ナインが向かった先、それは想像していた通りこの砦を囲む壁の内部であった。だから目的地につくまでの間は、当然砦の中を歩くことになる。道すがらで出くわした砦の兵士たちは、カタリナ殿下の姿を見やいなや即座に壁際に寄って敬礼を向ける。その上、殿下の元につく副官となった僕たちにもそれが向くものだから、どうしても居心地の悪さは否めなかった。
ただの一般市民からひとっ跳びでの身分の変化、それも戦姫とも呼ばれる見目麗しい第三王女付きの副官となったのだ。砦の兵士たちから見れば当然面白くは無いはずだし、多少のやっかみ程度ならば覚悟はしていた。
しかし結果は正反対。待っていたのはどこか距離を感じる敬礼姿。それも王女殿下の前だからと仕方なくやっているようなものではなく、本当に彼らの態度からは不思議な仰々しさを垣間見た。それと同時に、ヨードルに言われた言葉が頭の中に過る。英雄、そういう立ち位置に僕は足を延ばしかけている。
彼らの視線に含まれている感情は果たして畏怖か畏敬か。しかしそのどちらであろうと、まるでささくれ立った心を逆に撫でつけるかのような不快感は、完全に消えて無くなることはなかった。
そのまま砦の本体を通り過ぎ、敷地内の端であろう一画へとたどり着いた。ふと横を見れば、さっきまで僕たちがいた東塔の姿が目に入る。砦の正面から回ったため大分遠回りとなってしまったようだ。目の前に立ちふさがる砦の防御壁の向こう側には、きっと北へと続く山間の森林や原野が広がっているのだろう。そのずっと先には、古くから対立関係にあるフラントニア帝国の地があるのだ。
「……ホントに、こんなところにツカサの痕跡があるのかい?」
胡散臭そうな声で、カタリナ殿下は周辺を見回しながらつぶやいた。執務室を出たときの意気軒昂とした雰囲気とは一転して、彼女は先導するナインを疑問符の浮かんだ視線で見つめている。それもそのはず、僕たちが現状で立っているのは砦の端、それも主戦場となるような壁の上ではなく人けのあまりない本当の隅っこだ。
周囲を見渡しても、あるのは精々が防御壁へ上るための階段や矢倉、それに砦本体から続く回廊の端っこや用途の良く分からない小さな古ぼけた建物くらいのようなものくらいだ。
こんな場所に、果たして過去の自分は一体何を残したのだろうか。というか、何かを残しようがあるような場所には到底思えない。そんな疑問も他所に、ナインは目の前に建つ砦からは孤立した建物へと足を進める。
「……この小屋はなんでしょうか」
「さあね。ただまぁ、見た感じじゃ古代の遺跡か何かだろう」
ナインに続いて、僕と殿下もその古びた小屋へと近付く。遠目にみたらただの風化して打ち捨てられた廃屋としか思えなかったが、近くで見ると確かにヴァローナの一般的な建築物と比べると変わった点がいくつか見つかる。
「壁を見てみなよ。石や煉瓦じゃなく、木や金属ですらもない。こんなもの造りが出来るのは、古代人くらいなものさ」
建物全体を這うようにして包み込む蔦を掻き分けて、建物の表面をさらけ出す。確かにその材質は彼女が言ったどれとも一致しない、不可思議なものに見える。しかしそんな未知の物体だというのに、何故かそこまで特異的なものには思えないほど、この建物は古びた廃屋としてこの場所に溶け込んでいるように見えた。
「聞いたことがあるかもしれないけど、このヴァローナは元々街全体が一つの巨大な遺跡をもとに造られているんだ」
手持ちぶさたな中で遺跡を眺めていると、殿下はそんなことを口にした。それは初めて聞いた、そう顔に浮かべているとカタリナ殿下はくすりと小さく笑みを浮かべる。
「ここだけじゃないよ。大きな街の多くはその内部や近くに古代の遺跡を内包している。でもヴァローナの凄いところは、街の全土が遺跡の上に位置しているんだとさ」
それはまた、随分と壮大な話だ。思い返せばクアルスの路地裏から続いていた巨大な廃墟郡も、もしかしたらただの旧市街ではなくて途中から古代遺跡に繋がっていたのかもしれない。そしてヴァローナではそんな遺跡の姿が見えないと思ったらまさかの足の下にあるというから驚きだ。
「……ですが、この遺跡は手付かずのまま放置をされていますね」
