Game of Vampire 作:のみみず@白月
「……ロン先輩、これを全部覚えるんですか?」
『連合王国魔法法』というシンプルなタイトルがついた分厚い本。十センチ程度の厚さがあるその本を前に、サクヤ・ヴェイユは戦慄の思いで問いかけていた。想像しただけで頭がおかしくなりそうだな。
三月に突入したホグワーツ。先週行われた準決勝の勝利に生徒たちがまだまだ沸いている中、七年生だけは早くもイモリ試験の『助走期間』に入っているようだ。珍しく空きコマがあったので大広間でのんびりしようと訪れてみたところ、グリフィンドールの長机でハーマイオニー先輩とロン先輩が猛勉強していたのである。
呆れ半分で聞いた私に、ロン先輩は心底うんざりしている様子で応じてきた。ちなみにポッター先輩と魔理沙は競技場で自主練習をしていて、リーゼお嬢様は人形店に帰っているらしい。
「聞いて驚け、サクヤ。この一冊で全部じゃないんだ。この本はあくまで『イギリス共通法』の本であって、イングランド版、ウェールズ版、スコットランド版、北アイルランド版がそれぞれ別に存在してるのさ。地域独自の魔法法ってのもあるみたいでな。」
「……まさか、それも覚えるんですか?」
「最終的には全部覚えるらしいけど、闇祓いの入局試験に出てくるのはこの本の……ここからここまでだけだ。そんでもって入局後の基礎訓練課程でここをやって、その最後の関門である二次試験の内容がこのあたり。それを突破したらようやく地域別の魔法法に入っていくみたいだな。」
気の遠くなるような話じゃないか。説明していくうちにどんどん元気を失くしていくロン先輩へと、苦笑いで相槌を打つ。
「何回も試験があるんですね。」
「二次試験を突破してもまだ見習いで、訓練課程の最後にある任官試験を突破してやっと闇祓いを名乗れるようになるんだよ。ちなみにその後も出世したいなら昇任試験があるぞ。何人かの闇祓いを指揮する立場になりたいなら、星の数ほどある魔法法を全部覚えなきゃいけないってわけさ。」
「加えて言えば、局長・副局長クラスは近隣他国の魔法法も覚える必要があるわよ。この前職場見学に行った時、スクリムジョール部長が教えてくださったでしょう? 国際法の知識も必須だしね。」
「僕はそこまでは目指さない。絶対にだ。やるやらない以前にそんなの不可能だしな。」
ハーマイオニー先輩の追加情報を受けて、ロン先輩は早くも出世の道を見限っているが……あの頼りなさげな現局長さんや、前局長であるムーディさんは覚えたってことか。実は凄く頭の良い人たちだったらしい。スクリムジョール部長の場合はまあ、そこまで意外でもないが。隙なく覚えていそうな雰囲気があるぞ。
「ポッター先輩は大丈夫なんですかね? クィディッチが片付いた後から本格的な試験勉強を始めるわけでしょう?」
ふと頭をよぎった懸念を口に出してみれば、ロン先輩とハーマイオニー先輩はお揃いの苦い顔で曖昧に首肯してきた。どう見ても『大丈夫』ではなさそうな顔付きだ。
「今も少しずつやってるから、僕らが手伝えばギリギリのラインまでは……うん、持っていけると思う。多分な。」
「私は心配よ。先ずイモリで結果を出して闇祓いの入局試験にたどり着けるかすら不安なのに、その試験を突破することまで考えなくちゃいけないわけでしょう? 凄く難しいことだと思うわよ、それって。」
「仮にイモリで『足切り』を抜けたとして、闇祓いになるための試験はいつなんですか?」
「魔法省の入省試験はどの部署も八月の前半よ。基本的にイモリの成績次第で入省試験が免除になるんだけど、闇祓い局はもちろん関係ないわね。他の部署で試験免除になるレベルの成績で、ようやく試験を受けられるって感じなの。」
そういえば八月に入ってから通知されるフクロウ試験と違って、イモリ試験は結果が七月中に届くんだっけ。その理由はイモリの成績を踏まえた上で行われる就職のための試験があるからなわけだ。一つ謎が解けたぞ。
「それはまた、楽しくない夏休みになりそうですね。九月から仕事が始まるわけですし、人生最後の夏休みなのに。」
「人生で一番来て欲しくない九月になるだろうな。……クィディッチでホグワーツが優勝したら、少し点数に色を付けてくれるとかはないかな? イギリス人だったらホグワーツの勝利が嬉しくないはずないだろ?」
私に然もありなんと応答したロン先輩の発言に、ハーマイオニー先輩がバカバカしいと言わんばかりの表情で否定を返す。まあうん、そんなに甘くはないだろうな。
「絶対にないわね。一芸としては評価してくれるかもしれないけど、それを点数に絡めてくれるのは魔法ゲーム・スポーツ部だけよ。精々面接での印象が良くなるかもってくらいかしら。」
「世知辛いな。闇祓いの技能訓練に飛行学はあるのに。」
