Game of Vampire 作:のみみず@白月
「……ただいま帰りました、エマさん。」
情けない。またリーゼ様に決着を付けてもらったことも、アビゲイルの本心に気付けなかったことも、魔女の苦悩を汲み取れなかったことも。どこまでも情けない自分を嫌に思いつつ、アリス・マーガトロイドは人形店のリビングルームに足を踏み入れていた。
クィディッチトーナメントの決勝戦が終わった直後、咲夜を会場に残してポートキーでイギリスに帰国したのだ。魔理沙には悪いが表彰式まで見ていられるような気分ではなかったし、今は一人で考える時間が欲しい。そう思ったから一番早く出発するポートキーで帰ってきたのである。
ノロノロと重い足取りで入室した私へと、ダイニングテーブルを拭いているエマさんが笑顔で反応を寄越してきた。……ここも憂鬱になる部分だな。エマさんにはきちんとアビゲイルのことを説明しなければなるまい。そして知れば間違いなく彼女も悲しむだろう。
「お帰りなさい、アリスちゃん。どうでしたか? ホグワーツは勝てました?」
「はい、ホグワーツの優勝です。魔理沙が決定打のゴールを決めました。」
「魔理沙ちゃんが? それはおめでたいですねぇ。夏休みに帰ってきたら思いっきりお祝いしてあげましょう。……アビーちゃんはまだ下ですか?」
「アビゲイルは……その、帰ってきません。」
俯きながら小さな声で言った私に、エマさんはよく分からないという声色で応答してくる。もう帰ってこないのだ、彼女は。
「へ? ……もしかして、アンネリーゼお嬢様と一緒に居るんですか?」
「違うんです。……すみません、一旦部屋に戻りますね。詳しい事情の説明は後にさせてください。」
こんなもの単なる逃げだ。そのことを自覚しながら曖昧な返答を口にして、返事も聞かずに自室へと歩を進めた。……まさかこの期に及んでエマさんへの説明までリーゼ様に任せるつもりじゃないだろうな? 私。お前はアビゲイルからの伝言を受け取っているだろうが。
自分の中の理性が非難してくるのに顔を顰めつつ、飛び込むように自室のドアを抜ける。そのまま大きくため息を吐いてから、閉じたドアに背を預けて力無くしゃがみ込んでいると……どうしたんだ? 作業机のすぐ近くの棚で、あたふたと動き回っている人形の姿が目に入ってきた。
よく見てみれば、動いているのは最近稼働させ始めたばかりの『お片付けちゃん』のようだ。立ち上がって棚に近付いて確認すると、どうやらその棚の中に仕舞っておくべき工具が見当たらない所為で、自身の使命である『お片付け』が完了しなくてパニック状態に陥っているらしい。一階の店舗裏の作業スペースに置きっ放しにしちゃったかな?
