Game of Vampire 作:のみみず@白月
「神奈子、こっち来て! 早く!」
ああ、また命の危機だ。こんなことなら泳ぎの練習をしておくんだったぞ。私、カナヅチなのに。隣に立っていた諏訪子様が大慌ての表情で叫んでいるのを横目にしつつ、東風谷早苗は今日がアンラッキーな日であることを確信していた。落下死しかけて、相柳から『殺害予告』をされて、挙げ句の果てには溺死の危機。最悪の日じゃないか。
うう、さっきまでは『勝ち』の雰囲気だったのに、どうしてこんなことになったんだろう? 私が迫り来る水の壁を見上げて呆然としている間にも、諏訪子様が私のポケットに手を突っ込んで札を抜き取りながらリーゼさんを呼ぶ。
「リーゼちゃんも来な! 神術で障壁張るから!」
「防げるのかい? 私は飛んで逃げるべきかと悩んでいるんだが。」
「意地でも防ぐの! 早苗は泳げないんだもん! っていうか、見捨てないでよ!」
「……私が一度散らせるからその間に張りたまえ。」
短いやり取りをした直後、リーゼさんが頭上に手のひらを向けて何かを放つ。すると物凄い音と共に水の面に大穴が空くが……あああ、もうダメだ。お終いだ。私はここで死ぬんだ。貫通まではしなかったのが視界に映った。あれだと溺れるっていうか、その前に水の重さで潰れて死んじゃうかもしれない。
それを見て舌打ちしたリーゼさんが私の近くに来るのと同時に、神奈子様と諏訪子様が数枚の札を鷲掴みにして集中している時の顔になったかと思えば、遂に私たちのところまで到達した水の壁が……あっ、大丈夫かも。降ってきた大量の水が私たちの周囲だけを避けているぞ。私、生きてる。助かった!
つまり、これが『障壁』なのか。既に湖底は水の底に沈んでいるわけだが、私たちの周りに半球形の見えない壁のようなものが存在しているらしい。ガラスの小さなドームで守られているみたいだ。水族館っぽくてちょっとわくわくしてくるぞ。残念ながら魚は居ないけど。
私がホッと一息ついたのを他所に、深刻な表情のリーゼさんとお二方が会話を始めた。……あれ? ひょっとして、まだ助かっていないとか?
「どれくらい持つんだい?」
「札を全部使っても十分は持たん。どうにかしてくれ。」
「どうにかと言われてもね。……参ったな、久々に死にかけているようだ。ここまでの危機は二百年振りだよ。規模が大きすぎて杖魔法じゃどうにもならんぞ。」
「何を冷静に言ってるのさ。泳いで早苗を運ぶなり何なり出来ないの?」
諏訪子様の意見を受けて、リーゼさんは肩を竦めながら返事を返す。リーゼさんもカナヅチなのかな? 仲間だ。
「流水は吸血鬼にとっての『毒』なんだよ。このレベルの流水の中じゃ身動き出来ないし、妖力弾で吹き飛ばせる規模でもない。能力も今は役に立たない上に、姿あらわしは妨害術で不可能だ。……吸血鬼の再生能力に賭けるしかないかもね。水の流れに上手く乗ることが出来れば、『死に切る』前に上に出られるかもしれない。」
「……嘘でしょ? リーゼちゃんでもどうにもならないの?」
「私にも唯一苦手とするものがあるんだよ。それが『流水』なのさ。……んー、もはや不自然なほどに『失敗』しているね。湖底まで降下している途中は湖面を警戒していたし、さっさと相柳を回収して校舎に戻ろうと考えていたんだが、話に引き込まれて無用な時間をかけちゃったよ。相柳当人すら意図していなかった『時間差トラップ』か。しかもゲラートなんぞ一切関係ない上、私ではなくアリスをこっちに向かわせていれば問題なかったわけだ。裏目、裏目、裏目。ここまで来ると笑えてくるかな。……もしかすると相柳の本質は人を唆す方ではなく、『それ』なのかもね。振り返ってみれば思い当たる節がいくつもあるぞ。」
透明なドームの外で轟々と渦巻く水を眺めつつ、呆れたような苦笑いを浮かべたリーゼさんは、皮肉げに口の端を吊り上げて言葉を繋げる。
「ま、この状況じゃ足掻いても無駄かな。持っている妖力を全部再生に回してみよう。アリスあたりが気付いて拾ってくれるかもしれないしね。……ちなみに守護霊で連絡を送るのも無理そうだ。障壁の神力が邪魔で守護霊が通過できないし、障壁を解けば流水の所為で呪文を使うどころじゃない。一手遅れちゃったね。そこもまた小さな『失敗』ってわけさ。」