ふと、そんなことを考える。この小屋は、壁一つとっても正体不明の材質で形作られているというくらいの代物だ。中を探せばもっと重要な古代の失われた遺産があってもおかしくはない。だから、こんな放置された状況に違和感が芽生える。
「そりゃ、そうせざるを得ない事情があるんだ――でりゃっ」
急に会話が途切れたかと思えば、真横から強烈な熱波が押し寄せる。それがカタリナ殿下の霊剣が具現化したのだと理解をすると同時に、黒炎をまとった鉾槍が遺跡の壁へと打ち付けられた。
いきなりの事態に思わず後退る。壁をうち据える衝撃音、それと共に飛び散る黒紅色の焔。周囲の壁を包み込んでいた蔦たちは見るまもなく煤と化し、一面に満ち溢れる暴力的な熱気。
「な、何を――」
「――そんな攻撃では、この壁は絶対に破れない」
いつの間にか遺跡を見終えていたのか、背後からナインの声が聞こえる。そしてどこか冷めたような響きの言葉通り、カタリナ殿下の霊剣は遺跡の壁に突破口を築くことはなかった。
鉾槍に絡まっていた炎が消え失せ、遺跡の表面が露になる。だが確かに蔦や埃こそ無くなったものの、壁自体には傷どころか強烈な熱による変色すらも起きてはいない。鋼を切り裂くほどの霊剣が叩き付けられて痕一つ付かないという結果に、思わず目を見開く。
「その通り。通常の武器は勿論、霊剣だってこの有り様だ。まぁ、こんなので開くことが出来れば歴史学者たちも苦労もしないんだけどね」
灰色の壁面に突き立てていた霊剣を再びかき消した殿下は、直接壁面へと手を這わせた。この有り様を見せられれば、少なくとも古代遺跡をこじ開けるなんてことは到底不可能なことだということが嫌でも理解できる。
「さっき、ヴァローナは遺跡の上に造られたと言ったよね。こんな堅牢な外壁が、地下一面にまで広がっている。だからどうやったって、この中は暴くことも出来ないのさ」
結局この遺跡は、開けることもうち壊すことも出来なかったから、こんな砦の隅で廃墟のような状態で放置されていたのだろう。そうなれば、何故ナインはそんな箸にも棒にもかからないような遺跡へと来たのだろうか。
「……ツカサ、遺跡にさわってみて」
浮かんだままの疑問は他所に、彼女は僕の右手を掴み、蔦や埃が取り除かれた遺跡の壁面へと押し当てた。手のひらに密着する、焔に焼かれたためかほんのりと熱を持った壁の表面。
石のような荒さはなく、鉄や煉瓦のようなざらつきもない。だからといって氷のようにまっ平らというわけでもない。そんな不可思議な感触が手のひらの全体から伝わってくる。でもそれは特異的なもののはずなのに、何故か僕には違和感のあるような感触には思えなかった――だが、それだけだ。
「なにか、頭の中に浮かぶものはあった?」
「……いいや、何も思い出せない。何一つ、この光景は記憶にないよ」
ナインの問いかけに、僕は正直に答えた。とてもそうは見えないにしても、一応は僕に所縁のあるところへと連れてきてくれたのだ。嘘とは言わなくともせめて取り繕う言葉をと思い浮かびはしたけれど、彼女の強い視線を前に飲み込んだ。
彼女が知りたいのは真実だ。曖昧に取り繕った虚言じゃなく、本当に僕がこの場所を覚えているのか否かということだろう。
「……そう、なんだ」
確かに過去のどこかで僕はナインと共にこの遺跡を訪れていたのかもしれない。だけど、僕にはそれを信じることの出来る証拠はない。たとえ彼女の言っていることが本当だとしても、どうしてもこの場所の記憶なんて存在しないのだから。
言葉途切れに呟いた彼女は、どこか寂しそうに見えた。そりゃあ、そうだろう。ナインと共に行動していたであろう昔の自分は、今の僕に置き換わられて何処にもいない。わざわざ記憶に残っているかもしれないと見せてくれた場所であるこの遺跡も、今の僕にとってはただの怪しげな廃墟でしかない。
「……折角連れてきてもらったのに、何も覚えていなくてごめん。ここは昔の僕にとってどんな場所だったのか、聞いてもいいかな」
だからせめて、伝聞でもいいから自分の欠片を拾おう。元より僕は過去の自分に戻ろうだなんて思ってはいない。失われた記憶を、記録として手に入れる。それが出来れば、十分なんだ。
「ここは――私とあなたが、この街の景色を見た最後の場所だよ」
