ついさっきまで霧に紛れてこちらの命をつけ狙っていた始祖族の襲撃者は、もはやこれ以上戦えるとは言い難い有様だ。肘の先から流れ出る血によって姿を消すことも潜伏することも叶わず、それどころか取り落とした腕の先を拾うことも出来ないだろう。その焦燥した始祖族をしり目に、場違いな拍手の音がした。
「ツカサ、よくやった。殺さない程度に抵抗が出来ないよう痛めつける。全くもって上出来だ」
一歩引いたところでこの戦いを見つめていたカタリナ殿下は、至極満足げに笑顔を浮かべたまま拍手をしている。腕を切り落とされて血を垂れ流し、そして完全に戦意を喪失した男が顔を上げた先へと、殿下がわざとらしくゆっくりと歩み寄る。
そして男が何かを言おうとして口を開いたその瞬間に、いつの間にか顕現していた殿下の霊剣が血を流し続ける腕の末端へと押し当てられていた。赤熱した刀身は容赦なく肉を焼き、直後に絶叫が響き渡る。あたりに漂う人の肉の焦げる臭い、それに思わず顔を顰めた。
「血は止まったか? 話を聞く前に失血死されちゃあ困るからね」
確かに血は止まったのだろう。しかしその拷問染みたやり方は、男の思考を塗りつぶすほどに苦痛を伴ったはずだ。開きかけた口は再びうわごとの様にうめき声を発するのみ。その有様を前にしても殿下は手に鉾槍を顕現させたまま、その切っ先を男の首筋近くに構えた。一歩でも男が不振な動きをすれば、そしてカタリナ殿下の気分が少しでも変われば、彼女の霊剣は容易く首を切り裂きその肉を炎に包み込むことだろう。
「じゃあまずは、お前がどこの誰なのかを聞こうか――とは言うものの、お前がどこから来たのかは正直ある程度目安はついている」
肩を震えさせ浅い呼吸を繰り返す男が視線を上げる。その眼に浮かぶのはきっと腕を切り落とされたことによる憎しみや怒りなどではなく、無抵抗な状態でカタリナ・フォン・アストランテを前にしたという恐れの念なのだろう。
そうでも無ければ残った片腕だけで地面へと平伏するわけがない。すでに殿下の顔からは笑顔は消え失せて、感情を推し量ることすらも出来ない冷徹な視線を向け、不格好に水面へ額を付けんばかりに頭を下げる男を見据えていた。
「ボクが王都に向け移動しているという情報だけじゃなく、そのルートどころかボクの弱点までもを把握していて、それに姿をくらます能力を持った始祖族となると……アストランテ王国側の人間だ。多分王都近衛隊、その隠密部隊の間諜といったところだろ」
よどみのない口調で殿下が男の所属を予想した。やはり、さっきに言った通り彼女はこの襲撃者がフラントニア帝国ではなく王都の人間であると踏んでいるのだ。それもこれから行くことになる王都の守護を司る、王室直属の精鋭部隊である近衛隊。本来であれば、王族であるカタリナ殿下に決して刃を向けるはずのない存在だ。
「……お答えすることは、出来ません」
「いい心がけだ。直接肯定するわけでも無く、その場しのぎの嘘も言わない。ただ――」
黒紅色の刀身が男の肩に触れると共に、苦悶に呻くくぐもった声が響く。軽鎧の上からも伝わる熱は容赦なく男の肩を焼き、そして革の鎧に黒ずんだ焦げ跡を残した。
「そう強情だと無駄に苦痛だけが嵩んでいくよ。たとえお前が王国に仕える軍人だろうと知ったことか。利用価値が無いと分かれば、あとは殺すのみだ」
ゾッとするような声色。あれが、僕を副官として迎い入れたカタリナ・フォン・アストランテの軍人としての一面なのだ。殺すという宣言にきっと嘘は無く、膠着状態が続けば彼女は何の感慨も無くその首を刎ねることだろう。
――本当、恐ろしい姿。普段は覆い隠しているけど、あの人は冷徹な始祖族に違いは無いんだよ――
どうせ僕にしか聞こえないというのに、それでも小さなナインの声が頭の中に聞こえた。殿下があの男から情報を聞き出すまで、何か予想外のことが起きた時に対処をするためにもナインは黒剣化したままで両手の中に納まっている。僕からすれば彼女も時折見せる冷徹さは中々のものだろうと思うが、それでも人間族と始祖族というある種の定まった壁に比べればいくらかは低いだろう。
