私が下界に降り立ったのはちょうど一年前だった。
天界には「下界で死んだ人の魂を導く」という大事なお仕事があったけれども、私は下界への興味を抑えることが出来なかった。
下界に興味が無いわけではなかったけど、私が下界に降りた本当の理由は、他の神様が言う「娯楽や退屈しのぎのため」じゃない。天界のお仕事が嫌になったからでもない。
寂しかったから。
私は、天界にいたころから臆病者だった。
天界のお仕事や、無限に続く退屈にウンザリして、娯楽に飢えた目をした他の神様たちが怖かった。その娯楽のために下界に降りていった神様たちを、責務を全うする神様たちが恨めしい目をして眺めている。その表情もすごく怖かった。それだけじゃない。天界にいた時、私は
天界に存在する何もかもが怖いと思った。
何もかもを怖がって、私から他の神様を遠ざけていたから、自然と他の神様たちも私に寄り付かなくなって、次第に興味も関心も引かなくなって忘れられていった。最初はこれでいい、これで安心と思っていたけれど、いざ独りになるとやっぱり寂しさを感じてしまう。
その寂しさに耐えられなくなって、私は元々興味を持っていた下界に居場所を求めて降り立つことに決めた。下界に行けば、こんな私にも居場所ができるかもしれない。そんな期待を込めて。
下界に降り立って一年。
私は「独り」ではなくなったけど、「一人」は変わらない。
私よりもずっと前に下界に降り立った神様の何人かと知り合いになったり、お友達になれたりもした。知り合った神様の紹介で、【
ヘスティアちゃんと一緒にお茶を楽しんでいたある日、ヘスティアちゃんに言われた。
「じゃあアステリア、君も【ファミリア】を作って
「えっ?」
「心優しい君なら
「………私は……」
ヘスティアちゃんの提案に最初は戸惑いがあった。
私の
「私は……やめておこう、かな」
「……無理に【ファミリア】を作れ、とは言わないけど、ボクは君に下手な冗談を言ったわけでも悪戯心があってそんな提案をしたわけでもないんだよ? ボクは本気で君に【アステリア・ファミリア】を立ち上げてみたら、と提案したんだ。……君の友神としてね」
「……【アステリア・ファミリア】……でも、私…ヘスティアちゃんや他の神様より力が弱いし、授けてあげられる恩恵だって大したことがないかも知れないんだよ? そんな女神、信仰してもらえないよ」
「力が弱い? それがなんだって言うのさ。 何も“恩恵”だけが信仰の対象というわけじゃないんだよ? まあ、ボクの【ファミリア】も今はベル君しか眷属がいないからあまり偉そうなことは言えないけどさ……でも断言できるよ。君は立派な【ファミリア】を立ち上げて、ちゃんと
ヘスティアちゃんの励ましはほんの少し、でも確実に、私に勇気をくれた。私が【ファミリア】を立ち上げたとして、どこまで成長させられるか。それ以前に、どれくらいの
「(ヘスティアちゃんにああ言ってもらったけど、どうしようかな……やっぱり今のボロボロなおうちじゃダメかな……う~、でもせっかくヘファイストスさんに紹介してもらったのに……新しいおうちを買うのってどれくらいお金が必要なんだろう? ヘスティアちゃんみたいにバイト増やそうかな……う~ん)」
私は今、家路に着きながら下を向いて色々な考え事をして頭をモヤモヤさせている。
私が今おうちとして使っているのは、狭い路地の奥にひっそりと存在する古びた空き家。ボロボロの石レンガでできた3階建ての建物を、ヘファイストスさんという神様に格安で紹介してもらった。私にヘファイストスさんを紹介してくれたのはヘスティアちゃんだったけど、あの2人は仲の良い友達同士だったみたい。ヘスティアちゃんの紹介でヘファイストスさんのところにお邪魔した時、ヘファイストスさんは少し険しい顔をしていたけど、私たちの帰り際に、私に今のおうちを紹介してくれた。
「(私一人で暮らす分には十分すぎるくらいだけど、下界の子を迎え入れるとなったら……でも、部屋数は余ってるくらいだし、頑張ってお掃除すれば……あ、あと眷属になる子のための家具とか、替えのお洋服とか必要かな?)」
色々と考えれば、眷属になる子のために出来ること、やらなければいけないことは山積みのような気がしてきた。それほどお金を持っているわけじゃないけど、せめてこれから来るかもしれない
