Game of Vampire   作:のみみず@白月

489 / 566
アンネリーゼ・バートリと幻想の守護者
ハレの子


 

 

「つまり、貴女は指導役をやらなくてもいいってことよ。理解した?」

 

目の前で面倒くさそうに伝えてくる葵寮生徒会の先輩に頷きながら、東風谷早苗は虚しい感情を愛想笑いの下に隠していた。楽しみにしていたんだけどな、新入生の指導役。私はそれすらやらせてもらえないわけか。

 

新学期の開始が間近に迫っている四月一日の午前中、現在の私は葵寮の新しい自室へと荷物を運び込んだところだ。五年生から寮生活が始まるマホウトコロでは五、六年生が学年ごちゃ混ぜの四人部屋、七、八年生が同級生との二人部屋、九年生から三期生までの四年間が一人部屋と決まっているので、学期の終わりから始まりまでのこの期間にみんなルームメイトとお別れをして部屋を移動しているわけだが……まあ、私はあんまり変わらないな。七年生の頃から一人部屋だったし。

 

私の学年の女子葵寮生は奇数で、そうなると余る一人が出てしまう。その『余り』が誰になるかなんて分かり切った話だ。二年前に七年生に上がった時、当然のように転入組の無派閥の蛇舌が二段ベッドを一人で使う羽目になってしまったのである。

 

ふん、別にいいもん。今の私は独りぼっちじゃないんだぞ。寮の廊下を歩き去っていく生徒会の先輩を見送った後で、ドアを閉めて元居た部屋から運んできた段ボール箱に向き直った。新学期が正式に始まる四月五日までは休みだから、これといって急いで片付ける必要はないのだが、特にやることも無いんだからさっさと『引っ越し』を済ませてしまうべきだろう。……というか、あの先輩は何故わざわざ伝えに来たんだ? いつもならああいう連絡事項は私から聞きに行かないと教えてくれないのに。

 

ひょっとして、リーゼさんが『後ろ盾』になってくれたからなのかな? そういえば少し前から周囲の態度がちょびっとだけ柔らかくなっている気がするぞ。前まではたまに下駄箱にゴミが入っていたり、私の分だけプリントが届かなかったり、部屋のドアを通りすがりにバンって叩かれたりしていたのだが、最近はそれがぴったり途絶えているな。

 

二人部屋を一人で使っていた所為で、去年よりもむしろ狭くなってしまった五畳……四畳? 四畳半? とにかくそれくらいの広さの部屋にポールハンガーを設置しながら考えていると、いきなりベッドの上に諏訪子様が現れる。実体化しちゃったらしい。

 

「いいじゃんいいじゃーん、新しい部屋。やっぱフローリングに限るよねぇ。桐寮じゃなくて本当に良かったよ。あっちは全室畳部屋なんでしょ? 手入れが大変そうでご愁傷様って感じ。」

 

「す、諏訪子様? リーゼさんがお札の神力を無駄遣いしちゃダメだって──」

 

「へーきへーき、アンネリーゼちゃんなら何だかんだ言いつつも許してくれるって。……チョロいよねぇ、あの子。多分『甘えられ慣れてない』んじゃないかな。取り引きとかだと頭が回るのに、ベタベタに甘えてくる相手だとどうしていいか分かんないんだよ。だから流されて甘やかしちゃうわけ。本人はそうは思ってないんだろうけどさ。」

 

まだシーツを敷いていない備え付けのベッドに寝転がりながら豪語する諏訪子様に、何とも言えない気持ちで意見を放つ。

 

「でもその、無駄遣いは無駄遣いですよ。貴重なお札はもしもの時のために取っておかないと。」

 

「えー? 神奈子みたいなこと言わないでよ。こういうのはじゃんじゃん使っていかないと損だって。……おーい、神奈子。あんたも出てきなよ。無駄に実体化するのが嫌だってんなら、早苗の手伝いをすればいいじゃんか。」

 

「……お前、いい加減にしておけよ? このままではバートリへの借りが増えていく一方だろうが。神札だってタダじゃないんだぞ。」

 

「だいじょーぶだよ。そりゃあ借りはきっちり返すけどさ、アンネリーゼちゃんならそんなに厳しく取り立てたりはしないって。全力で甘えまくれば許しちゃうタイプなんだよ、あの子は。」

 

呼びかけに応じて姿を現した神奈子様は、諏訪子様の言い草に呆れたような顔をしながら衣類が入っている段ボール箱を開封し始めた。

 

