記憶の無い僕と黒い刃の彼女   作:丸いの

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第三話「深層の森林地帯リオパーダ 不穏の足音」
22. 飼い犬と副官


「……ナイン、準備はいいね?」

 

 遥か彼方の山の頭にようやく太陽の明かりがかすかに見えるだなんて、クアルスにいた時も流石にまだ寝ていたような時間だ。それに部屋の空気ですらも、しっかりと着込んでなければ凍えてしまうほど。そんなまだ日の登りきらないような早朝のひと時に、僕は声を潜めて隣に並んだ薄桃色の髪の少女に問いかけた。

 

「うん、大丈夫。見張りの兵はいないし、まだ兵士たちの訓練も始まってはいない」

 

 耳に手を当てて廊下の音を聞き取った彼女は、どこか自信に満ちた様子でそう返した。確かに人の気配が無いのは勿論のこと、窓の外からは日が昇ったあとにはいつも聞こえていたような兵の訓練で剣を打ち鳴らすような音も聞こえてはいない。

 

 その窓へと手をやって、外の様子を確認する。明け方の薄暗い空間が広がり、開け放たれた窓辺から身を震わせる厳しい寒さが吹き込んだ。

 

「じゃあ、見つからない内にとっとと行こうか」

 

 人の体一つならば容易に通ることの出来る窓からならば、外に出ることは簡単だ。元々この部屋は誰かを軟禁するために作られたというわけではないようで、ただの宿泊室であるここから逃げ出すことはそう難しい話ではない。

 

 さて、こんな朝っぱらに一体僕たちが何を企んでいるのか。それは何を隠そう、療養にために与えられた砦の一室からの脱走である。何も思いつきや酔狂でこんなことを画策しているのではなく、これはきちんとした考えの元である。

 

 

* * *

 

 

 切っ掛けは昨日の昼頃の話だ。

 

 ヴァローナでの武装蜂起後、数日間の気絶状態から目覚めたのが一昨日の出来事。その時、僕はカタリナ様から幾つかの忠告を受けた。その内容の如何については一旦置いておくとして、その時に彼女はまた来るよと言っていた。給仕の人に聞いたところ、砦でのカタリナ様の役職は特務将官というものらしい。

 

 そんな色々と仕事を抱えていそうな大層な肩書から言って、彼女のまた来るよといういう発言はおそらくはリップサービスみたいなものだと考えていたけど、それに反して彼女は昨日に再び現れた。それも一人だけじゃなくて、その脇にこの砦の将であるイーリスも連れたって。

 

 恐らくは彼は詰まった予定を無理やりにこじ開けてくれたのだろう。僕に宛がわれた部屋の中で、机に向かい合って僕とナイン、そしてイーリスとカタリナ様が向かい合う。彼が最初に口にした言葉、それは僕への感謝だった。

 

「まずは感謝を述べさせてくれ――ありがとう。君のおかげで、ヴァローナの砦は守られたよ」

 

 あの日、イーリスは砦で部隊の統括にあたっていた。懐に忍ばせていた彼の霊剣の破片を通してこっちの戦況を把握し、作戦として立てておいたバリスタの一斉射、そして頃合いを見計らった砦の全兵力の突入を指揮した。

 

 しかし今になれば、よくもまあ彼のような堅い立場の人が僕のような人間族の若者の話に耳を傾けてくれたものだと思う。彼を説得するために行ったことと言えば、わざと砦の兵をけしかけてそれをいなして見せたくらい。とてもじゃないが化け物染みた敵の始祖族の戦士を打ち倒せるような保証は出来なかった。

 

「……全ては閣下が僕とナインを信頼してくれたからです。きっと、僕たちだけの力ではあの敵将に歯は立たなかったと思います」

「謙遜はよせ。今や君は立派な始祖殺しだ。それほどの存在が王都でさえ一体どれほどいることか……君は、もっと自分を誇るべきさ」

 