「複数人で周囲を囲みながら犯人の護送をする時とかに、小回りの利く箒を使う場合があるらしいわ。闇祓いとクィディッチの接点はそれくらいね。……結局のところ試験の成績が全てなのよ。学生生活で勝つのはクィディッチプレーヤーだけど、就職で勝つのは『ガリ勉ちゃん』ってわけ。」
「別に勝ち誇らなくてももう誰もバカにしてないよ。ガリ勉のグレンジャーさんは賢い魔女だった。今の七年生はみんなそのことに気付いてるさ。今更気付いたところでもう遅いけどな。」
ため息を吐きながら認めたロン先輩へと、ハーマイオニー先輩はクスクス微笑んで肩を竦めた。立場逆転ってことか。
「分かればよろしい。それに、貴方の場合はまだ遅くないでしょ。……ああ、考えてたら心配になってきたわ。ハリーは本当に大丈夫なのかしら? 間に合うと思う?」
「間に合わせるために僕らが頑張ってるんじゃないか。こうなった以上、ハリーの敗北は僕らの敗北だぞ。それが嫌なら今のうちから勉強しておいて、完璧な試験対策をした後でハリーに最短ルートを示すしかないだろ。」
「そうね、それしかないわ。……つくづく六年生のうちに勉強しておけば良かったわね。後悔先に立たずよ。」
「全部ヴォルデモートの所為さ。あいつが余計なことさえしなけりゃ、僕たちはかなり余裕のある学生生活を送れてたんだ。これでハリーか僕が落ちたら絶対に恨んでやるからな。」
話が巡りに巡って『根本の原因』にまでたどり着いたところで……おや、マルフォイ先輩だ。大広間にスリザリンの最上級生が入ってくるのが視界に映る。今日は珍しく空き時間をクィディッチではなく、勉強に充てるつもりらしい。
「マルフォイ先輩ですね。……あの人は大丈夫なんでしょうか? 魔理沙はマルフォイ先輩も闇祓いを目指してるって言ってましたけど。」
ポッター先輩と同じ状況……どころか、代表チームのキャプテンをやっているんだからそれ以上に『危険な状況』に置かれているはずだぞ。スリザリンのテーブルで勉強道具一式を広げているマルフォイ先輩を指して疑問を口にしてみると、ハーマイオニー先輩が難しい顔で返事を寄越してきた。
「いくら成績が良いマルフォイでも大丈夫ではないはずよ。一体全体何をどうやって処理してるのかしら? 家のこともあるでしょうし、監督生だし、代表チームのキャプテンだし。私なら絶対にパンクしてるわね。」
「少なくともキャプテンと監督生は問題なくやり切ってますよね? ……ひょっとして、逆転時計を使ってるとか? さすがに許可が出そうな状況だと思いませんか?」
「三年生の時の私程度の状況で許可が出たんだから、今のマルフォイだったらおかしくはないと思うけど……どうなのかしら? 使ってそうな雰囲気は一切感じないわね。」
「使ってるかどうかは聞いちゃダメなんだろ?」
テキパキと書き物を始めたマルフォイ先輩を見ながら問いかけたロン先輩に、ハーマイオニー先輩が小首を傾げて答えを送る。どうしてダメなんだろう?
「んー、聞くのがダメって言うか……つまり、逆転時計の使用自体があまり良いことじゃないのよね。仕方なく慎重に使うべき道具であって、大っぴらに進んで手を出すような道具じゃないわけよ。である以上、触れないで済むなら触れない方がいいんじゃないかしら?」
「強力すぎるから、ですか?」
「そういうことよ。ホグワーツの生徒に貸し出される逆転時計は制限付きの物だけど、それでも時間を操るのはとても危険なことなの。四年前の私に使用許可が出たのが信じられないほどにね。仮に今許可を得られたとしても、私は怖くて使えないと思うわ。使い方次第ではヴォルデモートを復活させる……というか、『死ななかったことにする』ことすら可能でしょう。時間を操るというのは強力かつ危険な行為なのよ。色々なことを学んだ七年生の私は、人間がその領分に手を出すべきじゃないと考え直したわけ。」
真剣な表情で時間操作の危険性を語ったハーマイオニー先輩へと、ロン先輩も頭を掻きながら同意した。
「ま、そうだな。僕もジョークとして使いたいとは言ってるけどさ、実際目の前にしたら手を出せないと思うぜ。過ぎたるものなんだよな、多分。魔法にだって出来ちゃいけないことってのはあるんだよ。」
「賢い台詞ね。度を過ぎた利便性は時として破滅を運んでくるものよ。魔法界の歴史も、マグルの歴史もそう語っているわ。」
「……やっぱり使ってないんじゃないかな。マルフォイだってそれには気付けるだろ。あいつはそういうタイプの人間だと思うぞ。」
「まあ、私も使ってないと思うわ。魔法省だって年々管理に気を使うようになってきてるし、今の状況では簡単に貸し出さないでしょう。……さあ、休憩は終わり。面白い議論ではあったけど、今やるべき内容じゃないわ。私たちはもっと差し迫った問題に向き合うべきよ。」
そう言うとハーマイオニー先輩はイモリの勉強に戻り、ロン先輩も魔法法を覚えるのに集中し始めるが……『過ぎたるもの』か。人間にとって時間を操るのが危険な行為であるならば、その力を生まれ持ってしまった私はどうすればいいんだろう?