ナインは、街の中心部の方角を向きながら話す。砦と市街地を隔てる高い石壁、そしてその上にわずかに見える沈み行く日の光。街に溢れる人々の営みなど、こんな僻地からは見ることもかなわない。そんな光景が、記憶の中の僕が最後に見たヴァローナの姿だというのか。
「ふぅん、殺風景どころかなんも見えないじゃないか。しっかしここに立ち入ったとなると、ツカサの過去はある程度類推出来るね」
そのナインの肩に顎を乗せるようにして、カタリナ殿下も同じ方向を見つめていた。そのもとも子もない言いように、少しばかりのため息が漏れる。しかしそれ以上に、過去に繋がるという手がかりに興味を引かれた。
「おそらく階級はヴァローナ正規兵、もしくは傭兵部隊の一員。各地を渡り歩いていたとなると、多分後者だろう」
いつぞやに、僕は自分自身の正体が本当は荒事に慣れた人間だったのではないかと疑ったことがある。いや、アリアスを殺めたその時から、疑いは確信へと近付きつつある。今の殿下の話は、さらにその駒を大きく進めるだけの価値があった。
ナインは僕が自分の手で真実に到達することを望んでいるのか、彼女から何かを言うことはない。だから、僕が人間族の傭兵か何かだったというのはただの推測に過ぎない。でもたとえ仮定だとしても、過去の自分に関するおぼろ気な像があるかないかでは心の持ちように雲泥の差があるのだ。
「……この場所での所縁はこれだけ。でも、あなたがここを知らなかったというのは、それも大切な情報なんだよ」
再び見た彼女の表情は、先ほどとは違って晴れやかなものだった。自惚れかもしれないけど、ただ僕を安堵させるがために向けたのかもしれない淡い笑みは、でもむしろ僕を追い詰める。
僕は、ナインのことを信用しきれていない。たとえ僕の過去に関する確定的なことを話せないなりに、手がかりを探すがための協力をしてくれる彼女も、今やカタリナ殿下と同じく疑念を向ける対象だ。だから純粋にして無垢なその顔にすらも、潜んでいるかもわからない本性を探そうとしてしまう。
「……大丈夫。まだ手がかりはあるよ……それに例えあなたの記憶が戻らなくても――」
「それじゃ、戻ろうか。案外先は長そうだし、楽しみも続きそうだ」
ナインの小さな声は、快活そうに響く殿下の声に上書きされた。淡い微笑みを消して帰路に向けて歩き出すナインを、言葉もなく眺める。
無償の――いや、無償に見える親切心は、恐ろしいものだ。アリアスのように、いつの間にか親切だと思っていたものが、殺意をぎらつかせて刃を剥くことだってある。だから僕は自分自身の正体もそうだけど、それ以上に彼女の本心を推測しなければならない。
ナインは、もし僕の記憶が戻らないという結末を目にしたらどうなるんだろう。そんな恐れにも似た感情が、砦の東塔へと歩く道すがら、頭のなかを支配していた。
* * *
「さて諸君。旅程を確認しようか」
両腕にのし掛かるのは、多量の乾物を詰め込んだ麻袋だ。干し芋に魚の干物、味よりも保存の効きやすさを目指した食糧である。そんなものをせっせと馬車に詰め込むなかで、その馬車の屋根に腰かけた人物から声がかかる。大事な話なのは分かりますがせめて後でしてくれませんかねという本音も、この人相手にはぐっと飲み込むしかない。
「……また後程じゃ駄目ですか」
しかし淡い桃色頭の少女は僕よりも勇気があった。そしてもしかしたら常識が少し足りていないともいうかもしれない。野宿用の装備を荷台に押し込んだナインは、声の主――カタリナ殿下へと少しばかり鋭い視線を向けた。
「別に良いだろ。君らは荷物を運んでるだけだし、何しろボクは待ってるだけで退屈してるんだ」
まるで聞き耳持たずといった有り様。こっちが夜が明けて間もない中で王都へと旅路に向けた最終準備をしているというのに、まったくもって良い身分だ。
無論、ここらはイーリスに率いられた何人かの兵の目がある以上、王女殿下である彼女が一緒になって力仕事をするのは威厳に関わるなんてのは分かってる。だからせめて、こっちの仕事が一段落するまで威厳を保ちつつ静かにしてもらいたいものだ。
「……ったく、何が陸路を使えだ。しかもろくに宿場町の無い行路を指定しやがって」
