「ん~……もう朝?」
扶桑皇国海軍遣欧艦隊から連盟空軍第501統合戦闘航空団『ストライクウィッチーズ』へ派遣されている航空ウィッチ――宮藤芳佳軍曹は、宛がわれた自室で目覚めの良い朝を迎えていた。
眩しい朝日が窓から差し込み、小鳥の小気味良い囀りがそっと耳朶に触れる。
それはいつも通りの朝で、いつも通りの1日が始まるはずだった。しかし、いつもとは何かが違っていた。
「う~ん、なんかあんまり寝た気が……あれ?お兄ちゃん?」
と、寝惚け眼でベッド上に走らせる芳佳。統合戦闘航空団ウィッチ部隊のメンバーは、士官・下士官問わず全員に基地宿舎の個室を与えられる。
本来は芳佳も1人部屋なのだが、今はウォーロックの暴走で部屋を失った彼女の兄も利用していた。
芳佳と同じく扶桑海軍遣欧艦隊を原隊に持つ航空ウィザード――宮藤優人大尉。
同室になって以降、1つのベッドで仲良く眠っていた2人だが、どういうわけか優人の姿が見当たらない。
芳佳は首を巡らせ、時計を確認する。この時間帯、いつもなら優人はまだ部屋にいて、着替えや洗顔等をしている。
用事があって先に部屋を出たのだろうか。自分は兄から何か聞かされていただろうか。記憶を辿ってみるも、心当たりはない。
「あっ!のんびりしてたら遅刻しちゃうよ!」
芳佳がぼーっと考えている間に、時計の針が起床時刻を差し示していた。数瞬遅れて、基地中に起床ラッパが響き渡った。
弾むようにベッドから飛び出すと、芳佳は慌てて服を着替え、身嗜みを整え始める。
「もぉ~!坂本さんに叱られちゃうよぉ~っ!」
髪に僅かな寝癖を残しつつ、芳佳は食堂へ向けて猛ダッシュして行った。
◇ ◇ ◇
「あ、芳佳ちゃんおはよう!」
遅刻ギリギリで食堂に滑り込んだ芳佳を迎えたのは、リネット・ビジョップ。通称“リーネ”だった。
エプロン姿で朝食の準備をしていた彼女は、芳佳に向かって優しく微笑みかける。
「おはようリーネちゃん!ごめんね、今日は私も当番なのに……すぐに手伝うから!」
「まったく、朝から賑やかなこと」
リーネに謝意を述べ、厨房へ入ろうとした芳佳の背中に第3者の声が掛かる。ガリア貴族令嬢のペリーヌ・クロステルマンだ。
「あ、ペリーヌさん。いたんですか?」
「貴方が来るずっと前からいましてよっ!」
悪気無しに訊く芳佳に対して、ペリーヌは両目を吊り上げてヒステリックに怒鳴り散らす。
「うじゅ……ペリーヌ、うるさ~い」
「うるさいゾ、ツンツン眼鏡。サーニャが起きるダロ」
テーブルに突っ伏して眠っていたルッキーニが、寝惚け眼を擦りながらペリーヌに抗議する。
席に着いたままコックリコックリと船を漕いでいるサーニャを世話していたエイラも、ロマーニャウィッチに続いて不平を述べた。
「エイラさん!その呼び方はやめなさいと何度も――」
「まぁまぁ、朝から猛り立つなよ」
と、ルッキーニの隣に座っているシャーリーがペリーヌを宥めに入る。
「扶桑の諺にも“短気は損気”ってあるぜ?」
「なっ!?誰が短気ですって!私は貴方が思っているよりも遥かに寛大ですわよ!」
どうやら薮蛇だったらしい。腹の虫が治まらないガリア貴族令嬢と、リベリオンウィッチのやり取りは、その後暫くの間続いた。
そんな2人を余所に、芳佳は食堂中に視線を走らせ、兄の姿を探す。
(お兄ちゃん、ここにもいない。どうしたんだろ?)
