「ここ、だよな。多分」
俺はスマホの画面と目の前の建物を比べながらつぶやいた。
荒神に教えてもらった位置情報を頼りにたどり着いた平等橋の家は俺の家から更に二駅離れた場所にあった。
公共住宅が立ち並び、そのアパートの一棟に平等橋は住んでいるらしかった。
正直意外だった。
ここを悪く言う訳つもりはないが、平等橋はその見た目からいいところのボンボンだと勝手に思っていたからだ。
狭い階段をあがるとすぐに目的の部屋の前についた。
303号室。そこに明朝体で平等橋という名前が書かれてあった。
インターホンを押す手が宙を行ったり来たりする。
ここまで来てなんだがまだ迷っていた。だってあれだ、学校であんだけ避けられてるのにわざわざ自宅特定して凸ってきたってことになってるわけで、それって下手したら修正不可能なくらい嫌われてしまうんじゃないかって不安になるわけで。
迷っていると唐突に扉が開いた。
「え?」
疑問は一瞬。すぐに鈍い痛みが走った。で、でこが痛え。
「え、え? あら、嫌だ。人がいるなんて気が付かなくてごめんさい! ってその制服……」
「え? あ、えっと」
顔を上げると平等橋に似たえらい美人なねーちゃんがいた。目をぱちくりさせ、俺を、ていうか俺の着ている制服を見ている。
「……ひょっとして正義の彼女?」
「え、いや、あの、えっと……」
素直に違うと言えばそれで済むのだが、テンパってしまってうまく言葉がまとまらなかった。
俺の態度を肯定と受け取ったらしい。
平等橋の姉(仮)は俺の手を引いて立ち上がらせると、「ちょっと付き合ってくれない?」とにっこり笑った。
「最近お野菜の値段が上がって困っちゃうのよね」
「は、はあ」
俺は平等橋の姉(仮)に手を引かれ近所のスーパーに着ていた。マジで手を繋いで引っ張ってこられた。初対面でこの距離感。出会った当時の平等橋を彷彿させた。
それよりも問題は俺と彼女の会話だ。彼女が平等橋の肉親(仮)であるということから俺はバリバリに緊張してしまい、一向に会話が弾まない。愛想ないとか思われてるんだろうなあ。死にたい。
「あなたお名前は?」
ここでようやく名前を聞かれた。
「綾峰です。綾峰公麿」
「公麿ちゃんかー。変わった名前だけどどういう字を書くのかな?」
俺が口で説明すると、「成程ー」と間延びした口調で笑った。仕草がいちいちエロいなこの人。
「私は平等橋愛華っていいます。気軽にあいちゃんって呼んでね。正義とは結構歳離れてんだけどねー」
やっぱり平等橋の姉だったか。薄々そう思ってたけど納得だ。
「公麿ちゃんお肉って好き?」
「え、あ、好き、です」
しばらく俺たちは世間話をしながら買い物を続けた。
スーパーの帰り道までで、俺もだいぶ打ち解けることができたと思う。
そこまでで俺が愛華さんからわかったことは、愛華さんの年齢が24歳で近くの会社に務めていること、今日は早番で偶然早く帰っていたこと、平等橋とは二人暮らしであることだった。
「二人暮らし、ですか?」
「父親が死んじゃってねー。母親はとっくの昔に出て行っちゃったし」
踏み込んでいい領域じゃないことは明らかだった。
平等橋は俺にこんな話をしたことはなかった。父親のことや、母親のこと。
もちろんそんな気軽に話せる内容じゃないことはわかる。
やっぱり俺は平等橋のことを何も知らない。それが再認識させられた。
「それより、キミちゃんのことがもっと聞きたいなー。君はうちの正義とどういう関係なのか? どうも彼女って感じじゃないっぽいしー」
彼女は早々に俺を『キミちゃん』と呼ぶようになった。ちょっと嬉しい。
だが彼女の言葉には俺はすぐに答えることができなかった。
俺が平等橋の何なのか。一か月前からずっと俺が教えて欲しかったことだからだ。
「……友達です。友達、だと私は思っています」