「そんな考え方では尚のこと申し訳が立たない。バートリがフェアな取り引きを貫く限り、こちらも誠実に対応すべきだ。……早苗、これはクローゼットに入れればいいのか?」

 

「ダ、ダメです! 神奈子様にそんなことをさせるわけにはいきません! 私がやりますから!」

 

「いいんだ、早苗。少しは働かないとああいう『惰神』になってしまうからな。……諏訪子、下着が見えているぞ。いい歳してみっともない姿を早苗に見せるな。教育に悪いだろうが。」

 

「いいじゃーん、別に。ここは今日から早苗と私たちの城なんだから、細かいことをぐちぐち言わないでよ。口煩いと周りから嫌われちゃうよ?」

 

白いTシャツに黒いミニスカートという格好でベッドに寝転がっている諏訪子様は、確かにスカートが捲れて下着が丸見えになっているが……凄く大人っぽい下着だな。黒くて、隙間が多くて、何より小さいぞ。端的に言えばえっちだ。かなりえっちな下着じゃないか。

 

諏訪子様や神奈子様の言によれば、実体化する際の服装はある程度好きに『調整』できるらしい。だからつまり、あの下着は諏訪子様が調整した結果だということだ。何をどう調整した結果ああなったんだろう?

 

子供然とした見た目の諏訪子様の下着を見てから、自分の今着けている下着を思い返してえも言われぬ敗北感を覚えている私へと、神奈子様がクローゼットの中に透明な衣装ケースを設置しつつ声をかけてきた。諏訪子様に対する注意は諦めたらしい。

 

「しかし、新入生の指導役まで外されるとはな。今更驚かないが、つくづく忌々しい連中だ。」

 

「んー、当然といえば当然の選択なのかもしれません。今年度は転入生が居ないっぽいですし、新入生は私の学年の人数よりも少ないみたいですから、指導役になれない九年生が必ず出てきちゃうんです。それなら私を外すべきですよ。新入生たちの方だって、ちゃんと派閥に入ってる生徒が指導役の方が安心ですしね。」

 

「……他の連中にはそう答えてもいいが、私たちには本音で話せ。少し残念だったんだろう? それくらい顔を見れば分かるさ。」

 

「……まあ、そうですね。ちょっとだけ残念でした。『後輩』っていうのには憧れてましたから。ほんのちょっとだけですけど。」

 

私が中城先輩にお世話になったように、後輩を甘やかしてみたかったな。解体して運んできた棚を床に座って組み立てながら神奈子様に返事をすると、起き上がった諏訪子様がベッドの上から私の頭をギュッと抱き締めて慰めてくれる。

 

「よしよし、早苗。残念だったね。……札を何枚か使って私が祟ってあげようか? 怪我とかで指導できなくなれば早苗に役目が回ってくるかもよ?」

 

「いやいや、絶対ダメですからね? いくらリーゼさんが私のことを好きだからって、そんな使い方をしたらさすがに怒られちゃいますよ。大抵のことはまあ、許してくれるでしょうけど。」

 

「うわぁ。……早苗ったら、まだ本気で信じてんの? 『アンネリーゼちゃんが早苗を好き説』。絶対違うって。そういうことじゃないんだよ、あれは。」

 

「あー……それに関しては私も諏訪子と同意見だな。勘違いだと思うぞ?」

 

何故か顔を引きつらせながら反論を寄越してきたお二方に、首を傾げて説明を飛ばす。どうして伝わらないんだろう? 絶対そうなのに。

 

「お二方の意見は尊重したいですけど、リーゼさんが私を好きなのは間違いないと思います。やけに優しいし、ボディタッチもしてくるし……それにほら、家族になろう的なことも言ってましたし。私、恋愛の本を読んだんです。そしたらリーゼさんの私に対する行動が、好きな女性にする行動に全部当て嵌まってたんですよ?」

 

「あのね、早苗。アンネリーゼちゃんは早苗を懐かせることで、私たちを味方に引き込もうとしてたの。しかも『家族になろう的なこと』って、去年話した支配者云々の話でしょ? 何をどう受け取ったらそうなるのさ。相変わらず思考回路が異次元な子だね。」

 

「……大丈夫ですよ、諏訪子様。私は諏訪子様と神奈子様にお仕えする身ですから、リーゼさんの恋はきっと実らず終いになるでしょう。心配しなくても恋愛にかまけてお二方を蔑ろにしたりはしません。私をリーゼさんに取られるってことはないですから安心してください。」