うーん、難しいな。先輩たちの言葉にも一理あるとは思ってしまうが、かといって今更どうにもならない。能動的に使いまくって操作を磨くか、あるいは自分自身で能力の使用に制限をかけるべきか。どちらにせよ一生付き合っていかなければならない力なのだ。
ある意味では贅沢な悩みであることを自覚しつつ、サクヤ・ヴェイユはポケットの中の懐中時計をそっと撫でるのだった。
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「……そっか、ビービーはアリスたちに迷惑をかけてたのね。」
椅子に腰を下ろして俯いているアビゲイルを前に、アリス・マーガトロイドは何とも言えない気分で小さく頷いていた。当然のこととはいえ、ひどく落ち込んでいるな。彼女の膝に座っているティムも悲しげな雰囲気でしょんぼりしている。
ベアトリスの死から一週間ほどが経過した今日、人形店の自室でアビゲイルとティムに対して詳細な経緯の説明をしていたのだ。五十年前の事件のこと、今回の騒動のこと、そしてベアトリスと私たちとの関係。多少落ち着いてきたから話しても大丈夫かと思ったのだが……むう、やっぱりまだ早かったのかもしれないな。
二人の反応を見て早まったかと後悔する私に、アビゲイルは静かな悲しみを湛えながら話を続けてきた。
「私とティムはどうなっちゃうの?」
「貴女たちの希望に沿う形にしたいとは思っているわ。ここに居たいのであれば勿論居てくれて構わないし、私たちと居るのが嫌だと言うなら他の居場所を探すから。」
「……他に居場所なんてないわよ。私だってそのくらいのことは分かってるわ。『動く人形』が普通に生きていけるわけないじゃない。」
自嘲するように呟いたアビゲイルは、組んだ自分の手を見つめつつ言葉を繋げる。何かを懐かしむような、それでいてどこか悔しそうな表情を浮かべながらだ。
「何でこうなっちゃったのかしら? 私はただ、あの家でビービーと一緒に暮らせればそれで良かったのに。それだけで幸せだったのに。」
「……ごめんなさい、アビゲイル。」
「どうしてアリスが謝るの? 私、アリスやアンネリーゼのことを恨んではいないわ。二人が巻き込まれただけっていうのはもう分かったもの。……ただ悲しいの。ビービーともう会えないことが悲しくて、怖くて、不安になるの。私も泣けたらいいのに。そしたら今よりもずっと楽になれそうな気がするから。」
アビゲイルには涙を流す機能が備わっていない。だから彼女はどんなに悲しくても泣くことが出来ないのだ。遣る瀬無い思いでそっと彼女の頰に手を当てた私へと、アビゲイルは膝の上のティムを撫でながら問いかけてきた。
「……ねえ、アリス? ビービーは私が壊れた方が良いって思ってるみたいだったわ。もしかしたら、もしかしたらそうすべきなんじゃないかしら? ビービーが居なくなったのに、私がこのまま『生き続ける』のはおかしいと思わない?」
「私はそうは思わないわ。貴女たちにこれからも一緒に居て欲しいと思ってるの。……ダメ?」
「もう私には分からないのよ。……アリスのことは好きよ? エマも好きだし、アンネリーゼやマリサやサクヤも嫌いじゃないわ。だからきっと、この家に居れば苦しくないと思うの。……だけどね、それはビービーに対してとっても失礼なことなんじゃないかしら? 私とティムだけが幸せになったら、ビービーはどう思う? それが怖いのよ。ビービーを裏切ってるみたいで。」
不安を吐き出すように訥々と語ったアビゲイルは、まるで怒られるのを怖がる子供のように縮こまってしまう。その姿に内心で息を吐きつつ、ふわふわの金髪に手を載せて口を開いた。
「私も貴女たちのことが好きよ。もっと沢山のことを教えてあげたいし、これまで知らなかった色々なものを見せてあげたい。私にはベアトリスの言葉を代弁することなんて出来ないけど、少なくとも私個人としては貴女たちに側に居て欲しいと思っているの。それだけは覚えておいて頂戴。」
「……うん。」
「何にせよ、ゆっくり考えて良いのよ。時間はたっぷりあるんだから。今すぐ答えを出そうだなんて思わないで、焦らず自分のペースで考えてみて。この家の住人は待つのが得意なの。貴女たちが納得できる答えを出すまでいつまでも待ってみせるわ。」
