高校二年の冬、私は正式に美術部へ入部届を出した。今までなあなあにしていたけれど、もうかなり入り浸っているし部外者と言い切るのは難しくなったからだ。
冬から入るなんて迷惑かもしれないと思ったが、餅田が「部員が増えればその分部費が増えるんですよ」とダメ押しのように言ってきたことで断る理由がなくなってしまった。
今日の作業が終わった俺が、水道でパレットを洗っていると後ろから私を呼ぶ声があった。
振り返ると上機嫌な後輩、明堂晶が後ろ手を組んでにこにこと近づいてきた。
「晶どしたん?」
「綾ちゃんこの後って暇?」
「別に用事はないけど」
今日は部活があるから正義と帰ることはない。順当にいけば駅まで餅田と晶の三人で帰っておしまいだ。
「じゃあちょっと付き合ってほしい場所があるんだけど」
「いいよ。どこ?」
「えへへ~、秘密~」
スキップしそうな勢いで踵を返す晶。えらく嬉しそうだが一体どこに連れていかれるのだろうか。
俺と離れた後、彼女は後ろで片づけの作業している二年の部員に絡みに行っていた。その様子をつい微笑まし気に見てしまった。
「あの子もだんだん慣れてきましたね」
「餅田。帰ってきてたの?」
「ええついさっき。全く、石田先生はたまにドジを踏むから困ったものです」
ふんと鼻を鳴らす餅田は、さっきまで来年の美術部に関わる書類を顧問の石田先生に渡しに行っていた。本来なら後期が始まる九月に提出していたものだが、各部の整理を担当していた石田先生が美術部のものだけ紛失してしまったらしい。たまにポンコツ気味なところがあるからな、石田先生は。
幸い個人名等プライバシーにかかわる情報が記載されている書類じゃなかったので、部長の餅田が時間を割くだけで大事にはならなかったみたいだが、どうして私がと餅田はぷりぷり怒っていた。後でなんか奢ってやろうと思う。
「それはそうと、公麿ちゃんってやっぱり人誑しだと思う。どうやったらあんなに懐くのかしら」
「人誑しって、そんな」
おそらく晶の事を言っているのだろう。
少し前一年に転校生としてやってきた晶。彼女と平等橋をめぐっていろいろあった後、俺は彼女を美術部へと誘った。
初めのうちはやはりぎくしゃくしたところがあった彼女だが、段々と生来の明るさを取り戻していき、今ではすっかり活発娘へと変貌を遂げていた。威嚇染みた態度から始まった彼女だが、おそらくこれが素なんだなと思う。ただ本人曰く美術部以外ではまだクラスの中で微妙な立ち位置にいるのは変わりないらしく、その分ここで発散しているのではないかと私は推測している。
だがそれを抜きにしても晶の変化は好ましく思う。ただ餅田はその変化の一端に私が深く関わっているという。
「付きっ切りすぎでしょ公麿ちゃん。部に来るなり一緒にこれしよう、あれしよう、これは分かるか、あれはどうかって。あんなことされたら誰でも懐きますよ」
「だって、周り殆ど晶と学年上ばっかだし、連れてきたのは私だからさ。それにそういうことって普通じゃない?」
「あなたは自分がどういう存在なのかよく理解していないところがありますね」
「どういう存在って……」
餅田は私の事を過剰に持ち上げるところがある。好かれているというのは嬉しいけれど、行き過ぎたところがあってたまに引いてしまうところがある。
「大げさじゃなくて、公麿ちゃんってここじゃかなり有名なのよ?」
「ああ、まあそうだろうけど」
「断っておくけど、付き合ってるのが誰とか、公麿ちゃんが女の子になったとかそういう理由だけじゃありませんよ」
先に答えを塞がれてしまった。どういうことだ。
「なんにせよ晶にあんまり関係ないだろ。あいつはただ最初につっかかってきたってだけだし。私の存在云々って言うのはあいつには当てはまらないだろ?」
「思考放棄してるわね。まあそこについて別に深く言うつもりはないけど、そろそろ言わせてもらう事はあります」
