「……分かっているだろうが、このままじゃ八方塞がりだ。ツカサ、悪くは思うなよ」
静かに水が流れゆく音に混じり、一人の女性の声が霧の満ちた川辺に響いた。その淡々とした言葉に抑揚は無く、ゾッとするほどの冷酷さを隠そうともしていない。
「そん、な……お、囮だなんてっ」
「二度も言わせるな。君はボクの副官なんだろう? ならば、その立場をわきまえろよ」
その冷酷な言葉を向けられているのであろう若い青年は、対照的に上ずったような返答をするのがやっとであった。その明らかに動揺をした様子の彼をさらに追い詰めるように、彼女――カタリナ・フォン・アストランテは感情を感じ取らせない底冷えするような声色で言い放つ。
じりじりと後ずさる青年――ツカサのかかとに、川を流れる冷たい水が触れる。彼の装備は、この近くのどこかに隠れているであろう始祖族を相手取ることを考えたらもはや丸腰と言って差し支えがないほど。軽めの革の鎧に、一本だけになった双剣の片割れ。
「こんなっ、死にに行くような……殿下、どうかお考え直しを――」
それでもなお彼女の考えを変えるために懇願をしようと口を開いた彼の目の前に、黒紅色の切っ先が突き出された。白い霧を切り裂くようにして顕現した、猛烈な熱気を放つ鉾槍。カタリナの霊剣が放つ熱気を目の前にし、ツカサは唾を飲み込んだ。
例えこの場所が彼女の能力を制限する濃い霧のなかであろうと、やろうと思えば霊剣の目と鼻の先にいるツカサは容易く全身を焼き払われるだろう。もはや、彼には選択肢など与えられてはいないのだ。
「簡単な話だ。死ぬほど危ない目に遭うか、ここで骨の髄まで焼かれて灰になるか。どちらが賢明なのかが分からないほど、君も愚かじゃないだろう?」
気まぐれに揺らされた鉾槍の尖端が彼の目の前に赤黒い軌跡を描く。反論の言葉どころかその意思すらも拭い去られたツカサに、彼女は哀れみどころか蔑む視線すらも向けず、ただ淡々と川辺を指差した。
「じゃあ、さっさと行って奴を誘きだしてくれよ。なるべく大きな足音をたてるのも忘れずにね」
ただ言われるがままに、ツカサは黙って頷くことしかできなかった。踵を反して川の中洲に向けてつま先を向ける最中、彼の足は遠目に見てもわかるほどに震えている。しかしそれは、これから踏み出す先のことを鑑みれば、むしろ正常な反応と言えた。
しんと静まり返った川の中、霧に紛れて文字通り姿を消し去った襲撃者は虎視眈々と彼らを狙っているのだ。ツカサはそんな存在に身を差し出す、命の保証など存在しない囮として差し向けられるのだから。
震える足先が、川の水面を打ち鳴らす。歩調がてんでばらばらのその音は、内心に抱える不安と恐怖を隠しきれていないかのようだった。静けさが広がるこの空間だからこそ、その足音は嫌に周辺へと響き渡った。
ある者はその音につられて襲撃者が姿を現さないかをじっと眺め――そしてある者は、白い霧と不可視の壁に紛れたその奥でほくそ笑んだ。
霧を身にまとい周囲から完全に消え失せたまま、襲撃者は獲物を今かと待ち受ける。たとえ能力の副作用によって自身の視界すらも闇の中に落とされようとも、その聴覚は十分すぎるほどに獲物の位置を暗闇の中に捉えていた。このしんと静まり返った川の中ならば、歩調の乱れた足音を聞き逃すわけがない。
川の流れに紛れるようにそっと足を踏み出して、襲撃者はゆっくりと歩きだした。方向は、おぼつかない足取りで川を進む獲物の向かう先。獲物である人間族の青年は、襲撃者を誘きだすどころか、その襲撃者が霊剣を手に待ち構えているところに歩いているのだ。その事実に、不可視の始祖族は笑みを深めた。
青年が歩き出す前にカタリナへ向けたせめてもの陳情とその結末から考えて、きっと彼はまともに戦えるような準備もなくこの川辺に放たれたのだ。最初の襲撃を御者一人を殺害されながらも何とか乗り切り、幾度も攻撃をいなしたほどの青年であっても、与えられた任は結局その程度。
どんなに理不尽に見えようと、これがこの国の常だ。圧倒的な力を誇る始祖族に対して、人間族の戦力はどうしても劣る。それゆえに始祖族は支配階級足り得て、人間族は彼らの統治のもとに行動する。
