あれは今からわずかに前、リオパーダに差し掛かってからある程度の距離を進んだときのことだった。
馬車が深層の森の中へと続く道を進むにつれて木漏れ日は木々で遮られて弱々しくなり、そして立ち込める霧もまた白く濃密に辺りを埋め尽くしていく。汗をかいたわけでも無いのに頬や首筋は湿り気を帯び、そして森そのものの冷たい空気と合わせて容赦なく体温を奪っていく。
リオパーダに差し掛かる間際、ハオランやカタリナ殿下に散々この場所の危険性を改めて叩き込まれたおかげで、周囲の音や気配を全て聞き逃さないように神経をとがらせていた。
この霧が立ち込める僅かに傍には、獲物を探し回る狼の群れがうろついているかもしれない。もしかしたら、狼のような魔獣化した他の凶暴な野生動物すらも現れるかもしれない。それどころか、この霧を切り裂いて伝説の生物である竜でさえも姿を現すかも――一度そんなことを考えると、もはや嫌な予感は留まるところを知らない。
こんな緊張感が心の中をずっと駆け巡っている理由の一つとして、この深層の森林を踏破するにあたって宛がわれた武器にもあった。扱いやすさという点においては、剣化したナインの黒剣、百歩譲って同じような大きさの双剣が何故か僕には適している。しかしカタリナ殿下に「巨大な狼に短剣で挑もうだなんて死ぬ気かい?」と言われたことで、結局は双剣とはかけ離れた得物を手にしていた。
馬車の中に詰め込んでおいた非常用の武器の一つ、身の丈ほどの青銅の棒。それが僕に与えられた新たな相棒だ。棒術なんて心得てはいないが、確かに霧の中何処から襲い掛かってくるかも分からない獣の相手をするならば、攻撃範囲の狭い双剣よりかは安全かもしれない。
「……まだ襲撃は無さそうだね。一旦休息をとるよ」
見た目の割には取り回しが悪くない一品を両手で抱えながら霧の中に目を向けていると、後ろからカタリナ殿下の声が響いた。リオパーダに入ってから馬たちはずっと歩きっぱなしだ。今後狼の襲撃があったときに逃げきるだけのスタミナを確保するには、確かに彼らにも休息をとってもらわなければならない。
決して広いとは言えない街道、その脇ではなく中心で馬車は動きを止めた。ここがクアルスとヴァローナ間のような人通りの多い場所ならば街道の端や外で休息をすべきだが、ここはそんな賑やかさとはかけ離れたスポットだ。故に対向車の存在など気にする必要もない。
「ナインはハオランさんと共に馬の世話を頼む。僕は馬用の水を取ってくるから」
僕と同じく周囲の警戒に就いていたナインへ指示を飛ばす。ここまでの道すがらで無駄に馬車での旅を続けてきたわけでは無い。いくらかは休息の取り方やするべきことなんかは頭に入れたつもりである。
馬の休息には、食糧を与えるだけではなく十分な水も一緒に取らせる必要がある。そのためリオパーダに入る前に、多量の水を桶に入れて荷台に詰め込んでおいたのだ。それを取ってくるべく客車の中へと頭を突っ込んだ――その瞬間に、異様な臭いが鼻をついた。
濃密に鼻を刺激する、生臭い鉄のにおい。木々の間から漂う森の空気を覆い隠さんばかりのそれに、瞬間的に僕は鼻を覆い隠した。間違いなく血の匂い、しかもかなりの大量な血液から漂ってきているであろう強烈さ。
むせかえりそうな異臭に顔を顰めながらも、その元を探る。まさか、狼の群れの食べ残しの近くに馬車を止めてしまったのだろうか。だけど馬のような動物が、人間ですらもここまで顔を顰めるほどの地の匂いに気が付かないはずが無い。客車内から外へ身を乗り出そうとした間近、その元は思いのほか近くで見つかった。
「なっ……」
思わず、口から叫び声が漏れ出そうになるのを寸でのところで押しとどめた。血の匂いの在処、それは馬車の真下どころかもっと近くに存在していた。荷台の隅、今まさに外に出るために足を掛けようとしていた場所。そこに、茶色い木目を赤黒く塗りつぶした血の海が広がっていた。
衝動的に口元を塞ぐ。それは異様に過ぎる光景だ。一体この血は誰が流したものなのか、そもそも何故こんなところにどす黒い血が付着しているのか。瞬間的に頭は思考停止状態に陥り――そして数秒の間をおいて我に返る。
「――で、殿下ッ!! 血っ、血が付着しています!!」
咄嗟に口をついた言葉、それは思い返してみれば支離滅裂なもの。でもそれだけ僕は気が動転していたのだ。リオパーダといういつ狼の群れに遭遇するかも分からないような空間において、こんな濃密な血の匂いを放置しておくなど、さあ襲ってくださいと言わんばかりの暴挙である。馬に与えるはずの水桶を一つ手に取り、カタリナ殿下が来るのを今かと待ちわびる。