これから乗り込むことになる馬車に詰め込まれた物資の数々をみて、殿下は視線を険しくして吐き捨てた。彼女がここまで刺を含ませるのも、これから行く道を考えれば納得だ。
ここ城塞都市ヴァローナから王都サンクト・ストルツへと行くには、普通ならば陸路と海路を織り混ぜる。中継地である港町クアルスに向かう道は交易の要だけあってか通行しやすく、更には港から王都へと船も出ているという。実際に、カタリナ殿下がヴァローナへと来たときはこの経路で来たらしい。
しかしこの経路の難点は、時間がかかる上に到着時期も不透明だということ。海路を使う以上直線的な行き方ではなく、南からの暖流の影響が多い初春の時期は南方の王都に向けた航行は気候に左右されやすい。
それを考えれば、内陸を通って直接ヴァローナからサンクト・ストルツへ行くのは、一見して合理的に思えるかもそれない。道順だけ見れば確かにほぼ直線的な移動だし、何より海路を織り交ぜないから単純な行き方に見える。しかし、こちらのルートには一つ重大な問題がある。
「第一の目標、それは中継地点であるリーベンハイム伯爵領まで無事に到達すること。ただ時間がもったいないから王族としてではなくただの旅の一行としていくよ。だから大規模な補給は望めない」
目的地まで最速で到達するためには、地方領主に顔を見せて回るわけにはいかず、当然道中での補給作業もなるべく減らす必要がある。だからこうやって馬車に物資を万歳にしているのだ。でもこれよりもずっと、旅路を困難にする要素が控えている。
「……そんでもって第二の目標。この道における最大の難所、リオパーダの踏破だ」
深層の森林地帯リオパーダ。その名前は僕も知っていた。王国の南西部と北東部を寸断するようにして広がる、ひたすらに広大な森林。ナインを連れたってクアルスから逃げ出した時に、より情報が得られるであろう王都ではなくヴァローナを選択した元凶でもある、旅人にとって過酷な空間だ。
僕自身、体験したわけじゃないから詳細については知らないことばかりだ。しかし聞こえてくる話は、どれ一つとっても眉を顰める代物だった。広大な森林ゆえに宿場など皆無であり、闇夜のように鬱蒼と茂る森の中僅かに残された街道もいつ木々に飲み込まれるか分かったものじゃない。そして規模そのものが非常に大きいために並の行軍速度では一日で踏破など出来ず、ちんたらしてると宿場のない中で夜を明かす必要がある。そして中でも最たるものが――
「チッ、"オオカミ"退治なんて、今回はそんな暇も無いだろうに」
心底面倒そうに、殿下は吐きすてるように言った。オオカミ、そう表現されたものがただの野生で暮らしているような狼の群れというわけでは無いことを、僕は知識として知っている。
「ツカサとナインは聞いたことがあるかい? リオパーダは連中が数多く住まう魔境だ。それでもって、今年はまだ近衛隊による魔獣漸減作戦も行われてはいない。だからその中を通ってこいなんて、普通に考えりゃ正気の判断じゃない」
リオパーダに広がる森林は、決してただの木々の集合体ではない。始祖族の振るう絶大なる力の源である魔素、そんな得体の知れないものが満ちているのだ。今なお成長を続けているという無数の巨木たちによって排出されるそれらは、その場所にいる生物たちにすらも影響を与える。
この森林を通過しようと試みる旅人たちにとって最大の障害となるのは、森そのものよりも魔素によって変異を遂げた狼たちの群れだと聞いたことがある。通常の野生動物たちとは違い、比較にならないほどの大きな体格や身体能力を持ち、その上表皮は鎧のように堅牢という。
その危険さは王国も頭を悩ませているようで、毎年春には始祖族を主体とする討伐隊が組織され、これでようやく街道としての体を成しているほど。そして僕たちが行こうとしているのは漸減作戦が実行される前の、リオパーダが最も危険な時期だ。これらをすべて踏まえれば、殿下がいらいらとした雰囲気を隠そうともしないのも納得だ。
「――殿下、準備の方は完了されましたか」
「ああ。ヴィンター卿、彼らがせっせと働いてくれたからこっちは万端だ。すまないね、緊急時とはいえ馬車を拝借することになって」
