そうと動いてくれそうになったが私がそれを固辞した。いまさら遺産を受け取る筋はないだろうと。
だがそれを許さなかったのが分家の人間たちだ。
呪い子に残された遺産など気味が悪いからと私に引き取るように要請してきたのだ。
勝手な話だと思ったが、姉さんが心底困り果てている様子だったのでわざわざ足を運んだ次第だった。
部屋に入ると懐かしい線香の匂いがした。
「こっちよ」
姉さんが先導して歩く。この家は部屋数が多すぎてどこになにがあるのか住んでいても分からなくなるほどだ。
暫く歩くと、だんだん人の声が大きくなってきた。
襖越しで最も声の大きい部屋の前まで来ると、姉さんは立ち止まって私の方を振り返った。その目には本当に大丈夫かという色が見えた。もう子供じゃない。
室内に入ると騒がしかった声が水を打ったように静まりかえった。
四十、五十代のおじさんが一斉に自分を非友好的な視線で見つめてくることは非常に不愉快極まりなかったが、それを無視して姉さんの後に続いた。
「これよ」
手渡されたのはズシリと重たい木箱に、一通の手紙。
「父さんの手紙よ。中は見てない」
表面に『咲弥へ』とある。なるほど、確かにこれは自分のものだ。
中を読んでいる最中、警戒心が薄まったおじさんたちが私の悪口を言い始めるのが聞こえてきた。
『あれが呪いか』
『気味が悪いの。あれは咲弥だろう? 女にしか見えん』
『馬鹿め、あいつは女になっておるのだ。汚らわしいのう』
好き放題に吠えるがいい。
手紙を読み終えた私はそれをポケットにしまった。
「なんて書いてあったの? サク」
「どうでもいい事ですよ。それと、これ姉さんが受け取ってください」
木箱ごと姉さんに渡す。姉さんは戸惑いこそすれ、他の親戚一同と違い嫌な顔はしていない。
「何が入っているかさすがに姉さんも見てるでしょう?」
「だけど、これはあなたの物よ。いいの?」
「もともと何が手に入っても置いていく予定でしたから」
私の置いていくという言葉に反応したのだろう。
外野がけたたましく騒ぎ始めた。
『置いていくとはどういうことだ咲弥!』
『われらに災厄を置いて帰るというのか』
『かつては本家の家長となると言われていたお前が情けないな咲弥』
「咲弥咲弥とうるさいですねあなた達」
まさか私が言い返すと思っていなかったのだろう。
ドスの利いた私の声音に一同が黙った。
手紙には二つの事しか書いていなかった。
遺産として金を残すという事。あの木箱の中には金塊が入っているはず。現金を好まないあの父親のやりそうなことだ。現金を何かの形に変えることをあの人は好んだ。
そしてもう一行には短く『私が間違っていた』と書いてあった。
「大体誰ですか咲弥って」
もう一度周囲をぐるりと見渡す。この私に異見を唱えるなら言ってみろ。昔と違い全力で戦ってやるぞ。
私はこの場に来て再び家との繋がりを求めに来たのではない。
むしろその逆だ。
姉さんが今まで辛うじて繋いでくれていた部分を、はっきりと断ちに来たのだ。
「私の名前は綾峰咲江です」
あの時泣いていた十七歳の少年はもういない。
私は、もう一人じゃない。
過去編これで一旦おしまいです。他にも枝分かれして書きたい部分とかあるんですけど、長くなるし暗くなるしで少し保留です。次は公麿と平等橋の話に戻します。鬱度0%の話にしたい。