「……うん、がんばろう」
【アステリア・ファミリア】結成のために、私は私にできることを全力で頑張ろう。
私のおうちがある狭い路地に入ると、まだお昼時なのに辺りが暗くなった。この路地は周りの建物が高い上に、道幅が狭い。それに路地の建物と建物の間には、雨避けのための木の板や布が張られていて、お日様の光が中途半端にしか届かない。この路地にいる限り、雨宿りをする場所には困らないけど、気持ちいい朝は迎えられない。まだ靴を持っていない私にとって、お日様の光が当たらないジメジメした路地に入る瞬間がちょっとだけイヤだった。
「(早く自分の靴も買わなきゃ……でも、自分のためだけにお金を使うのは……う~ん………)」
こういう自分のぐずぐずした考え方が自信を削ぐのになぁ……そんな自己嫌悪に陥りながら考え事をしていると、視界の端に何かが見えた気がした。
「……?」
狭くて暗い路地の中でも、光が全然入ってこない突き当たりにうっすらと何かが見えた。わずかに動いているようにも見えた。暗くてそれが何なのか見えないし分からなかったけど、その時の私は、その暗闇に存在するものを放っておいてはいけないと、直感的にそう感じた。理由なんてない。ヘスティアちゃんが言っていた“神の勘”というものが私にも働いたのかも。
一歩ずつ近づいてみてようやく分かった。路地の突き当たりにいたのは、項垂れるように地べたに座り込んだ男の子だった。
服も身体もボロボロで、顔は見えない。肩までボサボサに伸びた髪は、座り込む男の子の表情を隠している。ベースは黒髪で毛先に行くにつれて白くなっている、珍しくて綺麗な髪だと思った。よく見ると、刀のようなものを両手でしっかりと抱きかかえていた。座り込んだまま身動き一つ取らないその姿はとても寂しそうで、顔は見えないけれど泣いているように感じた。
「あ…あの……ねぇ、キミ。だ、だいじょうぶ? どこか痛むの?」
どうしても放っておけなかった。こんなに“寂しそう”にしている子を放っておくことなんてできない。私は思い切ってその子に声をかけた。
「(どうしよう……お返事ができないくらいひどいケガだったら……今からでもうちに戻って包帯とポーションを………応急処置ってどうするんだっけ……一番近くのお医者さんは……)」
色々な不安と心配を心の中で巡らせていくうちに、自分でも情けないくらいオロオロしてしまう。自分に出来ることが何かないかとオロオロしていると、男の子はゆっくりと顔を上げて私の目を見た。私の目を見つめる男の子の瞳は、まるで吸い込まれそうな感覚を覚えるくらい綺麗な藍色だった。けれど、その瞳には一切の光がない。生きる活力を全て失ったような、とても暗い瞳。
ほんの少しの間、ものの数秒程度の見つめ合いが続いていたけれど、男の子が僅かに顔をしかめて再び俯いてしまった。……拒絶されちゃった?……それでも放っておけない。彼の瞳を見て、私は分かってしまった。……彼は生きる意志を失くしてしまっているんだ、と。彼はこの暗い路地で、独りで死ぬつもりなのかもしれない。
「キミ、だいじょうぶ? ケガしてるの?」
今の彼を一人にさせておくわけにはいかない。私は男の子に歩み寄りながら、もう一度声をかけた。一歩ずつゆっくりと男の子との距離を縮める。男の子は相変わらず俯いたままだけど、私が近づいてくる足音にじっと耳を傾けている……ような気がした。男の子に触れられるほどの距離まで近づいて、私は彼の正面にしゃがみこんだ。目の前にいることに気付いてほしいというわけではないけれど、次にかけるべき言葉が見つからない。どうしよう……次に声をかけても拒絶されたら? はたまた無視されたら? でもこの場に放置することだけは絶対に嫌だ。
すると、私が目の前にいることに気付いたのか、男の子がさっきと同じようにゆっくりと顔を上げた。さっきと変わらない暗い瞳の、無表情のままで。再び数秒程度の見つめ合いが続いた。でも、変化があった。男の子が私の顔を見ながら僅かに口を開いてこう言った。
「…………大丈夫です。………大丈夫ですから………構わないで下さい……」