 始祖殺し、その肩書は僕にとってはひどく重たいものだ。人間の身でありながら、始祖族を打ち倒すほどの力を持った戦士をさす呼び名。これまでの戦乱の最中で敵対する始祖族を打倒した古強者や、実際に始祖族を殺したわけでは無くとも実技訓練で打ち倒したことのある者が呼ばれると聞いたことがある。

 

 言ってしまえば、クアルスでアリアスを撃破した時点でもうそう呼ばれるだけの下地はあったのだ。そして何人もの兵士の前でマオを打倒したことで、僕は数少ない本当に始祖族の戦士を殺した人間として認知されるに至ったのだろう。

 

 

「ヨードルから君について少しだけ聞いたよ。まだこの街に来て日が浅いのに、何故ヴァローナを救おうとしたんだ? もし私が力のないただの市民だったら、自分の命を優先して間違いなく街から逃げ出ただろう」

 

 いくらか武装蜂起後の街の様子について話を聞いた後に、イーリスはそんなことを問いかけてきた。僕が身の丈に合わないような戦いに身を投げた理由を聞こうという質問。今まで腕を組んだまま窓の外に目をやっていたカタリナ様もこの話題には興味を惹かれたようで、いつの間にか真紅の瞳をこちらにじっと向けていた。

 

「……過去を探しているんです。失った記憶の破片を探し求めて、今はその旅路のほんの始まりなんです」

 

 ほとんどは真実を、そして敢えて一部だけは隠して話した。確かに今の僕の状況は、自分の過去を探すための旅路の途中である。しかしその一方で、ナインの手を取った瞬間から、クアルスに自分の居場所が無くなったからという理由もある。

 

「僕すらも知らない自分の過去を知る彼女の協力の元で、僕はこの街にたどり着きました。昔居たことがあるというヴァローナを、よく知らないままにフラントニア帝国へと落とされたくはなかった……ただ、それだけです」

 

 自分という人間が、こんな要衝の地であるヴァローナに果たしてどんな用があったのかは想像もつかない。でもナインは、確かにここは何かしらの縁があることを示唆しているのだ。せめてあと一月の間、路銀が貯まるまでの間はヴァローナでの自身の痕跡を探したい。

 

 今回の無謀とも言える戦いも、結局は目標を邪魔する障壁を排除したに過ぎない。決してこの街の誰かを救いたい、そんな思惑なんて無かった。そう言外に匂わせた。

 

「だが、ヨードルは君が殺されそうになっていた親子を率先して助けたとも言っていたよ。君の行動は動機がどうであれ、英雄的なものさ」

「あれは……何故あんな行動をとったのか、僕自身にもわかりません」

 

 自分の体を死地に向かって突き動かしたほどの、強い衝動。イーリスには分からないとは言ったものの、実はその正体については心当たりがある。

 

 ナインと出会ってから今までの日々で、これまでの自分ならば絶対に取らなかったであろう選択をいくつかしてきた。その度に思う、記憶にないはずの過去の自分の影。きっとそれが、今回も僕には似つかわしくない英雄的な行動をさせたのだろう。

 

 

 ふと、イーリスの顔に少しばかりの険しさがさした。彼の切れ長な視線が僕とナインを捕らえ、そして直後に隣へ控えている――獲物を前にした肉食獣のような笑顔を浮かべたカタリナ様を一瞥した。

 

「……今回の一件、君には感謝をしている。だが同時に、ひどく大きな悩ましさも感じている。それは、君たちの扱いだ」

 

 声のトーンも少しばかり落ちて、イーリスはそう言い切った。彼の言葉を頭のなかで反芻すること数秒、ここにきてようやく僕は自分でも気が付いたのだ。武装蜂起の鎮圧に際して、介入したことによる弊害を。

 

「君たちの働きは凄まじい。特にツカサ、君は作戦骨子の立案だけでなく敵陣に単独で突撃し、仕舞いには始祖族である敵将を撃破した。君の働きは、言葉で言い表すのも困難なほど大きいものだよ」

 

