「――下へッ」
考えたのは僅かに一瞬だった。直感に従って導き出した行動は早急なるこの場からの退避。馬車の御者台から背後へと飛び出し、その直後に訪れる浮遊感。首筋に浮かんだ汗を、霧混じりの冷たい空気が撫でつけておぞましいほどの寒気を与える。
両足が川に着地すると同時に、激しい水しぶきが周囲へと飛び散った。驚くほど冷たい水が足首までを覆い、その流水の最中でも足を取られまいと腰を低く落とす。
視界は霧という名の白い闇に包まれて、今しがた自分が乗っていた馬車すらも掠れて見えるほど。足元の川からこんこんと立ち上る霧によって、もはや目で捉える光景は白く塗りつぶされている。しかしこれは僕だけじゃなく、襲撃者だって同じ状況のはずだ。
身を守る唯一の拠点であったはずの馬車自体に襲撃者が潜んでいた以上、あの御者台にて敵を迎え撃つよりも我彼共にどこにいるか分からないという状況の方がまだマシだ。この濃密な霧は、たとえ遮蔽物の無い川の中心だとしてもこの身を隠すことは不可能なんかじゃない。
直後に僅かな間を置いて、背後に水が弾ける音が聞こえた。背中にあたる仄かな温かさ、たったのそれだけで焦燥感が拭われて何とか冷静さを保つことが出来る。ナインと共に、背中合わせにそれぞれの武器を構え、そして霧の中に潜んでいるであろう何かの気配に意識を向ける。
霧の向こうに見える馬車へと視線を向けた。濃密な霧の中でも、朧気ながらもその概形だけは何とか捉えられる。僕たちをこの状況へと追い込み、そしてハオランを殺した襲撃者は、きっとまだあの馬車にいる。その存在を認知してから今に至るまで、その姿を一切捉えることすらも叶わなかった敵が、あそこにいるのだ。
僕たちは移動の要である御者を殺されるという状況に至っても尚、今の今までその襲撃者の姿を見ていない。それどころか、ハオランが殺されるという決定打によってようやくその実在が確定したほどだ。
襲撃者は一体いつからあの馬車に潜んでいたのか。それはおそらく、獣の血が馬車に塗りたくられていることが分かった時の少し前だろう。僕たちをつけ狙うどころか、ずっと気配を殺して狼の襲撃を受けていた時すらも行動を共にしていたかもしれないことに、猛烈な気味の悪さを感じた。
それと同時に、こっちには四人もいたにも関わらず誰一人としてその姿を捉えていない。驚愕ではあるがまごうことの無い事実だ。つまり敵は、そんな芸当を可能にするほどの隠密行動が出来るということ。だから例えこのどちらの視界も白く塗りつぶされているはずの空間でさえも、こちらが気が付くことなく突破してくることだってあり得なくはない。
もしかしたら、僕やナインが目を凝らして敵の姿を探しているこの状況をしり目に、襲撃者は音や気配も無くすぐ近くに忍び寄ってきているのではないか――そんな最悪なシナリオが頭を過るほどに、焦りと恐怖が口からうろたえた悲鳴をあげさせようと心の中を駆け巡る。
――ぱしゃり――
僅かに冷たい風が吹き流れる音に混じり、今確かに何かが水面に落ちる音が響いた。その小さな音の発生源は、霧の向こうに見える馬車の近く。双剣の柄を握り締める拳に力が入り、音も無く生唾を飲み込んだ。
姿勢を低く落とし、白い靄の一点に意識を集中させる。その白闇の中に僅かな動きがあれば、すぐさまに対応が出来るように。視界の端で微かに煌いたナインの投てきナイフも、襲撃者が迂闊な動きをすれば容赦なくその喉元に目掛けて突き立てられる。それほどの今できる万全の姿勢のまま、未だ姿も見えぬ敵を見張る。
――ぱしゃり――
続けざまに聞こえる、水面を踏み抜く音。一歩たりとも動いてはいない僕とナインは、その音の源にはなり得るはずが無い。顔を見合わせたのは僅かに一瞬。この膠着状態はようやく崩れ出し、敵は動き出したのだ。
大まかな敵の位置は、恐らくは馬車の近く。それが分かっていたからこそ、その周辺から飛来した何本もの短刀の存在に気が付くことが出来た。隠密とは程遠くまるで笛のような音を吹き散らして、静寂を切り裂き突き進む短刀の群れ。扇状に放たれたそれは、まるで狙いなどつけていないかのようにてんでバラバラの場所で水面を激しくたたいた。