私の反論に餅田は別の角度で食いついてきた。
「明堂さんを呼ぶときの、その晶っていうの。あと綾ちゃんって愛称。それどういうことですか」
「どういうって……」
じとっと湿った目で見つめられると尻の座りが悪くなる。どうも何も特に理由はない。
晶が入部した当初は、私も彼女の事を「明堂さん」と呼んでいた。だがいつごろか、彼女の方から「よそよそしいから言い方呼び捨てで呼んでくれませんか?」と言ってきたのだ。
後輩というものがどういうものなのかいまいちわからない私は、そういうものかと納得して彼女の事を呼び捨てで呼び、それと同時期くらいに彼女も私の事を「綾ちゃん」ないしは「綾ちゃん先輩」と呼ぶようになった。
その呼ばれ方が新鮮なので受け入れていたが、餅田は一言もの申したいらしい。
「いや晶は別に私の事舐めてるとかじゃないと思うよ?」
「違うわよ。そんなこと疑ったんじゃなくて、あの子は下で呼ぶのに私はいつまで餅田なわけなのってことです」
このセリフが照れていたり顔を赤くしていたらまた違った反応が取れたのだろうが、真顔で詰め寄られるその表情に恐怖しか感じなかった。
「み、美奈子?」
「よろしい。ところで明堂さんからはなんて?」
「それがよくわからないんだけどさ」
私は片づけを再開させながら餅田に説明していると、ポケットに入れたスマホがぶぶっと振動した。誰かからメッセージが届いた。
「平等橋ですか? 殺しますか?」
「違うから殺さないで。お母さんからだ」
ハンカチで濡れた手を拭き、メッセージ画面まで行く。読み進めてその内容に噴出した。
「どうしたの、風邪?」
「い、いや違う。違うんだけど」
叔母さんが来るから駅まで迎えに行ってほしい。
短い文章が私に与えた衝撃はなかなかのものだった。
小さい頃、私は叔母の桜さんに大層懐いていたらしい。とお母さんは言う。
その頃兄貴は小学校に上がり立てて、必要以上に私を遠ざけていた。加えてゆかりはまだ赤ちゃんで、遊ぶ相手が誰もいなかった。
どういう理由だったか知らないけど、この時桜さんは我が家に長期間滞在していた。私はお母さんが家事で手が離せない時、よく遊び相手になってもらっていたのだ。
親父の兄妹だというのに桜さんは全然強面じゃなくて、どちらかというとお母さんに近しい柔らかさを持っていた。背は凄く高かったけど。
でもやっぱり親父の妹なんだなと思える場面は多々あって、それは遊びにもよく表れていた。
『怖いよお。高いよお』
『ばっか、ばか公麿! 男がこんな高さなんぼのもんじゃい! 行くぞ神風フライングアタック!』
私を抱えた桜さんは遊びと称して時々公園に生えている高い木に登り、そこから飛び降りて笑うような人だった。今でも少し高いところが苦手なのは間違いなくその経験のせいだ。
他にも車で二時間かけて川に遊びに行き遭難しかけたり、海釣りで竿事海に落ちそうになったりした。無駄に外遊びの規模が大きい人だった。
親父にバレてこっぴどく叱られるというのがいつもの流れだったが、不思議と私は叔母の事が嫌いになれなかった。
失敗して私が泣きかけると叔母は決まって笑った。
『やばい死にかけた。でも楽しいな公麿!』
その笑顔がまぶしくて、綺麗で、私の記憶に鮮明に残っている。
ただ、数々のトラウマ経験から私は叔母の事を嫌いではないけれど、ある意味でとてつもなく苦手になっていた。
晶の誘いを後日に回してもらい、私は駅まで叔母を迎えに来た。
そこまで広い駅というわけじゃないが、それらしい人はまだいない。会うのは二年ぶりだが、女性であれだけ背の高い人を見逃すはずがない。
「だーれだ?」
「ひい!」
ひんやりと大きい何かに突然視界を奪われた。声だけで分かる。
「何やってんだよ桜さん!」
「あっはっはっは! 公麿は相変わらず元気がいいね! うん、グッジョブ!」