「次の質問に移ろうか。お前の目的は何だ――いや、聞き方が悪いな。お前はボクというある意味では重要な標的が居ながらも、ボクではなく副官を狙い殺そうとした。何故、高々人間族の若者をお前のような間諜が狙った?」
カタリナ殿下の質問の意図は、言われてみればおかしなことだった。この中州にまで逃げのびてきてからというものの、あの男はカタリナ殿下を意図して狙ってはいない。その一方で、明確に僕やナインに対しては攻撃を仕掛けてきた。ハオランを殺害したときから、殿下を僕だと誤認して襲い掛かった時まで、その行動は一貫している。
「思い返せば、確かにヴァローナを出る前に王都に向けて飛ばした伝書に副官を任命し王都へ連れていく旨は書いた。反乱の鎮圧に貢献した、興味深い人間たちだとだけ認めたよ。だが、たったのそれだけでお前がリオパーダにまで殺しに赴いてきた理由が分からない」
彼のような間諜が己の一存で対象を襲うわけがない。つまり殿下の伝書に目を通すことが出来た何者かが、この男に命じたのだ。カタリナ・フォン・アストランテの一行の襲撃――いや、僕とナインという存在の抹消を。
そして思い出す。僕とナインが港町クアルスで遭遇した一連の事態を。あの町でナインの奪還を試みていたのはアリアスだけではなかった。
月の出る夜の下で、僕はかけがえのない存在の一人であったジャンヌさんと死合いを演じた。ナインを引き渡せと要求した彼女と、それを拒絶した僕。それゆえに僕は高々半年と言えどもあの住み慣れた街を後にして旅に出た。ジャンヌさんが所属するクアルスの衛兵。彼らもまた、ナインという存在を欲した存在である。
そしてまた、このリオパーダという深層の森林においてナインを標的とした刺客が現れたのだ。この少女は、一体どれほどの勢力に追われているのだろうか。アリアスが属していたであろう組織とアストランテ王国が彼女の存在を知り、そして手中に収めようとしている。そしてその隣にいる僕という存在も、始祖族の襲撃者が送り込まれたことから考えて標的となっている可能性は捨てきれない。
カタリナ殿下という強力な存在が味方でいる内に把握をした方が良いはずだ。僕たちが一体誰に、そして何故追われているのかを。自分が陥っている状況を知らない限り、いつまでたっても逃げ出すことなど出来やしないのだから。
「喋れるうちに吐けよ。誰に言い渡されたんだ?」
「……それは、この口が裂かれようと――ッ」
尚も口を噤もうとする男の口を開かんと、再び殿下の霊剣が振るわれた。狙うは、黒く焼け焦げた彼の肘の近く。一度は止血されたその傷口から骨を抉り出すようにして、鉾槍が残った腕の先を切り裂いた。思わず目と耳を覆いたくなるような凄惨な光景、でもその男が発する言葉はその全てを聞かなければならない。
「……わ、たしの……標的は、殿下では……ありません」
再び鮮血を垂らし始めた傷口を抑えた男が、喉の奥から絞り出すようにして言う。掠れたような声の中で、彼は確かに認めた。僕やナインが、今回の襲撃の標的であるということを。切り裂かれそして肉を焼かれるという苦痛に耐えかねて、途切れ途切れの息遣いを繰り返しながらもようやく口を割る気になったのだろうか。
「ほぉ、いい子だ。じゃあその仕掛け人を言ってもらおう――」
「――任務は、遂行する。殿下、ご無礼をお許しください」
しかし再び顔を上げた男の目には、確かな意志が宿っていた。その言葉と同時に男の姿が掻き消え、直後に振るわれた殿下の霊剣が何も存在しない空間で弾かれて淡い炎がまき散らされた。闇雲に振るわれる鉾槍の切っ先は、霧を切り裂くばかりで標的に掠ることすらも無い。
驚愕と共に冷や汗が伝う。あの重症の中で、奴は再び透明化を行うだけの魔力を身に纏わせたというのか。深い傷を随所に負ったというのに不可視の霊剣を残った腕に持ち、尚も僕たちをつけ狙おうというのか。
再び視界から完全に消えたその姿は、もう決してこの目で捉えることは出来ない。敵はこの身のすぐ近く、明確な殺意と決死の覚悟を持って霊剣を構えて僕を切り裂こうとしているはずだ。飛び掛かろうと思えば不可能ではない距離を置いたどこかにいる敵を探そうにも、水面の揺れに気を取られれば本命の霊剣による一撃を防ぐことはかなわない。