 

私のことを好きなのであろうリーゼさんには申し訳ないが、今は神社のことに集中しなければならないのだ。……でも、ここまで良くしてもらったのに何のお返しもしないわけにはいかないな。そんなのリーゼさんが報われなさ過ぎるぞ。

 

だからもし求められたら、応える気ではいる。リーゼさんは小さいし、女の子だし、吸血鬼だし、私は恋愛経験がないから上手く出来るかは分からないけど……あれだけ頑張ってアピールしているのを無下にするのは可哀想だ。それでリーゼさんが満足するなら甘んじて受け入れよう。いざという時のために『そういう漫画』もきちんと読んでおいたし。

 

何て罪な女なんだ、私は。リーゼさんのことはもちろん人として……吸血鬼として好きだけど、恋愛対象としては全く見ていない。小さな女の子の見た目をしているリーゼさんを恋愛の対象にするのなんて、頭がおかしい変質者だけだろう。そんなアブノーマルな価値観は持っていないぞ。

 

それなのに受け入れてしまうのは、誑かしていることになるのだろうか? もし一度だけじゃなく、ずるずると関係が続いていったらどうしよう。ドラマみたいな爛れた恋愛になってしまうぞ。ああもう、困っちゃうな。『モテる』というのは思っていたよりも大変なことのようだ。

 

色々と想像して困ってしまっている私を他所に、諏訪子様と神奈子様が同時に巨大なため息を吐いてから口を開いた。呆れ果てた表情でだ。

 

「いやぁ、この子は本当に思い込むと聞かないね。今日も早苗の頭の中が快晴で何よりだよ。……一番可哀想なのはさ、ひょっとするとアンネリーゼちゃんなのかもね。今度会ったら優しくしてあげようかな。」

 

「バートリの唯一の失敗は早苗の性格を見誤ったことだな。その点だけは同情しよう。まさかこんな結論に行き着くとは私だって思っていなかったぞ。」

 

「えっと、どういう意味でしょうか?」

 

「気にしないでいいよ。それでこそ我らが祝子なんだから。……早苗はつくづくあの子に似てるね。自分をどこまでも信じて、何でも出来るって欠片も疑ってなかったあの子に。だからあの子は奇跡を起こせたんだろうさ。奇跡ってのは道理を無視できるバカにしか起こせないんだよ。まともなヤツはそれを本気で起こそうとしないし、先ず起きる理由を探しちゃうもん。」

 

『あの子』というのは、お二方がたまに話に出す私のご先祖様のことだろう。私と見た目がそっくりだったという、数百年前の風の祝子。私の風祝としての大先輩。ベッドの上に座って私の頭をぽんぽんと優しく叩きながら言った諏訪子様は、至極愉快そうな笑みで話を締める。洩矢諏訪子のそれではなく、偉大な洩矢神としての顔だ。

 

「原理なんて無いし、理由も脈絡も無いんだよ。筋の通った説明が出来ないからこその奇跡なの。バカみたいに思い込んで、起こると本気で信じるからこそ起こっちゃうわけ。下手に賢いヤツより、それが出来る人間の方がよっぽど珍しいんだよね。」

 

「えーっと?」

 

「いいのいいの、早苗はまだ分かんなくていいの。要するに、そのままの早苗が一番ってことだよ。ね? 神奈子。」

 

「……そうだな、早苗はそのままでいい。それだけの話だ。」

 

内容はよく分からなかったけど、どうやら私は褒められているらしい。えへへと笑って頷くと、お二方は柔らかい苦笑を返してきた。……それぞれの苦言を口にしながらだ。

 

「なら、このままで頑張ります!」

 

「まあ、勉強は『このまま』じゃダメだけどね。あの点数は実際ヤバいよ。実技は仕方ないかもだけどさ、筆記は別でしょ? 幾ら何でも見過ごせないし、九年生は本気で勉強に取り組もうか。」

 

「それと、生活態度も改善しないといけないな。バートリから買ってもらったゲームはどの段ボール箱の中だ? 自制できないのであれば、私たちが制限するしかないだろう。出しなさい、早苗。一人では取り出せない場所に仕舞っておくから。」

 

「へ? ……でも、でも、まだ殆どクリアしてないんです。折角リーゼさんから買ってもらったんだから、きちんとクリアしないと申し訳ないですよ。それが礼儀ってものじゃないですか。」