 言葉の上だけをみれば、まるでこの功績を称えるかのよう。しかし実際はそうではない。始祖族ではない普通の人間であることはおろか、傭兵や正規兵といった専門ですらないこの僕が、身の丈に合わない戦果をあげた。

 

 こんなただの市民が戦乱で活躍してしまったことに爽快や喜びを感じるほど、おめでたくはない。始祖族が人間族の市民を統治するこのアストランテにおいて、訓練された熟練の武人ならまだしもそこらの一般人が始祖族を打ち倒したとなればどうなるか。程度の大小はどうであれ、この国の価値観にヒビが入るのは間違いない。

 

「……僕を、どうするのですか?」

 

 最悪の展開が頭の中に過るやいなや、震えた声が口から漏れ出た。僕の目の前にいるのは、人間族とは価値観が違う支配階級たる始祖族だ。彼らは、国を統治するためであれば非情な選択だって容易に取る。常識にヒビをいれるような存在など、排除されたって何らおかしくはない。

 

「安心しろ。君に危害を与える気はない。仮にそうしたところで、君の存在を砦の兵達が知った現状では反乱意識を芽生えさせるだけだ」

 

 それはつまり、選択はしなかったけど検討はしたということ。やはり彼もまた、冷徹さを持った始祖族であるということを改めて思い知らされた。

 

「だが君をそのままにしておくにはいつか綻びが来る。だから私は一つの結論に達した。それは――」

 

「――やっとボクの番か。前置きが長いんだよ」

 

 うんざりしたような、それでいながら揚揚とした様子で、カタリナ様は今までずっとつぐんできた口を開いた。そんな一言を残したかと思えば、まるで肉を前にした獣の如く、身をやや乗り出して彼女は真紅の瞳で僕の顔を捉えた。

 

 

「ツカサは覚えているよな。初めて会った夜に、ボクが君に言ったことを」

 

 彼女の言うとおり、僕はしっかりと覚えていた。出自も怪しい僕に対して、アストランテ王国第三王女殿下の副官にならないかという異様な提案なんて、忘れたくとも不可能な代物だ。

 

 カタリナ様から逃げ切って住処へとたどり着いてからナインにフクカンとは何ぞと聞いてみて、ようやく事の異常さに気がついたものだ。

 

「あの時の提案をもう一度言う。君、ボクの副官になれよ。ツカサの身分を保証し、秩序崩壊の種を減らすにはとっておきの方法さ」

 

 副官とは、軍部において部隊長などの高い階級職の仕事を補佐する人員のことらしい。ナインいわく、戦うだけではなく部下たちの調整など複雑な業務をもつ将校は、一部を肩代わりさせるために副官を持つことがあるとか。

 

「君らの雇い主から聞き出したよ。少なくとも、事務作業については申し分無い。そしてそれ以上に――ツカサ、君には興味がある」

 

 だが彼女は、ただ将官としての事務的な業務を補佐するだけがために副官を欲しているわけではない。この人は、間違いなく戦乱にて彼女と共に動き回る兵士を求めている。

 

 あの時と一緒だ。逃がすつもりなど欠片も無いと語る、見開かれた深紅の瞳。まるで体全体を押さえつけられているかのような錯覚。

 

「……それに、仮にも王族のボクは君のような特殊な人間を抱えるに足る立場にいる。ボクならば、君をうまいこと匿いながら扱うことが出来る」

 

 ふと、カタリナ様の笑顔が深くなる。彼女の言葉の行間を読むのは容易い。この人は、僕とナインの特殊性を実際にその目で見てしまった。きっとナインという存在と始祖族の霊剣の関連の秘密保持を、ぼやかしながらもちらつかせているんだろう。

 

 

「今日は体が本調子じゃないだろう。明日の朝、良い返事を期待してるよ」

 

 そのあとも幾つは言葉を交わしたものの、結局はそのまま僕たちの身柄はカタリナ様の下にいくという方向性が変わることはなかった。一晩の間で覚悟を決めろということだろう。去り際に彼女が小声で「選択肢は無いけどね」と呟いていたことから考えても、これが実質的な強制であることは明らかだ。