「ごめんなさいね、お片付けちゃん。」
何にせよ、同じ事態が起こらないように条件付けを再調整する必要があるな。ポツリと謝ってから一度機能を停止させて、作業机の上にそれを置こうと──
「……っ!」
最初に視界に映ったのは、机の上にぶちまけられている真っ黒なインクだ。近くに倒れているインク瓶があるし、そこから零れた物らしい。そして次に見えたのは羊皮紙の切れ端。辿々しい歪な文字で短い一文が書かれている羊皮紙を目にした瞬間、それを手に取って部屋を飛び出す。
「エマさん!」
「わっ、どうしたんですか?」
リビングに駆け込んでキッチンに居るエマさんに呼びかけた後、部屋を見回しながら質問を放った。
「ティムは……ティムはどこですか?」
「へ? ティム君? ……そういえば姿が見えませんね。十二時頃は一緒にお掃除をしてたんですけど、それから一度も見てないかもしれません。」
「……そうですか。」
平坦な声で端的に応じてから、リビングのソファにどさりと身を沈める。……もう遅いだろうな。お昼頃に居なくなったのであれば、今更探したところで見つかるはずがない。正午か。ちょうどアビゲイルが破壊されたその時点に、ティムはこの家から姿を消したというわけだ。
「アリスちゃん、本当にどうしちゃったんですか? 変ですよ?」
「……いえ、ちょっと頭の中がこんがらがっちゃいまして。成功したのは誰なのか、失敗したのは誰なのか。こうなってくるとさっぱり分かりませんよ。」
きょとんとした顔付きで首を傾げるエマさんに苦笑しながら、手に持ったままだった羊皮紙の切れ端へと目を落とす。ベアトリス、アビゲイル、そしてティム。誰が誰で、誰が誰じゃなかったんだろうか? リーゼ様が帰ってきたら話してみよう。私はもうお手上げだ。
隅に小さな熊の手形がインクで押されている羊皮紙。そこに書かれてある一文を読みつつ、アリス・マーガトロイドはひどく疲れた気分で眉間を揉み解すのだった。
『私は点在している。』
─────
「……なるほどね、これは確かに難解だ。」
『私は点在している』か。数時間前に人形の少女から聞いた台詞が書いてある羊皮紙を眺めながら、アンネリーゼ・バートリは顔に苦い笑みを浮かべていた。残念ながら、折角片付けてきた『宿題』は役に立たなさそうだな。今のアリスは落ち込んでいるというよりも、困惑しているって様子だし。
マホウトコロでの閉会式が終わった後、ポートキーで帰国して咲夜をホグワーツに送り届けてから、非常にビクビクしつつ人形店に姿あらわししてみたわけだが……そこに居たのは塞ぎ込んでいるアリスでも、私に対して怒っているアリスでもなく、困り果てた表情で羊皮紙の切れ端を持っているアリスだったのである。
そんなアリスから事情の説明を受けて、現在はダイニングテーブルでエマが淹れてくれた紅茶を飲みながら思考を回しているわけだ。様々な可能性を脳裏に描いている私へと、対面の椅子に腰掛けているアリスが問いを寄越してきた。根本的な問いを。
「ティムは……彼は、結局『誰』だったんでしょうか?」
「先ず、『アビゲイル』ではないんじゃないかな。彼女がコピーのコピーを作れるかどうかはさて置いて、マホウトコロで話した彼女の言葉に嘘は無かった。そこを読み違えるほどに自分の目が節穴だとは思いたくないね。」
「私もそう思います。……でも、『ベアトリス』っていうのも違和感がありますよね?」
「同意しようじゃないか。ベアトリスもまた死に際に嘘を吐いてはいなかった。あの時確かに、彼女は自分を終わらせた……と思っていたんだけどね。今となっては分からんよ。」
今までの動きから何となく侮っていたが、ベアトリスは三百年を生きた魔女なのだ。そう考えると自信がなくなってくるぞ。こめかみを押さえながら言った私に、アリスは事態を整理するための発言を送ってくる。
「……自分の記憶を消す前の『過去のベアトリス』が、ティムにも記憶を移していたんだと考えるべきですよね? つまり、不測の事態に備えての『予備』として。」
「だろうね。でなければこんな一文を残せるはずがない。しかし、アビゲイルはそれを知らなかった……のか? あの北アメリカの工房を最初に出る時、数ある人形の中からティムを選んで同行させたのはアビゲイルだったはずだ。」