「万一それでリーゼちゃんが生き延びても、早苗は普通に死んじゃうでしょうが。こんだけ激しい流れだと絶対に息が持たないじゃん。」
私、やっぱり死んじゃう? 愕然とした顔付きの諏訪子様へと、守護霊の呪文を試していたリーゼさんがやけに冷静な面持ちで応答した。
「障壁が消える直前に泡頭呪文くらいは使ってあげよう。短時間顕現できるだけの札を残して障壁を解きたまえ。呪文の効果が続いているうちにキミたちが引っ張り上げればいいだろう?」
「それは無理だ。札は濡れると使い物にならなくなる。雨に濡れた程度ならまだ平気だが、水中ではすぐにダメになってしまうだろう。」
「であれば、早苗の運と泳ぎのセンスに賭けるしかないね。泡頭呪文で呼吸だけは可能なんだから、落ち着いて上に泳ぎたまえ。そしてアリスに私のことを報告するんだ。そうすれば私の生存率も上がるさ。」
「あの、私……非魔法界の学校に通ってた頃に子供用のプールで溺れました。だからその、すっごく浅いプールで。」
絶望的な気分で自分の『水泳経歴』を口にしてみれば、リーゼさんは大きくため息を吐きながら諦観の表情で応じてくる。
「じゃあ死ぬかもね。私も、キミもだ。……身動きせずに浮くのを待ったらどうだい? 人間ってのは基本的に浮くものなんだろう? 泡頭呪文は一時間以上持つんだから、キミが死ぬ可能性ってのはそんなに高くないと思うよ。水中人に囚われた『大切なもの』を回収できるくらいの時間はあるわけさ。」
「す、水中人? よく分かんないですけど、でも……その場合リーゼさんはどうするんですか? 私が早く上に出てアリスさんに報告しないと、リーゼさんが死んじゃいますよね? 流水は『毒』って言ってたじゃないですか。」
「ここで死んだらそれが私の運命だったってことさ。……いやはや、呆れるほどに唐突だね。まあでも、死ぬ時なんてのは得てしてこんなものなのかな。ここまでバカバカしい感じに死ぬのは予想外だが。」
「諦めちゃダメですよ! 何とかしないと!」
自分が死ぬのは勿論嫌だけど、リーゼさんが死んじゃうのだって嫌だぞ。何か方法はないかと必死に考えている私を尻目に、リーゼさんは何かを思い出したような顔で意味不明なことをポツリと呟いた。
「……ふむ? 『運命』か。だったら私は助かるのかもね。大昔にレミィが大人になった私のことを語っていたはずだ。あいつの予見が間違っていないのであれば、私はこの危機を生きて突破することになるぞ。」
「諏訪子様、神奈子様、これを浮かせるのは無理なんですか? だからこの、障壁? を。ほらこう、泡みたいな感じに。」
リーゼさんの諦めムードで放たれた謎発言を無視して問いかけてみれば、お二方は揃って厳しい顔付きになって首を横に振ってくる。無理なのか。
「そこまで便利なもんじゃないんだよね。現状維持が精一杯かな。……神奈子、水はあんたの領分でしょ? 何か出来ないの?」
「無理だ、あまりにも水の量が多すぎる。現役の頃ならともかくとして、今の私にはこれ以上のことは出来ん。」
「潔く諦めたまえよ、諸君。奇跡でも起こらない限りはどうにもならんさ。」
無気力な感じのリーゼさんの声を受けて……えっと、どうしたんだ? お二方はバッと私の方を見た後、顔を突き合わせて相談し始めた。
「……やってみる? どうせ障壁を張り続けたって時間稼ぎにしかならないんだしさ、残った神力を注ぎ込んで賭けてみるべきじゃない?」
「しかしだな、早苗はまだあの段階に至っていないんだぞ。風祝としての修行は一切させていない。可能だと思うのか?」
「可能だとは全然思わないけど、そういう理屈を超越しちゃうのが私たちの祝子の性質でしょうが。練習してやるんだったら『技術』じゃん。前置きをすっ飛ばしていきなり出来ちゃうからこその『奇跡』なんだよ。……他の神だったらそりゃあ降ろせないだろうけどさ、私たちならいけるんじゃない? 私もあんたもとっくの昔に早苗のことを祝子として承認してるし、ずっと一緒なんだから親和性もバッチリっしょ。」
「……分からんな。『あの子』が初めて奇跡を起こした時と同じで、私には全く予想できん。保証のない純然たる賭けになるぞ。」
何の話をしているんだろう? リーゼさんも分かっていないようで、私と二人でお二方の会話を怪訝そうに観察しているが……そんな私たちを他所に、諏訪子様は胸を張って宣言する。
