「……僕はクアルスでの日々が好きでした。記憶の無い異邦人の僕を受け入れてくれた街の人たち、それにフィンやジャンヌさんも、全てかけがえのない存在でした。でも、何者でもない自分への違和感は、ずっと抱き続けてきた」
首元に回されたナインの手を握りしめる。今この瞬間に、覚悟を決めた。
僕にとってみればナインは赤の他人に毛が生えた程度の関係性だ。例えフィンと共に彼女を極寒の海から救い出したといっても、結局はそれだけでしかない。その彼女の一言に、何故ここまで心を動かされたのか。もはや存在しない過去の自分の置き土産が、ナインに何かを感じているのだろうか。
「……僕は自分自身が何者なのかを知りたい。それを知らなければ、いつの日か命が尽きる間際に僕は間違いなく後悔をする。一度それに気が付いてしまったから――僕はもう戻らない」
明確な拒絶の言葉を吐くと同時に、ジャンヌさんの目つきが変わる。歪んだ表情に浮かぶのは、悲しみとそして怒り。長剣の先端はこの体に寸分の狂いなく向けられ、剣の柄を握る拳に力が込められていた。彼女は衛兵だ。街の治安の維持のためにならば、例えその剣を向ける相手が肉親や知り合いであろうが、容赦をするようなことはあってはならない。
「最後通告だ。その女を差し出して私と共に来い。もし拒むのならばお前は衛兵の敵だ。容赦はしない」
「……僕はナインと共に行きます。クアルスでの生活を捨てる覚悟は、もう出来ている」
その言葉と共に、ナインによって手繰り寄せられたその手が炎のような熱気と強烈な光によって覆われた。光に覆い隠される寸前の彼女は、かすかに涙を流して微笑みかけ、その直後に再び両手に硬い柄が握り締められた。彼女の体の感触がフッと消え失せて、そして光の靄がだんだんと晴れていく。
再度両手に顕現した黒い大きな双剣。始祖族の霊剣をも打ち砕く堅強さを持つ、ナインのもう一つの姿。対峙するジャンヌさんの手にあるのは、容易に人の胴を寸断出来る長さを持った中規模の十字剣。どちらも手にあるのは練習用の木剣などではなくて、人を殺すことが出来る武器だ。
これは護身術の訓練などではない。例え衛兵としては新入りだとしても、彼女は卓越した剣の腕だけでその地位へといる。彼女はその技術の全力をもってして僕を殺そうとして、そしてこちらも本気でかからなければ容易く死ぬ。もう、引き返すことは出来ない。
「なっ……やはり、その女は――」
黒剣を前にして一瞬だけ彼女が目を見開いたが、しかし臨戦状態は途切れることは無かった。姿勢を低く構え、そして黒剣を眼前に交差させる。
ジャンヌさんがここにいるということは、この近辺を巡回中の衛兵が他にもいるはずだ。彼女をまかずに表通りに逃げようとすれば間違いなく袋小路になり、だからと言ってこの場に留まれば時間が経つごとに不利になる。ならば、勝機はただ一つだけ。可及的速やかにジャンヌさんから隙を奪い、そしてこの場を離脱する。
地形を有効利用できない障害物の無い路地裏。彼女に追いつかれずにこの場所から脱出をするには――その脱出経路を強く思い浮かべた。出来る、否出来なければここで死ぬだけだ。
「――シィィィアッ!!」
鋭い叫び声と共に突き出された十字剣が戦端を開いた。月明りを反射する白銀の筋が暗闇の中を突き進み、こちらも二振りの黒剣の先端を向ける。いくらナインの黒剣が頑丈だとは言え、あの重量の突きを真正面から防げば単純に力負けするのは必然だ。だからやることはいつもと同じ。受け流し、そして反撃の機を伺うしかない。
金属同士が摺りあわされる音が聞こえたのは一瞬だった。右肩を掠めて通過する白銀の剣先、そしてその十字剣から削れて舞った火花が頬にあたる。とてつもなく速く、そして鋭い。黒剣の柄から伝わる衝撃の大きさが、初撃の強大さを物語る。
今朝に行った、木剣を用いた訓練などとは大きく異なる。あれは彼女にとってお遊びのようなものだったに違いない。何とか初弾を反らした黒剣を弾き飛ばさんとばかりに、彼女の長剣が上方へと振り払われる。重さと速さ、その双方がもはや見たことのないほどに洗練されていた。
腕の長さを超えるほどという十字剣にも関わらず、その軌跡は目で追うのも難しい。限界まで見開いた視界と研ぎ澄ました聴覚でなんとかその存在を捉え、寸でのところで剣戟を受け流す。アリアスの戦い方とは根本的に性質が異なる苛烈で隙の無い戦い方を前に、反撃はおろか姿勢を崩されないようにするだけでもぎりぎりの状態だ。