戦力には優れない人間を囮にして敵を誘い、そして敵を狩るために始祖族が後ろに待機する。それは何らおかしなものではない。今この場において始祖族がアストランテ王国の姫であることからしても、むしろ当然とも言える選択である。
ゆえに想定通りだと襲撃者は不可視の霧のなかで口角を上げる。不覚にも自身の存在を悟られたとしても、膠着状態を保っていればあの王女はいつか青年を差し出すはずだ。この場において真っ先に取り除いておかなければならない障壁、そして標的のひとつである存在を。
乱れた歩幅のためか不規則に響く水を踏みしめる音が、段々と近くなる。襲撃者は、自身の体と共に不可視の存在と化した己の霊剣を構えた。世界を成しているのは、耳に届くわずかな音だけ。しかしたったのそれだけで、死の淵を怯えながら歩くことしか出来ないような人間を一人殺すには十分すぎた。
微かに霧を穿いた霊剣は、それを扱う者にすらも目視することはかなわない。それでも、音もなく振り上げられたその切っ先は、獲物の体へと寸分の狂いなく向けられていた。
獲物の動きから言って、完全に不意討ち。そしてたとえ直前で悟られようとも、獲物の青年に残されたのはただの小降りな剣が一本だけ。先ほどのように初撃を弾かれようが、ひとたび霊剣に力が込められれば通常の剣は敵うわけがない。後方で待ち構えるカタリナが異変に気がついたころには、獲物は霊剣に穿ち抜かれた後だろう。
不可視の刀身が霧のなかを翻る。ほぼ確定した勝利を見据えた霊剣が、獲物に向けて一切の躊躇なく突き出され――
「……ッ!?」
――あわれな獲物の青年を切り裂くどころか、その刃は完全に押し止められていた。目の前で甲高い音が響き渡り、襲撃者は白い闇の中で目を見開く。押し込もうが何をしようが、霊験は硬い岩に阻まれたように微動だにしない。
襲撃者の額に冷や汗が浮かぶ。霊剣の一撃を完全に防ぎきる、それはけっしてあの小ぶりな鉄の剣であるはずがない。完全に囮でしかなかったはずの青年が何故この霊剣の一撃を防げるのか。そんな疑問が襲撃者の頭を過った瞬間、目の前からその答えが返された。
「――あててやるよ。何故だって、そう思ってるだろ。何で戦う力も身を守る意思も、なんも無いはずの人間族が、霊剣を完全に抑えきっているのかって」
目の前から聞こえてきたのは、見えない敵の影に怯えて足を竦み上げていた青年の声なんかではない。この期に及んで現状を把握できていない襲撃者に向けて、力強く、そして自信に満ち溢れた、"女性の声"が降りかかる。
その瞬間に襲撃者は理解をさせられた。誘い出されたのは相手ではなく自分である。そしてその自身の目の前には、この場において最も相対してはいけなかった人物が刃を出して向かい合っているのだ。霊剣の向こうから熱気が伝う間際に剣を引いて逃げ出そうとした襲撃者に、もう退路など残されてはいなかった。
「ところがどっこい、君が相手をしているのは彼じゃない、ボクだ――さあ、こそこそと隠れてきたその面を、この場でおがませてもらおうか!!」
カタリナの声に呼応して巻き起こる凄まじい熱気と強烈な上昇気流。冷気の漂う空気は瞬時に灼熱の熱風へと変わり、彼らの周囲だけから霧という存在が完全に消え失せる。そして、見る間に消え去っていく霧に混じってその熱波の中心にて風景が乱れた。
まるでその場所にいきなり出現したかのように、人の姿が浮かび上がる。カタリナの鉾槍を不可視の霊剣で受け止めながらも、叩きつけられた熱気に髪や頬を焼かれた人影。熱で縮れた白髪を振り乱し、不可視という絶対的な能力を根本から拭い去られた若い男が目を見開いた。
透明化という能力を無理やりに拭い去られたことでようやく開けた視覚という情報。その眼が捉えた真正面に、黒紅色の髪を揺らして獣のような笑みを浮かべているカタリナがいた。
「やあ鼠君。お前が刃を向けたボクこそが、カタリナ・フォン・アストランテだ。それじゃあ紹介しよう。その眼に焼きつけろ、ボクの優秀な副官を――」