 

 つい前日に、彼女は僕がナインによって良いように使われている可能性を示唆した。でもそのカタリナ様自身も、自分をうまいこと扱おうとしているのではないか。明かしたら危険そうな弱味を握られた分、余計に質が悪く感じる。

 

「……ツカサ。私は、あの始祖族の女は危険だと思うよ」

 

 果たしてそのナイン自身はどうなのかというと、彼女はカタリナ様の提議に対して難色を示していた。一体それはどうしてなのか。そう聞くまでも無く、ナインは僕の目を見据えてしっかりとその考えを話しきった。

 

「あの女についていく。それはつまり、ツカサが今以上に戦乱へと巻き込まれていくということだよ」

 

 彼女が王族でありながら副官という存在を要するような軍の立場である以上、殿下に付き従うということは戦いに直面する機会も多くなることに直結する。今が平静の世であれば問題は無かった。しかし現実は、要衝の地であるこの街で帝国の勢力が武装蜂起をけしかけた。もはやこれは平静などとは程遠く、ヴァローナでの出来事が早馬で伝えられた暁にはきっと国の中央はてんやわんやだろう。

 

「それだけじゃない。始祖族と私たちは、決して同じじゃない」

 

 後になって考え直してみたら、このあとに続く言葉が最も心を揺り動かすものであった。

 

「……人間は、馬車を引く馬や猟を補佐する猟犬に対して、親愛を感じることはあっても自らと対等だとは決して思わない。それと同じ、アイツは私たちとは違う生き物――あの女にとって、ツカサは"多少興味深い犬"でしかないのかもしれないよ」

 

 始祖族と僕たちの価値観は異なっているけど、もしかしたら始祖族の中でも変わり者かもしれないカタリナ様であれば何かしら通じ合うものがあるのかもしれない。しかしそんな考えも、この一言で幻のようにフッと掻き消えてしまった。

 

 思い返してみれば、傭兵たちから一緒に逃げたあの夜だってカタリナ様の反応は面白そうな玩具を前にしたかのようだった。種族の違いという側面から考えてそのあり方を否定する気は無くとも、自分が関与することに良い気はしない。

 

 それに、そんな存在に対して自分を預けることが出来るのか。副官になるということは、カタリナ様の元に下るということだ。命のやり取りが交わされるような戦場で、果たしてあの人が"多少興味深い犬"に対してどこまで気を払うというのだろうか。無いとは願いたいものだが、つまらなくなったから見殺しにするだなんてことが起きない保証は何処にも無いのだ。

 

 

 僕が旅に出た目的とは、自分の過去を知るためだということだ。仮に身分の保証はされたとして、今後の行動の幅は間違いなく狭まるだろう。彼女の軍門に下ることとなれば、果たして何処まで目的から遠ざかることとなるのか。

 

「今ならば、まだ引き返せるよ」

「……垂らされた手綱を放り出すってことか」

 

 今の僕には選択肢が無い、強制といって差し支えのない状況。だけどまだ、彼女の副官になるという話は確定されたわけじゃない。一晩の間に決意を固めろという時間的な猶予だけは与えられた。だから首を縦に振るよりも先に、そもそも問題を放り出してしまうという荒技が残されている。

 

 

「――私は、あなたを戦乱に巻き込みたいわけじゃない。ツカサと一緒に、私の知る昔のあなたの痕跡を探したい。私の望みは、ただそれだけなんだよ」

 

 彼女の囁きは、僕にとって都合がよすぎる物だ。口で話す言葉とは裏腹に、腹の内に本当の望みを抱えていてそれを明かしていないのかもしれない。カタリナ様だけじゃなくて、ナインも僕を何らかの形で利用している可能性は捨てきれない。

 

 そんなことは頭では理解をしているのだというのに、彼女の言葉は思わず信じてしまいたくなるのだ。カタリナ様の言葉によってナインの在り方に疑念を自覚したにもかかわらず、まるで思考がそう操作されているかのよう。