反らし切れなかった十字剣が左の肩口に到達し、僅かに皮膚と肉を切り裂いた。痛みすらも置き去りにして、服の下で血がにじみ出す感触が伝わる。だが叫ぶ暇もなく、状況は否が応にも止まってはくれない。真横に薙ぎ払われた十字剣を再び黒剣でいなし、わずかな間だけ相手の剣の動きを封じた。
「ツカサ、剣を下ろせ!! いなしているだけのお前に、勝ち目など――」
この人は、どうしても非情にはなれないようだ。投降を諭すその最中、僅かに十字剣に入る力が弱くなる。本物の剣士を前にしたら、僕のような弱い存在はその瞬間を狙うしかない。
十字剣を黒剣で押しとどめたまま、ジャンヌさんの胴体を目掛けて駆け出す。しのぎを削る耳障りな音が鳴り、右手に持った一振りを彼女の体に向けて突き出した。初めての反撃に彼女の目が見開いたのは一瞬だけで、即座に体が逸らされて剣は空を切る。しかし相手の体勢が崩れたそれだけで、勝機は手繰り寄せられた。
今度はこちらから攻める番だ。手にしたナイン――黒剣のせいか、それをどのように振るえばそれが攻撃となるのかが頭の中に浮かび上がる。重さで優れる十字剣が振るわれる前に先んじて何度も黒剣を打ち付けて動きを封じ、向こうに自由に動く時間を与えない。連続して響く剣戟の音と共に、彼女の背後に路地裏の壁が迫る。その距離が、とうとう想定していたところにまで到達した。
一気に脚へ力を入れる。十字剣に押し当てていた黒剣を引き、そして全力で駆け出した。固定を解かれた彼女の剣が勢いを取り戻して肩から迫るが、それを間一髪で避ける。狙いはジャンヌさんではなくて、その背後の壁。彼女の剣が追い付くよりも先に、石造りのその壁に足をつけて蹴り上げた。
このまま駆け上がったところで、路地裏の両脇に控える旧市街の屋根の上には到底届かない。だから壁を蹴り上げて勢いをつけたその足で、こちらに目掛けて突き出された十字剣の刀身を足場にして、更に高く飛び上がった。つかの間の浮遊感の中で黒剣を石壁に突き立てて体を捩じり、ようやく廃墟の屋根の上に手をついた。
「――ツカサァ!!」
途切れた息を直しながら、路地の下を見つめた。たった今足場にしたジャンヌさんは、十字剣を構えてこちらを見据えている。だが路地裏にここへ上って来れるだけの足場など存在せず、彼女はもう手出しを出来ない。
「……さようなら。最後に一つだけお願いします。フィンを、彼の両親と会わせてあげて下さい」
僕はフィンを護り切ることが出来なかった。それに、彼を連れて帰るという約束すらも果たせなかった。ボロボロと崩れていくクアルスの一般市民としての日常。恐らく、彼の存在はその中核をなしていたのだろう。彼が生きていたら、もしかしたら僕はジャンヌさんの手を取っていたかもしれない。
「……大馬鹿者が。空白の記憶というものに、今の全てを投げうってでも手に入れる価値が本当にあるのか?」
そんなこと、手に入れなければ分からない。その価値がどうかであるかなんて問題じゃなくて、ただ取り戻すという行為に意味があるのだ。彼女の問いに対して何かを答えることもせずにただ首を振り、旧市街の外を目指して屋根の上を走り出した。最後に見た彼女の顔は、悲しげに歪んでいた。
* * *
「……ツカサ、ありがとう」
自分が住んでいた小屋に行くことははおろか、表通りすらも大手を振って歩くことは出来ない。そんなことをすれば、たちどころに衛兵たちに捕捉されるだろう。夜が明けるまでの時間を貧民すらも寄り付かない旧市街の片隅で過ごし、日の出と共に最低限の保存食を買ってこの街を発つ。それが、今の段階で考えられる最善の選択だった。
クアルスでの生活が終わりを告げる。旧市街にも残った潮のかおりが、この街での最後の夜の思い出になるのだ。春が明けたばかりでまだまだ肌寒い空気の下で、ナインと寄り添って夜空を見上げる。明るい月だ。これだけ大きな月明りの下では、廃墟の中でこそこそと隠れていなければ巡回しているかもしれない衛兵につかまってしまうかもしれない。
「ツカサにとっては、私はほとんど他人なんだよね。でも、こうして手を握ってくれた」
触れ合っている彼女の肩から感じる体温のおかげで、この寒い夜の中でも辛うじて身を震わせなくともすんでいた。ナインに言われるまで、その手を握り締めたままだったということを失念していた。それほどまでに、ジャンヌさんから逃げて廃墟の一画へ身を隠すまでの間、衛兵に見つかるのではないかとずっと気が立ったままであったのだ。
離そうとした手を、ナインはもう片方の手で小さく押さえつけた。わざわざ振りほどくことも無く、彼女の独白に耳を傾け続ける。
「檻の中から抜け出してから、ずっとあなたを探していた。警邏の人間たちに連れていかれる間際で目にいれたツカサの姿だけが希望だったから」