「ツカサ、一体どうし――許可する、その水桶ですぐ洗い流せ!!」
御者台の上からこちらを覗き込んだ彼女は、何が起きたと驚くよりも先に状況を把握してこちらの意図を汲んでくれた。必ずしも水源が常に身近ではないこの旅路において水は貴重品だ。その多量の水が入った桶をもって、血のりの元へ向けて傾けた。途端に赤く染まる水と共に、多少なりとも血の汚れは洗い流されていく。それでも、木の中にまで染み込んだ赤黒い染みまでは取れることは無かった。
「……なんだ、これは」
「分かりません。水桶を持っていこうと客車内を覗いたら……」
果たして、いつからこの有様だったのか。そもそも、一体何故この場所に血のりが残されているのか。周辺を見回してみても、少なくともすぐ近くや馬車の中には、その血の主と思わしきものは見つからない。ただその場にべったりとした血が付着していたという結果だけが残されている異常さ。
まるで誰かが多量の血をこの場に垂らして、そして人知れず立ち去ったとしか言いようがない。無論、そんなことをするような生き物が果たしているのかも分からないし、少なくともずっと御者台で周囲の警戒にあたっていた僕たちの誰かがやったわけも無い。
「……チッ、ちょっと洗ったところで臭いは取り切れないか。ツカサ、馬に水をやったらすぐに出るよ」
彼女の言う通り、まだこの客車内には血の臭いが残っていた。彼女の焦り様、それは僕も全くの同感だ。霧と木々の香りが充満するこの深層の森林において、僕たちは隠しようもないほどの血生臭さを漂わせる存在へとなり果てた。それがどのようなことを意味するのかを、理解できないほど馬鹿ではない。
念のためにと休息を早めに切り上げてから、狼の群れによる襲撃が始まったのは、それから早々の出来事であった。
* * *
ハオランが知るという浅い川の中州に向かう林道の中で、僕はあの血塗られた汚れについて考えていた。まずはいつあの血の汚れが出来たのか。上から水をかけただけで大半が流れ落ちたことから考えて、僕が見つけた時にはまだ付着してそう時間も経過していなかったんだろう。つまり最低でもリオパーダに入った後に、何らかの要因で付いたということになる。
ならば次に気になるのは、一体どうしてあの血のりが付いたのかということ。あれは飛び散った血飛沫の一部だなんて生易しいものではなく、荷台の一部をべっとりと染め上げるほどの多量な血だ。その血の主であろう動物の遺骸が見つからなかったことを考えると、二つの可能性が考えられる。
一つ目は、この馬車の荷台でとある動物が力尽きたという可能性。狼の群れから逃げきった動物が走行中の馬車の荷台に命からがら逃げこみ、しかし血を流し過ぎて力尽きた後に遺骸がそのまま地面に投げ出されたといったところだろう。馬車の速度そのものはそこまで速くはなかったから、瀕死の獣が気配を消して近付いてきたという違和感を除けば無い話ではない。
そして二つ目、こちらについては前者とは明らかに異なる。何者かが、この場所に獣の血を擦り付けて立ち去ったという可能性。最初からこの馬車に何らかの印をつけるがための行為だとすれば、この場に遺骸が残されていない理由にもなる。一見すれば、前者よりもあり得そうに見える考えではあるが、ならば誰がやったのかという疑問が残る。
少なくとも旅路の一行は全員そんなことをやる機会は無かったはずだ。それに間違いなく狼の群れを呼び寄せかねないそれをやるなど、自殺行為に他ならない。逆にその狼の群れへの印とするならば、とある存在が浮き上がる。それは、群れから離れて獲物を探していた狼そのもの。この馬車を見つけて、群れ本体を呼び寄せるがために口に加えていた獣の血をわざと残していった。一番現状で可能性が高いのは、それだろう。
「あり得ない話ではないよ。ここいらのオオカミはそこらの連中よりもずっと賢い。そんな狡猾なことも、もしかしたらやってくるかもしれない」
殿下にここまでの考えをかいつまんで話してみると、そこまで突飛なものではないということがわかった。獲物をそのまま襲うのではなく、マーキングを施して群れで一斉に襲い掛かる。そんな獣離れした、まるで人間の狩人のようなやり口に思わず閉口する。
ただ一頭あたりの体格が優れているだけではなく、思考すらも普通の狼に比べてよほど狡猾となると、もはやそれはただの狼の群れの規範から外れた危険性を持つことになる。散々リオパーダの狼は余所のものよりも危険なものだと自分に言い聞かせてきたが、それすらも見通しが甘かったと言わざるを得ない。