「私は早苗のイカれっぷりを信じるよ。保証なんか必要ないでしょうが。『信じる』ってのが奇跡の肝なんだから。」
「……いいだろう、私も早苗の常識の無さを信じる。」
「おっし、決まりね。……早苗、気を引き締めな。あんたがどうにかするんだよ。」
「へ? ……あの、えっ? 私? 私が何をするんですか? っていうか、今私バカにされました?」
『イカれっぷり』とか、『常識の無さ』とかって聞こえたぞ。急に話を振られて困惑している私へと、諏訪子様は至極真剣な顔付きで無茶苦茶なことを指示してきた。
「だから、あんたがこの水をどうにかすんの。一片の疑いも持たずに出来ると信じな。そうすりゃ本当に出来るから。」
「いやいやいや、無理ですよ。私、何も出来ませんって。杖魔法も神術も泳ぎもダメなのに、こんな量の水をいきなり何とか出来ちゃうわけないじゃないですか。」
「それが出来ちゃうんだよ。私があんたに嘘吐いたことある?」
「あります。沢山。」
山ほどあるぞ。山ほどだ。即答した私を見てバツの悪そうな表情になった諏訪子様は、ダシダシと足を踏み鳴らしながら強引に話を進めてくる。
「そうかもだけど、今回のは嘘じゃないの! ……私のことが信じられない? こんな状況で嘘吐いてると思う?」
「いやまあ、もちろん信じてはいますけど……。」
「早苗、私もお前ならば出来ると思っているぞ。理屈じゃないんだ。お前にはそれが出来るだけの才能がある。」
「そんなの変です。だって私、ダメダメなのに。」
何においてもダメダメなんだぞ。運動にも勉強にも光るものがないし、魔法力もないし、貧乏だし、不器用だし、判断力もない。わたわたと手を振って否定した私に、神奈子様はジッと目を合わせながら続きを語ってきた。
「早苗、お前は自分がどんなに特別な存在なのかをまだ理解していないのか? 幼い頃から神の声を聞けているんだぞ、お前は。修行を積まず、悟りを開かず、敬虔に過ごしているわけでもないのにそれが出来てしまう人間。それを特別と言わずして何と言うんだ。」
「あんたはね、『超エリート風祝』なんだよ。普通なら死ぬほど修行したって神の声なんてまともに聞けないのに、あんたは生まれた瞬間にそれが出来てたの。歴代最優の風祝だった『あの子』でさえそれは出来なかったんだよ? ……生まれ付き神の声が聞こえる人間なんてのは、私が知る限りでは歴史上に二人だけだね。一人は人類史の中で一番有名な男で、もう一人は他ならぬあんたなの。そのくらい凄いってことを先ず自覚しな。」
「ええ? ……私って、そんなに凄いんですか? 全然知りませんでした。」
人類史? 話の内容が壮大すぎて訳が分からなくなってくるな。めちゃくちゃ凄いじゃないか、私。びっくりしている私を目にして、リーゼさんが小声で諏訪子様に話しかける。
「いやキミ、あの男は『人間』じゃないぞ。受肉した神の子だろうが。それに神の声を聞ける人間は他にも──」
「ああもう、リーゼちゃんは黙ってて。早苗はそれの『地方限定バージョン』だから間違ってないの。キリスト教か土着信仰か、メジャーかマイナーかの違いだけだもん。そっちだって死にたくないっしょ? とにかくここは私たちに任せてよ。」
「……まあ、どちらにせよ万策尽きているんだから別にいいけどね。何をやろうとしているんだい?」
「奇跡だよ。理不尽極まりない奇跡を起こそうとしてるの。」
リーゼさんと諏訪子様のぼんやりした会話を聞き流しつつ、自分があまりにも凄い人物だったことにクラッと来ている私に対して、今度は神奈子様が声をかけてきた。
「早苗、出来るぞ。お前なら出来る。というか、お前にしか出来ない。だってお前は特別な子なんだから。」
「私、私……何か、出来る気がしてきました。そんな気がします! 隠されていた……そう、隠されていた力が漲ってきた気がします!」
「そうだろう、そうだろう。凄いぞ、早苗。ここでお前が秘めていた力を使えば、バートリを救える。そしてバートリを救えば、お前はハワイに行けるんだ。」
「ハワイに? ……あっ、やれそうです。ハワイに行けるならやれるかもしれません。」
よく分からないけど、神奈子様が出来ると言うなら出来る……気がする! 自分の身体の中に、これまで秘められていたパワーが渦巻いているような……気もする! だから私はハワイに行けるかもしれない!