 

ゲーム機本体やカセットやディスクが入っている段ボール箱をちらりと確認しつつ、急な展開に冷や汗を流して応答した私を目にして、諏訪子様と神奈子様は……あああ、取り上げる気だ。その段ボール箱を二人で開け始める。

 

「大丈夫、私が代わりにクリアしてあげるよ。……おっ、CMでやってたやつじゃん。これも買ってもらってたんだ。後でやろーっと。」

 

「諏訪子、早苗に我慢させるんだからお前も──」

 

「ほらほら、神奈子。これ気になってたんでしょ? 例のシリーズの出たばっかりの新作。……わお、ディスク四枚組だよ? ちょー豪華じゃんか。」

 

「何? 前は三枚だったぞ。……まあ、早苗の授業中は暇だしな。私たちも少し息抜きをすべきだろう。」

 

ズルいぞ! 私がまだやっていない二つのソフトを手に取ったお二方に縋りながら、説得の言葉を投げかけた。

 

「後生だから取り上げないでください。ゲームと漫画とアニメとドラマと雑誌と買い物だけが私の楽しみなんです。」

 

「早苗の楽しみが多くて何よりだけど、神に後生は無いんだよね。だからダメ。少なくとも小テストで赤点を取らなくなるまではゲームも漫画もテレビも禁止。……ちっちゃいテレビってどこだっけ? 別ハードだし、神奈子はそっちを使ってやりなよ。」

 

「何故お前が大きいテレビを独占するんだ。交代交代で使えばいいだろうが。こっちのゲームはグラフィックが売りなんだぞ。」

 

「このテレビをアンネリーゼちゃんに買ってもらったのは私だもん。つまりこれは私のテレビなの。頑張っておねだりした成果を掠め取ろうなんざ許さないよ。」

 

言い争いながらゲームの準備を進めていくお二方を前に、絶望的な気分で膝を突く。赤点無しなんて無理だ。そんなのいつまでかかるか分からないじゃないか。……ずっとゲーム抜きの生活? 地獄だ。どうしてみんなが九年生のことを『苦年生』と揶揄するのかが理解できたぞ。

 

「待て待て、大きいテレビはお前が優先でいい。だから最初だけは私に使わせてくれ。オープニングムービーくらいはこっちで見たいぞ。」

 

「じゃあ、七三で私優先って約束するならいいよ。」

 

「……せめて四六だ。それなら承諾しよう。私が四時間やったら、お前は六時間やれる。それ以上を望むのは強欲だぞ。」

 

「……だったら私が六時間半でそっちが三時間半。ここが限界だよ。そもそも私のテレビなんだから、ここまで譲歩してることを評価して欲しいんだけど。」

 

赤白黄色の配線を片手に交渉するお二方を眺めつつ、次にリーゼさんに会った時にテレビをもう一台買ってもらおうと決意を固めた。もう一台あればひょっとしたらゲームを解禁してくれるかもしれない。赤点ゼロは不可能だし、その可能性に賭けるしかないぞ。誕生日プレゼントってことで頼んでみよう。

 

───

 

そしてゲームをしているお二方を恨めしい目線で見ながら部屋の片付けを一段落させた私は、畳んだ段ボール箱や袋に入った細々としたゴミを両手に葵寮の外に出てきていた。通常寮生活でのゴミは決まった曜日の朝に廊下に出しておけば、『ゴミ係』の当番が回収して持っていってくれるのだが、私の部屋の前のゴミは誰も回収してくれないのだ。

 

まあ、これに関しては自分でゴミ置き場に持っていく者も多いのでそこまで気にしていない。昔は何故回収してくれるのにわざわざ持っていくのかが疑問だったけど、今は何となく理由が分かるぞ。多分恥ずかしいからなのだろう。マホウトコロで使っているゴミ袋は透明なので、否が応でも中身が透けて見えてしまうのだ。ゴミ係はフロア毎に決まっているから相手が同性とはいえ、他人にゴミを見られるというのは……んー、やっぱりちょっと嫌かな。

 

そんなわけで、恐らく私は回収してくれるとしても基本的に自分で持っていくはず。なので最近では私のゴミだけを回収してくれないのも気にならなくなってきた。こういう羞恥心を感じるようになったのは、大人になったということなのかなと苦笑しつつ、たどり着いた葵寮の裏手にあるゴミ置き場へと手に持ったゴミを投げ入れる。

 