 

 

 夜明けと同時にこの部屋を脱出しようなどと本気で計画を練ることとなったきっかけは、きっと艶めかしいほどに甘く聞こえてしまったナインの言葉なのだろう。

 

 

* * *

 

 

「……本当に脱出しちゃったよ。というか、脱出できちゃったよ」

 

 これまでの経緯を思い返しながらこそこそと動き回っている内に、僕たちは借り受けている商工会の宿舎前へとたどり着いていた。小声で本当にあの砦から脱出できてしまったことに驚きの念を呟いていると、隣を歩くナインが不思議そうな表情で首を傾けた。確かに何らかの荒事に慣れているかもしれない彼女ならばここまでの道筋は普通なのかもしれないけど、僕にしてみれば色々と無茶のあるものだった。

 

 そもそもが部屋から出た後の経路について、僕自身は細かいことはあまり考えてはいなかった。砦と市街地との間は、それなりに高さのある壁で一面が仕切られている。それを突破するために、適当に出入り口付近に潜伏し、兵士によって開門された辺りでこっそりと出ていこうとくらいは考えていた。

 

 しかしナインは、あろうことかその壁をよじ登って乗り越えるという荒技を提案した。おそらくは彼女にとってはそれが普通の選択であり、しかもやってみたら案外行けてしまったというのがたちが悪い。

 

 

 未だ周辺は夜明け直後で薄暗く、それでもって山間の湿気により街は朝もやに覆われている。だから周辺は輪をかけて人けが感じられず、この商工会宿舎であってもそれは変わらない。古びた扉に手をかけたが、僕たち以外に活動している人は誰もいなさそうだ。

 

 先の武装蜂起で商工会の受付所も大きな損害を被った。広場での一斉蜂起と共にこの街の流通をも麻痺させようと攻め入ってきたのだろう。反乱兵によって受付担当一人が殺され、受付所のロビーは戦闘によって大きく荒れた。しかし受付所と隣接するこの宿舎は大きな被害は見受けられず、古びた内観や軋んだ音を立てる階段など何も変化はない。

 

 

 一旦は自分たちの借り受けた部屋へと戻り、ヴァローナから他の街に移動するための準備をする。これが、ナインと共に話し合って決めた今後の方針だ。いきなりヴァローナの深部に潜伏をするよりも、一応は拠点を持っておく方がよほど堅実だ。それにこの街を出る前に、自分の痕跡を探しておいた方が良いだろう。

 

 然したる意味は無いけども、古びた狭い階段をなるべく足音を立てないように歩く。王族の言葉を破って僕たちはこの場所にいる。見つかったらただじゃ済まない、それだけは理解をしているつもりだ。追手が出てくる前に荷物を纏め、次の街へと移動するべきだろう。

 

 

 そんな今後の指針を頭の中に思い描きながら、廊下の一番奥の古びた部屋の扉に手をかけ――部屋の中に目を向けた瞬間に、僕は扉を開けてしまったことを後悔した。反射的に扉を閉じようとした手は、その奥からこちらを見据える真紅の双眼により痺れたかのように動かなくなる。

 

「――ツカサ、罠だっ!!」

 

 背後にいたナインの行動は素早かった。部屋の内部を僅かに視認した瞬間に彼女は腰元へと手を伸ばし――しかしそこに括り付けられていた投てきナイフを手にするよりも先に、僕は彼女を制す。そして、ゆっくりと両手を上に上げた。

 

「……ナイン、手出しはしちゃ駄目だ。これはもう、完全に向こうの勝ちだよ」

 

 どうやら、僕たちはまんまと嵌められたようだ。人けが無かっただなんて全くの錯覚だったかのように、後ろからいくつもの扉を開け放つ音が鳴り響く。恐らくは、"目の前の人物"があらかじめそれぞれの部屋に手配しておいた砦の兵士たちが、ずっと息を潜めていたところから一転して僕たちが逃げられないように廊下を固めていることだろう。