「はい、芳佳ちゃん」
「あ、ありがとう」
朝食を乗せたトレーをリーネから差し出され、芳佳は礼と共に受け取る。
「どうかしたの?」
「リーネちゃん、お兄ちゃんが何処にいるか知らない?」
「…………え?」
「朝から会えてないんだよねぇ、部屋にもいなかったし……」
「………………?」
リーネは不思議そうに首を傾げると、芳佳に対し予想外の言葉を発したのだった。
「お兄ちゃんって?芳佳ちゃん、お兄さんがいたの?」
「……えっ!?」
芳佳は耳を疑った。リーネが兄を、優人を知らないとはどういうことなのか。
「何言ってるのリーネちゃん?お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ、扶桑海軍の宮藤優人!」
「えっと……ごめん、わからない。芳佳ちゃんの従兵さんかな?」
困ったような表情で、申し訳なさそうに訊いてくるリーネ。彼女の言動に芳佳は益々混乱した。
「どうしたんだ?」
2人を心配したシャーリーが声を掛けてきた。彼女だけではない。先に食堂へ来ていたウィッチ達が、芳佳の元へ集まっている。
「シャーリーさん!シャーリーさんはお兄ちゃんを!宮藤優人を知ってますよね?」
「ゆうと?誰だそれ?」
シャーリーの反応はリーネと同じだった。他の4人にも視線で問い掛けるも、誰も優人を覚えていない。いや、そもそも彼のことを忘れてしまっているようだった。
「おはよう、皆さん♪」
ふと重々しい空気が支配する食堂内に、声楽家を思わせる澄んだ声音が響く。
501司令のミーナが、副司令兼戦闘隊長の坂本。そして同郷のバルクホルン、ハルトマンと共に食堂に現れたのだ。
「お前達、朝からどうしたんだ?」
「なんか微妙な空気だね?」
隊員等の様子がおかしいことに気付いた坂本と、ハルトマンが順に声を掛ける。
「おはようございます♪坂本少佐ぁ!」
「坂本少佐、なんか芳佳が変なんだよ」
敬愛する坂本の前にして表情を輝かせるペリーヌ。上官からの質問には、シャーリーが後頭部を掻きながら応じた。
「変?芳佳さんが?」
「芳佳、どうかしたのか?」
501の司令と副司令が、揃って怪訝そうな目を芳佳に向ける。
「坂(本さん!そうだよ、坂本さんなら!)
兄の長年の戦友で親友の彼女なら或いは。芳佳は藁にも縋る想いで、坂本を問い詰めた。
「坂本さん!」
「ん?」
「坂本さんは、お兄ちゃんが今どこにいるか知りませんか!?」
「お兄……ちゃん?」
「はい!宮藤優人!私の兄で、坂本さんの――」
「いや、知らんな」
「っ!?」
坂本の言葉に、芳佳の全身から力が抜ける。何故、どうして、501の誰も、坂本さえも兄を覚えていないのか。
「芳佳さん、夢でも見たの?」
(夢……?そんな、だって……!)