「……ッ!!」
舌打ちを寸前で飲み込む。突如崩された静寂さ、それは敵の位置を知るための数少ない情報である水面を踏みしめる音をかき消すには十分過ぎるものだ。視点すらも周辺に着弾した短刀に気を取られ、果たして襲撃者本体がどこにいるのかをこの一瞬のうちに見失った。
音が聞こえないのならば、もはや目を凝らすしかない。晴れることの決してない白い霧の中のどこかに、幾多もの短刀を構えてこちらの命を狙う者がいるはずだ。霧という絶対的な存在を除いたら、この川の中州という空間には身を隠すものなど存在しない。敵がこちらを殺すために近づくということは、こちらもその姿を絶対に視界に捉えることが出来るに違いない。
――ぱしゃり――
再び水面を踏む音が聞こえた直後に、耳障りないくつもの笛の音がそれを上書きした。霧の中へ僅かに差し込む日の光を反射して鈍く輝く多数の短刀。狙いも無く無茶苦茶に放たれたであろうそれらは甲高い音を発しながら霧中を突き進み――そのうちの一本の切っ先は僕の正面を捉えていた。
それをどうするか、もはや考えるよりも先に自ずと僕は構えていた双剣をふるっていた。そのまま指をくわえていればこの腹を捌かんとしていた短い刀身に向け、右手に握り締めた剣を打ち付ける。柄を通して手に伝わる衝撃は感覚を僅かに痺れさすだけで、甲高い金属音を残して呆気なく短刀は弾き飛ばされた。
木々で両岸を囲まれたこの異様な空間に、短刀を弾いた音が幾度も響く。決して大きくはなく、それでも水面が弾けるようなものとは性質の異なる音。その残り香が消え失せる寸前に、冷や汗が額に浮かぶのを自覚した。
僕は短刀を弾いた――否、弾いてしまった。そして発生した甲高い金属音は、この白い闇の空間において僕の位置を知らしめるには十分過ぎる。もはや、"どちらもが互いの位置を把握していない"という均衡は、この一瞬によっていとも簡単に崩れ去ってしまったのだ。
再びどこからともなく飛来する短刀、しかしそれの切っ先はさっきまでのような出鱈目の方向に向けたものなどではない。その全てが、僕とナインの場所を捉えているかのようにして剣先を揃えて飛来する。こんな視界があやふやな中で、その全てを捌き切るだなんて到底不可能なほどの量。もう、腹を括るしかない。
「ナイン!! こっちへッ」
水音を立てないなんてそんなことはもう言っていられないし、最早静寂を保つことに意味など無い。飛来する短刀の群れを躱すために横へ飛びのいた直後に、何本もの短刀が笛の音を残して霧の中へと消えていった。水面を踏みしめた瞬間に沸き起こる激しい水音、しかしそんなものを気にしてなんかいられない。
――ぱしゃり、ぱしゃり――
再度聞こえる水を割る音。先ほどまでよりもずっと近く、その上に幾度も連続して響き渡る。しかしその僅かな足音を辿ろうとしても、こちらに向けて絶え間なく飛来する短刀によって意識を集中させることすらも叶わない。
どこだ。どこにいる、どこから来る!! 明確な殺意を滾らせて今まさに近づきつつある襲撃者は一体何処だ。両足を冷水に濡らして無様に逃げ惑う僕たちを嘲笑うがごとく、短刀は正確にこちらのいる場所を射抜き、そのたびに大きな水音を鳴らしてどんどんと馬車から離れた場所へと追い込まれていく。
短刀の笛の音は段々と短くなり、きっと敵は目を凝らせばもう視界にいるはずだ。それでもなお、白い霧は襲撃者の姿を頑なに覆い隠し、ただ僕たちだけがあてもなく川の中を逃げ続ける。そしてとうとう、投てきされたナイフの音に紛れたひと際大きな足音すらも両の耳へと届いた。ようやく訪れたその瞬間に音の発生源を凝視して――驚愕と共に思わず息を飲んだ。
誰も、そこにはいない。
霧の向こうにかすれた、それでも確実に視線が届く場所。その誰もいないはずの地点から、水が弾ける音が響いた。飛び散る水滴と、確かに誰かがその場所を踏みしめたはずの雑音。しかしその音の主だけが場に不在の、とてつもなく異様な光景。
決して見間違いなどではなかった。再び耳に届く主のいない足音、それと共に発生する水面の乱れ。誰かが間違いなくそこにいるのだというのに、その姿はどこにも見当たらない。まるでその人物だけがこの空間から消し去られたかのような――