彼女の言葉が終わらぬうちに、彼らの後ろから水面を蹴る音が聞こえた。目の前にいたのがあわれな人間族を囮にしたはずのカタリナであるなら、ではその居るはずの青年は何処にいる。猛烈な悪い予感を抱き、始祖族の男はカタリナの霊剣を前にしながらも振り返り、そして息を飲み込んだ。
両手に白い霧の中でも目立つ漆黒の双剣を構え、姿勢を低くして川を突き進む姿。黒剣の切っ先を寸分の狂いなく襲撃者へと向けたその人物こそ、間違いなく囮にされていたはずの青年――ツカサだった。
* * *
殿下が持ち出した提案、それは単純にして奇想天外な代物だった。
『敵が透明に紛れるならば、こっちは虚像を使うのさ』
襲撃者は完全に姿をくらますことが出来る、究極の隠密能力を持った存在だ。そしてその能力の代償として、おそらく姿を消している間は己の視界すらも闇に塗りつぶされる。
きっと襲撃者は馬車を取り残してきた川の中洲近くで姿を霧にくらませて潜伏し、こちらの出方をじっとうかがっているはずだ。そしてその最中では、聴覚こそが周囲の様子を知るための方法に違いない。
『奴の把握する状況を、現実からずれたものにする。安い猿芝居だろうと、奴の聴覚に虚像を作るには十分すぎる代物だ』
つまり、あえて相手に聞こえるような声でこちらの間違った状況を話し、それにより敵の耳を嘘の世界で塗りつぶすということ。
なんという博打に満ちた作戦だろう。現在の状況が、ただの潜伏上手な暗殺者に相対するものであれば選択肢にも上るはずがない。でも敵が文字通り姿を消すことが出来る始祖族であるからこそ、子供だましの悪巧みは強力な刺客を打破する戦略に成りえる。
『……じゃあ始めようか。ボクは陽動でツカサは急襲。ナインは、ツカサの補助を頼んだよ』
そうして作戦は開始された。無茶とも言える囮としての任務を言い渡され絶望する人間族の青年と、それを無慈悲に言い放ち意見具申されようと判断を変えることのない始祖族の戦士。そんな取ってつけたような立ち回りを、僕とカタリナ殿下は川のほとりで演じて見せた。
あえて聞こえるほどの声でやり取りを終えたら、震える足取りで僕は川の水を踏みしめる寸前まで歩き、直後にカタリナ殿下と入れ替わる。まさに"恐怖に怯える人間族"のようにわざと乱れた足取りで川を進む殿下を注視しながら、ナインを黒剣として実体化をさせる。
その結果、囮として丸腰で川を歩き続ける哀れな人間の青年と、それを後ろから見つめる始祖族という虚像が出来上がった。その実態はまるで真逆。敵が誘きだされる瞬間を待ち望んで黒紅の鉾槍を構えて中洲へ向かう殿下と、その襲撃が起きた瞬間に駆けつけるべく黒剣を構えて待ち続ける僕。
そして予想通り、敵は誘きだされた。必殺の初撃を鉾槍で容易く防がれた上に、お返しとばかりに至近距離から放たれた熱波によって奴の能力を維持していた魔術が霧散する。
霧の世界に浮かび上がる奴の姿。透明化を解除されながらも未だに不可視を維持している霊剣で、カタリナ殿下の鉾槍を受け止める若い男がそこにはいた。敵の位置はこれでもう間違えようもない――機は熟した。
「――それじゃあ紹介しよう。その眼に焼きつけろ、ボクの優秀な副官を」
水底を駆ける足はより速く、敵へ叩きつける剣檄はより正確に。殿下が作り出した好機を決して無駄になどできはしない。あの敵はここで無力化しなければならない。同じ手は、二度とは通用しないのだから。
「……人間が始祖族に立ち向かうなど、しゃらくさい真似を!!」
襲撃者が初めてその口を開いた。カタリナ殿下の鉾槍から逃れるようにして身を引いた敵が、とうとう僕と相対する。全身を瞬間的に殿下の炎に包まれて、その身はきっと万全ではないのだろう。それでも、なおも透明化を保ち続ける不可視の霊剣の脅威は変わらない。
全身全霊で打ち倒す。僕が出来ること、そしてやらなければならないことは、それが全てだ。己の足を包み込む魔力の膜が、この体に爆発的な加速を与える。
――それがあなたの力。同じ土俵ならば、あなたが負けるわけがない――
がむしゃらで無茶苦茶でも、自分が出来ることの全てを出しきる。例え両手に剣を構えて敵と戦う自分を真の自分と認められなくとも、今だけは生き延びてこの深層の森林を抜けるために信じ込む。僕は、この敵に勝つための能力を持っている。