「……アッシは、それでも何かがおかしいと思いやすよ。連中は確かに頭は良い。だから獲物の狩り方だけじゃなく、その危険さも瞬時に判断するんです」
しかしハオランはどこか納得がいかないと顔を顰める。なだらかな下り坂をゆっくりと歩く馬たちを指示しながら、彼はこちらへと振り返った。
「例えば火。リオパーダの狼から身を守るには、火をくべておけばある程度は効果があるというのは知れた話です。連中がこの森で脅威足るのは、その強さだけではなく無理な狩りをしないということもあります。近衛隊の漸減作戦からも生き残ってきたのが今の連中だ。だから余所の狼と比べれば、強さよりも生存性が突出しているんです」
そこまで行くと狼たちは野生の獣というよりも、基礎的な社会性をとった人間の民族に見えてくるほどだ。ただそのハオランの言葉を是とするならば、一点だけ不可解な点がある。彼がわざわざ例に挙げた火というもの。先ほどの狼の襲撃が始まって早々に、カタリナ殿下は威嚇としてごく小規模ではあるけど彼女の霊剣に火花を走らせた。しかし効果のほどは全くなく、合計で少なくとも四頭の狼を殺すまで襲撃は続いた。
「おっ、中州が見えてきやした――それで話の続きですが、確かにここの狼は生き残るための能力が非常に高い。ですがさっきの連中はそれに当てはまらない。普通ならば襲撃の最中で激しい反撃があれば、そして少なくとも一頭でも殺されれば群れはすぐに撤退していきやす……最初は、冬明けで連中もなりふり構わず襲い掛かっている、血の話を聞くまではそう思っていやした」
霧の向こう側、そこにはようやく木々の切れ間が存在していた。相変わらず視界は霧によって白い闇に包まれたままではあるが、それでも少し先を流れている極々小さい川やその岸の存在くらいは容易に見てわかる。
「……四頭も殺されるまで追いすがってくるなんて、普通じゃない。連中は最初からアッシらを獲物として狙ってはいなかった、そうは思いませんか」
中州に続く川の深さは、霧で良くは見えないものの馬は当然馬車でさえも踏破できるほどには浅そうなものだ。特に速度を緩めるようなことも無く馬車が動き続ける中で、ハオランは若干声を低くしてそう言った。
狼たちは僕たちを獲物としては狙っていないのではないか。その可能性は、僕の頭の中にも違和感という形でしこりとなっていた。何頭もの狼がかわるがわる襲い掛かり、馬ではなく馬車上の人間に狙いを付ける。それは食料を得るというよりもむしろ、僕たちを縊り殺すのが目的としたほうがまだ説明がつきそうだ。
自分たちが命を落とそうとも襲い掛かるなど異常極まりない。ただ縄張りに侵入しただけでそこまでのヘイトを買うわけがない。そこまでの彼らの怒りを買った覚えなど――
「あの血は手負いの獣が流したものか、それとも狼が目印のためにつけたものか。アッシは、もう一つ考え付きました――アレは、何者かがアッシらを狼に襲わせるために擦り付けた、他でもない狼の血じゃないでしょうか」
その瞬間、バラバラだった要素がひとまとまりになると共に、猛烈に嫌な予感に襲われた。
そもそもの切っ掛けである、馬車の隅に擦り付けられた血の汚れ。あれは瀕死の獣が流したものや獲物のマーキングのために狼がつけていったものではなく、ハオランの言う通り狼の血そのもの。その臭い――同族から流された大量の血を嗅ぎつけた狼たちは、僕たちを同族殺しの危険な存在であると察知したはずだ。その敵討ちに出てきた彼らはたとえ何頭かが殺されようと襲撃を諦めず、そして小休止の今へと至る。
「あそこまで怒りを買うとなると……もしかしたら、あの血はただの狼ではなく子供のものなのかもしれません。まあ、結局はアッシの想像に過ぎやせんがね」
一つだけ腑に落ちない点、それはそもそも誰がそんな血を擦り付けたのか。狼の血を残していくなど殺気立ったオオカミの群れが現れるのはもはや必至であり、確実に彼らに僕たちを襲わせるには申し分の無い一手だ。仮にハオランの言うことが正しければ、一連の事態には仕掛け人がいる。それも、僕たちに確実に害を成そうとしているような者が。
馬車の下から水たまりを乗り越える音や感触が響く中、嫌な予感はピークになっていた。そんな存在がいるというならば、狼から命からがら逃げ出して再度休息に赴こうとする僕たちはどう見えるだろうか。
「……ここらは余計に霧が濃いですね。足元に注意を――」
「――全員、武器を取れ。全周警戒、直ぐにだ!!」