明日が燃えるゴミの日だから入れちゃって大丈夫なはずだが、長居はしない方が良いだろう。六年生の頃にゴミを捨てに訪れた際、マナー違反で散らかっているゴミを善意で片付けていたら、男子寮生に目撃されてあらぬ噂を立てられたのだ。『蛇舌がゴミを漁っていた』という悲しすぎる噂を。

 

『善意は必ずしも報われるものではない』ということを学べた苦い思い出を頭に浮かべながら、そそくさと来た道を戻っている途中で……あれ? 細川先生だ。日本史学の細川京介先生が杖を片手に寮の裏手に立っているのが目に入ってきた。

 

ううむ、こんなところで何をしているんだろう? 細川先生は当然ながら細川派であって、松平派ではない。教師といえども基本的に他派の敷地内には入らないものなので、彼が葵寮の『領地』に居るのは中々おかしなことなのだ。場所が玄関だったらまだ分かるものの、ここは人通りが少ない寮の裏側。何だか怪しく思えてしまうぞ。

 

声をかけるべきか、無視して通り過ぎるべきか、あるいは見なかったフリをして引き返すべきか。……よし、見つからないうちに引き返しちゃおう。私は派閥抗争なんかに興味はない。細川先生がこの場所に居ることを糾弾したところで何らメリットはないだろうし、下手に関わって面倒事に巻き込まれるのは御免だ。そう思って踵を返そうとしたところで──

 

「……東風谷さん?」

 

ぐう、細川先生に呼びかけられてしまった。決断の遅い自分に心の中でため息を吐いてから、バツの悪そうな顔付きになっている細川先生に応答する。

 

「えっと……こんにちは、細川先生。」

 

「どうも、東風谷さん。……いや、参りましたね。あまり良くないところを見られてしまったようです。」

 

「あー……そうですね、ここは葵寮ですもんね。」

 

うーん、気まずいぞ。お互いに若干ぎこちない感じの言葉を交わした後、余計なトラブルに巻き込まれないためにはどうしたら良いのかと考えている私に、細川先生は苦笑いで頰を掻きながら言い訳を寄越してきた。

 

「個人的な探し物をしていたんです。決して松平派に何かをしようと思っていたわけではありません。……信じてもらえませんかね、やっぱり。」

 

「いえ、あの……私は別に誰かに言うつもりはありませんから。そもそも言う相手が居ませんし、無派閥なので。だからその、早くここから出た方が良いと思います。他の生徒に見つかる前に。」

 

もちろん細川先生もマズいだろうけど、彼と私がこの場で会話していることを第三者に目撃された場合、私もまた大変面倒な立場になってしまうのだ。女子に凄く人気がある細川派の細川先生が、葵寮の敷地内ではみ出し者の蛇舌の女生徒と話しているところを見られたとなれば、とんでもなく厄介な噂話を立てられるのは間違いないだろう。

 

私は葵寮の生徒たちから『細川派のスパイ』扱いされるのは嫌だし、全寮の女子たちから『細川先生と密会してたブス』と呼ばれるのも絶対嫌だ。今でさえ灰色の学生生活が更に悪化するだなんて悪夢だぞ。早くこの場から立ち去りたくて放った返答に対して、細川先生は肩を竦めて首肯してくる。

 

「まあ、そうしておいた方が良さそうですね。どうやらここでは私の探し物は見つからないようですし、他の場所を探してみることにします。……では、私はこれで。」

 

言うと、細川先生は持っていた杖の先で自分の頭頂部を軽く叩く。すると頭の天辺から徐々に先生の姿が消えていき、最後には完全に見えなくなってしまった。透明化の術か。期生の呪学で習うやつだな。

 

マホウトコロで姿くらましが出来る場所は限られているし、入ってくる時も恐らく同じ術を使ったんだろうけど……細川先生は一体何を探していたんだ? それとも『個人的な探し物』というのは単なる嘘で、実際は松平派の偵察をしていたとか?

 

暫く立ち尽くしたままで黙考した後、ふるふると首を振ってから部屋に戻るために歩き出す。何にせよ私には関係ないな。私は松平派でも細川派でもないし、『葵寮の一員』ですらない。私の願いはただ一つ。これ以上悪目立ちしないことだけだ。細川先生の姿なんて見なかったことにして、自分の部屋の片付けを再開しよう。

 

葵寮の勝手口のドアを開きながら、東風谷早苗は今あったことは忘れようと決めるのだった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。