「そうするように過去のベアトリスが仕組んだのかもしれません。アビゲイルは最後まで話し相手になってくれたって言ってました。だからこそティムを選んで連れて来たわけですから──」
「だがね、アリス。アビゲイルはベアトリスだったんだ。百年間あの家で人形ごっこをしていたというのは単なる作り話に過ぎないんだよ。私たちやベアトリスの行動を詳しく知っていた以上、彼女が『アビゲイル』になったのはそう昔のことではないはずだろう? ……ああくそ、さっぱり分からん。すっきり終わったと思ったら、幕が下りた直後にはもうこれだ。この戯曲は難解すぎるぞ。」
とんでもない『一人芝居』だな。ベアトリスもアビゲイルもティムも元々は一人の『ベアトリス』だというのに、よくもまあここまで複雑に展開させられるものだ。絡み合った糸をイライラしながら解いていると、アリスの隣に座ったエマが推理に参加してきた。ちなみにアビゲイルに関する事情は、私が帰る前にアリスから教えてもらって把握済みらしい。
「いっそこの際、別個の存在として考えた方がいいんじゃないでしょうか? ベアトリスさんも、アビーちゃんも、ティム君も別人なんですよ。それぞれに目的があって、それぞれに望みがあった。そういうことなんだと思います。」
「……まあ、そうかもね。ベアトリスは自身が書いた戯曲の崩壊を望み、アビゲイルはその達成を望み、ティムは生き延びることを望んだ。三者の基礎である『過去のベアトリス』が持っていた側面の一つ一つを、それぞれが引き継いだってところか。」
「ベアトリスがわざわざ北アメリカの工房を焼き払ったのは、アビゲイルだけじゃなくてティムのことも『始末』しようと思ったから……っていうのは考えすぎですかね?」
ティーカップの取っ手を弄りながら放たれたアリスの言葉を聞いて、紅茶を一口飲んでから肩を竦める。
「大いに有り得ると思うよ。それどころか、過去の彼女はあのリビングルームに居た他の人形にも記憶を移していたのかもしれないぞ。アビゲイルに記憶を移した後で他の人形たちにもコピーしたのだと考えれば、アビゲイルが知らなかったことには説明が付くしね。彼女は『コピーされた時点』までの記憶しか持っていないと言っていたじゃないか。……いや待て、違うな。そうなるとアビゲイルに記憶をコピーした後、自身の記憶を消すまでの間に他の人形への記憶のコピーを思い付いたことになっちゃうか。実行したのがアビゲイルを作った後だろうが、発想自体は記憶を引き継いでいるアビゲイルも知っていなければおかしいはずだ。ちょっと不自然な流れに感じるね。」
「自分の記憶と同じように、消すか弄るかしたのかもしれませんよ。アビゲイルに記憶をコピーした後で、他の人形たちにも同じようにコピーする……というか、『コピーしようとしている』って記憶を。私としてはその方がしっくり来ます。」
「……まあ、私もアビゲイルがティムの正体を知らなかったという推理には七対三くらいで賛成だし、それを前提にすればアビゲイルの記憶もまた弄られていたと考えるべきなのかな。」
思い返してみれば、去年の年末に北アメリカの工房に残された他の人形たちを回収しに行く切っ掛けを作ったのは……そう、ティムの方だ。提案自体をしたのは話すことが出来るアビゲイルの方だったが、彼女はティムのジェスチャーに触発されてその行動に至ったはず。他の人形たちも安全なこの場所に連れて来ることで、『生存率』を上げようとしたのかもしれないな。
「だけどアビゲイルがどうであれ、オリジナルであるベアトリスは覚えていた……じゃなくて、思い出したはずです。ティムもまた『ベアトリス』であることを。だからあの時壊そうとしたんでしょうか?」
「かもね。何にせよもうベアトリスとアビゲイルは死に、ティムは姿を消した。答え合わせは出来ないよ。」
やれやれと首を振りながら呟くと、アリスは複雑そうな表情で自分の部屋がある方向に顔を向けて口を開く。アビゲイルは知らず、ベアトリスは思い出していたという考察は間違っていないと思うのだが……しかし、ベアトリスはアビゲイルに対してほどティムに対して『抵抗』していなかったのもまた確かな事実だ。灰色の魔女にとっては生存を目指したティムよりも、ハッピーエンドを目指したアビゲイルの方が許せない存在だったということなのかもしれんな。