嘗てないほどにやる気を漲らせている私へと、諏訪子様から何かを囁かれていたリーゼさんも応援を送ってきた。
「あー、早苗? キミだけが頼りなんだ。私もキミなら出来ると思っているよ。」
「リーゼちゃん、ハワイ。ハワイのことも言って。早く。煽って煽って煽りまくるの。」
「キミね、本気でこんなバカバカしいことをやっているのかい? 本当にそれで何とかなるわけが──」
「いいから! いいから言って!」
隣の諏訪子様が急かすのに眉根を寄せたリーゼさんは、私に向き直って改めて『ご褒美』を提示してくる。
「……キミがこの状況を何とかしたら、ハワイに連れて行ってあげるよ。」
「ほらー! 早苗、ほらほら! あんたはそもそも何とか出来るんだから、こんなもん『棚からハワイ旅行』だよ! やったね! ね?」
「そ、そうですね。出来るんですもんね、私。」
「そうだぞ、早苗。絶対に出来る。百パーセントだ。さっさと終わらせてハワイ旅行の計画を練ろう。お前の好きなところに好きなだけ行っていいんだからな。楽しみになってきただろう?」
なってきたぞ。よし、やろう。私は凄いんだから絶対できるはずだ。ふんすと鼻を鳴らして頭上に手を掲げて……えっと、何をどうすればいいんだろう? 小首を傾げながらお二方に質問を飛ばす。
「えと、具体的には何をすればいいんですか?」
「簡単だぞ、早苗。ただイメージするんだ。お前はこの水を突破すると聞いた時、何を思い浮かべる?」
「えーっと……例えば、水がパッカリ割れちゃうとか?」
「なら、そうするんだ。お前なら余裕だぞ。その程度だったら造作もない。……バートリ、水が割れたら障壁を即座に解除するから、早苗を連れて上まで飛んでくれ。私たちは実体化を解くから心配いらん。」
そっか、私の凄い力なら余裕なのか。じゃあ大丈夫だな。自分が持っていた『風祝パワー』の大きさに驚愕している私を尻目に、リーゼさんが呆然としている様子で神奈子様へと問いを投げる。
「本気で言っているのかい? だから、つまり……正気なのか? 本当に早苗が水を割れると? 私からすれば、キミたちの頭がおかしくなったようにしか思えないんだが。」
「おかしくなっていない。至って本気だ。半信半疑でいいからやってくれ。お前には何もデメリットは無いだろう? もしダメだったらさっきの計画を実行すればいいだけじゃないか。」
「半信半疑というか十割以上疑っているが……まあいい、好きにしたまえ。もし水が割れたら早苗を抱えて飛ぶよ。都合良く割れたらね。そんなことは有り得ないわけだが。」
額を押さえながらのリーゼさんの了承に首肯した神奈子様は、諏訪子様と共に私に対して促しを放ってきた。よしよし、やるぞ。カッコいいところをみんなに見せよう。
「早苗、いいぞ。やってくれ。」
「やりな、早苗。あんたなら出来るよ。」
「分かりました、やります!」
集中だ。さっぱり分かんないけど、こういうことには多分集中が大事なはず。大きく深呼吸をした後、再び頭上へと手を突き出す。リーゼさんを助けて、私も助かって、そしてみんなで楽しいハワイ旅行に行く。絶対にそうなる……じゃなくて、そうしてみせよう。私は生まれながらの風祝。他に何も持っていないのは、きっと『それ』を持っていたからなのだ。
「……えい!」
気合の大声と同時に、『水よ、割れろ!』と強く念じてみれば──
「……いやいや、嘘だろう? 何だい? これは。脈絡が無さすぎるぞ。こんな理不尽があるか?」
「奇跡だよ、リーゼちゃん。奇跡ってのは究極の理不尽なの。」
足元から凄まじい風が吹き荒れて、頭上の分厚い水の壁が真っ二つに割れてしまった。ずーっと上の『濯ぎ橋』越しに見えている太陽が、割れた水の合間から私たちを柔らかく照らすのを放心して眺めていると……神奈子様が鋭い声を上げる。出来ちゃったぞ。私、本当に凄い人だったみたいだ。