そんな悶々とした空気は、馬や兵を連れたったイーリスが来たことで一旦はなりを潜めた。兵たちが四頭もの馬を馬車に括り付けていく傍らで、イーリスは若干険しい表情で僕たちを見つめていた。今回の王都に向けての旅路に参加をするのは、当事者である殿下とその副官である僕とナイン、そして後は馬車を操作する御者だけだ。王族の旅路にしてはかなりの小規模。何せ同行する兵士はおろか、護衛さえも付けないという徹底ぶり。
「……過酷な旅路になるでしょう。本当に兵を付けなくともよろしいのでしょうか」
「要らないよ。下手に人員が増えれば余計に踏破が難しくなる。それに、ボクや彼らが戦った方がよほど戦力になる」
驕ったようにではなく、至極当然のことだと言わんばかりに彼女はイーリスに言い放った。あなたの所の兵はいらない、それは受け取り様によっては侮蔑になりかねない。しかし一方のイーリスや作業を終わらせた兵士達は、当然赤面するようなことも無く彼女の発言を受け入れたように頷いた。
「……戦姫様に加えて、始祖殺しとその相方。確かに、何も知らずに襲い掛かるような輩は死にに行くようなものでしょう」
淡々としたように彼は言うが、その名で呼ばれるこちらとしてはあまり心地の良いものではない。始祖殺し、それも実際に始祖族の将をこの手で殺めた存在。彼の隣で姿勢を正してこちらを見つめる兵士の視線は、もはや場違いなところに居る一般市民を訝しむような類のものじゃない。
まるで歴戦の戦士を前にしたかのような反応は、傭兵か何かだったかもしれない僕自身の過去を覗き見られているようで、ありていに言えば気分が悪かった。
「ただ、当然ですがくれぐれも油断はなさらぬよう。かの地の過酷さは殿下も理解されているとは思いますが、想定を超える事態は何時だって起こりうる。それらを跳ね除けて無事に到着されることを、この地から願っております」
全ての準備は完了した。これから十日を優に超える長旅に耐えられるほどの物資、そして賊や獣の襲撃に備えた予備の武器。馬車に繋がれた四頭の馬は出発を今かと待ちわびて鼻先から熱い白息を吐き出す。馬車の屋根から飛び降りたカタリナ殿下は、出発を見届けるべく整列した兵たちの先頭に立つイーリスの前に立った。
「たったの数日だけど、君たちには世話になった。ボクの代わりの将官補佐が正式に配備されるまで、そっちも戦の種火には気を付けろよ」
「こちらこそ、殿下に訪れていただき光栄でした。ここは北辺の要衝、再び殿下が訪れるような事態にならぬよう、このイーリス・ディ・ヴィンター、押し寄せる戦火から国をお守りしましょう」
固く握手を交わす彼らを、兵士たちと共に黙って見つめる。あんなに別の世界の話だと思っていた始祖族や戦争という物に、これからさらに深くかかわっていくのだ。一見して神秘的にすら見えたその世界、この旅路はそこへ飛び込む第一歩となることだろう。
「そしてツカサ、そしてナイン。殿下の矛となりそして盾になり、君たちの中に見た光が幻ではないことを証明して見せてくれ――総員傾注!! 殿下の旅路の成功へ向け、我らヴァローナの民はこの北辺の地からお祈りしています」
彼の言葉と共に、全ての兵士が一斉に足を打ち鳴らして直立する。鎧と剣がこすれる音が一瞬だけ響き渡り、後に残るはイーリスの宣言の残響のみ。その多数の視線を背後に受けながら、カタリナ殿下へ続いて馬車へ乗り込む。御者が鞭を打ち鳴らす音と共に景色が動き出す。まだ夜が明けて間もない街並み、そして城門の外側へ向けて動き出したのだ。
たった数日間、それは人生の長さを考えたら一瞬のような短さだ。しかしこの街で刻み込まれた記憶と経験は、そう簡単に消え去るようなものではない。砦から城門まで続く大通りを走る最中で、中央広場に降り注いだバリスタの矢の群れを幻視する。これからは、きっとさらに戦乱の中へと赴くことになるのだろう。このヴァローナで直面した以上のことがきっと待ち受けている。それでも、立ち止まるわけにはいかない。
己の過去を取り戻すその日まで、死んでやるわけにはいかない。この旅路を乗り切ることがまずはその第一歩目なのだ。未だに武装蜂起の痕跡が残る中央広場から視線を外し、まだその姿も見えない深層の森林地帯がある方角に向けて、意味がないと知りながらも睨みつけた。