「私の部屋の人形作り用の工具がいくつか無くなっていました。多分、ティムが持って行ったんだと思います。」
「一からやり直すためだろうさ。一からというか、あの身体じゃかなりのマイナスからのスタートだろうがね。そもそもあの身体で魔法が使えるのか?」
「ティムの内部にあった術式は恐ろしく複雑なものでした。ベアトリスの術式が特別煩雑なんだとばかり思ってましたけど、今考えれば『やり直し』のための機能を持たせてあったのかもしれません。もっと調べておけば良かったです。」
「キミも私もアビゲイルに気を取られていたからね。あの熊のことは全然気にしてなかったよ。……アビゲイルがベアトリスを使って私たちの目を逸らしたように、ティムはアビゲイルを使ってそれをしたわけか。」
どこまでが計算だったんだろうか? ……真に褒めるべきは過去のベアトリスなのかもしれんな。コピーであるアビゲイルも、そしてもしかすると未来の自分自身すらもを欺いて、ティムという皮を被った『ベアトリス』を存続させたわけか。
要するに、『アリスの庇護下で幸せな生を手に入れる』という最大の目的を目指しつつも、失敗した時のためのセーフティまでしっかり準備しておいたわけだ。しかもそれを安全な場所に連れ出したのは主役であるアビゲイルで、また稼働できるように直したのは『母親役』であるアリスで、北アメリカで記憶を取り戻したベアトリスから守ったのは他ならぬこの私。幾ら何でも全てが計算だとは思えんが、どこまでも諧謔のある展開になったじゃないか。
それぞれに糸を握り、それぞれに操られていた人形たちの戯曲。現在のベアトリスは諦観の中で死んでいき、アビゲイルは僅かな幸せに包まれながら死に、ティムもまた過酷なやり直しをしなければならない。そして最大の目的が『二度目の生』だったのだとすれば、過去のベアトリスもまた失敗したと言えるだろう。
私たちもまさかこの状況で『勝った』とは言えないし……うーむ、勝者なき結末か。やっぱり悲劇だと鼻を鳴らす私へと、エマが懸念を示してきた。
「ティム君がいつか力を取り戻したら、またアリスちゃんに関わってくるんでしょうか?」
「……どうかな、私はもうちょっかいをかけてこないと思うけどね。五十年前に始まった一連の劇は、これで終わりって気がするんだ。役者であることを重視していた『ベアトリス』は終幕した劇に拘泥しないんじゃないかな。何の保証もないが。」
「私も……私もそう思います。根拠はありませんけど、そんな気がしてならないんです。だからこそティムは最後にこの一文を残して姿を消したんじゃないでしょうか?」
羊皮紙の切れ端を指しながら言ったアリスの声を最後に、リビングを短い沈黙が包む。今度こそ本当に幕が下りたわけだ。長い人形劇の幕が。
「……レミィたちにいい土産話が出来たよ。幻想郷に行ったら話してやるとしようか。」
「そうですね、私もパチュリーと話したいです。」
苦笑いで応じたアリスに首肯してから、椅子に身を預けて天井を見上げた。つくづく厄介な存在だったな。自己を分離させるというのも立派な生存術の一つなわけか。『なぜ私は私なのか』だったか? 昔ハーマイオニーから借りた哲学の本の内容を思い出すぞ。
全てが終わった現在、果たしてベアトリスは『まだ生きている』と言えるのだろうか? ……私は言えないと思うがな。ティムの中にある存在はもはやベアトリスではあるまい。分離した時点で別の個となっているはずだ。アメーバほど単純な存在なら気にも留めないだろうが、知性ある生命体はこの葛藤から抜け出せないはず。
ベアトリスが得た価値観は進化の結果なのか、あるいは退化の一種なのか。……考えるだけ無駄そうだな。あの女は結局、魔女でも妖怪でも人間でも人形でもなかったのだから。何か別の『違う存在』だ。私たちとは根本的に違う何か。今でははっきりとそう思えるぞ。
久々に感じる空虚な恐怖を素直に受け取りつつ、アンネリーゼ・バートリは温かい紅茶をこくりと嚥下するのだった。