「バートリ、行け! 障壁は解いた!」
その声を耳にしてハッと我に返ったリーゼさんが、私を抱えて一気に飛び上がった。……おおお、不思議な光景だな。左右の水は私たちを押し潰そうとしているが、風に阻まれてそれが叶わないらしい。私たちが飛んでいる中心地点はそこまで強い風じゃないけど、水の表面近くには尋常じゃないような暴風が吹き荒れているようだ。
まるで海が割れているみたいだな。リーゼさんに抱きかかえられながらぼんやりした感想が頭をよぎったところで、遂に水の壁を抜けて空中に出る。すると途端に……ああ、終わっちゃった。仕事は終えたとばかりに風が吹き止み、押し止められていた水の壁が互いに激突してしまう。『ざっぱーん』という豪快な音と共にだ。
「助かりましたね、リーゼさん!」
何はともあれ、成功したぞ。にっこり笑ってリーゼさんに呼びかけてみると、彼女は見たこともない複雑な表情で曖昧に頷いてきた。何だろう? 心の底から呆れているようで、それでいて……そう、まるで『怖がっている』ような面持ちだ。
「キミは……キミは、『何』なんだ?」
「へ? ……あの、東風谷早苗ですけど。」
「それは分かっているさ。そういうことではなくて……いや、質問を変えよう。キミはさっき、本気で水が割れると信じたのかい? 心の底から? 一片の疑いも無く?」
「あの、はい。信じました。だって、お二方が出来るって言ってたから。」
んん? これ、怒られているのか? やけに暗い声のトーンだぞ。褒めてくれると思っていたのに。恐る恐る答えてみれば、リーゼさんはゾッとしているかのような声色で会話を続けてくる。
「『出来るって言ってたから』? ……狂っているね。今ようやく理解できたよ。キミは完璧に狂っている。私は『狂人』と呼ばれる連中を何人か知っているが、あんなヤツらはキミの足元にも及んでいないぞ。……そうか、信じたのか。キミは本気で『信じられた』んだね? そうなると私はキミが恐ろしいよ。こんなに怖いと思ったのは久し振りだ。」
「えと、えと……怖くないですよ? 私、全然怖くないです。」
「いいや、怖いね。私はキミのその『理由なき盲信』を恐れるよ。……だってキミ、どうしてそんなことが出来るんだい? 何一つ理解できないぞ。ベアトリスの方がまだ理解できるほどだ。まるで違う世界から来た、違うルールを持つ存在を見ているかのようだよ。」
ベアトリス? よく分からない発言と共に顔を引きつらせながら、私をジッと見て『怖がっている』リーゼさん。どうしよう、そんな風に見ないで欲しいぞ。私、ちょっと風祝なだけの普通の女の子なのに。何か変な誤解をしちゃっているらしい。
どう言えば誤解が解けるのかと悩んでいると、リーゼさんが続けて言葉を寄越してきた。
「なるほどね、そういうことか。故にキミは『奇跡』を起こせたわけだ。二柱の説明が今までは全然理解できなかったが、今日遂に正しい形で伝わってきたよ。……紫や魅魔の理不尽さなんて目じゃないね。キミのそれと比べてしまえばあれは『道理』だ。真っ当な道理さ。」
「あの?」
「こっちの話だ。キミは気にしなくていいよ。……モーセを見たヘブライ人たちの気持ちがよく分かった。彼らも今の私と同じように『畏れた』んだろうさ。人も神も妖怪も、理解できないものが怖いんだ。我々妖怪の源たる恐怖とは質が違う『それ』。それこそがきっと信仰の根源となる感情で、風祝というのはそれを司る存在なんじゃないかな。神々が綺麗で受け入れ易い形にする前の、剥き出しの信仰を司るのが風祝なんだよ。キミは多分、それを体現するような存在なんだろうね。」
「えっと……え?」
難しすぎて何を言っているのかさっぱり分からないぞ。モーセ? 誰だっけ、それ。聞いたことがあるような気がするけど……んん、いまいち思い出せない。海外のサッカー選手とかだったかな? それとも野球選手?