例えそれが借り物に過ぎなくとも、そんなことはどうでもいい。僕はこの男を倒す、今はただそれだけなのだから。
耳の鼓膜が悲鳴をあげた。霧を晴らすかのような、とてつもなく甲高い音。眼前の不可視の霊剣に向けて魔力による身体能力強化をあわせた一撃を叩き込んだ刹那、剣檄の音が辺り一帯を支配した。
「な、んだっ……その、剣はっ!?」
敵の動きよりもその先に全身全霊で叩きつけた一撃で敵を封じ込め、直後に男の目付きが驚愕に染まった。この剣は、敵の霊剣に容易く引き裂かれたようなただの武器などではない。少なくとも二人の始祖族に打ち勝ってきた、ナインという不可思議な存在が顕現させたものなのだ。この世の常識で説明の出来ない代物が、この世の理に従わなければならない道理もない。
黒剣を更に不可視の刀身に向けて押し込んだ。男が両手で握りしめる姿の見えない剣に対して、どうすればその実体を脳裏に写すことができるか。答えは簡単だ。その剣の先端までの形を剣檄の中で推し量るのみ。
不可視の霊剣、その切っ先に向けて片方の黒剣を滑らせた。耳障りな軋みが鳴り響き、反撃の機を伺う敵の動きをもう片方の剣でぎりぎり押し止める。剣先までをなぞり終えた、たったのこれだけでその大まかな形状が頭に叩き込まれた。
「にん、げん……ッ!! 貴様は、一体何者――」
「そんなこと、僕が知るか。今は自分たちの身を守るために、お前を打ち倒すだけだっ!!」
敵の霊剣、それは剣先に返しもなにもない、本当にただ透明であるだけの長剣だ。その刀身は、敵が構えた直線上にしか存在しない。これならばたとえその刀身が目視を出来なくとも、敵を無力化できる。決して殺すことはなく、そして戦力を確実に奪う箇所だけを切り裂くことが出来るはずだ。
――敵の動きは精錬されてはないよ。つまり、視界のある中での戦いになれてはいない――
敵が能力によってその姿を消し去ることができるというのならば、僕は素早さによって己の姿を消し去ってやるまでだ。姿を消して視界外から音も無く奇襲することに特化し過ぎ、互いを目で見て戦うということにすら慣れぬ相手であれば、この僕にだってその眼を欺くのは不可能じゃない。
再び足元に、そして足全体を覆う魔力的な存在へと力を込める。ナインの剣を持つことで発動できる無理やりな魔術は、ヴァローナの街で起きた戦いの最中片足を焼かれたときとは異なり万全のものとして扱える。
敵の動きを封じ込めた黒剣から伝わる重さが僅かに軽くなった瞬間、両足へと込めた力を一気に開放する。それは眼前の襲撃者に向けてではなく、まったくの真逆。後方へと飛びのいた直後に、足を止めることはなく更に川底を蹴り出す。
しのぎを削っていた相手が急に身を引いたならば、きっとその動きを追おうと敵は視線を動かすだろう。だけど飛びのいたその先には、すでに僕の姿は無いはずだ。
敵の視界から逃れるために姿勢を限界まで低くして、その直度一気に横へと駆け出す。横の動きだけならばまだしも、加えて縦に大きく動いたならば人間というものはまるで視界から消え失せたかのように錯覚をする。極限まで素早く敵の死角へと動き、そして――
「ど、どこへ消え――」
あらぬ方へ向けられた霊剣とこちらを捉えすらしていない視線。その死角から、黒剣を構えて一気に飛び掛かった。狙うは霊剣で隠れてはいない、そして確実に戦う能力を奪い去る体の一部。始祖族の男がこちらをわき目で捉えるよりも早く、霊剣の届かぬ場所から滑り込む黒剣。
「――ッ、ア……ァああッ!!」
全力で振るわれた黒剣は、標的を何の抵抗も無く寸断を果たした。目標を穿ち抜き、そして黒剣を振り抜き切ったと同時に響くうめき声。黒い剣の通り道に残される赤いすじが白い霧の中に描かれ、うめき声が掠れた悲鳴へと変化を遂げる。
「……あ、あぁ……俺の、腕がぁ!!」
再び上げた視線の先で、その男は霊剣を構えるどころかとてもではないが臨戦態勢からはかけ離れた姿で立ち尽くしている。すでに霊剣はかき消したのだろう。小刻みに震える手で、もう片方の腕をきつく押さえつけている。そしてその腕は肘から先が消えて失せ、代わりにとめどなく鮮血が流れ出していた。