ひどく掠れた“大丈夫”という拒絶の言葉。私じゃなくても分かる。大丈夫なはずがない。他人を怖がっているのか、死ぬつもりでいたところを邪魔されたから拒絶したのか、彼が私から何を感じてそう言ったのかまでは分からない。……でも、私だってその拒絶の言葉を“拒絶”する。他人を怖がっているなら、出来る限り怖がらせないように接したいし、死ぬつもりでいたなら何としてでも助けてあげたい。
「そんなこと言わないで。ほら、顔を上げて?」
私は男の子の頬をそっと撫でて微笑む。触れた頬は少し冷たくて、砂と埃で汚れていた。でも、柔らかくて、確かな温かさを感じた。
彼はちゃんと、ここで生きている。
「キミ、立てる? ケガしてない?」
「…………」
男の子は私の問いかけには答えなかったけど、私が手を握って立ち上がるよう促すと、抱きかかえていた刀を片手に立ち上がった。男の子は私が握っている手をぼんやりとした目で見つめながら聞いてきた。
「なんで……僕に、構うんですか? ………大丈夫って、言ったのに………」
なぜ構うのか。その答えは決まっている。
「…だいじょうぶな子はそんな悲しくて寂しそうな顔をしないよ。ほら、おいで? 服も身体もボロボロだよ? ちゃんと手当てして、きれいなお洋服に着替えないと」
新しいお洋服はこれから買わないとだけど、まずはおうちにある包帯とポーションで手当てをしないと……
「あの………」
「……? どうしたの?」
「………あなたは……?」
「わたし? …アステリア。こう見えて女神、なんだよ? よろしくね」
それから少しして、私は男の子に【アステリア・ファミリア】に来てほしいと頼んだ。初めて眷属を迎え入れようとした瞬間だったからか、すごく緊張した。喉はカラカラになったし、声も情けないくらい震えた。そんな情けない女神に、彼が出した答えは「これからよろしくお願いします」だった。予想だにしていないくらいあっさりと、快く了承してくれた。……それがあまりにも嬉しくて、私は彼の前で号泣してしまった。……いい思い出だけど、私情けないなぁ。
【ファミリア】に招くころにはすっかり回復していたから、私は思い切って事情を聞いてみた。何があったのか。どこから来て、なぜあの路地にいたのか。けれど、なかなか事情を話したがらない。無理に聞き出す気はないけど、いつか彼が自ら過去や事情、悩みを打ち明けてくれる日が来るかもしれない。私はそんな日が来るのをいつまででも待ってる。彼が自分のことを話せるくらい信用してもらえるように頑張り続ける。
……大切なことを言うのを忘れていた。
この子には“自分の名前”が無かった。私が名前を聞いた時、彼は静かに首を横に振って俯いた。
「名前………ありません……生まれた時から、ずっと……」
低く沈んだような声でそう言った。周りの人からは何て呼ばれていたのかを聞くと、“屑”だとか“
…………ひどすぎる。人を人と思わないそんなひどい呼び方に、私は下界に降り立って初めて怒りを覚えた。
【ファミリア】に正式に迎え入れた後、私は彼に【
“ブランク”
私は彼に、“空白”という意味の名前を授けた。この名前を授けたのは、皮肉でも嫌味でもない。私の一つの“願い”を込めた。
この子の事情は分からないけれど、彼の光の無い瞳と、感情に乏しい表情が、これまでの彼の人生を物語っていた。
これまでの彼の人生は空っぽだったのかもしれない。その空白を、他人の悪意で埋められようとしていた。でも、これからは違う。他人からの悪意を向けられる
……これからだよ、ブランク。ここから始まるよ。
あなたの冒険も、あなたの幸福を探す物語も。
あとがき【登場人物について】
「名もない少年(ブランク)」
性別:男
年齢:14歳
身長:164cm
種族:ヒューマン
故郷から逃げ出した末、迷宮都市オラリオに辿り着いた。当時の所持品は故郷から持ち出したという《無銘ノ黒刀》という武器のみ。
表情の変化に乏しく、親しい人物以外には基本的に無表情。親密になっても僅かに微笑む程度。笑う・怒る・泣くなどといった表情を見せたことがない。本人曰く、感情を表さないのではなく、感情の表し方が分からないのだという。
髪の色のベースは黒で、毛先に行くにつれて白くなっている。身なりをあまり気にしないため、所々髪が跳ねている。
戦闘の心得は皆無だったが飲み込みは早く、他の冒険者たちの戦い方を見て自分なりの戦い方を学習し、少しずつ成長を見せ始める。