ちんぷんかんぷんで混乱している私に、リーゼさんは自己完結するように一度首を振ってから口を開く。
「つまり底抜けに理不尽なんだよ、キミは。そこらの人間が囚われている常識を、何の躊躇いもなく投げ捨てられるんだ。それはきっと他の誰にも出来ないことで、だからこそキミにしか奇跡は起こせないのさ。……恐らくキミは、全てをぶち壊せるんだろうね。『起こり得ないこと』を奇跡と呼ぶのであれば、キミのその力には一切の制限が無いということになる。『起こりそうなこと』以外は何だって実現できるわけだ。私はそれに心から恐怖するよ。世界の誰もが『起こりそうなこと』に縋って生きているのに、キミは私たちが支えにしているそれを容易く崩してしまえるんだから。」
「ええっと……要するに、私が凄いってことですか?」
「……ああ、そうだ。キミは凄い。それは間違いないよ。」
「えへへ、やりました!」
『恐怖する』ってところが少し引っかかるけど……まあ、そのうち誤解が解けるだろう。何にせよ褒められているのは確からしい。内心で結論付けてピースサインを送った私へと、リーゼさんは未だ複雑そうな顔付きで応答してくる。一つの方向を指差しながらだ。
「それじゃ、校舎に行こうか。……あれも中々に不思議な状態だが、さっきのを見た後だとインパクトが薄れるね。校舎の外側だけがまだ反転を保っているってところかな。」
「……逆さまですね。逆さまになって浮いてます。」
うーん、マホウトコロの校舎はとんでもない状態になっているな。完全に宙に浮いているぞ。領地全体の反転が解けて、湖の水も落ちてしまったわけだが、それでも校舎だけはしっかりと元の位置に留まっているようだ。水の中に隠されていた土台の柱が全部剥き出しになって、その上に大きな石とかがちょこんと乗っている。一見すると意味不明な光景だけど、本来マホウトコロは『浮いていた』わけか。
「水が近付いてますし、早く避難しないと沈んじゃいますね。」
海水が流れ込んじゃっているのかな? 徐々に迫ってくる水面を見下ろして意見してみれば、リーゼさんは校舎に向かって飛びながらこっくり首肯してきた。
「まあ、あのペースなら避難は何とか間に合うだろうさ。相柳を逃したのだけは痛手だが、一応暗殺は防げた……というか、何一つ防いでいないのに勝手に失敗したわけだし、あの蛇には全部終わってから改めて対処しよう。」
「あ、そうでした。相柳、どうなったんでしょう?」
自分たちの危機で完全に忘れていたけど、相柳を湖底に置きっぱなしだったな。重要なことを今更思い出して質問した私に、リーゼさんは肩を竦めて応じてくる。
「札は水で取れちゃっただろうし、相柳は溺死しないからね。どこかで流されているんじゃないかな。……何れにせよ、その辺は幻想郷の管理者に任せるさ。キミは心配しなくても大丈夫だ。」
「そうなんですか。……そういえば、お二方の声も聞こえないんですけど。」
「札を使い切ったからね。今は我慢したまえ。校舎に下りてアリスと合流した後で新しい札を回収しに行こう。キミの自室にあるんだろう?」
「はい、部屋に何枚かあるはずです。……そっか、今は『神力ゼロ』なんですね。」
お二方にも早く褒めてもらいたかったんだけどな。……まあ、みんな無事で済んだんだから今は我慢しておこう。あんなに凄いことをしたんだから、後で沢山褒めてくれるはずだ。それに全部片付いたらハワイ旅行にも行けるし。
南の島でのバカンスを思ってご機嫌な気分になりながら、東風谷早苗は近付いてくる逆さまの校舎を見つめるのだった。