「……透過の能力、始祖族だ!!」
ナインの言葉を理解した瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのような寒気が全身に襲い掛かった。霧に紛れて気配を消すというものなどではなく、文字通り姿そのものをかき消した存在。決して人間には出来るはずのない芸当さえも、さも当然のように成し遂げる、それが始祖族の恐ろしさだ。
そして気が付いた時には、足音と水面の揺れは遥かに近くまで来ていた。全力で蹴り出せば一歩目で短剣でさえも攻撃圏内に入るほどの近さの先に、僅かな川の揺れを残して、音も気配も無い空間が目の前に立ちふさがる。その場には人どころか何も存在していないように、霧にまみれた川の中州の姿が見えるだけ。
しかしもはや、己の視覚ですらも信用には値しない。この目に映るもの以外の全てが、目の前の空白の空間に警笛を鳴らしていた。間違いなく、そこに何かがいる。今まで散々僕たちを追い回してきた、視界に捉えることの出来ない何かが。
「――シィッ!!」
その眼前で突如水しぶきが上がるのと、ナインがナイフを投てきしたのはほとんど同時。一直線に突き進むナイフが何かに弾き飛ばされるその間際、その一瞬だけ目の前の光景に乱れが訪れた。霧の中に浮かび上がる朧げな人影と、ナイフに向けて打ち付けられる半透明の長剣。乾いた音が響いた直後に消え失せた人影は、間違いなく襲撃者の姿を如実に示しているのだ。
再び煙に巻かれたように掻き消える人影、しかし水面の乱れは狂いなくこちらへと向かってきていた。敵は決して己の目で捉えることは出来ず、その上始祖族だというのが本当ならば霊剣を保有している。逃げなければ間違いなく殺される、その一心で後ろへと駆け出して――鼓膜に響く刃が空を切り裂く音。
もはや条件反射といっても良い。寸分違わず後ろから首を掻き切るであろうその見えない軌跡を幻視して、双剣の片割れを空中へと突き出した。
次の瞬間に沸き起こる、ひと際甲高い無機質な音。まるで腕を持っていかれたかのように重い衝撃が剣を通して伝わり、同時に顔を顰めて舌打ちを漏らす。無理な体勢から辛うじて押しとどめた敵の刃。ここまでしても尚、打ち付けてある敵の剣はその形すらも浮かばない。
目を見開いて己の双剣を見つめた。ヴァローナの砦でイーリスから直々に渡された武器の数々は、決して安物のわけがない。そうだというのに、その刀身にはまるで脆い焼き物であるかのように容易くヒビが入っていく。まるで打ち合わせた箇所が削り取られているかのような感触。剣の片割れが両断される寸前に、その柄を放り出して後ろへと飛びのいた。
眼前で根元から寸断された片方の剣先が宙を舞い、そして不可視の霊剣の切っ先が前髪の僅かに先を通過する。残ったもう一本を手にして、再度距離を取るために川の底を蹴り出した。
これこそが、始祖族のもう一つの恐ろしさ。自然の摂理を外れるかのような魔術だけではなく、彼らの扱う霊剣はそのものが非常に恐ろしい兵器だ。いくら造りがきちんとした鋼の剣であっても、霊剣の強度には決して叶うことなど無い。打ち合わせたところで、粗悪品の如く簡単に両断されてしまう。
散々知識として知っていたものを、今こうしてこの身で体感しているのだ。右手に残された一本の剣も、きっと同じ末路を辿る。いや、その前に不可視の霊剣を見切ることすら叶わずに首を切り裂かれる方が早いかもしれない。
ただ見えない敵を前にして後ろ向きに逃げ続ける、それだけではいつか限界が訪れる。そんなことは分かり切ってはいても、今はそれでいなし続ける他は無い。不可視の霊剣が空を切る音を聞く、その極限状態でも僅かに残された冷静な思考を回し続けなければ現状の打破なんて出来はしない。
考えろ。目の前の敵は、何故今になってこんな接近戦闘を仕掛けてきたんだ。我彼共に姿を見つけられなかった状況で、この敵は一方的に僕たちの位置を把握できるはずだ。なのに、何故わざわざハオランをやった時のように僕たちを遠方から距離を保って殺しに来ない?