ミーナの問いに、芳佳は頭を振る。大好きな兄と過ごした日々が夢なんてこと。あるはずがない。
「ずっと一緒で!ここに来てからは一緒にネウロイと戦って!一緒にウォーロックを倒して!ガリアを解放して!今はずっと同じ部屋で!」
「……貴方、何を言ってるんですの?」
「ウォーロックに止めを刺したのは、オマエダロ?」
「それに、芳佳ちゃんはずっと1人で部屋を使っていたわ」
「うじゅ~……芳佳なんか変」
「お前、本当にどうしたんだ?」
ペリーヌ、エイラ、サーニャ、ルッキーニ、バルクホルンから順に口を開く。
501の誰も兄を覚えていない。それどころか、まるで宮藤優人という人間など、初めから存在していなかったかのような口ぶりだ。
嘘や冗談にしてはあまりに質が悪い。堪えられなくなった芳佳は、脇目も振らずその場を駆け出した。
「芳佳ちゃん!」
背中にリーネの声が掛かる。だが、芳佳は振り向くことも足を止めることもせず、自室へ向かってひたすら走った。
やがて部屋に着き、震える指でドアを開ける。だが、そこに兄の姿は無かった。
起床時は気付かなかったが、衣類や嗜好品等の持ち物までもが跡形も無く消えている。
「そんな……」
自然と涙が溢れる。何故、兄がいないのだろうか。何故、他の誰も覚えて無い中、自分だけがこんなにハッキリ覚えてるのだろうか。
何故、こんなに逢いたいと思っているのに、何処にもいないのだろうな。
「いや、いやだよ。こんなのいやだよ、お兄ちゃん……」
流れる涙。漏れ出る嗚咽。哀しみのあまり張り裂けそうな胸に抱くのは兄に逢いたい、傍にいて欲しいという想い。
「お兄ちゃああああああああん!」
堪えられなくなった芳佳は、喉が潰れんばかりの大声を上げて泣き叫ぶのだった。
◇ ◇ ◇
1945年1月某日、扶桑皇国・横須賀――
魘された末に目を覚ました芳佳の視界が、薄暗い天井を捉える。そこは自分の部屋で、彼女は布団に入っていた。身体中ビッショリと嫌な汗を掻き、心臓がドクンドクンと早鐘を打っている。
(…………夢?)
身体を起こした芳佳は、汗で額に張り付いた前髪を掻き上げると、すぐ隣に敷かれている優人の布団を見た。
(そっか。お兄ちゃん、今夜は坂本さんと約束があるって……)
悪夢が現実でなかったことに、芳佳は心の底から安堵する。
一方で、あまりにリアルな夢を見たためなのか。言い知れぬ不安と恐怖が彼女の胸中に滲んでいた。
「お兄ちゃん……」
優人の布団に手を伸ばし、枕を手に取る。兄の匂いがするそれを強く抱き締め、芳佳は一筋の涙を零す。
◇ ◇ ◇
同時刻、横須賀鎮守府――
扶桑皇国海軍横須賀軍港。その司令部庁舎内の食堂に純白の扶桑海軍第二種軍装を身に纏った2人の海軍士官が訪れていた。
ガリア解放の立役者として凱旋帰国を果たした宮藤優人大尉と、坂本美緒少佐だ。
窓側の席を借り受けている2人は、鍋が置かれたテーブルを挟むように向かい合っていた。
食事時は、多数の海軍将兵や軍属で賑わっている食堂も今は優人と坂本だけ。閑散とした雰囲気に包まれ、照明も2人のいる窓側に絞られている。
「何だ?食わんのか?」
と、坂本が訊く。2人がつついている鍋料理は、すき焼き鍋だった。
醤油、砂糖、酒をベースにした割り下に牛肉にネギ、春菊、焼き豆腐などの具材を添え、共に煮た豪勢な扶桑が誇る鍋料理である。
鍋から取った数切れの肉を小皿の生卵を染み込ませ、口元に運ぶ。濃厚ながらもしつこさの無い牛肉の旨味で、扶桑ウィッチの口内が満たされていく。
「何で、ここなんだ?」
伏せていた顔を持ち上げ、やや不機嫌そうな口調で訊き返す。
美食家――というより食い意地が張っている――優人が、扶桑皇国でも指折りの高級料理を前にしているにも関わらず、表情がどこか暗い。
「ん?」
茶碗の白米を掻き込みながら、坂本は不思議そうに首を傾げる。