そんなにして、この僕を殺したいのか。そんなにも、僕の存在が邪魔だというのか。ただ自分の過去を探すためだけにナインの手を取ったこの選択が、命を狙われるほどまでに非難をされなければならないものなのか。
再びこの身にふりかかった理不尽。それに絶望や憤怒を向ける時間すらも僕には与えられない。音を立てれば狙われ、そしてこの場に立ちつくしていたらいい的だ。だからこそ、敵が一歩目を踏み出したその瞬間に逃げれなければ――
途轍もない速さで風を切り裂く何者かの気配。それに伴って聞こえる荒い吐息。それを感じ取った瞬間に、思わず振り返った。そして"自分の後方"から近付く、気配どころか足音すらも隠そうとはしない闖入者たちの姿が目に入れる。
白い霧の中に浮かび上がる、濃い灰色の巨体。己の存在を隠し立てする意図など欠片も感じさせぬほどに太い脚が水面を切り裂き、そして咆哮をあげた。無意識のうちに竦み上がるほどの威圧感が発せられ、この中州に残響が伝う。そして気配はその一体だけではなく、その後ろからさらに複数の灰色の姿が露わになった。
その正体は、リオパーダの森にすくうオオカミたち。つい先ほどに僕たちの馬車を襲撃したと思われる群れの一部が、全速力で僕たちに向けて駆けていた。気が付いた時にはもはや手遅れで、その巨体が見せる牙や爪をその眼で捉えながら黒剣を構え――
「――なっ――助け――」
その体の横を駆け抜けていったオオカミの巨体が、何もない空間に目掛けてその巨体でもって飛び掛かった。直後に聞こえる襲撃者のうめき声。何かを押さえつけているであろうその姿はまさかという予感を抱かせ、その声はオオカミが巨大な口を開け放ち自身の足元へ噛みついた瞬間に絶叫へと変化を遂げた。
僕は、ただ黒剣を下に下げて放心することしかできなかった。最初の一頭に続いて更なる数のオオカミが殺到し、そして一様に何かを――あの男の体に噛り付いているのだ。否、そんな生易しいものでは無い。オオカミたちの激しい息遣いに上書きされてもはや聞こえなくなった男の声、そしてその口にこびり付いた血の汚れ。ただただ容赦なくあの始祖族の体は巨大なアギトたちにかみ砕かれ、そしてその腹を僅かに満たすだけ。
「……奴らがアイツに夢中になっている内に行こう。アレはきっと、連中なりの報いなんだ」
今まさに僕の命を奪わんと霊剣を構えて透明化した敵が、呆気なくオオカミたちに食い殺される。たとえ姿は消すことが出来ようと、その腕から滴る血の臭いだけは彼らに対して隠せるはずもない。もはやうめき声すら聞こえはせず、肉を貪る有機的な音がまき散らされるだけだ。
僕たちをこの中州にまで追い込む切っ掛けとなった馬車へ塗りたくられた血液の正体を、ハオランは一つだけ予想をしていた。もしかしたら、あの男は本当に僕たちをオオカミに襲わせるために幼体を殺しその血を擦り付けたのではないだろうか。だからこそ怒り狂ったその群れがナインや殿下がそのうち何頭かを殺害しようともしつこく追いすがり、そしてこうして本当の仕立て人を食い殺しているのかもしれない。
中州の中央に置かれたままの馬車にまでたどり着いた時には、オオカミたちの群れのほとんどが川のほとりから森の中へと消えていた。埋葬をする余裕も無いために御者台に乗せられたままのハオランの遺体を川に流し、そして一頭も欠けることなく無事であった馬たちの手綱を手に取る。まさかハオランの操舵を観察していたことがこうもすぐに役立つとは、何とも皮肉なことだった。
ただ濃密な霧が満ちる中を馬車で走るだけの道すがらで、僕は手綱を握りながら思い返していた。あの襲撃者が結局誰の命を受けて僕とナインを狙っていたのかも分からず、そしてその襲撃者自体にも逃げられるどころかオオカミたちの腹の中へと収まってしまった。結局詳細は分からず仕舞いだけど、少なくとも何者かが僕たちを狙っているということだけははっきりとした。それもきっと、目的地である王都サンクト・ストルツに居る何者かに。
僕は、今までカタリナ殿下に対して自分に関する詳細を語ってはこなかった。ただ半年以上前の記憶が無いということ以外は、きっとあの人は僕のことはほとんど知らないだろう。僕はそれでも良いと思っていた。いずれ遠くない日、いつか彼女が僕に飽きを抱いたときに呆気なく見放されるのだろうから。