「……分かった。」
こくりと頷いたアビゲイルをもう一度撫でてから、立ち上がって部屋のドアを抜ける。少し落ち着いて考えさせた方がいいだろう。もう全てが終わったのだ。だったら急ぐ必要なんてないはず。
自分で自分の肩を揉みながら廊下を進んでリビングにたどり着くと、キッチンで何かをしているエマさんの姿が目に入ってきた。うーん、いつも通りの姿だな。不安定に揺れていた心が定まる感じがするぞ。
「エマさん、何か手伝うことはありますか?」
「あれ、アリスちゃん? アビーちゃんたちは大丈夫なんですか?」
「ちょっと二人で考える時間が必要だと思ったので、席を外してきました。今は落ち着いてます。」
「そうですか。……じゃあ、一緒にやりましょう。スコーンを作ってたんです。」
笑顔で言ってくるエマさんに、気を使われていることを感じながら歩み寄る。手慰みを欲していることを察してくれたのだろう。スコーン程度のお菓子で彼女が手伝いを必要とするとは思えないし。
「生地を伸ばすんですか?」
「ええ、こんな感じで伸ばしていって……最終的に細長くした後で切って形を整えるんです。あんまり綺麗にし過ぎないのがコツですね。」
「綺麗にし過ぎない、ですか。変なコツですね。」
「奇妙なことに、スコーンは多少雑に作った方が美味しく見えちゃうんですよ。食感も良くなりますしね。これだからお菓子作りは奥が深いんです。」
手を抜いた方が良い結果になる料理もあるということか。なんだか深い知識を蓄えたところで、私の倍ほどのスピードで生地を整えていくエマさんが話題を変えてきた。
「人形店の方はどうするんですか? 指名手配の一件で出端を挫かれちゃいましたけど、元々は再開する予定だったんですよね?」
「あー、そうですね。騒動は一段落しましたし、近いうちに再開したいと思ってます。商品は長年作ってた人形が山ほどありますから、実は開店すること自体は難しくないんです。……いっそお菓子も置いてみますか? エマさんのなら売れそうですけど。」
ふと思い付いた提案を口にしてみると、エマさんは目をパチクリさせて動きを止めた後……おー、珍しいリアクションだな。そわそわと身体と翼を揺らしながら返事を寄越してくる。エマさんが翼をパタパタさせるところは初めて見たかもしれない。感情を翼の動きに出しがちなリーゼ様やスカーレット姉妹と違って、普段の彼女は邪魔にならないように翼をきっちり畳んでいるのだ。
「わ、私のお菓子をですか? ……人形店にお菓子だなんて変じゃないですかね?」
「個人商店ですし、別にいいんじゃないでしょうか? それにまあ、この辺はお菓子屋さんがありませんから、上手く行けば流行るかもしれませんよ?」
「でも、でも……お嬢様。アンネリーゼお嬢様に許可をいただかないと。」
「リーゼ様なら許してくれると思いますけど。」
今だってメイド業は休業中みたいなものなんだし、リーゼ様はそれほど拘らないだろう。『やってみたい』という感情を汲み取って促してみれば、エマさんは嬉しそうな顔付きでこくこく首肯してきた。
「そうですね、お嬢様にお許しをいただけたなら……やってみたいです。お菓子屋さんはちょっとした夢だったんですよ。いい歳して恥ずかしいですけど。」
「いい歳っていうか、吸血鬼的には今まさに働き盛りじゃないですか。……お菓子を置くとなると、保冷用のガラスケースを設置しないとですね。あとは店の前に小さめの黒板か何かでメニュー表を置けばいけるかな?」
「あの、少しでいいですからね? 私なんかのお菓子を買っていく人がそこまで多いとは思えませんし、こう……趣味で置いている程度のスペースで充分です。メインはあくまでアリスちゃんのお人形なんですから。」
とはいえ、人形の方だって時勢に合っていないんだからそこまで売れはしないだろう。そうなるとお菓子の方がメインになってしまう未来すら有り得るぞ。……まあいいか、それもまた良しだ。どちらにせよ楽しい店になるのは間違いあるまい。
停滞期間が終わり、少しずつ前に進んでいる感覚。久し振りの『進歩』の感覚に口元を綻ばせながら、アリス・マーガトロイドはスコーンの生地を雑に伸ばすのだった。