ハオランの言葉を遮って、カタリナ殿下が叫ぶと共に霊剣を顕現させた。黒と紅色の炎を纏わせた鉾槍が白い闇を切り裂いて姿を現し、紅の軌跡が霧の中に描かれる。彼女も気が付いたのだ。現状における、最悪の可能性を。
「ツカサッ、剣を!!」
もはや、青銅の棒だなんて無駄に長いだけの得物は使い物にならない。ナインが投げて寄越した小ぶりな二振りの剣、それの方が現状ではよほど役に立つ。柄を握り締めて目の前に構えたその後ろで、ハオランの息を飲む音が聞こえる。
「な、何を――」
「分かるかい。君の言ったことが本当なら、ボクたちはリオパーダに入った瞬間から悪意ある者に付け狙われているんだ。狙って起こした狼の襲撃、その後の臨時の休息。ボクが襲撃者ならば、その瞬間を狙う」
中州へと到達した馬車の上で、カタリナ殿下が険しい視線を周囲に向けながら言い切った。もう少し早く気が付けばだんて、たらればの話だ。周囲に何も遮るもののない川の中州など、確かに水を嫌う狼のような野生動物の襲撃は防げるかもしれないが、相手が人間の暗殺者ならば話は別である。
ここまで狡猾で周到な手を取るような存在など、人間以外にあり得ない。死角など存在しない馬車という標的に対して、敵は霧の中のどこに身を潜めているかも分からない。ようやく状況を把握したハオランが顔を青ざめさせる中、僕とナイン、そしてカタリナ殿下がそれぞれの武器を手に周囲に目を向ける。
一体何処から何が飛んでくるかも分からない。それどころか、本当に一連の事態を引き起こしたような敵がいるかも分からないのだ。しかし僅かにでもその可能性が存在するのであれば、対処をしなければならない。
「……ボクは一端下へと降りる。ツカサ、ハオランを頼むよ」
鉾槍を手に、彼女が水音と共に中州へと降り立った。最も戦略的な価値が高い王族である彼女よりも、僕やナインが周辺の警戒に行った方が普通だ。しかし正直なところ、もっとも突然の襲撃に対応できるのもカタリナ殿下に違いはない。だから、彼女の言う通りにただ従う。
「な、なぁ坊主……アッシ達は、大丈夫なのか!?」
「静かに。下手に騒ぐと、狙われますよ」
大丈夫かどうかなど、むしろこっちが聞きたいくらいだ。そんな本音を飲み込んで、ハオランの口を閉じさせる。ただ周囲の音や気配を瞬時に察知できるようにただ静かにして貰いたい、その一心だ。
頬を濡らす霧と冷気は激しさを増すばかり。川の中州は伊達ではなく、森の中よりも一層に濃厚な霧が水面から立ち上り、視界を容赦なく白く塗りつぶす。自分が唾を飲み込む音、それどころか小さく抑えているはずの呼吸の音でさえも妙に大きく聞こえた。
何処だ。どこにいる、どこから来る。いるかも分からない襲撃者は。白い霧の中に視界を這わせ、目を動かし続けてただ姿の見えない襲撃者の姿を探る。それでも目に映るのは、その影どころかただ水面から立ち上りゆらめく霧や、その奥に塔のようにしてそびえる何本もの巨木だけ。
意味も無く首を動かして周囲を探る。ハオランの他には、御者台の左舷側で投てき用ナイフを手に同じようにして警戒を続けるナインの姿が目に入る。周囲に見える人影など、精々がここにカタリナ殿下を入れた三名だけ。
ふと視界を上へと向ける。まさか空から来るわけなどはないが、それでもそのまさかがあったら――その瞬間、反射的に僕は手に握り締めていた双剣を振るった。心臓を掴まれたような感覚、それを身に受けながらも剣先は霧を裂き――
確かな手ごたえと、そして乾いた金属音。もはや視界に僅かに映り込んだ"それ"が何かも分からぬままに薙いだ剣が、確かにそれを弾いた。そしてほぼ同時に、右後ろから聞こえるハオランの短いうめき声。
「――ツカサ!!」
「来るなっ、何か……何かがいる!!」
双剣で弾き落としたもの、それは直前に空中で僅かな日の光を反射して煌いた一本の短刀だった。突き刺さる寸前で弾き、それは御者台の一画に深々と突き刺さっている。
そして同時に飛来したもう一本の短刀は、ハオランの額に突き立っていた。僅かな血飛沫を噴き上げて御者台に倒れ伏した彼の体が、目を見開いたまま細かく痙攣している。言葉一つ発しないそれは、もう手遅れだということを示していた。
短刀が飛んできた空間へと目を向けた。当然、襲撃者の姿などそこには無い。しかし、間違いなくまだ短刀を投てきした誰かはその近辺に隠れているはずだ。
それは、周辺の川や中州を警戒していた僕たちを嘲笑うかのような場所。今の今まで僕たちがこの状況において唯一の安全な場所と信じていたはずの馬車、その屋根の上だった。