だけど、僕とナインが抱えるこの問題がクアルスに居た頃から続いているのであれば、仮にも雇い主であり主人である殿下に知らせておくのが筋だ。だから話そう、一体クアルスで何があったのか。旧市街の最深部で戦った謎の始祖族のことや、その後の衛兵たちとの間で起きたこと。僕とナインが、一体どういう状況でヴァローナへと逃れてきたのかを。
そしてその後リオパーダという深層の森林地帯を突破する後半の道すがらでは、何事も起こることは無かった。
* * *
リオパーダの中央近く、ツカサたちが始祖族の視覚と戦いを繰り広げた中州は、今は完全な静けさに包まれていた。もはやこの場で争うような存在もおらず、残されていた始祖族の遺骸はその全てがオオカミたちによって跡形も無く処理をされていた。
ここには人どころか生き物の姿も見当たらない。それは森に住まう獣たちだけではなく、河に暮らしているはずの魚たちもその姿を見せてはいない。だからこそ、しんしんと水が流れる音や木々の葉擦れだけが僅かに聞こえるのみ。獣は深い森の中へと身を隠し、そして魚は水面の奥深くへと閉じこもる。
まるでこの場にいるすべての生き物が何かの脅威を予感しているかのようにして、その身を目立たせないような場所へと隠していた。だからこその、普段以上の異様な静けさが一帯を包み込んでいた。
その最中に、ばさりという微かな音が響いた。それは、決して風によって森の木々が揺れたためなんかではない。たとえ小さなものでも静けさを塗りつぶすには十分過ぎて、それどころか同じような音が繰り返し段々と大きくなっていく。
水面が、そして川辺に張り出した木々が揺れる。白い霧に覆い隠された空から舞い降りる巨大な影が、僅かにしか差し込まない陽の光を遮った。逃げ遅れた獣たちは、もはやその場でただ見つからないようにじっと息を忍ばせる他はない。
二対の屈強な足が川底を踏みしめた直後、その巨体を中心にして一際大きな風が吹きすさぶ。白靄のなかに僅かに浮かび上がる純白の存在が、まるでくつろぐかのように大きな翼を広げた。
『――においがする』
真白の体とは対照的な深紅の角が生えた頭を揺らし、その持ち主は周辺を見回した。当然この場にはその巨大な生き物を除いて生き物など存在せず、ここで行われた戦いの痕跡すらも一見すれば残ってはいない。
『魔力のにおい……とても懐かしく、そしてきっと危険なにおい』
しかしその嗅覚は、魔力の痕跡を捉えていた。この森に満ち溢れる魔素に紛れて未だに中洲近くへ留まっていた、森の住民以外がここへ残していった確かな痕跡。鋭敏な感覚はそれをかぎ分けて、紅色の瞳が僅かに細められた。
『……やっぱり、何かが始まる。人間たちが、何かを始めようとしている』
それだけを言い残した巨大な生き物は、再び翼をはためかせて空へと身を滑らせた。一際大きな風に紛れて魔力の痕跡すらも霧散し、純白の巨体はあっという間に霧の向こう側へと姿を消した。
深層の森林リオパーダ
アストランテ王国を東西に分断する巨大な森林地帯。
生い茂る木々はどれも桁違いに大きく、そして立ち込める霧が視界を遮る。
それだけでなく巨木によって排出される魔素により獣たちが異常に成長し、街道の通過にあたって障害となる。
そのため、毎年春過ぎに王都からの遠征部隊が漸減作戦を行っている。
リオパーダのような深層の森林は大陸西部に数多く存在しており、人々の踏破を頑なに拒んでいる。
森林に飲み込まれて古代文明が滅亡した、森林の最果てに竜が住まう国がある等、伝説には事欠かない。
プリムスの英雄譚
この大陸で広く言い伝えられている、遥か昔の時代に大英雄プリムスが残した伝説。
地域によって多少の差異はあるものの、概ねはプリムスという名前の英雄が人々を救い導いたという内容が伝えられている。
彼は幾多の仲間や竜を率いて世界を滅ぼさんとする魔将たちへと挑み、人々を災厄から救った。
それだけでなく、深層の森林を切り開き、人々に安息の地を与えたという。
いく手を阻む森を抜けたところで三話めは終了です。次は王都で、本格的な戦乱に巻き込まれていきます。