大きく親指をたててはしゃぐ叔母さんがそこにいた。お母さんと数年しか歳が離れていないって言うんだから驚きだ。
ぱりっとスーツにコートを着込み、キャリーケースを抱えた姿は完全に出来る女そのもの。なのにどうしようもなく子どもの部分がこの人にはある。見ようによっては美徳なのだが、被害に遭う私としては堪ったものではない。
「大体桜さんは……って、その子」
桜さんに集中していて気が付かなかったが、ちょこんと彼女のコートの裾を掴んでいる小さな女の子がいた。
「ああ、紹介するね。ほら由紀。ご挨拶」
とんと桜さんに背を押されて前に出る女の子。
「……」
暫く待ってみたが、由紀と呼ばれたその子は一向に喋り出す気配がなかった。
戸惑っているとか、恥ずかしがっているわけではなく、ただ黙っている感じだった。一瞬目があったと思えばすっとそらされる。誰かを連想させられた。
「あちゃー、やっぱ黙るか。へいドウター、君はいつからそんな無口な子になっちまったんだい」
「……だ、だっておかーさん」
無言だった女の子が何かに焦るように喋り出した。鈴を転がすような綺麗な声だ。
いや待て。
引っかかるのはそこじゃない。
「お母さん?」
「ん?」
桜さんが反応した。
「えと、誰が?」
「ん、私が」
「結婚したの?」
「したよ。先週」
「なっ―――」
駅構内で女子高生の絶叫が響いた。
駅員さんに注意され、それを見たうちの高校の奴がその噂を流した。お陰で数日間正義や裕子たちに弄られ続けることになるのだがそれはまた別の話だ。
「いやー、久々だとこの辺道わかんなくってさー。公麿がこの時間に帰って来るって咲ちゃんから聞いたから、だったらちょうどいいやってね。この辺も大分開発進んだよねー」
「うん。そうだね」
隣を歩く桜さんは相変わらずお喋りで明るい。
道中「そういえばどうして私だってわかったの?」と尋ねてみた。桜さんは異常なくらいお母さんと仲がいいから多分それ経由で伝わったんだと思う。それでも今の私は髪も伸びたし制服も女子のそれだ。パッと見ただけで分かるものなのか不思議だった。
その問いに対し、「あんたみたいな美少女間違うわけないじゃん」と返ってきた。「咲ちゃんの時もそうだったしあんたら似てるからねー」と快活に笑われる。そういえば最近自分でもお母さんに似てきたような気がしてきている。将来あんな感じになるのかな。
桜さんがたくさん話す分、全く話さない方にどうしても意識がいってしまう。
「……」
無言で桜さんの側を歩く由紀ちゃん。桜さんの娘だという。
私の記憶が正しければ桜さんはずっと独身だった。というか独身をいいことに人生好き放題に生きているなという印象だった。
突発的に会社の有休を使ってエベレスト山脈に登りに行ったと思えば、インドに修行へ行くと音信不通になった時もある。破天荒な風来坊というイメージが強かったからこそ、結婚をしたという事実は私を大いに驚かせた。
「あのさ、由紀ちゃんっていくつ?」
話がひと段落(あのスーパーが潰れてしまっただの、近頃ガソリン代が異常なほど高いだのどうでもいい話が中心だった)着いた頃、私はおそるおそる尋ねた。あの自己紹介から全く由紀ちゃんの話がなされなかったから気になっていたのだ。
「10歳だよ。今四年生……だよね? 由紀」
自信がないのか、桜さんが隣に確認を取ると小さな頭が縦に揺れる。
「ていうかあんたら二人で話しなさいよ。間に挟まれるの窮屈なのよ」
桜さんがぐいっと由紀ちゃんを引っ張って私の隣に来させる。
実はこの道中で私は由紀ちゃんに避けられまくっていた。
初めからその片鱗は感じ取っていたが、年下の子に嫌われる経験が今までなかっただけにどうしたらいいのか分からなかった。