わざわざ川の水を踏み鳴らし、姿が見えないという絶対的な利点を打ち消してまで近づいてきたのか。それは言い換えれば、あの敵にはそうせざるを得ない事情があったのか?
「――さあ、こっち!! ツカサ、来て!!」
霧に満たされた中州一帯に響き渡るナインの大きな叫び声と共に投げつけられるナイフ、それと呼応して一瞬だけ止む剣戟の雨。飛びのいた視界の先には再び朧げな人影が見えて、彼女が投てきしたナイフが弾き飛ばされた。その瞬間を逃がさないように、ナインと共に敵がいると思われる方向に視線を向けながら、しかしそれとは逆の方向へと駆け出す。
再び霧の中に掻き消えた襲撃者に舌打ちをする。あの敵の違和感はまだほかにもある。何故、ナインの投げナイフを防ぐときに一瞬だけその姿を現すんだ。一回だけならばまだしも二回目だってそう。ただ姿を消すからといっても、あの敵の行動はこちらの死角から忍び寄って音や気配も無く殺し去るという物とは程遠い。
このちぐはぐな敵の戦い方こそが、何かの鍵になるはず――その思考は強制的に中断させられた。再び敵の居る場所から投げつけられた一本の短刀。至近距離からの投てきにもはや避ける間もなく、気が付いた時にはそれを弾くために残った剣を振り上げていた。
同時に僅かに感じる、鋭い刃が空気を切り裂く音。それは今しがた弾き飛ばした短剣のものではなく、がら空きになった僕の胴体に目掛けて振り下ろされた不可視の霊剣。全てを悟った時には、その必死の一撃を避ける手立てなど何処にも存在しては――
「――ナイン、ナイスアシスト!!」
白い霧を無理やりに紅へと塗りつぶさんとする刃が、僕の目の前を通過していった。霧の持つ冷気が一瞬のうちに熱気へと変化して、その直後視界の中央に黒紅色の長髪が緩やかに揺れていた。
今まで僕たちから離れていた所にいたはずのカタリナ殿下の振るう鉾槍が、淡い黒紅色の炎を僅かに纏いながら眼前へと振るわれる。それは、刃の届く範囲にいるものを焼き払う暴虐的な攻撃だ。しかし届く範囲一杯を薙ぎ払うその切っ先に手ごたえは無く、ただ白い靄の中に黒い軌跡を残したのみ。
「逃げられた……否、一端距離を離されたか」
彼女の炎が燃え盛る音が過ぎ去った後は、再び川の中央には静寂が訪れていた。水が流れる小さな音のみが聞こえ、先ほどまで一方的な襲撃があったなんて嘘だったような静けさが広がる。
「殿下……ありがとうございます」
「礼ならばナインにしなよ。彼女があの時叫び声をあげなければ、霧に阻まれて君たちの場所すらも分からなかったんだから」
カタリナ殿下の言葉は、まさにその通りだった。姿を消すことが出来る敵の姿どころか、自分たちが乗ってきた馬車すらも見えないほどの濃厚な霧が辺りを覆っている。精々、霧の向こうに辛うじて見える巨木の群れによって岸がどこにあるのかくらいしか分からない。
視界が覆い隠された状況では、もはや音にしか頼ることが出来ない。ついさっきまで僕たちがあの姿の見えない敵の位置を足音で判断していたように――そこまでを考えたところで、何かが頭を過った。それは、襲撃の最中頭の中を駆け巡っていた襲撃者に関する違和感を説明しうる何か――
「……一端体勢を立て直す。アイツをどうにかしない限り、リオパーダを抜けるだなんて無理だ」
馬車のあった方ではなく、巨木の生い茂る岸に向けて歩き出す殿下に続きながら、僕は今しがた頭を過った考えを整理していた。あの姿の見えない始祖族を打ち倒すには、その能力を打ち破らなくてはならない。その一端を、僕は今までの戦いできっと――否、間違いなく垣間見ているのだ。