やはりあの時ナインは僕を見ていたのか。始祖族には立ち向かえないという現実を呑み込み、彼女のことは忘れようとしていたあの時の僕の姿を。
「街中で目にしたあなたの姿を見て、居てもたってもいられなかった。でも警邏の目につく中で姿は晒せない。だからあなたの荷物をとって、それで……ごめんなさい」
結果として僕がいったんは諦めた荷物を追ってフィンが路地裏に向けて走り出し、あの場に居合わせたアリアスによって殺されてしまった。だが、彼の死についてはナインに全ての責があるとは言えない。あくまで彼女の狙いは僕と再び人目のないところで再会をするという一点だけで、そこにアリアスという異物が紛れ込んだせいでこうなってしまった。
「……それを責める気は無いよ。たらればの話さ。そもそも僕がフィンを迎えに行こうと言い出さなければ、少なくともあの場で彼が殺されることは無かった」
過ぎたことはどうしようもない、それよりもこれからどうするかだと続けようとして自嘲した。僕は自分の過去を知るために彼女の手を取った。過ぎたことであるその過去を探し求める人間が、これからの未来の話をしようなんて矛盾もいいところだ。
彼女のせいで今現在この立場にいるだなんて思ってはいけない。矛盾を孕んだこの意志も、取りこぼしてしまったフィンの命も、全ては自分の決断によるものだ。ナインの存在はきっかけに過ぎず、元々自分の中にあった日常への違和感が形となって表れた結果がこれだ。一度決めた行動は、責任を持って最後までやり通す。僕は姿形も知らない自分の過去に決着を付けなければならない。自分の中で過去を知るということは、権利ではなくてもはや義務に近いものなのだろう。
「君は、僕の過去をどれほど知っているんだ?」
「……今のあなたよりも、ずっとずっと知っているよ。でも――」
「ああ、分かってる。これは自分で探さなければ意味は無い。でも僕の人生などたったの十数年の話だ。どこか探せば、いつかは見つかるはずさ」
陰りが見えた彼女の言葉に被せるように、そう言い放つ。それはナインへのフォローというよりも、むしろこれからあてもない旅に出ようとする自分に言い聞かせるようなものだ。いつかは答えが見つかると、最初くらいはそんな楽観的な意識を持っていなければ、いつかは頓挫してしまう気がしたのだ。
「それに最初に向かう場所は、もう決まっている……いや、それしか選択肢が無いってところだけどね」
クアルスから別の街に移るというのが目下一番の目的になる。しかし現状手元にある金銭を全て路銀に回したところで、そんな遠方にまでは到底行けやしない。国中の情報が集まる王都サンクト・ストリツなど高望みも良いところだ。路銀があまりかからず、そして移動手段に徒歩を用いても十分に行ける圏内にある街。それは一か所しか存在しない。
「城塞都市ヴァローナ。山間の盆地に築き上げられた、アストランテ王国北部の中核都市だよ」
まずはヴァローナへと向かい、そこから自由に動けるだけの資金を得ることが目下最大の目的となる。
まだこっちが人となりも知らないというのに、いつの間にかナインは左肩に頭を乗せて目を閉じていた。僅かに聞こえる息の音を耳に入れながら、月明りに照らされる外の光景を見つめる。もう訪れるかも分からないこの街を、せめて目に焼き付けていこう。これまで何度も歩んできた、古びた廃墟の群れから僅かに見えるクアルスの街並みが、とても今はまぶしく感じた。
港町クアルス
アストランテ王国の北東部に存在する、貿易港と漁港の双方で有名な街。
隣国から離れた立地であり、加えて始祖族の安定した統治や健全な衛兵の運用のため、全体的に治安は良い。
街の中心部から少し外れると旧市街が並んでおり、複雑に入り組んだ深層部には全くと言ってもいいほど人けが無い。
クアルスに限った話ではないが、岸を離れすぎて外海に出ると、海神の怒りを買い沈没すると言い伝えられている。
始祖族
この世界には、一般的な人間族の他に、始祖族という種が存在する。
彼らは自身の魂を顕現させた"霊剣"と言われる特殊兵器を各人が保有し、その上炎を巻き起こすなど強力な能力を持つ。
どちらか一つとっても人間族にとっては脅威であり、彼らをアストランテにおいて支配階級たらしめる要素である。
しかし霊剣が魂の具現化である以上、何らかの要因でその霊剣が破壊されれば彼らの命も崩壊してしまう。
とりあえず始まりの街を出たということで一話目は終了です。次からは山間の要塞都市の話になります。
ここまでお目通しありがとうございます。感想等頂ければ幸いです。