俺の様子に何か察することがあったのか、「ふーん、そっかー」とだけ言って愛華さんはそれ以上何も言わなかった。
愛華さんの強い勧めもあって俺は平等橋のアパートに招待されていた。
他人の家に招待される経験が少ない俺は何とも尻の座りが悪かった。
俺の強い要望もあって、愛華さんの料理を手伝うことになった。お客様はくつろいでいてと愛華さんは言ったけどくつろげないって。なんかそわそわしちゃって落ち着かないんだって。
手伝うといったものの俺の料理のスキルは小学校の家庭科レベルだ。いつも兄貴に料理を任せていたつけがここで回って来た。
「うん。じゃあここはキミちゃんにお料理を教えましょう」
そういうことになった。申し訳ねえ。
初心者にも作りやすいということで、俺は愛華さんからハンバーグの作り方を教えてもらっていた。そういえば中学校の家庭科で作った覚えがあるな。失敗したけど。
愛華さんは包丁の握り方からハンバーグの形成のやり方まで念入りに教えてくれた。
包丁の時は指を切らないようにと後ろに回り込んで俺の手を包み込むようにレクチャーをしてくれる徹底ぶりだ。時折貧血を起こしたようで俺にしだれかかってきたので心配になったが、本人はむしろ元気そうだった。仕事で疲れているのに俺の相手なんてさせて重ね重ね申し訳ないなと思う。
料理に夢中になり過ぎていたのが悪かった。
俺が何の目的でここに来たのか、当初の目的を俺はすっかり忘れていた。
「ただいま」
俺はその声を聞くまで全く忘れていた。
「これなに、え?」
部活帰りの平等橋が目を見開いて俺を見ていた。
「平等橋、あの」
「いや、意味わかんねえし」
いら立った様子で平等橋は俺を一睨みすると、黙って自分の部屋に引っ込んでしまった。
出来事は数秒だったが、十数分近くの緊張感と緊迫感があった。
終わってみると呆気ない。
やってしまったな。
悪い方に転がってしまった。
平等橋と何とか和解したい。
その目的をもってここへやってきた。
途中愛華さんと買い物や料理なんかをして凄く楽しかったけど、本来の目的は平等橋だ。
それが一瞬にして、再び拒絶。
あの感じじゃ対話をする隙も何もあったものではないだろう。学校の時の非じゃないほどこっちへ来るなというオーラをバシバシ感じた。
もうちょっと何とかなると思ったんだけどな。
吐いた息は苦笑かため息か、それとも別の何かなのか。
なんにしてももうここにいるわけにはいかないだろう。俺は愛華さんに挨拶をして帰ろうと振り返った。
「かっちーん」
できなかった。なぜなら、愛華さんが今までの笑顔を一切忘れたかのようにキレていたからだ。
「ご、ごめんなさ」
愛華さんがこっちに向かって近づいてきたので俺は反射的に頭を下げた。すると愛華さんは俺を素通りして平等橋の部屋の前まで行くと、
思いっきりその戸を蹴り飛ばした。
「正義あんたちょっと出てきなさい」
「え、ちょ、姉貴」
「出ろっつってんの、聞こえない?」
愛華さん、だよな。
今繰り広げられている修羅場、それを引き起こしている人物が昼間キャベツが高いと頭を抱えておっとり微笑んでいた人物と一致しない。
「何アンタ舐めた態度取ってんの? さっさと出ろっつってんだよ」
破壊音。
衝撃でリビングの近くのドアや壁がドスンドスンと揺れる。何が起こっているのか想像するだけでぞっとする。
部屋に入ってしまい二人がどうなっているのか全然わからない。音だけっていうのが逆に怖い。
断片的に聞こえる平等橋の「ちょっ」とか「待って!」といった静止の声を無視するかのような暴行音。
それからしばらくすると顔を二倍近くに腫らした平等橋が出てきた。
気まずそうに眼をそらすが、数秒の逡巡を経て俺に向き直った。
「……ごめんな公麿」
後ろではにっこり笑う愛華さん。その笑顔がただただ恐ろしかった。