でもその存在を無視するのもどうかと思って、由紀ちゃんと目が合ったときは微笑んでみたり、三人が分かるような話題を提供したりしたつもりだったが、私の小細工は桜さんにはばれていたみたいだ。
ばたばたと元の位置に戻ろうとする由紀ちゃんの頭を押さえ、爆笑する桜さん。
「え、ちょっと桜さん。由紀ちゃん嫌がってるし……」
「嫌がってない嫌がってない。この子照れてるだけだから」
「照れてない!」
桜さんはほれほれさっさと話せと私に目でけしかけて来るが、顔を赤く染めて必死で抵抗を試みる由紀ちゃんを見ればそんな気起こるはずもない。
桜さんがここに来た理由も、由紀ちゃんという存在も私には不明だ。頭が混乱してきた。
やいやい騒がしい二人とは対照的に、私は内心げっそりとしながら歩いていると、対面からお母さんが歩いてきた。
「お、咲ちゃん?」
「遅いから出迎えに来ましたよ桜。いったいどこで油を売ってたんです?」
「めんごめんご。それにしても待ちきれないほど楽しみだった?」
「何言ってんのよ」
ふうと肩をすくめて呆れるお母さん。桜さんと話す時だけお母さんは言葉が若干砕ける。昔からそれがなんとなくいいなあと思っている。
ただ二人の仲が良すぎて、時々子供がおいて行かれることも多い。例えば今がそんな感じ。
久しぶりに会うという事もあって、帰り道だっていうのに立ち止まってやいやい話を始める二人。当然私と由紀ちゃんはぽつんと放置だ。
「……先、帰っとく?」
「……いいです」
勇気を振り絞って話しかけたが、あっさり首を横に振られてしまった。
小さい女の子の拒絶って心にくるね。
由紀ちゃんは桜さんが生んだ子供というわけではなく、相手の連れ子らしい。
家に戻って、桜さんと由紀ちゃんが風呂に入っている間にお母さんが教えてくれた。
「仕事の都合で土日の間家を空けなければいけないらしく、その間由紀さんを見て欲しいと頼まれたんですよ」
相手方の実家はかなり遠くで、近くに頼めるのがうちだけだったらしい。由紀ちゃんは今小学四年生だというが、それでもまだ小学生だ。一人で家を預ける不安は理解できた。
「それにしても桜さんが結婚してたって初めて知ったんだけど。どうして教えてくれなかったの?」
台所で夕飯の用意を手伝いながら私が不満を零すと、お母さんは「その時公麿さんも大変な時期でしたから、伝える機会を逃してしまったんですよ。ごめんなさいね」と謝られた。あのあたりの時期か、なら仕方ない。
「まだ籍を入れただけですよ。でも式は桜はするつもりはないみたいですね」
「なんで?」
「そうですねえ、私もした方がいいと思うんですけどこればかりは桜の意思ですから」
お母さんは何か知っているようだったけど、私にそれを教える気はないみたいだった。言わないってことはそれなりの理由があるのだろう。深く追求するのは違うと思った。
「たっだいまー! あれ、お客さん来てるの?」
玄関ででかい声が反響した。相変わらずゆかりは元気がありあまりまくっている。受験生特有のぴりついた感覚が一切ないから逆に不安だ。
「お姉ちゃんお帰り! お母さんただいま!」
「なんで私はお帰りなんだよ……」
「おかえりなさいゆかりさん。風邪が流行っているみたいですから手洗いとうがいをしていらっしゃい」
走って横スライドしながらリビングにやって来るゆかり。勢いのままタックルを受けるが、いつものことなので動じない。包丁持ってたらヤバいんだけど、お母さんはなぜかゆかりにその手の注意はしないんだよな。私がガンガン言いまくるからそのせいかもしれないけど。
そのまま流れるように洗面所へと消えていったゆかり。
そういえば。
ゆかりが帰ってきたことで懸案事項が一つ増えてしまった。
『あああああああ! 桜ちゃん帰ってきてるううううう!』
『お? ゆかりおかえり~』
風呂場兼洗面所の方からそんな声が聞こえてきた。出会ってはいけない組み合わせの再誕だ。