「すき焼き食うならもっと他に良い場所あるだろ?横浜とか東京とか、それこそ横須賀市内にだって!それなのに……何で、そりによって軍港の食堂なんだよ?」
「うだうだ言ってないで食え。せっかくのすき焼きだぞ?」
不満タラタラな優人を宥めつつ、坂本は鍋に追加の牛肉を加える。食材は全て坂本が持参したものであるため、実質彼女の奢りだ。
不満など言ったら罰が当たるというものだが、どうも優人は得心がいかないらしい。
「ったく、遠洋航海前の。陸最後の外食が味も素っ気も無い軍港内の食堂でなんて。あぁ、なんて惨めだぁ~……芳佳にも当分会えないし」
優人らしからぬネガティブな思考と発言。妹にも、501や扶桑海軍の戦友達にもこんな情けない姿を晒したこと――ラッキースケベなハプニング以外は――はなかった。
或いは付き合いが長く、気の置けない間柄の坂本と2人きりだからこそ、こういった面を見せているのかもしれない。
「まったく、帰国してすっかり腑抜けてしまったようだな」
「うるさいな。俺は案外繊細なんだよ」
「自分で言うか?」
「そもそも、お前が教官職を押し付けてきたりしなけりゃ、遠洋航海にも参加せずにすんだし。芳佳の卒業式にだって出られたんだぞ?」
「またその話か……」
坂本はウンザリだと言わんばかりの声色で応じ、扶桑茶が注がれた湯呑みを手に取る。
航空練習艦隊の教官職は、元々扶桑海軍遣欧艦隊空母機動部隊所属の若本と、帰国してから海軍ウィッチ養成学校で後進の育成に勤しんでいた坂本の2名が召集されるはずだった。
しかし、3ヵ月の勤務を経た後、突如教官職を退官。それに伴い、空席となった航空練習艦隊の教官には、横須賀鎮守府で内勤に従事していた優人が選ばれたのだ。
「人に教官の役目を押し付けて、山に籠って。一体何するつもりだ?」
「私はまだ、飛ばなければならんからな……」
坂本はそう言って、優人の小皿に肉を1枚置く。良く煮えられており、見るからに美味そうな牛肉だ。
芳醇な香りに誘われ、扶桑海軍ウィザードは肉へと箸を伸ばす。食欲が無いわけではないらしい。
「美味いか?」
「あぁ……」
「なら、これはどうだ?」
さらにもう1枚、牛肉が優人の小皿に渡される。今度の肉はまだ赤身が残っており、十分に煮られていないようだった。
優人は牛肉を箸で摘まみ上げ、怪訝そうな表情で矯めつ眇めつ眺めるた後、口へ放り込んだ。
「っ!?何だこれ!?」
やはり生焼け肉だったらしく、扶桑海軍ウィザードはすぐさま吐き出す。
「ウィッチやウィザードと同じなんだ、肉っていうのは……」
半端に煮られた牛肉に悶絶する優人を他所に、突如真剣な眼差しで語り始める。
「は?」
「高かろうが、肉質が良かろうが焼きが甘かったり、煮足りないようでは意味がない。焼かれて、煮られて味を磨くんだ」
「………………」
「航空歩兵も、いくら魔法力や飛ぶ才能が優れていようが所詮は結局は世間知らずの子ども。勇ましく見せたところで、士気も覚悟も本職の軍人に及ばない」
「……俺達は軍人気取りの半端モノってわけか?」
「そうだ。だからこそお前も私も他の航空歩兵も、もっと煮て焼かれなければならん」
語り続ける坂本の話に耳を傾けつつも、優人は己の頭上で疑問符を踊らせていた。
彼女は、対ネウロイ戦の主力に位置づけられているウィッチ・ウィザード――つまり自分達のことを“世間知らずの子ども”で“本職の軍人には及ばない”存分と称している。
確かに一理あるかもしれない。だが、謙虚を通り越して自己卑下とも取れる弱気な発言は、勇猛果敢なウィッチとして知られる坂本美緒らしくない。
「欧州の戦いに身を投じてから魔法力の減退を自覚するまで。そんな当たり前のことも忘れてしまっていた……」
「だからお前は、山に籠って新しい戦い方を模索すると?」