 

 その仕掛け人であろう、古ぼけたベッドに腰かけて僕に向かって微笑みを向ける、黒紅色の長髪を窓辺から差し込んだ朝日で照らしあげる女性。組んでいた足を解き、昨日と同じ黒い軍服に身を包んだ彼女は、僕たちに向けてゆっくりと歩みを進めた。

 

「やあ、遅かったじゃないか。一晩ゆっくりと考えた結果は、やっぱりこれか」

 

 砦から抜け出した脱走者を見つけたというのに、彼女――戦姫カタリナ・フォン・アストランテは場違いなほどに朗らかな笑顔を浮かべている。そのギャップが、彼女に対して異様な警戒感を抱かせた。

 

 冷や汗が伝い動けないままにいる僕の顔を、カタリナ様は満面の笑みを浮かべたままに覗き込む。鼻と鼻がくっつくほどの距離に、絶世の美女の端正な顔が間近に見える。こんな状況でも無ければ思わず顔を赤くしそうなものだけど、目の前にいるのが逃げ出そうとしていた始祖族且つこの国の王女ということを考えれば、きっと僕の顔は青ざめていることだろう。

 

「君を引き込むには一筋縄ではいかないと思ってた。だからイーリスに、あえて君の監視をほとんど外させたのさ。きっと君にはただボクに従うことは無く砦から逃げ出すだけの意志もあり、でも一旦自分の拠点に戻るだけの堅実さもある。ボクの予想は、これで全部当たっているよね?」

 

 僕の周囲を軽やかな足取りで一周した彼女は、再びその顔を目の前へと突き出してきた。僕たちの行動は全て、殿下たちの手のひらの上から外れることは無かったということか。まさか逃げ出してここに来ることすらも織り込み済みで、更に前もってこの場所で待ち伏せていたなど、もはや笑うしかない。

 

 ちらりと後ろに目を流す。僕と同じくじっと身動き一つせずにカタリナ様を見つめるナインは、まったくの無表情で感情が読み取れない。でも懐に伸ばした手は微動だにせず、何か動きがあればすぐ様にナイフを抜き放てる臨戦態勢なのだろう。だけど相手はカタリナ様だけではなく廊下に控えた兵士もいて、更にカタリナ様自身が強大な能力を持つ始祖族の戦士だ。だから、彼女に事を起こさせるわけにはいかない。

 

 

「じゃあ聞こうか。一晩悩み抜いて、こんな状況にまでなった君の考えを」

 

 もう、心を括るしかない。殿下はやろうと思えばいつでも僕たちを害すことが出来るというのに、一見して無防備なほどに朗らかに笑みを浮かべるだけ。それはつまり、もう欲しい玩具は手に入ったも同然だということ。いくら歯噛みしようが、彼女の意志は変わらないのだ。

 

「……ええ、分かりました。しっかりと考え抜いて、そして今もこうして熟考をした結果――」

 

 敢えてこうやって逃げさせて、本当の意味で退路を塞いできたのだ。だから、今この瞬間だけは彼女が欲していることを言ってやるしかない。口角が吊り上がるカタリナ様を見据えながら、僕は自分の口で自身を縛る一言を吐き出した。

 

「――ツカサとナインの両名は、カタリナ・フォン・アストランテ第三王女殿下の副官を拝命させていただきます」

 

 満足げに笑うカタリナ様を前にして、僕は心の中で考えを巡らせていた。今はこの人の下に付くことを容認して、いつの日かその命を打ち捨てて元の身分へと戻ろうと。そしてきっと殿下はそんな心に秘めた考えすらも看破しているのではないかという確信染みた予感が、彼女の笑顔を見ているうちに内心を過った。

 

 

 こうして僕の身分は、兵隊とは関わりのない商工会の受付所で事務作業の見習いに勤しむ一般市民から、第三王女付きの副官としての命を受けた特務尉官へと姿を変えたのだ。

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