魔法力を失ってしまえば、ウィッチだろうとウィザードだろうと“ただの人間”に成り下がる。
以前のようにネウロイと戦うのはもちろん、軍内での居場所も失くしかねない。
半生を戦いと軍隊生活に捧げた坂本美緒という女にとって、それは存在価値を見失うのと同義だった。
優人とて、他人事ではない。宮藤の姓を名乗っていても、彼は両親の血を継いでいない養子だ。
秋元家の血筋でない以上、母や祖母のように成人後も魔法力を維持出来る保証は何処にもない。
年齢的にも、いつ魔法力の減退が始まってもおかしくないのだ。
「あと2、3年……いや、1年でもウィッチを続けられるなら何でもするさ。」
「坂本」
「私が戻るまで、ウィッチ候補生のヒヨッ子共のお守りは任せたぞ!」
汐らしくしていた坂本が、いつものようにサバけた笑顔を見せる。
「未来のウィッチ隊指揮官達を、傍で支えてくれる連中は何人いても良いはずだ」
「未来の指揮官、芳佳達のことか?」
未来のウィッチ隊指揮官、その言葉が誰を示しているのか。扶桑海軍ウィザードが理解するのに、時間はかからなかった。
優人の義妹――宮藤芳佳。502に滞在中の雁淵孝美、管野直枝、下原定子。扶桑陸軍には黒田那佳、504に派遣されている中島錦に諏訪天姫。何れも将来有望なウィッチだ。
「芳佳も他の連中も良い腕を持っている」
扶桑海軍ウィッチは優人の問いに深く頷きつつ、話を続ける。
「だが、アイツの後に続く連中はまだ生焼けばかりだ」
優人は無言だったものの、内心では(確かにな……)と同意していた。
熱心な宣伝活動が功を奏し、扶桑軍のウィッチ・ウィザードの総数は陸海軍共に――候補生含め――過去最大の規模になっている。
しかし、大半は実戦を知らず、練度も低い。座学知識と志で戦いを理解したつもりになっている半端モノばかりだ。
扶桑海事変やカールスラント撤退戦のような激戦に放り込まれれば、逃げ出す者や命を落とす者は後を絶たないだろう。
「勉学や実技に励むのもいい、歴戦のウィッチに憧れるのもな。だが、それぐらいで務まるほどネウロイとの戦いは甘くない……最後は力だ」
優人の胸の内を察したかのように、坂本はさらに言葉を続ける。
「それが、私やお前が長年軍にいる理由でもあるからな」
「……だな。よし!なら俺も遠洋航海前に腹いっぱい食うか!」
と、意気込んだ優人はすき焼き鍋に箸を伸ばし、手近な肉を掴もうとする。しかし、彼が狙っていた牛肉は一瞬で彼の視界から消え去ってしまう。
「あ……」
「早く食わねば盗られるぞ?」
「お前っ!人がせっかくやる気になってるってのに……!」
目当ての牛肉を掻っ攫った戦友を、優人は怨めしそうに睨み付けるも、当の坂本は風と受け流し、横取りした肉に舌鼓を打っている。
「まぁ、そう熱り立つな。代わりの肉はまだいくらでもあるぞ?3人前もあれば――」
「10人前だ!」
言葉を遮り、追加の肉を声高に要求する優人。対する坂本は「はっはっはっ!」と豪快に笑う。
「それでこそ、宮藤優人だ!」
◇ ◇ ◇
約1時間後――
食事を終え、坂本とも別れた優人は、牛肉を詰め込んだ腹を抱えながら帰宅の途に就いていた。
がっつき過ぎたせいで腹が膨れ気味になっているが、厚手のコートを羽織っているおかげで目立たずに済んでいる。
「ん?」
宮藤診療所に続く山道。その入り口に佇む人影が、扶桑海軍ウィザードの目に留まった。
小柄なシルエットと、身に纏った薄緑色の甚平。その上に羽織っている質素なデザインの半纏には見覚えがある。
「あ、お兄ちゃん♪」
「芳佳」
兄の存在に気付き、芳佳は駆け寄った。薄暗い夜道でも、口元から白い吐息が漏れ出ているのが分かる。
「お前、何で?」
「えへへ、お兄ちゃんを迎えに来たんだ♪」
屈託の無い笑顔で応じる芳佳。優人にとって妹の笑顔は、夜の闇を払い、冬の寒さを吹き飛ばさんばかりの眩しさと温もりを感じさせるものだが、今回は少し事情が異なっていた。
「……いつから?」
「え?」
「いつからここで待ってたんだ?」
と、優人は訊ねる。扶桑海軍ウィザードの鋭い――妹のこととなると特に――観察眼は、芳佳がブルブルと小刻みに震えているのを見逃さなかった。
「待ってないよ、今来たところで――」
「………………」
「え~っと、10分くらい?」
「………………」
「2時間くらい、です。うぅ……」
兄からの無言の圧力に屈し、芳佳はショボくれながら白状する。すると、狙い済ましたかのように冷風が吹き、芳佳を襲った。
魔法力で守られているウィッチとはいえ、寝間着で真冬の夜に出歩くなど無茶もいいところ。防寒対策が半纏だけでは心許ない。
「まったく……」
見兼ねた優人は呆れたように呟くと、首からマフラーを外して妹の首に巻いてやる。
「これで、少しはマシになるだろう?」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
「こんな時間にこんな場所に突っ立ってたら身体に障るぞ?」
「だ、大丈夫だよ。ほら、私って風邪引いたことないし!」
「これからも引かないとは限らないんだよ」
「あぅ!」
優人に指で額を小突かれ、芳佳は間の抜けた声を漏らす。
例え彼女の言う通り風邪を引かないとしても、少女が夜中に1人で出歩くこと自体が問題なのだ。
今の御時世、ウィッチだと分かった上でちょっかいを出してくる不逞の輩も少なからず存在する。
組織内の花形をウィッチ・ウィザードに奪われ、逆恨みする軍関係者。ネウロイを神と崇める怪しげな宗教団体。破廉恥な目的で手を出す変質者と、実例を挙げたらキリがない。
これらの危険についてたっぷり話してやりたいところだが、生憎と優人は長々と説教するのも、されるのも嫌いだった。それに悪戯に恐怖を煽るようなやり方も好きではなかった。
今は早く家に帰り、冷えた妹の身体を暖めてやらねば本当に風邪を引いてしまう。
「ほら、そろそろ帰るぞ?」
そう言うと、優人は芳佳の手を取った。長時間寒さに晒されていた手は、当然ながら冷えている。
「お兄ちゃんの手、暖かいね」
「お前の手が冷たいんだよ」
「えへへ、ごめんなさい♪」
口では謝りつつも、芳佳の頬は緩み切っていた。理由はどうあれ、兄と手を繋いで歩けることが嬉しいらしい。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
山道に入ろうとした兄を芳佳が呼び止める。声につられ、優人は振り返った。
「ちょっとだけ、夜のお散歩してから帰らない?」
先程とは打って変わり芳佳は哀しげな表情を浮かべている。
「芳佳?」
「お願い」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……わかったよ、少しだけだぞ?」
見つめ合いの末、妹のいじらしい態度に弱い兄が根負けしたのだった。
「やったぁ~!」
嬉しさのあまり跳び跳ねて喜ぶ芳佳。欣喜雀躍とする妹に対し、優人は疑問をぶつける。
「けど、何でわざわざ夜に?明日休みだし、なんなら1日中付き合えるぞ?」
「あっ、うん……その……」
優人の問い掛けに、芳佳は口籠った。夜の散歩に誘ったのは思いつきではなく、明確な理由がある。件の悪夢だ。
しかし、芳佳は話したくなかった。話してしまえば、夢で終わらず現実になってしまう。そんな気がする。
「たまには、夜に出歩くのも良いかなって……」
「?……そっか」
曖昧で納得し難いものだったが、優人がそれ以上追及することはなかった。
その後。2人は日付が変わるまで夜の街を歩き回り、いつもより大分遅く床に就いたのだった。
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